Web版 有鄰

447平成17年2月10日発行

[座談会]京浜地域の近代化遺産

文化庁建造物課主任文化財調査官/堀 勇良
国立科学博物館・産業技術史資料情報センター主幹/清水慶一
東京大学文学部助教授/鈴木 淳

左から堀勇良・清水慶一・鈴木淳の各氏

左から堀勇良・清水慶一・鈴木淳の各氏

はじめに

ドックヤードガーデン

ドックヤードガーデン(旧横浜船渠2号ドック・国重文)
(横浜市西区) 撮影/森 日出夫

編集部幕末の開港にともない、日本は西欧の産業技術を導入し、近代化を大きく推し進めました。その後、現在にいたるまで、さまざまな新しい産業技術が数多く生み出され、社会や人びとの生活を大きく変えてきました。

しかし、これらの産業技術は時代の進展とともに次第に忘れられ、失われつつあります。近年、それらの遺構や遺物を「近代化(産業)遺産」として調査し、また、各地で保存・活用しようという動きが出てきています。とくに京浜工業地帯の中核をなす横浜や川崎では、いくつかの企業博物館も開設され、重化学工業の製造機械から家庭電化製品にいたるまで、さまざまな産業遺産を見ることができます。

そこで本日は、西欧の新技術によって造られた建造物や、社会や人びとの生活を大きく変えていった技術や製品などをご紹介いただきながら、現在、それらが産業遺産として残され、活用されている具体例などをお話しいただければと思います。

ご出席いただきました堀勇良先生は近代建築史がご専門で、長年、横浜開港資料館調査研究員をお務めになり、現在は文化庁建造物課に勤務されております。

清水慶一先生は国立科学博物館・産業技術史資料情報センター主幹で、建築技術史がご専門でいらっしゃいます。

鈴木淳先生は東京大学文学部助教授で、日本近代史、とくに幕末から明治期の機械工業や産業技術の歴史がご専門でいらっしゃいます。

技術や機械が大きな役割を果たした近代

編集部日本の近代化の中で横浜や川崎などの地域はどのような役割を果たしたのでしょうか。

鈴木西洋技術が入ってきた一番最初を言えば長崎かもしれませんが、明治になってからの窓口は横浜あるいは横須賀で、ここから技術の時代が始まるわけです。それが東京へ導入され、全国に広がっていく。大正期からは京浜工場地帯として成長し、そこでつくられた製品が全国の家庭にまで入っていくという、非常に興味深い地域だと思います。

私は技術の専門でも工学系の専門でもなく、歴史のほうから考える立場なんですが、この面から見ますと、近代は歴史の中で技術、あるいは技術の産物である機械や土木施設が大きな役割を果たしてくる時代だと思うんです。

そして、産業遺産ということでは、近代の場合、工場とか、機械とか、港湾の施設とか、いろいろなものが残っている。そのこと自体が、近代はどういう時代だったかをよく示してくれているのではないかと思います。

「絹と軍艦」が東日本の近代技術の導入の象徴

私の先生で建築史家の故村松貞次郎先生は、昔、東日本の近代技術の導入を「絹と軍艦」と、わかりやすい言葉で言われた。軍艦は横須賀、絹は群馬県の富岡ですね。

建築のほうでも、横須賀製鉄所の建物と富岡製糸場の建物をつくった人が同じフランス人のバスチャンなんです。日本の近代、とくに明治の初めの象徴として、絹でお金をかせいで、それで軍艦をつくり、近代化を図る。すると、京浜を飛ばして上州の生糸生産地と横須賀、その間に横浜があるという図が一つ描かれるんです。

生糸以外でも、群馬県の高崎とか館林、埼玉県の深谷あたりに、かなり特徴的な形態の製粉工場が随分たくさんあった。それが大正期ぐらいになると、原料が輸入に変わるということなんでしょうが、海岸のほうに出てきて、京浜工業地帯になる。日清製粉とか、日本製粉などですね。

横浜、横須賀と上州とを結ぶ鉄道のつながりとか、時代の流れ、関東近辺の配置の関係、そういうかなり領域の広いところから、京浜にどう絞り込まれてくるかを見ていくとおもしろいんじゃないかと思っているんです。

