Web版 有鄰

435平成16年2月10日発行

[座談会]東日本最古級の民家
国指定重要文化財 関家住宅

関家22代当主/関 恒三郎
横浜国立大学名誉教授・日本大学工学部客員教授/関口欣也
神奈川大学工学部教授・文化庁文化審議会委員/西 和夫
相模原市史編纂特別顧問/神崎彰利
財団法人文化財建造物保存技術協会工事主任/井上裕司

左から神崎彰利・西和夫・関恒三郎・関口欣也・井上裕司の各氏

左から神崎彰利・西和夫・関恒三郎・関口欣也・井上裕司の各氏

※は財団法人文化財建造物保存技術協会提供

はじめに

編集部日本の伝統的な民家は、都市化が進むにつれて次第にその数を減らしています。一方、すぐれた民家は保存のための調査が行われ、江戸時代の住まい、あるいは、そこに住む人々の生活を今に伝えてくれます。

本日は、横浜市都筑区勝田町にあります国重要文化財に指定されている関家住宅(非公開)についてお話を聞かせていただきたいと思います。

関家は江戸時代に名主を務めたお家柄で、お住まいになっている建物は、現在、文化庁建造物課の指導のもとに解体修理が行われております。修理に伴う調査の概要をご紹介いただくと同時に、約千点に及ぶ古文書が伝えられておりますので、近世豪農の暮らしなども教えていただきたいと思います。

ご出席いただきました関恒三郎様は、関家のご当主で、関家の歴史は、戦国時代の小田原北条氏の頃にさかのぼると伺っております。

関口欣也先生は、横浜国立大学で長く日本建築史の講座を担当され、現在は財団法人文化財建造物保存技術協会理事長、日本大学工学部客員教授でいらっしゃいます。

西和夫先生は神奈川大学工学部教授で、文化庁文化審議会委員を務められております。関家の修理工事に当たっては、専門委員会委員長として工事の指導をされております。

神崎彰利先生は相模原市立博物館長等を務められ、現在は相模原市史編纂特別顧問でいらっしゃいます。神奈川県史編纂に際して、関家の古文書を調査されました。

井上裕司様は、財団法人文化財建造物保存技術協会に所属され、現在、関家住宅の設計監理事務所の工事主任を務めておられます。

現当主は22代目、450年たった家柄

関家・主屋 (昭和60年)

関家・主屋 (昭和60年)

編集部関家住宅が注目されるようになったのは、関口先生の調査がきっかけだそうですね。

関口昭和31年に、横浜国立大学で、私の恩師、大岡実先生が神奈川県全体の近世民家の調査を始められました。その調査の大きな特色は、あちこち調査しないで、神奈川県なら神奈川県という範囲をできるだけ詳しく調べようということで、学生の卒業論文のテーマとしてそれを指導する形で継続調査されました。

関さんのうちが見つかったのは昭和36年の夏です。最初、学生の石塚計志君らが見つけ、当時東大大学院生の宮沢智士氏も、どういう価値があるかわからないけれど普通の古い民家とは様子が大分違います、と。私は見た途端に、これは、一般的にある元禄ぐらいの民家とは、およそ様相が違っている。非常に貴重なものと思いました。

そして、大岡先生と文化庁の伊藤延男先生と3人で伺って、昭和41年に主屋が重要文化財に指定されました。

その後、昭和53年に長屋門などの追加指定のときに非常に広大な屋敷地があるわけで、建物だけの保存では雰囲気は残らないため、屋敷地も指定しようという画期的な保存が行われたわけです。

いずれにせよ、関東で有数の古民家、一番古いと思ってもいいかもしれないものが見つかったということです。

天和2年から「八郎右衛門」を10代続いて襲名

編集部関さんは何代目にあたられるのですか。

私で22代です。私が来たときに父から、「このうちはもう400年たっているんだよ」と言われたんです。私は他家から養子に来たんですが、それから50年たちますから、もう450年になるわけです。

編集部系図などもございますか。

系図は文化・文政のころ、8代目の関八郎右衛門政重という方が書かれたのが蔵にあったんです。途中なくなっているところがあったので調べていただいて、ちゃんとしたものをつくりました。

