Web版 有鄰

432平成15年11月10日発行

[座談会]江戸時代の相模野と丹沢山麓

相模原市史編纂特別顧問/神崎彰利
明治大学商学部教授/圭室文雄
元相模原市史料調査専門員/長田かな子

左から圭室文雄・神崎彰利・長田かな子の各氏

左から圭室文雄・神崎彰利・長田かな子の各氏

はじめに

編集部かつての相模国の北部に位置する相模野台地と丹沢山麓には、町や数多くの村が展開していました。これらの地域については、神奈川県史を始め、自治体史編纂の過程で多くのことが明らかにされ、相模湾沿いの湘南地方とは異なった庶民の暮らしや、文化的な様相が浮かび上がってきております。

本日は、こうした調査を長年にわたって担当されている先生方にご出席いただき、神奈川県北部の江戸時代のようすをご紹介いただきたいと思います。

神崎彰利先生は、近世史がご専攻でいらっしゃいます。平成7年に開館した相模原市立博物館長を務められ、現在は、相模原市史編纂特別顧問、そのほか厚木・海老名市史などの編纂にも当たっていらっしゃいます。

圭室文雄先生は明治大学商学部教授で、伊勢原市史や寒川町史などの編纂に当たっていらっしゃいます。近世宗教史をご研究で、特に大山信仰や八菅修験なども研究されております。

長田かな子先生は、元相模原市史料調査専門員でいらっしゃいます。古文書調査に携わったご経験の中から、近世の女性の姿をさまざまな角度から再現していらっしゃいます。

相模川をはさんで展開する台地と山地

天保年間の高座郡の図

天保年間の高座郡の図
『新編相模国風土記稿』
(黒い部分が相模野)

編集部神崎先生は、ご著書の『鎌倉・横浜と東海道』で、相模野と丹沢山麓の2つの文化圏を紹介されていますね。

神崎相模国北部は地理的に分けると、真っ平らな相模野台地と、山ばっかりの丹沢山麓という対照的な形でとらえられる。

相模野が一番よく象徴的に紹介されるのは『新編相模国風土記稿』です。この中の天保年間の高座郡の絵図に、郡の中央から北部一帯までに及ぶ相模野が、黒く示されています。平塚に流れていく相模川と、江ノ島に流れていく境川との間ですね。ひょうたん形で、東西一里、南北五里、そんな広いところであるということが書いてある。このような地理的な条件は、ほかの地域には存在しません。

私のうちは小田急相模原駅の近くなんですが、淵野辺の手前の相模原市立博物館まで自転車で通っていました。40分ぐらいかかりますが、途中でペダルを休めるところがない。ほとんど真っ平らで山や坂がないからなんです。

以前は、私は淵野辺に住んでおりました。父が昭和15年に相模原に出てきて、土地を借りておりましたが、地主は町田の木曽の人でした。私の家だけではなく、その辺一帯の地主はみんな木曽の人でした。当時は、私はまだ歴史に興味を持っていませんので、よく知らなかったんです。

相模野は草ぼうぼうの36か村の入会地

神崎それが、『相模原市史』の調査の過程で、その土地が36か村の入会であること、そのうちの真ん中から北は全部が東京都、今の町田市からの入会だったことがわかりました。さらに、その利用権は、神奈川県の人々より東京都の人々のほうが強い、たいへん特徴的な入会地だった。それが近代・現代になりますと軍都に発展し、基地へと展開し、そして返還運動などがあって、日本の一つの大きな歴史を象徴するような出来事のあった地域だなという感じがします。

相模原市の旧村の17か村の人々は、この相模野にどう対応するか、いつも迫られていた。それで開発が近世を通して続き、近代になると、今度は新開という形で開発が進み、現在でもそれが続いている。したがって相模野の特徴は入会地、つまり共同利用地であることですね。

編集部昔の相模野は雑木林という感じですね。

神崎一般に、雑木林は昔からあったととらえられていますが、これは誤りで、開発前は、この地域全体は草ぼうぼうの野っ原だった。

宝暦14年(1764)の相模野の絵図をみると、草ぼうぼうです。雑木林なんか一切ないですね。この野っ原を開発する途中で薪炭の需要があって、それで植林をして、林畑をつくっていった。雑木林は、そうしてできたものなんです。

この辺の開拓は、生産性がとても悪いんです。ふつうは米を一石とろうとしたら、例えば一反なら一反開けばいいんですけれど、この辺りは、よその地域の2倍、3倍の開発をしないと追いつかない。それも相模野の特徴ですね。

丹沢は古くから良材の産地炭焼きが盛ん

神崎一方、丹沢山麓は相模野から相模川を越えて西のほうへ展開します。大山も含めた丹沢山地が神奈川県西部の広大な地域を占めている。

相模野とは非常に対照的で山麓には山麓なりの生活や生産物、物資が広く展開していた。そして、山麓全体としては多くの共通性を持っていたこともわかってきました。

例えば、戦国時代から良い木材の生産地であり、炭の焼き出しの地域という共通点がある。材木は戦国時代から小田原城専用の用材として指定されています。

炭は、厚木のすこし北の、現在の愛川町、半原あたりで盛んで、戦国時代から、煤ケ谷の炭ということで、「すすがき炭」という名前がつけられ、小田原城へ運ばれた。

近世になると、それが江戸城で使われる御用炭に切りかわり、そのために伝馬役などを免除され、年貢も通常より少し低めだった。地域の特徴を生かした物資の搬出や利用が古くから行われていたわけです。

