Web版 有鄰

564令和元年9月10日発行

ペリーを饗した日本橋「百川」 – 海辺の創造力

小泉武夫

落語の名作で、語らせれば六代目三遊亭圓生が名人芸を演じる「百川」噺の舞台は、天明年間に江戸・日本橋で創業し、幕府終焉と同時の慶応4年(明治元年)に忽然と消えた実在の名料亭である。今の三越百貨店の筋向いの裏にある福徳神社に通じる細い路地が当時の浮世小路で、そこにあった。

日本橋魚河岸までは歩いても数分という至便な所で、従って常に新鮮な魚介類や野菜、野鳥肉などの料理材料は手に入った。安永6年(1777)の『富貴地座位』という三都(京、大坂、江戸)の名物を記した評判記には「江戸にある屈指の名料亭である」と記されていて、上方にまで知られた店であった。

主人の百川茂左衛門は懐の深い人物で、その上、書画、謡物、茶道、詩歌などにも精通し、幅広い人脈を持っていた。そのため、同じ江戸で有名な「八百善」や「平清」が「檀那」と呼ばれる大店の商人や幕府高官、上級武士が主に出入りする料理屋であったのに対し、「百川」は大田南畝(蜀山人)や亀田鵬斎、谷文晁、山東京伝などの文人墨客たちも頻繁に出入りする門戸の広さを見せていた。

ところでその「百川」は、幕末に入ると驚くべきことをやってのけた。嘉永6年アメリカ合衆国大統領フィルモアからの日本開国を迫る親書を携えて海軍将官ペリーが黒船で浦賀に来航した。そして強烈に鎖国の解除を突きつけ、一旦は帰ったものの、翌年1月に再び来航、今度は戦火を交えても辞さぬと軍艦7隻の艦砲を江戸湾近くの金沢小柴沖に向けた。幕府は折れて1ヶ月後に「神奈川条約」を締結。そして幕府は2月10日にペリー一行を横浜村の応接所に招待し、食事会を開いた。その料理を全て引き受けたのが「百川」の主人百川茂左衛門であった。引き受けた、というよりは逼迫した財政を抱えた幕府が、資金潤沢な「百川」に目をつけ、半ば強引に請け負わせた、といった方が正しいのかもしれない。

それが恐ろしいほどの規模だった。「二月十日横浜応接場米人饗応献立書」(『大日本古文書』の「幕末外国関係文書」)には「亜墨利加人へ御料理被下候献立書 三百人前控え二百人前」とあり、アメリカ側の300人、それを接待する日本側の役人200人、合計500人分が用意されたのである。

茂左衛門は直ちに横浜や浦賀などにある旧知の料理屋の主人たちを集めて献立をつくり、「料理一人前金三両」の料理を黒船艦隊らに振舞ったのである。因みに3両は今の金額にして約30万円で、これを500人分である。そこで出された料理の数は1人前90品で、食材の中心は真鯛、鮃、鰈、鯥、甘鯛、鮑、赤貝などの魚介類で、肉は「ぶた煮」と「鴨大身」の2品。デザートには「粕庭羅」も付いた。

ここで驚くことは、よくも当時の調理事情でこれだけのものが出来えたこと、少なくとも一人に使う食器は100を超えていた(総計5万器)ことなどが事実として書き残されていることである。そしてこの世紀の大饗宴の後、しばらくして「百川」は忽然と消え、茂左衛門も店もまったく消息が不明となった。恐らく財政に苦しむ幕府は「百川」に料理代を支払わずに踏み倒しその煽りでこのような結末をむかえたのであろう。

(東京農業大学名誉教授)

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