鈴木最近、富岡製糸場の工場で、V字型に板を並べた木の扉のデザインを見たんですが、明治13年か14年ごろの横須賀の工場の図面があって、扉のV字型がまったく同じ形なんです。担当者は違うんですが、前にならって同じデザインでつくっているんだなと思いました。

清水明治30年代まで、あるいは明治いっぱいと言ってもいいと思うんですが、日本の工業というか、外国に向かってモノを出したり、外貨を獲得していった最大の輸出品は生糸ですね。

生糸は養蚕地帯で蚕を飼って、最終的に良質な生糸にして、それを横浜まで持ってきて外国に輸出する。現在、一般にイメージされている工業とだいぶ様子が違っていた。生糸が代表的ですが、同じように、お茶も非常に良質なものを横浜を通して外国に送り出す。そのお金で軍艦や工作機械を買うとか、あるいは外国の知識を取り入れていく。

そういう日本と外国との接点が横浜あるいは横須賀で、ある時代までは非常にその部分が大きい。そうなると、むしろ港湾施設の跡とか、外国領事館の跡とかが立派な産業遺産になってくるわけです。

産業遺産であるとか工業というと、どうしてもイメージしてしまうのが、大きな工場があって、高い煙突からモクモク煙が出ているような、ちょっと前の工業ですね。今で言うと、たとえばICをつくっているような、工場地帯・工業団地のような人の住んでいないようなところでモノをつくっていく。そういうイメージが大きいんですが、当時はそうじゃなかった

外国文化の結節点・横浜と、近代技術の集積地・横須賀

鈴木産業と言うと、農業、商業、工業と縦割りで分けがちですが、考えてみれば、製糸もお茶も農産加工ですね。ですから農業とも関係があるし、それを工業で加工して、さらに海外に輸出するわけだから、全部含めて一つの大きな産業で、その結節点が横浜だった。

港湾や鉄道の施設で明治期のものは、横浜に何か残っているんですか。赤煉瓦倉庫は大正の初頭ですか。

明治の終わりです。ただ、赤煉瓦倉庫は保税倉庫なので輸入品が対象なんです。ですから、あそこを経由して生糸が輸出されたんじゃない。そういう意味で言うと、残っているものはなかなかないですね。

鈴木横浜開港資料館などでしのぶしかないという感じでしょうか。生糸検査所の建物は、壊してつくり直したんですね。

そうです。検査をしていた場所はもうなくなっています。かろうじて生糸検査所の奥に倉庫が3棟残っています。北仲地区の帝蚕倉庫です。あれは震災復興建築ですから大正期です。ただ、あれだけの規模のものが当時4棟もあって、震災後でもあれだけの規模を想定していたのは、生糸貿易でのピークがその時代にあったのだと思いますけれども、その象徴みたいなものです。

帝蚕倉庫(横浜市中区)

帝蚕倉庫(横浜市中区)

そういう意味では帝蚕倉庫は、生糸貿易を具体的に残している唯一のものと言えるかもしれません。

清水横須賀は海軍の基地ですが、近代的な軍艦は、船を買ってきて、そのまま海に浮かべておけば何とかなるというようなものではなくて、それを修理するための膨大なバックグラウンドが必要なんです。修理をしようと思ったら、鉄をつくらなければいけないので製鉄所が要る。あるいは工作機械が要る。さらにその技術者も要る。それで、莫大な国のお金を投入して、産業技術をそこに集積したわけです。

横浜には外国文化の接点があり、横須賀は近代技術の集積度が高かった。そういう中で残っているものが、産業遺産になってくるのかなと思います。

「近代化遺産」は平成になってつくられた言葉

私が近代化遺産といわれるものを調べてみようと思ったのは、昭和57年でした。ちょうど「みなとみらい」をつくっているときで、三菱重工横浜造船所が全面移転するところでした。

三菱重工は明治22年に設立した横浜船渠会社を引き継いだ工場です。そこで、当時の産業関係の機械類などをリストアップしようという調査をしたんです。当時はまだ「近代化遺産」という的確な言葉がなかったので、横浜開港資料館では「土木産業遺構調査」と言っていたんです。