うちは、天和2年(1682)ごろから「八郎右衛門」を襲名させて、それが10代続いていたんです。おじいさんまでが関八郎右衛門で、父の代から普通の名前に変わりました。

小田原北条氏の家臣が土着したと伝える

「都筑郡勝田村五人組書上覚」 延宝3年(1675)

「都筑郡勝田村五人組書上覚」 延宝3年(1675)
関恒三郎氏蔵

編集部古文書も多く残されていますね。

神崎神奈川県史編纂の過程で、県内の古文書の悉皆調査をやりました。私は、近世の担当で、小田原藩領を除いて全県下を歩きました。その中で、関さんの古文書が見つかりました。昭和40年代です。驚きましたのは、約千点と紹介がありましたが、非常にすばらしい内容のものばかりでした。

私は、近世の中でも、『神奈川県史』資料編8の近世5上と近世5下の2冊とその他で、全部でおよそ2,000ページ程度になりますが、それを分担いたしました。神奈川県内は、幕領が多いというのが定説ですが、これは間違いで、中心は旗本領で、その古文書が多数残っているんです。上巻には相模国、下巻には神奈川県下の武蔵三郡の久良岐郡、都筑郡、橘樹郡の旗本領の資料を入れる形をとりました。

とくに、関家所蔵の「都筑郡勝田村五人組書上覚」は、県内でも有数の価値があるものと判断できましたので、口絵の1ページ目に載せました。

関さんの文書は、全体では約60点ほど収めさせていただきました。旗本領の一つの村でそれだけ収めたのは、関さんと、もう一つ伊勢原の堀江家で、関家文書は都筑郡の古文書の中で、量・質ともに一番そろっているといっていいと思います。

秀吉の禁制に「かちた」文禄の検地帳に「勝田郷」と記載

神崎関さんのお宅のある村名の勝田は「かちた」「かつた」などいろいろですが、中世の承元3年(1209)ころから見られます。これは源実朝の全盛期で、その4年前に二俣川で畠山重忠がやられる。そんなに古いんですが、それ以降はずっと消えてしまって、次に出てくるのは、戦国時代も終わりの天正18年(1590)です。

天正18年は豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼしましたけれど、そのときの秀吉の禁制では、小机の庄に、平仮名で「かちた」とあります。ご所蔵の文書で文禄3年(1594)のものには、漢字で「勝田郷」とあり、慶長4年(1599)には、この村に江戸幕府の久志本という旗本が配置されますが、そのとき幕府から久志本氏に与えた宛行状によりますと、「鍛治田」になっている。さらに、3代将軍の家光のころに、幕府でつくった『武蔵田園簿』という資料では、「歩田」なんです。しかし、これはほんとに例外で、その後、寛文12年(1672)の検地帳にはもう「勝田」となり、そしてずうっとその村名が続く。そういう流れです。

『小田原衆所領役帳』に記載がないのは直轄地だったからか

神崎県史の編纂の過程では、プライベートな部分は一切意識的に見ないという方針で調査したんですが、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』に先祖は関加賀守とありますように、関さんのお宅には、小田原北条氏の家臣であったという伝えが残っております。

永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』という、北条氏関係の武士とその所領を書き上げた文書があります。この文書には、近辺の大棚とか山田ほか多くの村が出ているんですが、そのなかに「勝田」と関家は載っていないんです。ということはもしかしたら小田原北条氏の家臣の土地ではなくて、小田原北条氏の直轄地であったために載ってないのかなという推量もできる。

編集部所領役帳は簡単にいうと、家臣が負担すべき役目を記した台帳ですからね。

神崎私は県史が終わった後の1994年ころに、『後北条氏遺臣小考』という、神奈川県下の北条氏の家臣が、北条氏が滅びて土着したか、あるいは徳川氏に仕えたか、そういう論文をまとめたんです。その過程でも関家が北条氏の家臣であったことを明確にはできませんでしたが、残っている材料から見ると、勝田は恐らく小田原北条氏の直轄地であったろう。そのために所領役帳に名前が出ない。

