Web版 有鄰

442平成16年9月10日発行

平野啓一郎と『滴り落ちる時計たちの波紋』 – 人と作品

現代をテーマにした9編からなる第2短編集

平野啓一郎
平野啓一郎

引きこもりと『変身』を重ねた「最後の変身」

今年の芥川賞は金原ひとみ『蛇にピアス』(すばる文学賞)、モブ・ノリオ『介護入門』(文学界新人賞)と、デビュー作で受賞するケースが続いた。しかし、投稿作『日蝕』が『新潮』に一挙掲載され、芥川賞を獲得した“衝撃の新人”といえば平野啓一郎さんである。平成11年1月に受賞決定。当時史上最年少の23歳だった。

5年後の現在、平野さんはパリに住んでいる。文化庁の文化交流使として今年2月から1年間の滞在予定だ。

「僕はデビュー時から非常に恵まれて、いい作品が書けて当然の環境でした。20代を最初からやり直してもこれ以上できないと思える仕事ができて、満足しています」

自分の全集がやがて編まれることを考え、執筆計画をたてている。「初期長編三部作」と位置づけ、『日蝕』『一月物語』『葬送』(すべて新潮社)の歴史小説からスタート。今は、「書けるだけ書く」勢いで短編を書く。新刊は第二短編集で、現代小説だ。

「今起きている問題について、歴史的な視野を持たないと、本質をみることができない。歴史小説で人間について考えた上で、短編で書くことに取り組んでいます」

ビルが乱立、街が歪むようすを書いた「白昼」、84歳で死んだ男の戦争体験を想像する「初七日」など9編。「最後の変身」は、カフカの『変身』と引きこもり現象を重ねた異色作である。

『変身』を最初に読んだのは中学生のときですね。虫に変身して家から出られなくなる状態と、引きこもりに共通点を感じました。内と外を使い分ける“二重性”は現代人の特徴で、カフカ自身が役人と作家の二重生活を送った人物。小説『変身』の成り立ちにも興味を引かれた」

「最後の変身」で、引きこもり少年が〈本当の俺〉〈役割〉〈自尊心〉といった言葉を乱打している。少年の内面を書くために、ネット用の常套句を多用する作業は、森鷗外やエリアーデを愛読してきた作家にとり、心地よいものではなかったという。

「考えたり、書くときに僕自身は常套句を使いませんが、ネットが人間の構造そのものを変えている状況、引きこもりの内面を、具体的に書きたかった。個人の欲望や考えが社会とあわないのは当然で、双方に通じる言葉を使って双方が和解するよう努力するのが小説だと思います」

「作家は、社会の矛盾を肌で感じる」という言葉を裏づけるように、刊行直前、長崎県で小6女児殺害事件が起きた。加害者の少女は、自分のホームページで〈うぜー〉〈エロい〉〈ヘタレ〉などの言葉を乱打。ネットの影響が指摘されているところだ。

「ネットに引きこもる彼らは、周囲を下にみることで解決を図ろうとするが、その思考を作るボキャブラリーの質が凄く悪い。“文は人なり”という言葉はフランスにもあって、使う言葉の質は、その人の思考と人間関係に大きく関わります。今は、携帯やネットで定型文や常套句が多用されてコミュニケーションが粗雑になり、矛盾が蓄積されて不具合が起きている」

作品全体に流れている「死」の問題

昭和50年、愛知県生まれ。京大法学部在学中、芥川賞を受賞した。1歳で父を亡くした。「死」の問題は、作品全体に流れている。

「遊んでいても、『こうしてはいられない』と駆り立てられる感じがずっとありました。人間を少しでも高みに引き上げるような作品を書くことで、作家は社会に刺激を与え、生きた証を残すのではないか。ジュネの時代にホモセクシュアルを書くことと、現代にホモセクシュアルを書くことの意味は全く違う。時代によって書かれる作品の意味が変わるのが小説です」

思考を続ける。今後は、短編集をもう一冊出し、現代を舞台にした長編に取りかかる。三島由紀夫『金閣寺』、大江健三郎『万延元年のフットボール』など、若くしてデビューした作家が30代で作風を変えたように、30代の仕事も大事にしたいそうだ。

「社会が暴力的になっているときに、さらに刺激的な暴力を書いても、現状をなぞっているだけで本当に主張することにはならない。自分の言葉で、非常に微妙で複雑な人間の感情を描きたい。定型文や常套句がますます流通して、文章に対する感性はさらに低下すると思う。携帯やネットの便利さに拮抗する価値を小説で生むことで、作家の仕事は公的なリアリティーを得る。そんな現状を念頭に、強い文体を作ることに専念するしかないですね」

(C)

『滴り落ちる時計たちの波紋』・表紙

滴り落ちる時計たちの波紋
平野啓一郎/文藝春秋/1,524円+税

※「有鄰」442号本紙では5ページに掲載されています。

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