「近代化遺産」という言葉は、最近はかなり定着してきましたが、この言葉は、平成2年に文化庁が近代化を支えた交通、産業、土木の遺構の全国調査を始めたときに使い出したんです。

「近代化遺産」というのは文化庁の建造物課が使っている言葉で、文化庁の記念物課では「近代遺跡」と言ってますし、旧通産省系は「近代化産業遺産」、国土交通省では観光と結びつけようと、「産業観光」と言っている。言葉としては「近代化遺産」がいいかなと思っていますけど、これだというのはまだ決まらないんです。

鈴木「遺跡」という言い方は、行政的には筋が通っていますけれども、遺跡と言われてしまうと絶対さわれなくなるような感じがあって、ちょっとマイナスイメージがあるみたいですね。

清水工場などはいやがるでしょうね。(笑)

今はユネスコの「世界遺産」の影響か、かなりプラスのイメージで見られるようになりましたけれどね。街づくりをやっているほうから言うと、横浜市では歴史的資産とか、「資産」という言い方をしたいという考えもありますね。

日本語と英語で微妙にとらえ方が違う「遺産」

清水もともとは英語のインダストリアル・ヘリテイジで、産業遺産、資産と言っているんですけど、日本語に直すと、古めかしいものとか骨董品みたいになってしまう。だけど、そうじゃないわけです。遺産ということ自体が日本語と英語では微妙に違っているんですね。

遺産というのは、西欧では割といいことで、遺産で生活することが社会的に認められているんだけれども、日本ではなぜか手放しで喜べないところがあるし、「負の遺産」などという言葉がある。

鈴木経済成長が上り調子ではなくなって、遺産が大事なんじゃないかという社会になってきている。だからこそこういうのが振り返られている。「遺産」という言葉自体が、社会の産業遺産に対するとらえ方の変化を示しているような感じがします。

古い機械や橋を残した「みなとみらい」の街づくり

エアコンプレッサー

エアコンプレッサー(横浜市西区)

編集部具体的に「遺産」としてはどういうものがあるんですか。

余り知られていないと思うんですが、土木産業遺構調査の中でリストアップされた機械類、産業遺構では、1号ドック・2号ドックを動かしていた排水ポンプのポンプカバーがあります。これを三菱重工のほうで残してもらって、今、日本丸が入っている1号ドックの近くの、横浜マリタイムミュージアムの芝生のところに置いてあります。

それから、造船所全体を動かしていた、スチームハンマーのもとの動力、動力室にあったエアコンプレッサーは、4基あったうちの2基だけ残してもらい、今、マリタイムミュージアムの入口と1号ドックの入口付近の2か所に置いてあります。2号ドックの周辺には、当初のキャプスタン(鎖を巻き上げる装置)も設置されています。

清水「みなとみらい」の都市整備は斬新というか、先駆的なやり方をしましたね。歴史を生かした町の楽しみ方として、昔は古い建物とか、町並みを残すのが多かったんですが、たとえば工場があったら、本来だったら捨ててしまうような、そこで使っていた代表的な機械を、一種の彫刻というかモニュメントのように、芝生の上にドーンと置いてあったりするんです。

ドックそのものを30メートルぐらい移動して残したドックヤードガーデンとか、1号ドックには日本丸が繋留されていますし、汽車道では、古くからあったトラス橋を残して、ここに汽車が走っていたんだよということがわかるようになっている。

これらは、その地域に何があったかを具体的に示すものなので、今後そういうことも注目して、散策の折にはぜひ見ていただきたいですね。

鈴木エアコンプレッサーなどは大正期からのもので、横浜船渠が一番繁栄した時代の造船現場の技術を象徴しているということで非常にいいですね。私も気がついていなかったんですが。

野外にモニュメントとして機械を置く

本来、工場の中のものは、工場全体を動かすシステムなんだけれども、システムとして残すのは、非常に難しい。それをどう残すか、機械の評価みたいなものは当時なかなかできなくて、結局モニュメントとして、現代の彫刻を置くかわりというようなことで置いてもらったんです。