関加賀守については、今まで文献には出てこないんですが、優秀な評定衆の一人で、小田原で最高の位に、関兵部丞という家臣がいる。恐らくその一家じゃないか。そうした推察は全く不可能ではないと思います。

家康が関東に入り都筑郡一帯を検地

江戸時代の勝田村(「武蔵国古写大絵図」部分)

江戸時代の勝田村(「武蔵国古写大絵図」部分)
矢印が勝田村 ※画像をクリックして拡大
神奈川県立図書館蔵

神崎徳川家康が関東に入ったのは、天正18年(1590)ですけれども、その4年後の文禄3年(1594)に勝田の土地の調査、検地をやります。その検地帳が残っています。

残っています。屋敷地とか、畑とか水田ね。みんな書かれている。

神崎この検地をやった人は、『風土記稿』では小宮山八左衛門と書いてある。この人は大久保長安の家臣です。大久保長安は八王子に陣屋を持っておりまして、その家臣がこの辺一帯、都筑の検地をやったんです。長安がじきじきに出てきてやっていると思うんですが、その実務を小宮山八左衛門らが扱った。その現物の検地帳を見ますと、屋敷の筆数が19筆、そのうちの4筆が関さんのお宅で、この時期は図書の持ち分であった。そういうことがわかりました。

図書という方は、小机城主の三男の方なんです。

伊勢神宮の神官で家康の侍医の久志本氏が領主に

神崎神奈川県全体を見ても、天正から文禄の検地で、一家のお宅で屋敷地をそれほど持つのは、やはり小田原北条氏の流れが多いのです。他の材料がなくても、そういう推察はできますし、この時期から村内きっての豪農であったことがわかります。

領主の久志本氏は、もとは、伊勢神宮の神官です。2代目の常顕が三河で家康に召し抱えられたという家です。

神官で、お医者さんだった。徳川さんが病のときに薬を献じて飲ませたところ、ほかの殿様が薬をあげても効かなかったのが治った。それで、ごほうびとして、勝田と牛久保の三百石を徳川さんからいただいて、領主になった。それから久志本氏の所領として270年、明治維新まで続いたんです。

神崎久志本氏は家康の侍医で、慶長3年(1598)に秀忠の病気治療の功で、勝田と牛久保の二か村を与えられております。

建物が不同沈下し、部材も傷み、全解体修理

関家住宅配置図※

関家住宅配置図※

編集部関さんのお宅は重要文化財ということで、その修理は、たいへんなお仕事だと思いますが。

西重要文化財に指定されていますと、修理するのに資格がありまして、今、井上さんが担当してくださっているわけですけれども、文化財建造物保存技術協会には、その資格を持っている技術者がたくさんいらっしゃる。そういう方たちにお願いしているんです。

建物の価値の一つは、古いということです。古いから重要だという単純な話ではなくて、まず、それを先人たちが今日まで大事に伝えてくださった。それは大変な価値だと考えていいと思うんです。

主屋復原推定図 (昭和37年)

主屋復原推定図 (昭和37年)
『神奈川県建築史図説』から
今回の解体調査で一部変更あり

もう一つは、これは住宅、住まいですから、当然いろいろな変遷を経てくる。長い年月を保ってきた建物であればその変遷を追うとき、それだけたくさんの情報があるということです。建物の変遷は、生活の変化に伴っているわけですから、生活の様相をたどることもできる。我々にそれを見る能力、探す能力さえあれば、建物が包み込んできたたくさんのことを知ることができる。そういう意味でも非常に大事な存在です。

建物を丈夫にして生き返らせればいいというだけじゃなくて、この機会に、中に包まれてきた生活そのものもできるだけたどりたい。建物自身はものを言いませんが、それを語らせるのが、井上さんたち技術者、専門家ということになる。

どこまで建物に語ってもらえるか。それが、われわれの課題です。修理とはそういうものだと、私は考えているんです。

屋根から順番に材料を取り外す

関家・主屋解体修理状況※

関家・主屋解体修理状況※

編集部解体修理はどのように行われているのでしょうか。

井上関さんから450年たっているというお話がありましたが、長年経ますと、どうしても基礎が沈んできます。不同沈下といって、位置により沈下量がばらばらになってきますと建築的にも非常によくない。また、主要な柱や梁などにも傷みがあり、今後、保存・維持していくためには、今の段階で修理が必要であろうという、地元の声や文化庁の判断もあって、修理に着手しました。

