Web版 有鄰

436平成16年3月10日発行

有鄰らいぶらりい

夜の明けるまで』 北原亞以子:著/講談社:刊/1,600円+税

「深川澪通り木戸番小屋」という時代小説らしい雰囲気のある副題。<深川の町のほどんどは、川か堀割沿いにある>のだ。

澪は水路だが、「澪通り」というしゃれた言葉は作者の創作だろうか。帯の<江戸・深川。過去を秘めた心やさしい木戸番小屋夫婦のもとに、今日もひっそりとやって来る男たち、女たち>を合わせると何やら、もう小説の世界に入った気がする。

いかにも下町らしい生活感が漂う連作シリーズ4冊目。たとえば第1話「女のしごと」の書き出し。女主人公が、路地をはさんで向い側の住人と明日の天気を賭けて勝つが、<賭けは、蒲焼と物干竿の独占だった。長屋では、こちらの軒下から向いの軒下へ路地を横切って竿を渡す>というのだ。

女友達とのさや当てというささやかな話が、こうした細部の描写で精彩を帯びる。元は大店の主人とか武家の出といったうわさのある木戸番の笑兵衛夫婦と、笑兵衛の将棋敵弥太右衛門は狂言回しの役だが、何かと頼りにされるだけに、おいおい存在感が強まってくる。欲が生み出す人の心の裏表や、貧しさゆえの悲劇がからみあう、波乱の中にもしっとりした雰囲気の人情8話である。

藤沢周平 残日録』 阿部達二:著/文春新書:刊/790円+税

藤沢周平の4冊のエッセイ集、『周平独言』『小説の周辺』『半生の記』『ふるさとへ廻る六部は』から、かかわりの深い人物、場所、学校、本、食べもの、映画など約150項目を抽出し、50音順に並べて解説しており、周平ファンにとってはまたとない贈り物だ。

たとえば最初の夫人、悦子さんが出産した後、ガンのため他界してしまったことはよく知られているが、藤沢周平のペンネームがこの夫人に由来することは、筆者も本書で初めて知った。

悦子は小菅留治(周平の本名)が教べんをとった山形県の湯田川中学の出身(教え子ではない)だが、悦子の実家が湯田川温泉と山1つ隔てた「藤沢」にあった。ここは神奈川藤沢の遊行寺の第29代上人がこの地で没して埋葬されたから藤沢と改称されたと伝えられ、その地名にあやかって付けたペンネームだというのだ。ついでにいうと周平という名も悦子の姉の子からとっているのだそうだ。悦子夫人への思慕の深さがわかる。

長塚節や一茶への思い入れの深さが自己の体験を投影していること、日常生活ではコーヒーに溺れるに至ったきっかけや、塩ジャケに対する嗜好の強さなど、この1冊で藤沢周平の全体像がよみがえってくる。

号泣する準備はできていた』 江國香織:著/新潮社:刊/1,400円+税

12編を収めた短編集で、今回の直木賞受賞作(平成15年度下半期)。全編の底に流れているのは、若い女性の日常性にひそむ不安感だ。

表題作は、バイトと海外旅行を繰り返してきた30代の私が主人公である。海外で知り合った隆志という若者と同棲しているが、入籍はしていない。隆志はそうした暮らしの中で、別の女性とも関係をもっている。一方の私は、いそがしい姉に代わって姪をヴァイオリン教室に連れていくなど面倒をみることで、別の生活の根も張っている。

<私は変化に上手く対応できない。隆志も私も変化しているのに、どちらも変化を望んでいない、ということの方が重要に思える。私たちは二人とも、砂漠でまわり続けるスプリンクラーのままでいられると、らくらく信じた。…>

この作品の書き出しが象徴的だ。隆志が見たという、木がなくて電飾だけのクリスマス・ツリーの話である。号泣する準備をしながら気ままに生きる若い女の心理が心にしみる。

そのほか「前身、もしくは前身のように思われるもの」「熱帯夜」「どこでもない場所」「そこなう」などの諸作品が、現代女性の複雑に揺れる心境を映し出し秀逸。

蛇にピアス』 金原ひとみ:著/集英社:刊/1,200円+税

パンクな若者たちの風俗を描いてきわめて刺激的な作品だ。主人公の私は、ハイティーンの女の子。同世代のアルバイトの男の子と同棲している。アマと呼ぶその若者(本名は、後に事件が起こるまで知らない)は、スプリットタンの持ち主だ。つまり蛇のように舌先が2つに分かれているのだ。私もそれに憧れて、スプリットタンに肉体改造をする。

舌にピアスを入れ、徐々に大きいピアスにすることで穴を拡大し、やがて舌先を割るのだ。その改造をしてくれるのはシバさんと呼ぶ若者だ。彫り師でもあるそのシバさんに、私は舌の改造とともに背中に入れ墨も入れてもらう。麒麟と龍の躍動する絵柄だ。シバさんは私とセックスすることを条件に、その仕事を引き受ける。

ある夜、私がアマと酔って歩いていると、チンピラにいい寄られる。アマは、このチンピラを半殺しにしてしまうが、間もなく家に戻らなくなり、消息を絶つ。警察の捜査がおこなわれるなか、アマは横須賀の海で死体となって発見される……。

すさまじく荒廃した世界だが、読後感は、余韻じょうじょうとしていつまでも残る。今回の芥川賞受賞作(平成15年度下半期)。

(S・F)

※「有鄰」436号本紙では5ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.