Web版 有鄰

448平成17年3月10日発行

[座談会]中華料理と横浜中華街

作家/譚 璐美
聘珍樓社長/林 康弘
横浜開港資料館調査研究員/伊藤泉美
文芸評論家・本紙編集委員/藤田昌司
有隣堂社長/松信 裕

右から伊藤泉美・林康弘・譚璐美・藤田昌司の各氏と松信裕

右から伊藤泉美・林康弘・譚璐美・藤田昌司の各氏と松信裕
聘珍楼本店で

※は横浜開港資料館蔵

はじめに

横浜中華街・善隣門

横浜中華街・善隣門

松信昨年、文春新書で『中華料理四千年』が刊行されました。この本には、中華料理の歴史や由来、中国各地の料理や作法など、日本人にとって最も身近である中華料理に関して、いろいろなエピソードをまじえて、その真髄が紹介されています。

日本の中華料理といえば、横浜中華街がよく知られております。そこで、本日は本場の中華料理、横浜の中華街などについて、お話を伺うことにしました。

『中華料理四千年』を書かれた譚璐美さんは、中国広東省のご出身で、東京でお生まれになりました。広東共産党員だったお父様は、1927年、蒋介石の軍事クーデターから逃れるため18歳で来日されました。お父様のことを書かれた『遙かなる広州』、ガイドブック『譚夫人の欲深的香港の旅』などのご著書がございます。

林康弘さんは、広東料理の老舗「聘珍樓」の社長でいらっしゃいます。譚さんと同じ広東省のご出身で、横浜でお生まれになりました。横浜だけではなく国内・国外に数多くの支店をお持ちになり、また、横浜中華街まちづくりの副会長としても活躍されております。

伊藤泉美さんは横浜開港資料館の調査研究員で、横浜中華街や華僑の歴史について、研究をされております。

きょうは藤田昌司さんに進行役をお願いします。

四大料理の他にも地方料理がいっぱい

藤田譚さんは今まで、日中関係の近現代史を書かれておりますが、中華料理の歴史についてお書きになられたきっかけは何だったのでしょうか。

私は、お料理は本当は書くよりも食べたり作るほうが大好きなんですけれども、父の香港の友人に「食家」、つまり食べる研究家がいらして、その方が広東料理についてすばらしい本を何冊か書いていらっしゃるんです。

例えばこれは昔話のようなストーリーにしてあるんですけれど、お客様が突然いらっしゃった。だけど自分のうちは非常に貧乏でお金がない。冷蔵庫もない。棚に卵が1個しかなかった。これでお客様をどうやってもてなすかというので、お湯を沸かし、卵の白身を落として、味つけをして、これでスープが1つ。それから卵の黄身を浮かべたお碗をお料理として出した。

そこにご主人が詩をつけるんです。霞のような空の日にあなたがいらっしゃってくださったので、私たちの家庭の中はまるで明月が光るような明るい気持ちになりました。非常に歓待しておりますというような詩を書く。そういう風雅なエッセーが1冊の本になっているんです。

そういう本を子供のときから見ていて、こういう本が書けたらいいなと思っていたんです。たまたま、文藝春秋で「何か好きなものを書きませんか。何でもいいですよ」とおっしゃってくれたので、私が長年大好きで、でも、今まで書くチャンスがなかった食べることを書いたんです。

広い中国では杏仁豆腐や肉まんを知らない場所も

中国四大料理『中華料理四千年』から作図

中国四大料理『中華料理四千年』から作図
四大料理の分け方には様々あり、これはひとつの目安。

藤田中華料理と一言で言っても北京料理、上海料理、広東料理、四川料理と、それぞれ違うようですね。

地域で大きく違います。

中華料理は4つどころじゃないんです。4つに分けるほうがおかしい。

松信譚さんは8つと書いておられますね。

最小で8つの地方料理がある。でもそれをその土地の人に言うと「いや、うちの土地の料理は一家をなしているから、その中には属してはいないんだ」と言う。

例えば広東の中でも違うんです。香港とマカオで、同じ料理でも味つけが全然違う。四川の中でも違う。それを探すのがおもしろい。

藤田今もそういう違い、伝統を守っているんですか。

はい。ですから、例えば日本では誰でも知っている杏仁豆腐とか肉まんなども、知らないような場所がたくさんあります。中国は本当に広い国ですから、ヨーロッパがたくさんあって、しかも、ヨーロッパほどお互いに行き来がないと思ったほうがいい。広東でも地方によって言葉のアクセントが全然違って、通じない。