今回の主屋の工事は、全解体修理といいまして、部材を止める釘を抜いたり、継ぎ手や仕口を一つ一つ分解して、一旦すべての部材を解体する方針をとっています。

まず修理前に、どの部分がどう傷んでいて、またどういった特色があるかを、全体にわたって調べました。それから、屋根から順番に、一つずつ材料を取り外していく作業に入りました。その解体中に行う調査が、先ほど西先生が話された、「語らせる」という部分です。この材料は最初に建てられたときに使われた材料なのか、あるいは後世の修理でつけ加えられたものなのか、材料の種別、仕上げの加工の方法、また取り付けの状況など、材料を一つ一つ見ていくんです。

柱や梁などの建物自体の材料だけでなく、地面の下にある埋蔵物からも情報が得られますので、発掘調査もあわせて行いました。

ツガを使った「当初材」が現在まで残る

編集部どういうことがわかってきたんですか。

井上主屋は、修理前は桁行が十一間、梁行が五間の規模です。周囲の下屋(庇)などは後世に付けられた物です。

調査を進めていくと、「当初材」という、建てられたときに使われた柱がかなり残っていました。一部は後で取り替えたり、足元が切られたりされていましたが、ほとんどの柱が残っておりました。

そこで特徴として挙げられるのは、柱の樹種はツガ(栂)材が多く使われていました。当初の柱は、一部ケヤキ(欅)と、大黒柱はマツ(松)ですが、そのほかの柱はツガ材です。

編集部ツガ材はマツ科の針葉樹で、堅くて、いい材木ですね。

井上そうですね。一見するとマツのようなんです。関さんのお宅では、「芯去り材」と言うんですけれど、大きな大径材を四つに割ったものが使われている。現在でも足元まできっちりしているものもあって、柱に関しては材料を吟味して使っていると感じました。

ツガはトガともいいますがツガ普請といって現在、国内産のツガ材は、関西ではかなり高級とされています。関さんのお宅で使われているツガ材の産地は不明ですが、今回の修理では、同じような国内産のツガ材を、西日本のほうから手に入れようと考えています。

当初は桁行が十間、後に一間分を拡張したことが判明

井上材料の加工の仕方や部材の取り合いからも材料の古さを知ることができます。最初に建てるときは、大工さんは丁寧な仕事をしますが、あとの修理ではどうしても雑な仕事になるんです。

これらのことから判断すると、現状で桁行は十一間ですが、建設当初は十間だったと判断されます。東側の土間の部分が一間分小さくなってくる。このことは、番付といって、建物を建てるときに、柱の位置を示す記号ですが、この主屋でも当初の番付が発見されました。この番付からも東側が一間縮まるということがわかりました。

西側にあった建物を18世紀ごろに移動し、拡張

井上そこで、建物だけでなく、発掘調査を行い、地面の下の情報も確認しようということになりました。発掘調査は横浜市埋蔵文化財センターに全面的に委託して行いました。ところが、はじめの段階では建物から判断した、当初は東が一間縮まるということを示す痕跡が出てきませんでした。そのため発掘範囲を広げていったところ、現状より西側に、かつて建物が存在していたことを示す痕跡が出てきました。土間叩きの面が地面の下に出てきたんです。

発掘を担当された方の話でも、これは旧生活面であるということでした。また、発見遺物から18世紀ごろまではこの面で生活をしていたと考えられました。

つまり、発掘の成果だけで判断すると、現在の主屋が建てられる前に、西側にずれた位置で、18世紀ごろまで別な建物が存在していたことになり、今の主屋は18世紀以降の建物になると判断されてしまいます。

残念ながら今回の解体調査では、建物の建立を示す墨書などの資料の発見はなかったので、主屋の建立時期は明確ではありません。しかし、他の民家建築の類例と比較すると、仕上げに丸刃手斧が使われていることなどから、民家の研究をされている先生方のご意見を伺うと、18世紀以降に今の主屋が建てられたとは考えられないとの判断がありました。

