横山秀夫
520人が亡くなった日航機墜落事故から、今年8月で20年になる。当時、私は上毛新聞の記者で、真夏の御巣鷹山に登り、約一月半にわたり、事故現場を取材した。
新聞記者は、歴史の立会人であり、その瞬間瞬間を伝える職業だ。読者にもっとも伝わる言葉を選んで文章を書くという意味では、小説家と変わらないが、新聞記事は客観性を重視し、主観は排さねばならない。それが私にはつらかった。
平成3年に新聞社を辞めた私は、日航機事故を題材とした小説を書こうとしたが、とうとう書けなかった。『陰の季節』(平成10年、文藝春秋)で松本清張賞を受けるまでの7年間、小説の執筆依頼は一本もなく、早く世に出たいと焦っていたし、あれだけの大事故を経験したのに書かないのはもったいない、という浅ましい思いもあった。だが、どれだけ自制して書いても、「俺はあの現場を見た。」という新聞記者の自慢話にしかならないと思えて断念した。
それが、事故から17年経って、心境が変化した。すでに作家としてデビューを果たし、書かないのはもったいない、という気持ちは消えていた。その逆に、作家になった以上、あの事故のことを書かないのはおかしいと思うようになり、『クライマーズ・ハイ』(平成15年、文藝春秋)を書いた。
私の卑小な現場での体験は封印し、大いなるものと対峙することを迫られた新聞社の男たちの群像ドラマにした。記憶でも記録でもないものを書きたかったからだ。
『クライマーズ・ハイ』に限らず、私の小説を読んで「泣いた」という感想を読者からもらい、驚くことがある。怖くなることもある。それを意図して書いているわけではないからだ。
私は、どの小説でも、自分の心の中の痛覚を探し出して、その痛さを何とか文章化しようと試みている。それこそが小説のリアリティーだと思うからだ。
その点で『クライマーズ・ハイ』は、とりわけ痛い小説だった。私自身が記者として経験した、野心、保身、邪心をさらけ出したわけだから、探すまでもなく、痛覚は胸のいたるところに存在していた。新聞社の人たちばかりでなく、組織で働く多くの人たちから反響があった。高校生からの手紙もたくさん来た。そんなとき、学校社会もまた、組織と個人のせめぎ合いの場なのだと、改めて思い知る。
私の小説にはヒーローと呼べるような人物は、ほとんど出てこない。これまで生きてきて、完全無欠のヒーローなんて出会ったことがないし、そんな人間に興味はわかない。自分の弱さや醜さをきちんと自覚した上で、なけなしの矜持を振り絞り、一歩踏み出そうとするような姿が好きだ。心に余裕のあるときに感じる優しい気持ちは信用できないけれど、憎悪だの嫉妬だのが渦巻く黒々とした心の中で、それでもふっと立ち上がってくる優しい気持ち……。そんなものを信じている。
上毛新聞には12年間勤めて、『ルパンの消息』がサントリーミステリー大賞の最終候補4作に残った段階で辞めてしまった。多分にうぬぼれていたし、賞をとって本が出れば、あちこちの出版社の編集者が読んでくれて、何本かは執筆依頼も来るだろう。そんな皮算用をして辞表を出したのだが、結局、『ルパンの消息』は刊行されず、真っ青になった。
今にして思えば、そこで作家デビューしていなくてよかった。清張賞を受けるまでの7年間、地べたをはうような生活をして、自分という人間について、働くということについて、真摯に見つめ直す作業をしていなかったら、私はたちまち自滅したに違いない。中学生のころからさまざまなアルバイトをしてきたので、食べられなくなる恐怖感はなかったが、会社を辞めたとたん、地に足で立っている感覚が希薄になった。社会の中で居場所がない、必要とされていない。いわゆる「社会的な死」への焦りと恐怖を味わった。
新聞記者は、名刺一枚で総理大臣にだって会える職業だ。先輩の中には、新聞社の金看板を自分の実力とはき違えている人も多くいた。私自身、そうはなるまいと注意していたつもりだったが、知らず知らずに、薄っぺらなプライドの服を何枚も身にまとっていたのだと思う。
私は敏腕の事件記者と呼ばれていたが、フリーの世界では過去のキャリアなどまったく意味を持たなかった。たった今、あなたは何ができるのか。日々それだけを問われ続ける。薄っぺらなプライドを木っ端みじんに打ち砕かれてみて、本当に守るべきプライドとはいったい何なのか、と私は自問した。