そうなんです。私は東京生まれの横浜育ちなので、1度、中国大陸で暮らしたいと思いまして、父の出身の広東の中山大学で日本語を教えたんです。あるとき、大学に田舎から人が遊びに来てくれたのですが、何を言っているのか分らない。私は広州の標準広東語は分るのですが、田舎の広東語は全然分らない。しようがないから通訳を立てようというので、広州出身の若い事務局のスタッフを呼んできて聞いてもらったけれど分らない。事務局の局長は北京人で北京語しか分らない。1時間話していて、結局、言葉は通じなかった。

私の父は龐[バン]柱琛といいまして、19歳のとき、広東から横浜へ来て料理人として働いていました。父は、戦後まもなく、父と親しかった鮑という人が今の聘珍樓本店の場所で経営していた中華料理店を店舗ごと受け継いだんです。

父の時代、中華街で中国人同士がけんかをすると、「ナニイウカ、オマエ」と下手な日本語でやるんです。おもしろかったですね。お互いの中国語が通じないんです。

私の父も10種類広東語が話せると言っていました。そんなにあるのと思ったら、それどころじゃない。10種類ですべてじゃないですね。

北京料理のルーツは山東料理

北京ダック
聘珍楼提供

藤田中華料理はそれぞれに特徴がありますね。例えば北京料理だと北京ダックが代表ですか。

北京ダック以外にも「北京小吃(ベイチンシャオツー)」といっても小皿料理もあるし、上品な譚家菜[タンジアツアイ]も一派をなしているし、しゃぶしゃぶもある。

北京料理は基本的には山東料理のことを言うんですけど、北のほうは比較的気温が低いので保存が楽ですが、戻してから食べる乾物のような食材が多く、必然的に濃い味になる。みそとか、あるいは、発酵したもの、ホンシャオ(紅焼)という、しょう油煮込みみたいな料理が多い。

北京ダックの発祥のお店があって、僕はそこで北京の人しかやらない食べ方を教わったんです。生ニンニクと砂糖をのせる。これがおいしいんですよ。

生のニンニクは中国でも東北の人は食べますね。

水餃子を食べるとき、生のニンニクをガリッとやってかまずに、水餃子を口に入れて一緒に食べるんです。これが山東の食べ方。

山東料理の元祖孔子様はかなりの偏食

北京料理は北京で生まれたのではなくて、山東省から移って行った。山東の人が北京に上がって、最初にやった仕事が食べ物屋さんで、屋台から始まったんです。

藤田政治の中心地だったから、食べ物屋さんが行ったわけですか。

そうじゃなくて、戦争の被害で北へ逃げて行った。どうも山東省の料理の元祖は孔子様のようですね。

余りにも古い話だけれど、山東ですからそういう説もありますね。

北京ダックで一番必要なネギも、山東省の辛い長ネギを使うのが1番おいしいと言われています。

藤田孔子というと、粗食のイメージがありますけど。

そんなことはないですよ。孔家のメニューには、百品もあるぜいたくな料理がありますが、孔子様は握りこぶしよりも大きな動植物は食べない。だから、鶏でも丸ごとのローストなんか食べない。ほかにも、あれは食べない、これは食べないという記録が残してあるんです。ということは、かなりの偏食だったんじゃないか。

そういう点では山東料理の基本はゲテモノは一切ない。野菜でも肉でも非常に常識的な範囲のものなんです。孔子の儒教思想が料理にも反映されている。

松信南北で料理の違いはあるんですか。

孔子の時代に、南北の料理文化が分かれた記録があります。その最初から、南方系のお料理は野性の動物だとか、自然界にあるいろいろなものをそのまま何でも試してみようじゃないかというところがありますね。