そこで結論としては、現在の建物は、当初は西側にややずれて建てられ、18世紀になって、現状の位置まで移動してきて、その際に、現状規模の十一間に拡張したと判断いたしました。

民家は「キノコ」土地の気候や風土を反映

西もともとの建物があって、それが東に少し動いたんですね。そのときに一間分が大きくなった。

もう一つ、ツガが使われていた。今お話のように、どこから集めたかはよくわからないんですが、ツガでそろえて建てるのは、民家でもそんなにあることじゃない。一般にあまり使いませんが、手に入る材だったことは間違いないわけで、それは、民家はどういうものかを考えるとき、その当時の社会背景を知る上で非常に興味深いんです。

ある人は「民家はキノコである」という言い方をしている。それぞれの土地の気候・風土を反映してでき上がるのが民家だと言うんですね。自然発生的な要素が非常に強いということで、それは民家の一面を言い当てている。家を建てるとき、その地域にある材料を使って建てるのが民家の基本なんです。遠くから買ってくるようなことをしないのが民家である。

ツガを使ってあるのはなぜか、理由は今のところ解明できていませんけれども、これがもしわかれば大変おもしろい。そういうのも民家の持っている特性の一つですね。

関口私たちが、神奈川県あたりの民家をずっと歩いていると、古いうちに限ってツガ普請が出てくる。ツガという木は、現在はめったになくて、切り尽くしたんだろうと思うんですね。

西多分そうでしょうね。

主屋が1600年代のどの辺りかは研究課題

関家・主屋内部(修理前)※

関家・主屋内部(修理前)※
©JACAM 撮影/小野吉彦

編集部今お住まいになっている関さんにとっては、建物として住みいいですか。

私は昔の家が好きだったから、よかったと思っていますよ。夏は、門のほうから風が入ってきて涼しくてね。冬はちょっと寒いので、こたつを使って生活しております。

関口初めて見たときに驚いたのは、広間の表の戸は、普通は引き違いですが、それだけでなく、窓が表の真ん中に残っていた。調べていくと、古い時期に非常に壁がふえる。普通ではちょっと考えられないぐらい、外回りに壁が多い家だった。それは一時的なものかもしれませんけれど、普通の家とはかなり違った要素があるんです。

ちょっと話が行き過ぎるかもしれませんけれど、民家と言うと、柱は太いと考えるでしょう。だいたい八寸(24センチ)ぐらいあるというのが普通の常識なんですが、関さんのお宅の柱は細いんですよ。

柱が細いということは、実はなかなか意味深長でして、これは私流の考えなんですけれど、年代に関係しているかもしれない。例えば、私が昔見たもので、伊豆にある江川太郎左衛門のうちは、土間の柱は非常に太いんですけれども、お座敷の柱は室町時代のもので、細い柱なんです。その目で見ると、日本の中世の住宅の柱は細いんです。

関さんのお宅は、太いものをよしとした時代の雰囲気ではない。直接年代に関係するかどうかは別として、うちは何百年も続けるんだといって太い柱を使うことは、江戸時代には確かに理想なんだけれど、それとずれている。

本当に古いうちに行くと、大概柱は細い。しかも、関さんのうちで驚いたのは、細いけれど、隅の直角のところも全部手斧でつくった柱で、荒っぽい仕上げなんだけれど、ずうっとそろった幅で面を落としている。ものすごく精度が高い。道具は、かんなではないと思うんですが、非常に上等な仕事です。手斧では、もっと大きい面をつくるのは簡単ですけれど、あんな細い面をつくるのは、ものすごく大変だろうと思うんです。

非常に古い部分と下がる部分が混在

西今、関口先生がお話になったのは非常に専門的なことで、一般論としては、柱は太いほうが古いんですよ。それも十分にご存じの上で、特別な事情があるんじゃないかということなんです。

技術は非常に高くて、鑿で彫るんだけれど、その彫りはすごくシャープです。

年代は非常に大きな課題なんです。あの建物は一体いつ建ったんだろう。棟札や文書がなくてわからないので、建物に頼るしかないんですが、今までは17世紀の早い時期だと考えられている。関口先生たちがそういう判定をなさったんだけれど、関口先生を信頼しないというのじゃなくて、もう一回白紙に戻して建物の調査をして、検討し直そうという考えで、今やっています。