編集部町中に残す例は結構あるんですか。

清水外国では、普通ですね。工業地域だと、平気でドーンと機械が置いてある。

鈴木炭鉱のやぐらが建ってたりもしますね。

清水日本でもこれから広がっていくかもしれません。博物館などに置くよりも、野外で、都市づくりの中に、昔の記憶を保持しているものを置いていくというのは、抽象彫刻よりずっといい(笑)。見て迫力があるし、私も最初は前を通ったときに、これは作品かなと思った。よくよく見たらエアコンプレッサーだった。いいもんですよ。

編集部横須賀では、製鉄所のスチームハンマーも残ってますね。

鈴木今、JRの横須賀駅前にヴェルニー記念館ができて、そこに置いてあります。

清水1865年製で、オランダから持ってきたものです。

鈴木ほんとに最初のものです。横須賀製鉄所は、その後、横須賀造船所になるわけですが、先日、横須賀の市民向けの講座で造船所の話をしたときに、ある参加者から、「造船所はどこにあったんですか」と質問されたんです。今は米軍基地の中ですし、造船はしていませんからね。20年前なら、造船所だと見ればわかったんだけれど、今はクレーンもないので、わからなくなってしまうのも無理はないのですが。今、スチームハンマーが置いてあるヴェルニー公園のところだと思っている方もいらっしゃるみたいで……。

ものによっては、将来そういう誤解を招く可能性もありますから、「みなとみらい」のように、もともとあった場所に置いてあるということは重要ですね。

清水証拠品みたいなものですから、もし本当に、捨てたり、博物館などに置けないのなら、たとえ雨ざらしになっても、外に機械を置いておくというのも一つの考え方だと思います。少なくともアメリカやヨーロッパの工業都市では、モニュメントのように置かれているところが多いですね。横浜や横須賀では、探せば、そういう遺跡をたくさん見ることができる。

横浜ドックは重工業が京浜に広がるスタート点

鈴木横浜、横須賀はドックが多いですね。日本ではほかに類例がないでしょう。

ドックは船を修理するための施設です。横須賀は海軍のドックで特殊ですが、民間用で国際港ということになると、大型の客船を修理する施設が必要不可欠だということで、明治31年に横浜にドックがつくられた。

ですからドックは、港湾施設の工事と一連のものとしてできたんです。現在残っている横浜港の内防波堤、大さん橋、ドックという関係の中でできた施設で、その後、横浜からだんだん京浜のほうに向かって、重工業的なものが展開していく。ある意味でそのスタート的な位置づけもできるのではないでしょうか。

鈴木横浜や浦賀にドックができる前、明治30年前後までは、横浜に入港した船の修理には横須賀の海軍造船所のドックを使っていた。横須賀の造船所は、海軍とも、横浜の輸出入とも深く関連していて、特異な施設だったという感じがしますね。

明治時代は海側の交通がよく整備されていた

鈴木石川島造船所(石川島播磨重工業の前身)が、今のJR石川町駅のそばにあった横浜製鉄所を借りていて、隅田川河口の大川端の工場とつなぐような使い方をしています。また海軍は、造船所が横須賀で、兵器製造所は築地に置いて、モノや人が往復していた。

明治時代の東京と横浜、横須賀は、ばらばらのように見えてつながっており、かえって今よりも近いような、不思議な感覚です。

清水海側の顔もありますからね。汽車はあるけれど、今みたいに自動車や高速道路がなかったから、海側の交通が非常にうまく整備されていたんだと思うんです。

東京と横浜の関係で言えば、横浜に揚がる貨物のほとんどが東京に行くわけですね。すると、京浜間の国内の船での運搬をどうするかというのが、東京のほうから言えば大きな課題で、そこに浅野総一郎たちが着目して大正初めに京浜運河をつくろうということになって、それとの関係で工場地帯ができてくる。

清水大量生産が始まる前の、原料がとれるところでつくり、それを運べばいいという仕組みの時代と、大型の貨物船で大量の原料を入れて、それを鉄道で内陸部まで運んでいくという、大正、昭和ぐらいになってから定着していくシステムがある。