満漢全席は西太后の権力の象徴

藤田中華料理には非常に珍味とされているものがありますね。

「満漢全席(まんかんぜんせき)」という、清王朝の満州族と漢民族の両方を合わせた宮廷料理があります。アルマジロとかタヌキとか、象の鼻とか、サルの脳みそとか、いろんなものがあるんですが、それは基本的においしいからではなくて、西太后がどれだけ自分のパワーが遠くに及んでいるかを示すためにやった料理なんです。西太后は地方に行くのでも、列車ごとキッチンで、何十人ものコックさんを連れていくような人で、こんな珍しいものは皆さん食べたことはないでしょうという権力の象徴として料理を振る舞う。

もちろん体にいいとかはあるけれど、一般的に普通の人が食べるものじゃないです。つまり、食文化は政治的なものにも使われる。それは部下に対してとか、国内への権力の1つのインプレッションでしょう。象を食べたなんてびっくりしますね。そんなものはどこにあるんだ。それだけ力があるということを象徴するためだと思いますね。

香港で劇的に進化し薄味になった広東料理

藤田日本で1番普及しているのは広東料理ですか。

戦前からの日本と中国とのかかわりの中で、大連など北のほうに日本人がたくさんいたので、向こうの町で売っている焼き餃子や水餃子などが最初に日本に入ってきたのではないかと思うんです。それは言ってみればファーストフードですね。それがディナーテーブルに乗るのは、ホテル文化であって、中華街じゃないんです。

横浜中華街大通り

横浜中華街大通り

その間に、広東料理は香港で劇的に進化します。今、広東料理はシーフードだと思われていますが、本来は四つ足のものが多いんです。この段階では、広東料理は日本にはまだ本格的には入っていないんです。香港のおかげでシーフード化し、ホテル料理になり、味が薄い料理になった。

横浜の中華街はもともと広東の人が多いんですが、昔の広東料理と今の広東料理は全然違うんです。今の広東料理は香港流の広東料理なんです。料理は常にそうですが、富が集まっているところが1番進化しやすい。上の人が時々庶民的なものを遊んで楽しむことはありますが、基本的に上からおりてくるほうが多いですね。もちろん庶民のほうではおそばとかワンタン麺とかありますけど。

藤田屋台みたいなものですか。

香港の大衆料理のベースは大牌檔[ダイパイドン]です。一方では会食とか接待があります。活きのいいレアなものや、値段が張るものとか、味で言うと、材料の鮮度が出るような調理の仕方ですね。

今、広東料理が1番おいしくなっている。というのは、広東料理は保存がきかない材料ばかりなので、材料のよしあしがすべてになってくる。その意味では日本料理に非常に似ていますね。日本料理では魚を生で食べますから。淡い味の中で素材のよしあしを競うという、非常にぜいたくな食べ方になっています。

四川料理は殺人的なしびれる辛さ

松信本場の四川料理は、日本で食べるよりも猛烈に辛い、激辛だそうですね。

私は本物なんかとても食べられません。1回だけ四川省で食べましたけれど、お料理が出ると、においだけで涙が出てくるんです。

僕は大好きです。四川の中でも、重慶と成都では味が全然違うんです。重慶では「麻辣(マーラー)」と言います。「麻(マー)」というのは、胡椒と、四川でとれる大きな山椒の辛さ、「辣(ラー)」は唐辛子の辛さです。これが一緒になった味が「麻辣」なんです。

しびれてきちゃう。びりびりくる胡椒の強さ。

おいしいんですが、殺人的に辛い。成都に行くと、今度は辣だけになるんです。

最初の麻婆豆腐は小さな店の有り合わせの料理

藤田日本でもよく知られている麻婆[マーボー]豆腐も四川料理ですね。つくられたいきさつがおもしろいですね。

これはいろんな方から聞いた話で、もしかしたら、違うストーリーもあるかと思うんですが、清朝時代まで、都市はどこも外敵から住民を守るために城壁で囲まれていた。四川省の成都にも城壁があって、住民は全員その中に住んでいた。「朝鐘夕鼓」と言って、朝、カンカンと鐘が鳴ると同時に門が開き、お百姓さんが城外に出る。1日野良仕事をして、夕方になるとドンドンと櫓の上で太鼓が鳴って、それを合図に仕事を終えて戻ってくる。夜は必ず城壁の門を閉めて、そこで安全に寝るという時代でした。