編集部具体的な年代はいかがですか。

西明確な資料は、今のところ見つかっていません。だからこそ今度の解体修理で、その根拠を正確に出して、ある程度はっきりさせなければいけないなと思っているんです。

ただ、非常に古いと思われる部分もあると同時に、いやもうちょっと下がるんじゃないかなという意見も出ているんです。その辺はこれから、もうちょっと詰めなきゃいけないと思いますね。

編集部ただ、関東で最古というふうなことは。

西最古クラスは間違いないですね。1600年代の中でどの辺か。1600年代よりずっと降ることはないでしょう。

書院は半解体で修理、主屋よりは新しく本来は茅葺き屋根

編集部関さんのお宅には書院もありますが、その修理も行われているんですね。

井上書院は、主屋より新しいと言われています。こちらは半解体と申しまして、柱や梁は残した状態まで解体して調べました。

発掘もしたんですが、規模などは現状と大きな違いはありません。ただ、現状では鉄板葺きの屋根なんですが、小屋組みの梁材などに茅葺きの痕跡がありまして、以前は茅葺きであったことがわかりました。

大正15年に修理をしたという墨書が発見されて、恐らくそのときに鉄板葺きに改造されたと考えました。今回は茅葺きに戻す方針で進めております。

徳川さんが、中原街道を通って、鷹狩りに行かれる途中に、私のうちに寄って休まれて往復された。そのために書院を建てたんだということを、昔からの言い伝えとして私は聞いているんです。18世紀頃に建ったのだとすると、時代が合わないですね。ただ、そのときに徳川さんが置いていかれたという弁当箱が残っているんです。ですから、休まれたことは確かだと思いますね。

表門は当初は平屋建て 明治期に二階を増築

関家・表門(長屋門、昭和60年)

関家・表門(長屋門、昭和60年)

編集部表門(長屋門)はいつごろのものですか。

井上残念ながら、関さんのお宅の建物は、明確に年代を示す資料がまだ発見されていません。表門は、書院と同じときに重要文化財の指定を受け、昭和60年に、国庫補助事業として半解体修理という根本的な修理を行っています。そのときも年代の資料は出なかったんです。ただ様式的なことから、江戸の末期、幕末ごろではないかと報告書には記載されています。

もとの表門は平屋建てで、規模ももう少し小さかった。関さんのお宅に修理の記録が残っていまして、明治24年に現状規模の二階建てに増築された。それは養蚕を行うための修理でした。

実は主屋も、土間の小屋裏部分が、明治頃に養蚕のために改造されたことがわかりました。

普通の民家よりも規模が大きく広間型とは違う間取り

編集部神奈川県の民家の中で、関家住宅の特徴ということではいかがですか。

関口まず立地です。高い山ではないけれど、山を背負っている谷戸の南斜面のいいところに建てている。そして広さです。普通の農家の規模をずっと上回っている。やはり相当なものだと思います。

北条氏以来の屋敷地を保持していて、そこに建っている家は、元禄ぐらいの代表的な神奈川県の民家は、大体八間の四間ぐらいなんですが、それよりぐんと大きい。

ところが、大きさの割に部屋数はそんなに多くない。そして、土間に入ると表から裏まで大きい部屋がどんとあって、その奥に二部屋ある、一般に広間型と言われるタイプとは違う間取りで、前後に二分することを意図したような平面である。それをどう解釈するかが、これからの研究課題なんです。

関東地方でもまれな世襲名主

うちは元和2年(1616)に分家を出しているんです。次が親が隠居して次男坊が連れてお隣に出た元和3年。そう考えると、元和2年にはもう本家があったと思うんですよ。

文禄の検地のときの図書という方は、文禄4年(1595)に亡くなっています。だから、図書という人がいたときには、建物はもうあったんじゃないかと思うんです。

編集部検地帳の表紙に、案内者と書いてある方ですね。

神崎検地の案内は名主の役目なんです。

小机城主の三男という方ですから、ある程度の権力というか、力があったんだと思いますよ。

神崎小机城は北条氏の有力な支城です。もう一つ、図書とか、侍らしい名前の農民がいます。これは江戸時代のごく初期に限られるんです。多くは北条氏の家臣が土着して、そのまま旧侍の名前をつけて、土地の名請になり、持ち主になって、やがて変わっていく。図書はその典型的な名前だと思っていいですね。

