Web版 有鄰

452平成17年7月10日発行

長辻象平と『元禄いわし侍』 – 人と作品

深川の干鰯問屋をめぐる人々が織りなす人間模様を描く

nagatsuji_san
長辻象平

元禄文化を支えていた豊漁のイワシ

江戸・元禄年間(1688年〜1704年)は江戸時代の中でもアクセントの強い時代だ。徳川五代将軍綱吉が「生類憐みの令」という動物保護政策を強行、“お犬様”と尊ばれた犬を頂点に、牛馬や虫が人間の命より大事に扱われた。赤穂浪士の討ち入りという大事件が起きたことでも有名な時代である。だが、干鰯と呼ばれるイワシの干物が、“お犬様”を養うタンパク源になっていたことを知る人は少ないだろう。約100年の周期で大発生を繰り返すマイワシがそのころ大豊漁となり、元禄文化を支えていたのだ。

長辻象平さんは、『江戸の釣り』(平凡社新書)などの著書がある釣魚史研究家。『元禄いわし侍』は、『忠臣蔵釣客伝』(講談社)に次ぐ2作目の小説で、<梅雨に入りますと九十九里の海で獲れる鰯に脂が乗りまして、魚油作りに向くようになりますので>など、魚についてのトリビアが満載の異色作だ。

「3歳のとき、フナ釣りをしたのが魚好きの始まりですね。父親が少しいない間、釣り竿を預かっていたら、浮子がすっと沈んだ。竿を上げたら釣れた。驚いて、とても印象に残って以来、釣りが大好きになりました」

昭和23年、鹿児島県出身。京都大学で魚類生態学を学んだ。現在の本業は、産経新聞社論説委員。科学ジャーナリストをしながら、魚や釣りについての知識を収集してきた。現存する日本最古の釣りの書『何羨録』を書いた旗本、津軽采女(1667年〜1743年)がその時代の人だったことから、元禄時代への興味が派生したという。

『元禄いわし侍』は、元禄15年(1702年)3月から12月まで、春夏秋冬の章立てで物語が展開する。

深川の干鰯問屋の用心棒を務める浪人・笹森半九郎と女主人・以登との恋愛を軸に名刀「関の孫六」を所持する謎の浪人・吉田沢右衛門、陸奥津軽弘前藩の浪岡蔵人、蛇使いの女・おみのらが織りなす人間模様を描く。盗賊が跳梁、半九郎は闇討ちにあっては撃退する。12月、赤穂浪士の事件が起きる。そんな時代を干鰯問屋の浮沈という江戸のビジネスを絡めて書いた。

「イワシ景気に支えられた庶民文化は明るかったが、上に立つ将軍綱吉の個性は強烈に暗かった。『生類憐みの令』の、生き物を慈しめというメッセージは極めてまとも。だが昔、社会主義の東欧を取材したときも思いましたが、シンプルで否定できない論理であるほど、運用されると不可解な状況を生むものです。一方で、男女の情愛というあいまいな現象は、どの時代にも変わらずにあり、その積み重ねで歴史が続く。だから、男女の情愛を柱に、元禄を書こうと構想しました」

科学を考える上でも面白い江戸時代

時代小説で難しいのは考証だが、その点はかなり厳密である。「浪士の襲撃に備えて吉良上野介が抜け穴を掘っていたというドラマもあったが、本所で穴を掘れば水が出てすぐ潰れてしまう。あり得ない」など、釣りから派生して、江戸時代の取り調べ調書まで集めてきた知見が生きている。

本業が、科学ジャーナリスト。理詰めの印象もあったが、小説を書くとは――。

「科学を考える上でも面白いことがありますよ。ユークリッド幾何学では平行線は交わらないと考えますが、交わると考える幾何学もある。僕はジャーナリストなので、その両方の視点からものを考えようとします。江戸時代には狸囃子やろくろっ首など魔物の話がたくさんある。平行線が交わることもあるという論理体系が、江戸時代にあったということですね。特に河童伝説など、水辺は魔物がいる場所です。釣りは、一本の糸だけで水の中と空気の中とで対話をする。史料を漁るのも釣りに似て楽しい。大きな魚がいそうだと見当をつけて面白い話を見つけたときは、捕らえたぞという思い。反対に見当がはずれて釣果がなかったときはガッカリ」

右手の手術をし、病院の長い待ち時間を、ストーリーを考えて紛らわせたことが小説を書くきっかけになった。手術が失敗し、右手が麻痺して釣りができなくなったが、小説を書く仕事が増えた。

「小説を書くのは木彫りの彫刻をつくる感じ。つくるというのは、知識を積み重ねる研究と違う面白さがあります」

次作は、宝永年間(1704年〜1711年)が舞台。綱吉が健在で、大法「生類憐みの令」がある中、闇夜に紛れてご禁制の釣りをする人々を書く。水辺の物語。魔物をふんだんに登場させたいという。

(青木千恵)

『元禄いわし侍』・表紙

元禄いわし侍
長辻象平/講談社/1,800円+税

※「有鄰」452号本紙では5ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.