城外に出た橋のたもとに、陳さんというおばさんが一膳飯屋を開いていた。私の想像では、多分、小さい粗末な店で、お百姓さんや旅人がちょっと寄って簡単に食べるような店だったんだろうと。

そこへ常連さんが行くと、陳おばさんが残り物を合わせて適当につくった料理があった。その料理は野菜くずだとか、肉だとか、いろんな余り物を全部合わせた炒めものだった。中国では油はすごく貴重で、非常に値段の高いものでしたから、粗末な店で使う油は使い古しの油になってしまう。油は古くなると力がないから、だれた料理になる。それを補うために火力を極端に強くして、パオ(炮)という、強烈に強い火で、たっぷりの油を使って炒める。しかも、唐辛子とか胡椒とか、いろいろな香辛料をふんだんに入れて、お客に出した。

藤田豆腐も入れた。

そうです。食べた客に「これはうまい。何という料理」と聞かれて、「別に名前はないわよ。今適当につくったものだから」というのを繰り返している間に、いつしか客が名前も付けた。「麻(マー)」はしびれたり、辛いというのと同時に、アバタがあるという意味なんです。アバタのある陳おばさんがつくった豆腐の料理ということで「麻婆豆腐」と名前をつけた。それが評判になって、城壁の中でもつくり、ほかの四川の土地でもつくるようになったというのが比較的標準的なお話です。

日本で最初の中華料理は普茶料理

藤田中華料理が日本に最初に入ってきたのはいつごろなんですか。

伊藤1番早いのは恐らく長崎の卓袱料理だと思うんですが、ただ、そこまでさかのぼってしまいますと、近代につながるかどうか。

松信今は長崎の郷土料理ですね。

伊藤ただ、卓袱料理は中華料理だけじゃなくて、いろいろな要素も入っていると思うんです。

京都の黄檗宗万福寺の普茶料理は間違いなく中国料理ですね。明の隠元禅師が伝えた精進料理です。あそこで使われている料理の名前は全部中国名です。だから、日本の中国料理をさかのぼるなら、そこから始めなくちゃいけないかなと思うんです。

松信普茶料理ではメニューをツァイダン(菜単)と言うんですね。

今でもツァイダンと言いますからね。中国料理はシルクロードを渡ってイタリアに行って、イタリアからフランスに行ったのが今のフレンチですし、食文化としては、やはり日本にも渡っているんだろう。そういう意味では、箸を使って食べることも、しょう油にしても、日本料理のルーツの1つだということは言えると思います。

長崎から中国に輸出していたフカヒレやナマコ

伊藤譚先生がご本に書かれているように、精進料理は中国と日本ではかなり内容が違うと思います。ただ、ルーツは恐らく中国でしょうか。

多分そうですね。いつから中華料理を規定するか。『中華料理四千年』でも、中華料理はいつから「中華料理」と呼ぶんだろうと悩んだぐらいなんです。今おっしゃったおしょう油のもとは、肉醤という肉のどろどろのもので、それが発酵技術が入って醸造されたり、ヨーグルトがシルクロードを通って入ってきたり、インドからお豆腐が入ってきたりして、中華料理自体もどんどん進化している。

卓袱料理は、1番古くを考えると、16世紀のマルコ・ポーロの時代に、中国との交易をする日本人が大坂からも行っていたという話があるんですが、その頃に若干入ってきたかもしれないですね。それから明、清の初めごろに、長崎にたくさん船が来るようになって、どんどん入ることになりますね。