今、関さんはなにげなく分家とおっしゃいましたが、これについては幕府から制限令が出ているんです。名主の場合は、持高二十石以上を持っていないと分家は許可されない。一般の農民が十石です。ですから、分家と言っても、できるうちとできないうちがあったんですよ。

名主は村の最高責任者であると同時に旗本の財政を賄う

編集部関さんのお宅は名主を務められたから、古文書が残っているわけですね。

神崎「都筑郡勝田村五人組書上覚」を始め、素晴らしい資料ばかりで、都筑郡収録文書全体の49%は関さんのお宅のもので占めています。

なかでも重要だと思いましたのは、徳川幕府が出した法令とは違った法令です。旗本の法は江戸幕府の法に抵触しないものばかりである。また抵触したら旗本は存在し得ない。そんな定説があったんですが、関家の文書でこの間違いが是正されました。幕法とは別に、旗本の権限による支配をやっていた。享保年間の法令ということで、県史に具体的に書きました。

編集部名主には村の支配などの役目がありますね。

神崎名主は、今の地方自治体の長に相当しますから、村の行政全般を司ります。村の一番の長が名主ですね。それから組頭、百姓代、これを村方三役と言いまして、村の行政の責任者だった。

関家は代々名主をやっていた世襲名主ですね。関東や都筑郡下で世襲名主だったお宅はあまりない。普通は交代、ときには入札=選挙もあります。神奈川県下では、小田原北条氏の家臣が土着した場合のお宅では、世襲名主が多いのです。身分社会ですから、一つは家格、もう一つは小田原北条氏の家臣であったという伝統が問題になる。その家格と伝統が備わった場合に、名主を命じられる。世襲名主をおやりになったということは、その条件を満たしていたと考えられますね。

村の最高責任者であると同時に、もう一つ大事なことは旗本領では、領主としての旗本の財政は、大体において名主が賄うんです。領主がどこか遠くに行くときは、必ず名主が金を持ってついて行く。財政的な力と、家格と伝統、つまり経済と身分を備えた頂点が名主だった。

近世の後期からは、入札制の選挙が始まったり、領主の指名によって名主が交代するようになります。

関さんのお宅では、世襲名主であったからこそ、文書が散逸しなかった。交代や入札だと、引き継ぐ間になくなったり、公的な支配のために必要ないものは破棄する。関家の文書には、世襲であったという歴史性があるんです。

これは、関口さんも関係された相模の石井家も同じですね。津久井郡で北条氏の津久井衆が土着した。山間地域には、世襲制の名主が多いんです。現在の横浜市内では、世襲制の名主は少ない。その中で関さんは、代表的な世襲制の名主であったことははっきり言えると思います。行政の責任者、村のもめごとの相談役、これを全部やっていた。

屋号は「おだいかん」、半分は武士の身分

江戸の後半に代官職を兼務していたこともあって、うちは屋号を「おだいかん」と言うんですよ。今も「おだいかん」で通っている。

神崎旗本領に「おだいかん」という名前が残るんですね。村の行政とは別に領主との間に入っていた。神奈川県下では「おだいかん」という名前を使うお宅は十軒ぐらいでしょうか。いずれも世襲名主をなさったお宅です。

都筑郡全体で、「おだいかん」と言えば、うちのことだったわけです。

神崎時には、旗本から、小姓格とか代官見習、代官格といった役職を委任される。ですから、片方の足は武家のほうへ踏み出していることにもなるんです。

そういう事実を考えると、世襲制をとった一つの意義も出てくると思いますね。さきほどの津久井の石井家の住宅も重文に指定されているんですが、2代前のご当主の話では、明治から大正のころ、お宅のちょっとした高台で「おーい」と大きな声で呼ぶと周辺の人々が集まって来たというんです。そういうことができた。それが名主です。