横浜や横須賀の町には、そういうものが重層的に存在している。町を歩いていくと、それが解き明かされていくような仕組みができればいいなと思います。

軍事から生活道具の「三種の神器」などへ

編集部昭和の、人々の生活を変えていった新技術について鈴木先生は『新技術の社会誌』という本を書かれましたね。

鈴木新技術というのは、最初出てきたときは、コストの問題がありますから多分兵器だったはずで、小銃とか大砲とか軍艦、その次が交通も含めて産業の道具で、それがある時期から生活の道具というか、個人レベルで使われるようなものにまで入っていく。

早いところではランプ、本格的になると自転車とか電球、さらに扇風機とかミシン、それから自動車。戦後になると「三種の神器」などという形で、どんどん生活の中に入ってくる。

三種の神器 (テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)

三種の神器 (テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)
電気の史料館提供

20世紀は、機械というものが、産業の道具から生活の道具に変わるというか、生活も含めて多くのところに入ってきて、生活が技術によって大きく変えられていった。そういう時代だったと言えると思います。

その中で京浜工業地帯は、量産品をどんどんつくっていったという面でも意味が大きいですし、それを使う人たちがたくさん暮らしていたという点も大きいと思います。歴史は、常々、その時代の人々の暮らしはどうだったんだろうということを標語的には言うんですが、それがモノを通じて一番わかるのは近代、20世紀です。

それだけに、いろいろ難しいところも出てくると思います。例えば電気洗濯機があって、会社としては初めて製品になった電気洗濯機は大切かもしれないけれども、歴史の上から見ると、初めてたくさん売れた電気洗濯機のほうが、つまりプロトタイプよりも量産型のほうが歴史的には大きい価値があるような気がしてくる。

電気洗濯機の広告 昭和27年

電気洗濯機の広告 昭和27年
『新技術の社会誌』 (中央公論新社)から

見方も、産業技術の視点と、生活技術あるいは生活遺産の視点があって、そういう比較が出てくることによって変わってくるような気がします。

自転車産業で言えば、宮田製作所が昭和5年に年産20万台の蒲田工場をつくり、価格がそれまでの半額にまで低下した。京浜間の産物です。

通勤には電車も使われますが、川崎などの海辺の工場には自転車で通勤する。それが全国に広がっていく。このように、生活を変えていくためにつくられた時点もあるし、使われた時点もある。京浜工業地帯にはとくにそれがあるように思います。

技術に即して歴史を描くことはひとつの課題

鈴木京浜地域の遺産に即して近代の歴史が描けるはずなんですが、歴史学のほうが追いつかなくて、そのあたりがまだうまくいっていないというのが実感なんです。

前近代ですと、遺跡には歴史的位置づけがきちんとできていますが、近代では、内閣がかわって、戦争があってという歴史があって、付けたし的に、経済も発展してきましたという歴史がある。

別の項目には、技術ではトヨタグループ創業者の豊田佐吉とか、きちっと人の名前も出てきて紹介してあるんだけど、たとえば、赤煉瓦倉庫を見てきれいだなと思っても、それがなかなか歴史にうまく結びつかないところがある。それは歴史をやっているほうからはすごく課題だと感じられます。

高校の教科書には、高速道路ができたという話は、それだけ書いてあるんですが、もっと重層的なものだと思うんです。

実際は、高速道路ができ、そこを走る日本の車が輸出できる車になったという変化がありますね。昔から教科書には高速道路ができた話も、自動車の輸出がふえたという話もあるんだけど、それがつながっていない。

近代に起こった、そういうさまざまな変化は、技術を軸にもっとつなげて描けるはずで、より生活に即した、我々がこういう暮らしをするようになったのはなぜだろう、こういうことができたのはなぜだろうという、非常に素直な問いに答えられる歴史に変えていかなくてはいけないんじゃないかと思うんです。

技術革新が日本の社会を変える

清水今、我々は、いいにせよ、悪いにせよ機械の時代に生きているわけです。ある時代から工業化社会というものがつくられ、そこでは工業とか産業が人々の生活にものすごく大きな影響を与えている。