長崎奉行の輸出品の1つにフカヒレがあったんです。日本が中国に輸出していた。おもしろいですね。

伊藤ナマコなど、俵物と言われる海産物ですね。

横浜には明治20年代に立派なレストランが誕生

1880年頃の横浜中華街

1880年頃の横浜中華街※

藤田横浜に中華街ができたのはいつ頃なんですか。

伊藤そもそも中国の人たちが横浜に来たのは、ここが開港した港だったからで、それが今から大体百四十数年前です。その当時は、中華料理屋さんはないと思われるんですが、最初に裕福な人が来ます。安政の五カ国条約には、当時の清国は入っていないんですが、銀行の買弁とか、その人たちは一族郎党の中にお手伝いさんとかコックさんもいて、その人たちを連れてきたり、あるいは、外国商館のイギリス人とか、フランス人のほとんどは香港、上海から来ますので、そのときに中国人のコックさんを連れてきています。

芳員「五ヶ国異人酒宴之図」

芳員「五ヶ国異人酒宴之図」文久元年(1861)3月
神奈川県立歴史博物館蔵

今のような中華料理店街になったのは、日本の高度成長期以降ですね。

そうです。

伊藤明治の初めの資料を見ると、「チャイニーズ・レストラン」ではなく、「チャイニーズ・イーティング・ハウス」と言ってます。港に集まる中国人の労働者、例えば船員さんたちのための、多分「鋪」というクラスの一膳飯屋みたいなもので、その後、明治20年代、30年代になって「樓」という字がつくような立派なレストランが出てくる。その1つが聘珍樓さんです。それでも関東大震災以前に数えられるのは3つぐらいしかないんです。聘珍樓と萬珍樓。あとは東坡樓、聘珍樓の目の前には成昌樓というのがあった。

萬珍樓は今と場所がちょっと違う。萬珍樓は昔は金陵の場所だった。

伊藤震災後になると、安楽園とか金陵、一楽ですね。

初期の中華街のお客さんは欧米人と中国人の使用人

20世紀初頭の中華街大通り

20世紀初頭の中華街大通り※
(右・成昌樓、左・聘珍樓)

震災前の写真を見ると英語の看板がすごく多い。日本のお客さんよりも英語圏のお客さんのほうが利用していたんでしょうね。

藤田明治の頃は、欧米人の客が多かったということですね。

開港後、1番最初に来たジャーディン・マセソン商会とかデント商会などのイギリス系の商会は、すでに中国まで進出していて、そこから横浜まで来た。そういう人たちが、中国人の使用人とか、コックさんを連れてきていましたから、彼らの便宜のためのお店が多かったんじゃないでしょうか。

伊藤中華料理のことを考える場合、食材の問題があると思うんです。特に日本では幕末・明治ころは野菜は何とかなったと思うんですが、豚肉や牛肉は手に入らない。それをどうしたか。

最初は、生きた豚を船で一緒に連れてきた。外国人居留地の中でホテルを営業をしていた人は、自分の庭で飼っていたという話がありますが、居留地は狭いので、なかなか養豚とかできませんね。それで日本人に頼むんです。

その後、高座豚とか、神奈川の横浜近郊の農村で豚とかがだんだん手に入るようになるんです。横浜浮世絵で1番最初に豚が描かれたのは、万延元年(1860年)の本町通りの絵で、中国人が黒っぽい豚を連れているんです。

1930年代のメニューには李鴻章うま煮も

聘珍樓のメニュー

聘珍樓のメニュー
1930年頃 個人蔵

藤田日本に中華料理が入ってきてから今までの歴史の中では、メニューにも変遷があったんでしょうね。

伊藤どの時代に、どのようなお料理があったかを知るメニューはほどんど残ってないんです。横浜でも明治や大正のころに何をお店で出していたのかということはわからないんです。写真の看板を拡大してもわからない。

最近、1930年代ぐらいと思われる聘珍樓さんのメニューを見つけたんです。創業50年とあります。

創業が1880年ですから、1930年代のものでしょうね。

横に日本語も書いてありますね。

伊藤最初のところは西洋料理みたいで、海老サラダとか書いてありますね。

大体今もあるものですね。芙蓉蟹[フーヨーハイ](蟹玉)、鯉やフカヒレもある。李鴻章チャプスイも。

伊藤「李鴻章什碎」の横に五目うま煮と書いてあるんですよ。

チャプスイは日本でははやらなかったんですね。アメリカで最初にできた中華料理はチャプスイだそうです。

アメリカでは今でもそう言っていますね。

ええ。あれは日本の五目炒めなんですか。

そうです。雑炊と書く。これは日本語ですね。雑炊を広東語で読むと、チャプスイになるんですが、中国では違う字を使います。

いろいろな字が使われるサンマーメン

伊藤サンマーメンは、横浜が発祥の地らしいんです。

うちが発祥なんです。

伊藤それでどういう漢字を書くと思います?

