Web版 有鄰

435平成16年2月10日発行

鎖国から開国へ ペリー来航と横浜―― – 特集1

加藤祐三

※資料写真は横浜市中央図書館蔵

今年は、開国を決めた日米和親条約が横浜で締結されて150周年にあたる。近代日本は開国から始まる。開国の意義は、①近代日本の起点、②近代国際政治の形成に及ぼした影響、③都市横浜の起源、の3つの側面を持つ。

1853年 ペリー艦隊の来航

「北亜墨利加洪和政治州上官真像之写」

「北亜墨利加洪和政治州上官真像之写」

1853年7月、米東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー率いる黒船艦隊4隻が浦賀沖に姿を現した。総勢は約1,000人、世界最大の蒸気軍艦サスケハナ号(2,450トン)とミシシッピー号(1,692トン)は、江戸への物資運搬を担った回船(千石船、100トン級)の16倍から20数倍の威容を誇った。

ペリーがアメリカ東部の軍港ノーフォークを出航して、大西洋を横断し、喜望峰を越え、インド洋を経て香港に至るまでに4か月半、浦賀に姿を見せるまでに、さらに3か月を要した。地球の4分の3を回る「最遠の使節」である。

独自の補給線がなく、石炭と乗組員の食料確保がペリーにとって最大の課題であった。外洋では帆走して石炭を節約したが、伊豆沖を通過後は蒸気走に切りかえ、全艦に臨戦態勢を敷いた。

幕府側は強硬策の異国船無二念打払令(1825年)を撤回し、穏健策の天保薪水令(1842年)を敷いており、浦賀などの砲台は沈黙していた。

「大島がやってきた」と言われた黒船、その旗艦サスケハナ号に近寄った奉行所の番船から、オランダ通詞(通訳)が英語で叫んだ。「‘Ican speak Dutch!’(オランダ語が話せる)」。これを受けてペリー側もオランダ語通訳を応対に出し、すぐに双方は話し合いに入った。

ペリー艦隊の緊張がほぐれた。奉行所や警備に当たる諸藩の人々も胸をなでおろした。日米それぞれの事情と見えざる糸が、「戦争」を回避させ「交渉」へと導いた。ペリーは久里浜で大統領国書を幕府に渡し、わずか10日間で日本を去った。

海軍を持たない幕府は、長崎に入港する中国商船とオランダ商船からアヘン戦争などの海外情報を提出させ、ペリー来航情報も事前に入手していた。老中首座の阿部正弘(34歳 福山藩15万石から抜擢)は、彼我の戦力を冷静に判断した結果、戦争を回避するほかなしとし、「避戦論」に徹して外交重視の体制をととのえた。

一方のペリーは、「発砲厳禁」の大統領命令を背負っていた。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党で、ホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領にとって、ペリーに与えた「発砲厳禁」命令は重大な意味を含んでいた。

ペリーも戦争回避に最大の努力を払った。

1854年 横浜村

「フレガット蒸気船ポウハタン」

「フレガット蒸気船ポウハタン」

ペリー艦隊の第2回来航は、厳冬期の1854年2月である。ポーハタン号(蒸気軍艦 2,415トン)が加わり、蒸気軍艦3隻と帆船6隻、乗組員数は約2,000人となっていた。

日米交渉の場は、戸数約90の半農半漁の横浜村、現在の関内の大桟橋近くである。アメリカ側の漢文通訳の記録には「ツバキがちょうど満開で、生垣に寄りそってほころんでいた。……麦畑はよく耕され、道端には下肥・堆肥などを混ぜて藁でフタをした大きな桶がたくさん並び……」とある。懐かしい日本農村の原風景である。

当時の絵には、遠くに富士山を置く横浜応接所が描かれている。他に建物はない。応接所の中心部分は前年の久里浜で大統領国書を受理したときの建物(三間四方の十八畳)を移築、その周囲に玄関、控室、料理場など約百畳分を配した。アメリカ側はこれを「条約館」と名づけた。

