Web版 有鄰

432平成15年11月10日発行

藤本ひとみと『皇帝ナポレオン』 – 人と作品

多角的な視点でその全貌を照らし出す

藤本ひとみ
藤本ひとみ

若き新聞記者の目を通して描く

上・下巻、ずっしと重い超大作である。小柄でほっそりとした藤本ひとみさんが、その華奢な腕で、世界史上名高い英雄ナポレオンの全貌を描きあげたのだから、恐れ入る。思えば、ジャンヌ・ダルクも猛将を率いてイギリス軍を撃退した。女性の力、みくびってはいけない。

「フランス革命を長く書いてきた私にとり、革命に終止符を打ったナポレオンは、いつかは書かねばならない存在でした。女性や一兵卒の視点から素顔に迫り、既成のものと違うリアリティーのあるナポレオン像を残したい――。それが課題でした」

「ナポレオンの夜」の題名で、1年半にわたって「産経新聞」朝刊に連載し、改題、加筆・修正して刊行した。

“歴史は夜つくられる”――ともいう。1815年3月5日夜、21歳の新聞記者モンデールの部屋に、大ニュースが入る。ナポレオンが流刑地エルバ島を脱出し、パリに向かった――。「女に取材して、皇帝礼賛の記事を書け」と社主に命じられ、モンデールの取材が始まる。

「『百日天下』という事件をめぐり、各新聞はどう扱うかで揺れたと思います。そんな時、人の弱さ、賢さが現れる。いろいろな角度からナポレオンの姿を照らし、同時に、主人公が新聞記者としてどう成長していくかを書こうと思いました」

かの変態小説家サド侯爵に「パリ一の娼婦で、愛欲そのもの」といわれた美女マダム・タリアンに取材して、モンデールはたちまち性愛の虜になる。それは、コルシカ島に生れた貧しい青年将校のナポレオンが、6歳年上で子連れ未亡人のジョゼフィーヌに、ふがいなく翻弄されたのと同様だった。

元貴族の女たちは、なんとも尻軽でしたたかだ。革命前の宮廷文化では、「結婚」と「恋愛」は別物で、婚外恋愛はごく当たり前だった。裸体が透けて見えるドレスを着たマダム・タリアンは、モンデールの膝に腰を下ろし、ナポレオンが軍略上で“電光石火”を特徴にし、「ベッドの中でもね、とっても早かったんですって」と、男の沽券に関わる証言をする。

ジョゼフィーヌを一途に愛し、戦場を駆けたナポレオンだったが、やがて1804年の「ナポレオン法典」で、「夫は妻を保護し、妻は夫に服従すべし」とうたう。さらに、オーストリア皇女と再婚し、自らを「王族化」しようとする。

それらの理由は、元貴族のジョゼフィーヌの浮気に悩み、名門出の政治家、タレイランらと激しくせめぎあった青年時代の的確な叙述があってこそ、しっかりと読者の腑に落ちる。

また、ナポレオンが再起を賭けた「百日天下」を、物語の時間軸に据えたのは慧眼だろう。最後のワーテルローの戦いを控えて、ナポレオンはモンデールの記事を読み、自分が一人きりであることに気づく。この、ふとした「気づき」が、この大作が伝える歴史の教訓、糧、なのだ。

フランス革命期の人々と現代人の生き方を重ね合わせて見る

出自、夢、恋、結婚、孤独、失意、再起、終焉。ナポレオンの生涯は並外れてスケールが大きかったが、実は、人間一人ひとりに与えられている人生そのものを、ひたすらに生きただけなのだ。

〈私の胸にはいつも、現状がすべてだという気持があります。それ以外を考えても、望んでも、時間と労力の無駄だという気持が。だから自分が失ったもの、自分から欠け落ちていったものについては、ほとんど顧みません。次への対策が立った瞬間に、私は痛手から回復しています〉。

妻に裏切られ、政府に左遷されたナポレオンが、エジプト遠征の途上で口にした言葉を、モンデールは、危機にある自分を励ます言葉として思い返す。「普通の人間としてのナポレオン」を書いたこの物語には、現代人に通じる言葉がいくつもある。

「短期間に政権が入れ替わり、庶民に強いられる価値観が激しく動いた。生きにくい時代に、人がどう生きたのかを探りながら、現代人の生き方と重ね合わせて見ています」と、藤本さんは、フランス革命期のインパクトに引かれ、歴史小説を書いてきた。犯罪心理小説、現代小説も書き分け、独特の歴史観、「心理」の巧みな描出は、見事な境地に達している。

「さまざまな人の姿を見つめ、その心に潜んでいるものをたどっていく作業が好きです。事件をめぐり、主人公は階段をひとつ上るようにして成長する。その階段の高さの中に、ドラマがあるんです」

(C)

皇帝ナポレオン・表紙

皇帝ナポレオン
藤本ひとみ/角川書店/上:2,480円+税、下:2,280円+税

※「有鄰」432号本紙では5ページに掲載されています。

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