3つの具でしょう。

伊藤いいえ。いくつかあるんですが、3番目のおばさんがつくったから三媽[サンマー]というとか、港で生まれたからというのもあるんです。

それがどうしてサンマーなんですか。

伊藤シェンは生まれる、碼頭[マートウ]が埠頭のことなので、生碼麺[シェンマーミェン]。それが訛って「サンマーメン」。横浜の波止場で、安くて労働者が食べられるようにつくったのかなと思ったんです。

サンマーというのは、3つの具が入っているということを言うんだけど、広東の人は音が同じで字を変えちゃう。

伊藤生碼だと、横浜生まれということにぴったりじゃないですか。

メニューの最初には、聘珍樓の三大特徴として、「最古の歴史、最新の設備、最大の信用」とあります。

余り変わってない。

伊藤そのころの外観と内部の写真もあります。

1930年代の聘珍樓店内(左)と中華大通り(右)

1930年代の聘珍樓店内(左)と中華大通り(右)※

これはびっくりした。今の内装とそっくりなんですよ。このことを僕は知らなかったのに昔と同じものをつくってしまったわけで……。

松信立派な建物ですね。この頃からすでに老舗だったんでしょうね。

『中華料理四千年』をご覧になって、「横浜で1番おいしいお店を紹介して」という方がたくさんいらっしゃるんです。ところが、私は今横浜に住んでいないものですから、なかなかわからない。そこでお勧めするのが老舗の聘珍樓さんなんです。(笑)

外国のチャイナタウンは中国人が対象

藤田外国にもチャイナタウンはたくさんありますが、横浜の中華街は何が違うんですか。

外国のチャイナタウンは中国人のためにつくられた街なんです。だからレストランも、中国人のお客さんを対象にしている。世界中で中国人以外がチャイニーズレストランをやっているのは日本だけなんです。中国人の料理をまねて、中華料理店をこれだけたくさんやっている国は日本しかない。

藤田サンフランシスコのチャイナタウンは有名ですが、横浜ほど盛んじゃないですね。

規模は日本のほうが小さいですよ。人口からいっても、話にならないぐらい横浜の中華街は中国人が少ない。

アメリカでは、サンフランシスコが最大で次がニューヨークなんですが、ニューヨークだけで15万人チャイニーズがいるんです。

松信横浜は何人ぐらいですか。

6千何百人です。最初のころは3千8百人ぐらいだった。15万人と6千人といったら、比較にならない数字でしょう。でも町は中華街として同じように比較される。

ニューヨークは確かにスケールも大きいし味も千差万別ですが、1度、チャイナタウンじゃないミッドタウンの中華料理屋さんに行ったんです。コックさんもボーイさんも中国人だというので「ホウレン草を塩味で炒めてください」と言ったら、「わかりました」と引っ込んだボーイさんがまた出てきて、「申し訳ありません。私たちがやっている中華料理はアメリカの中華料理なんです(笑)。あなたがおっしゃるホウレン草炒めは本当の中華料理です。だから、私たちはお出しできないんです」と言うんです。

おもしろいですね。

アメリカ人用の中華料理を、中国人はわきまえていて、中国人用の中華料理の味と違うものを出す。

中国人はパリでも行くのは中華料理店

食文化で言うと、中国人は200年前からアメリカに住んでいるのに、未だに中国料理しか食べないんです。例えばフランスのパリように、おいしいものがたくさんあるところでも絶対に中華料理屋さんに行く。でも日本にいると、だんだん日本人みたいになってきちゃう。