応接掛は神奈川宿の陣屋を本拠とし、そのつど、横浜村へ出向いた。陸路で8キロほどの坂道の往復であった。専用の通い舟が届いてからは、直線で3キロほど、半時間の距離となった。この天神丸が、黒船とならんでいる絵がある。

林大学頭とペリーの応酬

「横浜村辺之図」

「横浜村辺之図」
中央に応接所、遠方に富士山が描かれている

交渉初日の3月8日、横浜応接所において、林大学頭(復斎)とペリーが挨拶を交わすと、祝砲が鳴り響いた。日本皇帝(徳川将軍)に21発、応接掛に18発、ペリー側の要請であった。

ペリーが口火を切った。「我が国のカリフォルニアは太平洋をはさんで日本国と相対している。……貴国の国政が今のままであっては困る。……国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った。事と次第によっては貴国も同じようになりかねない。」

林が反論した。「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そう思いこんでおられるようである。……貴官が我が国の現状を良く考えれば疑念も氷解する。積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくと考えられたい。」

林の説明を聞いたペリーが答えた。「薪水食料と他国船を救助されるとのこと、よく分かった。……国政を現在のように改め、今後も薪水食料石炭の供与と難破船救助を堅持されるならば結構である」。

ペリーによる「戦争」の脅しは通用しなかった。ペリー艦隊は、その軍事力を「誇示」はしたが、「発動」はしなかった。

林自身の総括によれば、「彼方(ペリー)の兵端を開こうとする気先をはずし(戦闘行為に入ろうとする勢いをそらし)」を基本とした。こうして発砲・交戦を回避し、議論を通じての日米和親条約締結を導いた。

日米和親条約の意義

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約全12ヵ条が調印された。主な内容は、①両国の親睦、②アメリカ船の避難として下田と箱館(函館)の開港、③アメリカ外交官の下田駐在、④日米双方の難破船救済・補修の経費相殺などである。

19世紀は戦争主導の弱肉強食の時代であった。敗戦に伴い、立法・司法・行政の国家三権をすべて失う植民地となるか、あるいは「懲罰」を伴う「敗戦条約」を強いられた。インド、インドネシアは植民地となっていた。清朝中国はアヘン戦争の南京条約(1842年)をはじめ義和団議定書(1901年)に至るまで、いくつもの「敗戦条約」を重ね、莫大な賠償金支払いと領土割譲を負った。

それに対し、戦争を伴わず対話と論争を通じて成立した「交渉条約」には、「懲罰」の観念がない。日本は交渉条約として日米和親条約を結び、近代の幕開けに成功した。詳しくは拙著『幕末外交と開国』(ちくま新書)を参照されたい。

1859年 横浜開港

横浜では、1859年7月1日(安政6年6月2日)の開港以来、祝賀行事が行われてきた。近世城下町を持たず、開港が都市化の核となった横浜にとって、開港が記念すべき出発点を意味した。

横浜開港の条約上の起源は日米和親条約にある。その第11条にアメリカ外交官の下田駐在があり、それに基づきハリスが来日、1858年の日米修好通商条約により5港開港を決めた。幕府は9万両を投下し、翌年の横浜開港にそなえた。

その意味で、開国から横浜開港まで5年間を一連の過程として把握し、認識を深めたい。

都市横浜は、交渉条約という良質な遺伝子を持って歩み始めた。その魅力が、全国から進取の気性に富む人々を集め、外国からも「ヤング・ヨコハマ」の応援に多数の有為な人材が来浜した。そして今、人口350万人を擁する最大市に位置している。

加藤祐三
加藤祐三(かとう ゆうぞう)

1936年東京生まれ。横浜市立大学名誉教授。著書『幕末外交と開国』 ちくま新書 740円+税、『黒船異変』 岩波新書(品切)、『アジアと欧米世界』(共著) 中央公論新社 2,524円+税、ほか多数。

※「有鄰」435号本紙では1ページに掲載されています。

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