どんな職業に就いていようとも、経済活動をしている以上、人は悲哀をかこつ。地位や他人の評価とは無関係に、地に両足をつけて自立できているという自覚さえあれば、人は幸せなのだというフラットな目線を、7年間で養ったように思う。
ジャーナリズムの世界から、フィクションの世界に渡ったのは、情報や知識ではなく、人の心を揺さぶるものを書きたいと思ったから、に尽きる。フリーライターになり、『週刊少年マガジン』で漫画原作の仕事を長くやった。片手間にできる仕事ではなく、とことん打ち込んだ。それでも、小説家になる夢はあきらめきれず、漫画の連載が打ち切りになるたびに小説を書き、新人賞に応募した。
だが、選考の最後の壁が破れなかった。7年目には、さすがに疲れ果て、弱気になっていた。漫画の原作の仕事もなくなり、生活が困窮した。あと一本書いてダメなら勤め口を探そうと考えていた。
そんなとき、ふっと、警察の管理部門の話を思いついた。刑事ではなく、人事を担当する管理部門の人間を主人公に据えてみたら、今までは見えなかった新しい物語世界が目の前に開けた。それが『陰の季節』だった。
自分が組織にいたときには当たり前すぎて深く考えもしなかった、組織と個人という古典的なテーマが、組織を離れてみて俯瞰できた。同じ組織であっても、見る者の立場によって、まったく異なって見えるという小さな発見を得た。7年間の遠回りが、私にくれたプレゼントだった。
それから今に至るまで、視点をずらす、という方法を多く用いて小説を書いてきた。泥棒を主人公にした『影踏み』(平成15年、祥伝社)は、法治社会を真逆から見たらどう目に映るか、という試みであり、最近文庫になった『顔(FACE)』(平成14年、徳間書店)は、犯人の似顔絵を描く婦警の視点で、もう一度、警察組織を見つめてみよう、と。
短編「動機」(文春文庫『動機』所収)で、平成12年に日本推理作家協会賞を受けたあと、執筆依頼が十数社にまで増えた。死ぬ気で書いていたら、心筋梗塞で本当に死にかけた。それでも、実際の死よりも「社会的な死」のほうが怖いと今でも思っている。守るべきプライドは、たったひとつ、「決して手抜きをしない」こと。ネタ帳は作らない。手持ちのネタがあると、安心してしまって、本気で次のネタを考えなくなるから。
書きたいことは山ほどある。それらは、こんがらがったロープのような状態で頭の中に納まっている。形はともあれ、人間が試される場面を書きたいと思っている。警察小説を書くのは、警察が自他ともに認める硬質で厳格な組織であり、組織と個人のありようを描く上で、格好の舞台装置であるからだ。
もちろん、警察官だけが組織に縛られているわけではない。会社を辞めたとき、私は自由を得た気分になったが、今では出版業界という組織のしきたりとしがらみの中を生きている。
もっと言うなら、日本社会という巨大な組織からは、なんぴとも逃れようがない。そうだと知った上で、ではどう生きるのか、といったことを書いていきたい。
ミステリーにこだわるのは、世の中、わからないことだらけだから。犯罪、社会、政治、経済――。なにより、人と人との関係。あの人はあんな顔でこんなことを言ったけれど、真意は何だったんだろう。そんなことをいつも考えている。『半落ち』(平成14年、講談社)は、まさしくそんな小説だ。妻を殺した男が自供で語らない部分を、袖すりあった6人の男たちが埋めようとしていく。
今は、雑誌『旅』(新潮社)の「ノースライト」など3本の連載を抱え、その合間に、書き終えた小説の手直しをする毎日。ずっと仕事場に「自主カンヅメ」になっていて、ほとんど自宅にも帰らない。趣味と言えば、大リーグ中継でヤンキースのゴジラ松井の打席を見るくらい。時々、つまんない人生だなって思う。
最近、嬉しかったのは、処女作の『ルパンの消息』が光文社から刊行されたこと。15年来の夢だったので、これは本当に嬉しかった。
(インタビューをまとめたものです。聞き手・文責/青木千恵)
※「有鄰」452号本紙では4ページに掲載されています。