日本に同化することはオーケーなんです。そういうふうに考えると、日本のほうからも中国に同化するのはオーケーなんですよ。だから、日本人が考える日本人のための中国料理店というものが日本ではオーケーなんです。日本の中華街は、中国人のお客さんじゃなくて、日本のお客さんを対象に考えている。外国では、中国人のための店から入っていく。町ごとそうですからね。そこがすごく違う。

だから、日本に来た中国の人は、中華料理屋さんに行かないんです。お寿司とか、うなぎ、天ぷらとか日本料理を食べたがる。

横浜のチャイナタウンは世界に類のないモデル

横浜中華街大通り

横浜中華街大通り

日本では、最近、中華街に非常においしい店がたくさんできているんです。これは新しい現象で、池袋とか歌舞伎町からスタートしたニューチャイニーズにとっての、双六で言えば上がりは横浜の中華街なんです。そのために一生懸命苦労してくる。

横浜には、ミドルクラスのチャイニーズが集まる。夜中の営業もしないし、風俗もない。ギャンブルもしない。治安が世界で1番いいことももちろん含めて、これが横浜チャイナタウンの非常に特質的なキャラクターなんです。

僕らもそれを守ろうとしていますけれど、そういう意味でも、横浜のチャイナタウンは世界に類のない、1つのモデルケースなんです。これから、いい意味でまた中国人化してくると思います。

私が見た限りでは、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ロンドンと比べて、横浜のように、立派なお店がきちっと並んだチャイナタウンは世界でも非常に珍しいですね。

日本料理になったラーメンを中国や香港が逆輸入

藤田ところで、中国にも日本のようなラーメンはあるんですか。

ラーメンはもう日本料理ですね。逆輸入で今中国や香港ではやり始めている。

北京に駐在していた日本人が、「ああ、日本のラーメンが食べたい、焼いた餃子が食べたい!」と言う。今ではどちらも日本料理なんですね。それを聞いた北京のお料理屋さんが、横浜中華街の方たちと交流をして、日本のラーメンを学んで中国に持ち帰り、日本人に日本のラーメンを北京で食べさせてあげた。お料理は常に進化していくという良い例でしょう。

私がアメリカに住んで特に実感するのは、日本にいたときは、中国人だ、日本人だ、横浜だ、神戸だ、広東だ、北京だ、こんなに違うと言うんですが、アメリカに行ったらそんな違いはどうでもいいんですね。日本も中国も同じアジアじゃないか。アジアのテイストと、欧米人とでは、感覚も舌も、価値観もまるで違う。だから、日本の中華料理と、中国で食べる日本式の中華料理が融合して、交流して当然だと思うんです。

中華料理は世界で1番すばらしい食文化

広東料理は、ゲテモノ的な部分がおもしろおかしくテレビなんかで取り上げられることがよくあるんですよ。

例えば、神戸の中華料理店で「珍しい料理を紹介します」といって、大きい豚を電気のこぎりで頭から切ったものを出していた。僕は非常に腹が立って「あなたの店ではこれを出しているんですか」と聞いたんです。そうしたら、「いや。テレビでやってくれと言われて。宣伝になると思った」と。

藤田ヤラセですね。

もちろんです。知り合いの店でしたから、「もし中華料理でちゃんと商売して生きていくのなら、おもしろいからといって自分たちを傷つけるようなことはやめなさい。見た人は、怖がったり、気持ち悪がったりするだけですよ。自分の店をプロモートしたいのなら、メニューにあるものを出して、お客さんが喜ぶようなものをやってくれ」と話したことがあります。

奇抜な話と中華料理を結びつけてしまう。だけど中華料理は世界で1番すばらしい食文化で、しかもイタリアン、フレンチのルーツでもあり、日本料理のルーツでもある。それが非常にくだらなく描かれてしまう。

フード環境というのは大事なことで、ポリティカルなものもあれば、庶民的なもの、家庭で出すものもあるし、町で楽しむものもある。それを区別して話さないと誤解を生じると思います。