たとえば携帯電話をみても、最初は自動車電話のようなものから始まったんですが、だんだん個人が使うようになり、さらには、それだけで一つの若者のカルチャーといわれるような、メールとか絵文字といった携帯電話文化が生まれてきた。また携帯電話自体にも技術革新が及んでいて、見えないサイクルが無数に生まれている。

そんな社会が、日本ではどういうふうに変化してきたのか。それはある意味ではアメリカン・ライフスタイルみたいなものと微妙にかかわっていて、大量に生産したものを大量に消費していくとか、あるいは近代技術で社会を支えていく。

電化製品を手に入れることが豊かさの象徴だった

清水恐らく昭和の初めごろ、都会に中産階級なり、サラリーマン層ができてきて、そういう人々が豊かな暮らしはどんなものかと想像したときに、例えば電化製品が、豊かさの一つのイメージだったかもしれないんですね。また実際、そのころにいろいろなものがつくられている。

国産の電気洗濯機の1号機とか、電気掃除機の1号機はこのころつくられたんです。そのままうまくいけば、戦前のある時期に、日本もすでに電化社会みたいなものを迎えていたかもしれない。

ところが、その後、大きな戦争があったためにそういうものがまったくできなくなってしまった。そして戦後、昭和30年代ぐらいから、もう一度、いろんな電化製品を所有したり、大量生産されたものを手に入れていく。それがある意味では豊かさの象徴になっていった。

いいも悪いも、私たちはそれをずうっと引きずっているわけで、逆に、それは一体どういうものだったのかということは、重要なことだと思うんです。

しかし、そういうことがわかる場所というのは、なかなかないんです。アメリカにはワシントンのスミソニアン博物館のように、中に入ると、アメリカの歴史と一緒に、自分たちがどんな電化生活をしてきたかとか、どんなふうに家庭に電化製品が入ってきたかを見ることができて、どんなふうに豊かになったのか、あるいは逆に豊かでなくなってきたのか、そういうことを示すものがある。日本には残念ながら、そういうところがないんです。

今使っているさまざまな道具、これは一体自分にとって何なのかという認識ですね。それがなかなかできないというか、認識するための知的なソースがないんです。国立科学博物館も、そういうところがすごく弱い。

それを補ってくれるのが、企業系の博物館、あるいは横浜開港資料館のような、博物館、資料館のたぐいではないかと思うんです。

とくに企業博物館はおもしろいですね。たとえば電機メーカーの資料館なら、その会社がつくった電気洗濯機とか電気釜の1号機とかが並べてある。あるいは創業から現在まで、どんな製品ををつくってきたか、その企業の歴史をあらわすものが、ずうっと展示されている。そういうものを見て、自分なりに頭の整理をしてみる。

お父さんの社会科見学というか、ご家族、子供さんを連れて見に行っていただきたいんです。

企業博物館――東芝科学館・電気の史料館など

編集部京浜地域には企業博物館がたくさんありますね。

清水たとえば川崎区などは今まで、埋立地の工場地帯で、何もないというふうに一般的には思われていたわけです。海岸のほうに行くとだだっ広い工場があって、なおかつ工場が移転するから空き地がたくさんあって、余計殺風景になっている。ところが、あそこに昔からある味の素などが資料館を持っているんです。

鈴木商店味の素工場

鈴木商店味の素工場
木村幸敏氏蔵

川崎市幸区にある「東芝科学館」は、東芝の会社創業85周年を記念して昭和36年に開設されたもので、企業博物館の草分けです。デジタルの最新技術や環境コーナーのほかに史料室があり、東芝がつくった電気洗濯機、電気冷蔵庫、電気釜やワープロなどの国産第1号機などが展示してあるので、身近な電化製品の技術のあゆみをたどることができます。