編集部幕府からの法令を領民に読み聞かせる役割も。

神崎そうした法を読むのは名主の役目なんです。高札などがありますが、勝田村では、関さんのお宅の門前に張っていたはずです。

高札は2つあると思います。お隣の分家にもある。

神崎農民を庭に集めて、御公儀様からこういう法令が出てきたから遵守せよと、全員にそれを読み聞かせる。支配の根幹だったんです。

家康の関東入国から明治維新までを一貫してたどれる資料

神崎明治維新で幕府が解体します。領主の久志本氏は土着せず、徳川氏にも残らずに国に帰りますが、そのときに家族を関さんのお宅に預けていく。帰る途中には官軍がいるので、大勢の旗本が箱根でストップされたんですが、単身だった久志本氏は、帰ることができた。

そのときに使った寝布団が、昭和の初期ごろまであったそうです。

神崎一つの家の資料で、徳川家康の関東入国から明治維新まで、一貫して歴史をたどれる。これは神奈川県下では少数です。

平成17年7月に竣工の予定

関家・書院(昭和60年)

関家・書院(昭和60年)

編集部今後、関家住宅はどのようになるんですか。

井上現在は、解体工事が終わり、材料が保管されている状況です。これからどういう形で整備していくかが検討されて、最終的な方針が決まります。それに基づいて部材の補修からの組み立て工事に着手します。

今回の修理では、発掘で発見された地下の遺構は保存し、地表面を保護した上に建物を復原することになります。長年伝えられてきた文化を途切れさせずに伝えていく。ある意味では、次の世代に託す部分もあると思います。

建立年次を知るための手法として年輪年代法という、使われている木材の伐採時期を調べる方法があるんですが、現在は主にヒノキに限られていて、マツとかツガはまだその方法では追えません。記録もないので、現段階でできる調査を進めています。

編集部昔の大工さんの仕事ぶりはいかがですか。

井上本当に計画を立ててつくられている感じです。場所によって材料の仕上げの仕方が違う。道具も手斧だけでなく、かんなも使われているんです。そういう工具や技法の区分などについても調査、整理したいと思っています。

編集部内部の間取りなどは変わってくるんですか。

井上主屋の天井とか、間仕切りなど、後の時代に付け加えられた部分がいろいろありますので、どういう形で当初の状態に戻すかどうか検討している段階です。

西今回は、書院の屋根が茅葺きになります。主屋のほうも、今は寄棟屋根という形式ですが、入母屋屋根に変わりまして、棟がもう少し延びます。屋根をほどいてみたら間違いなくそうだったことがわかりましたし、古い写真もあるんです。

工事は平成17年7月に竣工の予定ですが、こういう修理でいつも課題になるのは、いろんなことがわかったとして、どういうふうに戻すか。いつの年代に戻すかということなんです。今回の復元では主屋の大きくなっていた部分を縮めようということなんですが、重要文化財の建物ですから、そんな大事なものを私たちの判断で小さくしていいのかという問題があります。

例えば一番最初のかたちにしようというのが、一つの考え方としてある。そうすると関さんのお宅では書院はなくなってしまう。それはちょっと違うだろう。では書院が建った時代に戻すかとか、結構複雑なことがあって、今、相談しているところです。

ただ、雰囲気は大事にしたいと思いますから、そんなにがらっと変わってしまうことはないと思います。

関口歴史的にみても全国的にみても非常に重要な古民家ですからね。

編集部きょうはいろいろとありがとうございました。

関 恒三郎(せき つねさぶろう)

1923年横浜生れ。

関口欣也(せきぐち きんや)

1932年川崎生れ。
著書『鎌倉の古建築』 有隣堂 1,000円+税、ほか。

西 和夫 (にし かずお)

1938年東京生れ。
著書『海・建築・日本人』 NHK出版 1,070円+税、ほか。

神崎彰利 (かんざき あきとし)

1930年厚木市生れ。
著書『検地』 教育社(品切)、ほか。

井上裕司(いのうえ ゆうじ)

1966年神奈川県生れ。

※「有鄰」435号本紙では2~4ページに掲載されています。

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