人数分プラス一品とスープが理想的な注文の仕方

広東料理がゲテモノだというイメージは、後からついてきたものじゃないかと思うんです。

私が広州にいたとき、父が70歳ぐらいで、家族と遊びに来て、泮渓[ばんけい]酒家というお料理屋さんに行ったんです。

有名な老舗です。

赤ちゃんを入れて5人なんです。家族で食べるからほんの少しでいいということで、お料理3品とお野菜1品を頼みました。普通は、4人だったら4品プラス1品、プラススープ。これが理想的な注文の仕方ですが、小食なので3品のお料理を頼んだら、コック長さんが出てきたんです。そして広東語で、「よくいらっしゃいました。こういうお料理をご希望ですが、これでよろしいですか」と言うんです。コックさんというのは、注文した料理を見ると、お客さんのレベルがわかるんだそうですね。

それは本当です。

父が自分の1番好きなものだけをとったんですが、中国の人はお年寄りを大事にするので、わざわざ敬意を表しにあいさつに来てくれて、やっぱりこういう人なんだとお客様をしっかり確認して、つくって出してくれた。それがおいしかったんです。

3品食べて足りなかったので、コックさんを呼んで「余りにおいしくて、もっと食べたいので、スープのおそばをつくってくれないか」と言ったら、「承知しました。ですが、40分かかります」「結構です。待っています」。

そうしたら、野菜がスッと2、3本入っているだけの澄んだスープ麺が出てきたんです。「今、麺を打ったので、時間がかかりました」と。それがすごくおいしかったんです。またコックさんを呼んで「スープがとてもおいしいので、スープだけ足してもらえませんか」と言ったんです。そうしたら「申し訳ありません。このスープは今打った麺のためにだけつくったスープなのでもうないんです」と言うんです。

これこそが本当の広東料理の味なんだなと、あのとき思いました。広東料理を代表として、中華料理の風雅さだとか、芸術的な高みを極めているお料理は、確かに長い伝統文化の結晶だと思いますね。

どの魚を注文するかで予算がわかる

レストランの使い方というのがあるんです。うちは香港で店を4つやっていますが、香港の人はネクタイをしなくても大事な席がありますので、どんな席かということをわからなくちゃいけないんです。

香港の聘珍樓の場合は、セールスマネージャーが、毎朝その日に仕入れたものをシェフと打ち合わせして、お勧め料理を考えるんですが、お客様が、幾らぐらい使いたいかわからないじゃないですか。たくさん使いたいのか、カジュアルなのか。それをどうやって知るかというと、お客様がサインを出すんです。

「きょうは何のお魚がありますか」。これはお金を使うつもりなんです。

「きょうは何のスープがありますか」と言ったら、安い日。広東の人はこうするんです。これでわかる。

お魚のどれを選ぶかでも、またグレードがパッとわかりますね。メニューに値段が出ていませんものね。

接待のときは、メニューは、接待する側のお客様にしか出さない。でも、ちゃんとした店ではメニューなんかないですから。「きょうは何の魚がある?」と言われたらセールスマネージャーが書いて出す。相当高いメニューを書きます。「きょうは何のスープ?」と言われたら、安いものを書いて出す。そんなふうにサジェスティブなのが、楽しいレストランの使い方です。接待でなくても、その日に入ったもの、お勧めを頼むのがいいんですよ。

私は、香港の方や父から、広東料理の真髄のようなうんちくをいつも聞かされていて、中華料理には1番大事なマナーがあると思っているんです。出されたお料理がおいしいときに、「これ、どうやってつくるの?」と聞いてはいけない。プロのつくった味は、いくら話を聞いても素人にはまねができるわけがない。だから、そんなくだらないことを聞かないで、おいしかったらおいしいまま、どんどん食べなさいと。

松信きょうはどうもありがとうございました。

譚 璐美(たん ろみ)

1950年東京生まれ。
著書『中華料理四千年』文春新書 680円+税、『譚夫人の欲深的香港の旅』新潮社 1,900円+税、『中国共産党葬られた歴史』 文春新書 700円+税、ほか多数。

林 康弘(はやし やすひろ)

1947年横浜生まれ。

伊藤泉美(いとう いずみ)

1962年横浜生まれ。
共著『開国日本と横浜中華街』大修館書店 1,700円+税、ほか。

※「有鄰」448号本紙では1~3ページに掲載されています。

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