味の素は、東芝の前身である東京電気や、日本コロンビアの前身の日本蓄音機商会などに続いて京浜に進出した企業です。大正3年に、六郷川畔に工場を設立します。

編集部日本鋼管(現・JFEホールディングス)も川崎区ですね。

清水日本鋼管は、大正2年に京浜の埋立地に工場を建設し、翌3年から創業を開始しました。京浜工業地帯の重工業のさきがけです。

トーマス転炉

トーマス転炉 昭和60年
現在は川崎市市民ミュージアムに移設

以前、敷地内にあったトーマス転炉は今は川崎市市民ミュージアムに移設されています。イギリス人が発明した、鉄鉱石を溶かして鉄鋼を生産するための溶鉱炉で、昭和12年に導入されて、日本の鉄鋼生産を飛躍的に成長させました。

現在は閉鎖されていますが、日本鋼管には「パイプのミニ博物館」というユニークな企業博物館がありましたね。

清水横須賀にある日本ビクター横須賀工場にはVHS記念館があり、日本最初のVHS、標準機になったものが展示されてます。時代ごとの製品がずらっと置いてある。

電気の史料館展示室 (横浜市鶴見区)

電気の史料館展示室 (横浜市鶴見区)
電気の史料館提供

あまり宣伝はしていないんですが、横浜市鶴見区にある「電気の史料館」はすごいです。まずエントランスに、明治期から使われた皇居正門の石橋にあった電飾灯が展示してある。それから時代を追ってエジソン式直流発電機、明治期に日光金谷ホテルで使われていた自家発電設備、送電のための鉄塔、大正期の水力の発電機、戦後の火力発電所のタービン発電機などの大きな実物が展示してある。迫力ありますよ。それと電気関係の書籍や映像資料も閲覧できる図書コーナーもある。

ここで日本の電気事業の歴史がたどれる。企業博物館としては超一流ですね。ちょっと駅から離れていてアクセスは悪いんですが、ここはお勧めです。

編集部日産のエンジン博物館の建物は昭和9年にできたものですね。

平成14年に、横浜市の歴史的建造物に認定されました。日産は昭和8年に、自動車製造会社として現在の横浜工場の地で創業してます。エンジン博物館がある横浜工場ゲストホールの建物は、当初は本社の事務棟として利用されていたようです。いわば発祥の地に、歴代のエンジンや工場の歴史を紹介した博物館がつくられたわけです。開設は平成15年で、できたばかりの企業博物館です。

「これこれ感」で生活の変化をふり返る

清水私の世代を含めて、高度経済成長期を体験している人たちはみんな、生活の変化とともに次々に家電を買いかえていくというようなサーキュレーションで来た人たちなので、一回じっくり振り返っていただくといい。

鈴木先生がおっしゃったように、技術と社会と文化は三位一体で、相互に関連するんですね。こういう言い方は余り学問的ではないんですが、「これこれ感」というか、そこにあるものに対して「これ昔、使った」とか「これ家にあった」というのがあるんです。

現代社会というのは、工業製品に囲まれ、その中で生活しているようなところがありますから、我々の文化にはどうしてもそういうものが絡むんです。「あのとき携帯電話を使った」とか、「あのとき薄型のテレビが出てきたので無理して買ったんだ」、「あの頃こういう車が出たな」ということで、実態としての生き方を確認しながら見ていくのは非常におもしろいと思います。たとえばここ20年、自分がどんなことをやってきたかというのが非常によくわかる。

産業技術史資料情報センターが拠点に

編集部今後、近代化遺産はどのように保存されていくんでしょうか。

機械類とか土木遺産は、その場所にあってこその価値というのがありますね。それに対して、ポータブルな電化製品のようなものの保存、展示の方法は性格が違ってくる。産業遺産と生活遺産の違いかもしれませんが、それはかなり大きいですね。ですから、モノを残していく、伝えていくやり方も全然違うと思うんです。

企業博物館にはそれなりの役割があるし、国立科学博物館産業技術史資料情報センターのような形もある。

清水産業技術史資料情報センターでは、基本的に、まず関連する工業会や、学術団体、行政などと連携して、全国に残っている産業技術の歴史資料の所在を把握して、さらにいろいろな分野の技術を系統化したり、産業技術博物館のネットワークをつくったりしながら、産業技術についての情報拠点となることを目指しています。

一般向けには、たとえば電気洗濯機というキーワードでひけば、東芝もあれば、日立もシャープもあると、それぞれに独立している企業博物館が、全国的なスケールでわかるようなシステムを、今つくろうとしているところです。

生活遺産の保存を担う企業博物館

清水家電などは、新しい型が登場すると古い型はすぐに消えていきますから、すべてを残すということは難しいけれど、将来を考えると、VHSのビデオ機器をはじめ、ウォークマンや電子ジャー、ファミコンなどは100年経ったら生活遺産として大変なものになると思うんです。やはり企業博物館の役割は大きいでしょうね。

日産自動車横浜工場ゲストホール建物内にエンジン博物館がある

日産自動車横浜工場ゲストホール建物内にエンジン博物館がある
(横浜市神奈川区) 日産自動車提供

日産のエンジン博物館は、昭和8年創業当時の本社建物の中につくられていますが、可能であれば、このように、その企業にとって由緒ある建物を活用して収納、保存するのが一番無理がない。そこで作られてほうぼうに散らばった製品をまた集めて、その場で見る。京浜地域はそういうことがまだ可能なところです。これからも企業博物館はふえていく可能性があると思います。

横浜の散策マップの中に、そういうものが入るといいですね。今、川崎市では、市内の産業遺産をホームページで公開しています。分野別、地区別に検索でき、おすすめ散策コースも紹介しています。そういうところを見歩くツアーみたいなものもやり始めているんです。小学生をバスに乗せて、いくつかの工場の資料館を巡ったり、OBに説明してもらうんです。

今後の課題は残らなかったものを補う方法

近代化遺産に関する本などを読んで、頭の中で整理ができたら、次にはぜひ遺産と言われている場所やモノを実際に見て、実物と読んだものの両方を頭の中でうまく認識できるような、そういう楽しみ方ができてくるといいと思うんです。モノとして見えているのは断片でしかないから、それをつなぐようなことがやっぱり必要なんですね。

鈴木一つ気になるのは、モノは大事だし、遺産は私も好きなんですが、たとえば長崎に行くと、かつての居留地の遺構として残っている建物がみんな石造だったり、煉瓦づくりの建物なんです。でも、明治時代の居留地の資料を見ると半分以上は木造だった。それがどんどんなくなり、煉瓦づくりや石づくりのしっかりしたものだけが残った。すると、非常に立派な居留地がそこにあったような感じがしてしまう。そういうモノの残り方に逆に騙されてしまう面がある。

私が初めて横浜に来たのは小学生時代、昭和40年代ですが、そのころは、山下公園から海を見ると、はしけがかなり浮かんでいた。今は完全にはしけはなくなって、当時の陸揚げの様子はわかりませんね。かといって、はしけを保存しておくかというと、それはなかなか大変ですね。やはり残せるものと残せないものがある。残せるものを見ながら、その周りにあった残せなかったものも、たとえば写真とか、映像とか、そういうもので補って世界を想像できるような何かをつくり上げなくてはならない。

企業博物館にはそういう役割があるし、ぜひすべてが網羅できるようになるといいですね。同時に、私みたいに明治時代の工場を研究している者としては、今はもうなくなってしまった工場のことも伝えてほしいんです。

建物も良いものだけが残っているように、企業も残っている会社の話しか語れなくなったら、偏った歴史になりかねません。つぶれたときにこそなくなっていくものを、国で保存してもらいたい。その辺は、清水先生のいらっしゃる産業技術史資料情報センターに頑張っていただきたいですね。

編集部どうもありがとうございました。

堀 勇良(ほり たけよし)

1949年東京生まれ。
著書『外国人建築家の系譜』 至文堂 1,571円+税、ほか。

清水慶一(しみず けいいち)

1950年大阪生まれ。
著書『ニッポン近代化遺産の旅』朝日新聞社 2,600円+税、ほか。

鈴木 淳(すずき じゅん)

1962年東京生まれ。
著書『関東大震災』 ちくま新書 720円+税、『新技術の社会誌』 中央公論新社 2,400円+税、ほか。

※「有鄰」447号本紙では1~3ページに掲載されています。

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