山と平地で非常に対照的ですけれど、これがまた相模国の歴史の展開として流れているのかなと思います。

相模野の広大な原野を各所で開発

相模原周辺の新田・新開

相模原周辺の新田・新開

編集部相模野は次第に開発されるわけですね。

神崎領主はこの辺の開拓の生産性が悪いことはわかっていますから、強制的な開発は、近世前期にはありません。一番早いのは、貞享元年(1684)の矢部新田で、町人請負新田です。幕末になると、のちに横須賀奉行になる小栗忠順(上野介)が相模野一帯の開発を強制するんですが、村々は拒否しています。

つまり農民の再生産のために開発が進んだので、一般に言う新田開発イコール領主の年貢増収というのはこの地域については通用しません。それも特徴ですね。

編集部開発のトラブルはなかったんですか。

神崎清兵衛新田は相模国で一番大きい新田開発で、幕末の安政3年(1856)です。三百町歩の広大な面積で小山村の名主の原清兵衛が開発を進めるんですが、そのとき周辺の村から、そこを開いてしまうと肥料になる秣がとれなくなると大反対された。それを幕府代官江川太郎左衛門が仲介して、それぞれの開発部分を決めて許可したということがあります。清兵衛新田は最初からスムーズにいったわけじゃないんです。

水利が悪く養蚕業が盛んで女性の稼ぎが多い

編集部当時は養蚕業もかなり盛んだったんですね。

神崎それぞれの村では年間の年貢を納める金より、養蚕での収入のほうが多いという実態はあります。

編集部とくに女性の稼ぎが多かったそうですが。

長田江戸時代の村の概況を書いた「村鑑」「村明細」が残っていて、宝永2年(1705)の当麻村の「村鑑」には、「神虫(蚕)村中にて女の稼に仕り、大積金百両内外、売り申し候」とございます。当時、当麻村で百両内外というのは結構なお金だと思います。それと「かいこ」のことを「神虫」という字を当てているんです。ちょっとおもしろいですね。

ほかにも、享保13年(1728)の大嶋村とか、享保21年(1736)の橋本村、宝暦10年(1760)の田名村でも、似たような記録があります。こんなふうに、宝永のころから「村鑑」では女の稼ぎとしての養蚕が出てきております。

土地は作物の実りが悪かったけれども、桑の生育には適していたんでしょうね。それで、養蚕で家計を支えるということだったようです。養蚕と、先ほどおっしゃった炭焼きとか薪ですね。田んぼはないし、畑も実りがよくない。台地ですから非常に水の便が悪くて、矢部新田から境川まで水を汲みに行ったという水汲み道が残っているんです。

編集部養蚕というのは主に女性の仕事なんですか。

長田一家総動員でやるらしいんです。女だけでなく、老いも若きも、男も女も、子供も総動員でやる。けれど、糸とりや機織りになると、やはり女の仕事になるものですから、女の稼ぎと記されています。

そんなことから相模野の女は強かったんじゃないかと想像するんです。稼ぎ手としての実力があったから。

圭室かつて私の家でも蚕をやっていましたが、繭ができる間、前後1か月ぐらいでしょうか、ほとんど寝られないんです。ふんを片付けないと糸が汚れてしまうし、塩気や水がついた桑の葉がだめなので、とってきた桑の葉をまず拭いてから食べさせるんですね。

生き生きしていた女性たち――30泊の大旅行も

編集部古文書に女性が出てくるのは少ないんですか。

長田残っているのは公的な文書が主ですので、あまり多くないのですが、「宗門人別帳」には、家族全体のことが記されますから、女の人の名前も出てきます。

あとは「人別送状」とか「奉公人請状」とかですね。それから、何かの事件に女の人がかかわっていると、それが出てくるわけなんです。

全体として、女は余り歴史の表にはあらわれてこないけれども、それを探し出すと非常におもしろいですね。

私は、近世は封建社会で、男尊女卑だし、女はもっぱら忍従の一途という、割に暗いイメージでとらえていたんです。ところが実際の古文書を当たってみると、意外に生き生きした姿が浮かんでくるんですね。養蚕などで女の人が割に力を持っていて、自信もあり、男の人もそれを認めてくれていたのかなと思うんです。

例を挙げますと、女ばっかり、おっかさんばっかり5人連れで、淵野辺村から秩父巡礼−善光寺−日光へ、30泊31日の旅をした記録があるんです。

旅日記を書くほどの人はいませんけれども、泊まったところの覚書[泊日記覚帳]とか、お寺さんの納経帳(朱印帳)とかが残っていまして、その日取りを見ますと、出発は二月なんです。農閑期に出かけたんですね。

歩きですから、淵野辺から5日目にようやく秩父に到着します。それで5日間かかって34か所、全部を回っております。1日に16のお寺を回った日もあって、タフだなと思いますね。

秩父が済んで帰るのかと思ったら、西に向かって、5日目に善光寺にお詣りしています。そしてまた方向を変えて伊香保や出流などに泊まりながら12日目に日光東照宮参拝、そこでやっと帰路につきます。合計すると30泊31日の大旅行です。

江戸時代の庶民には、社寺参詣と医療の湯治ぐらいしか旅は許されなかったんです。でも、社寺参詣とはいえ、こんなに長い不在と出費を快く認められたのは、日頃のおっかさんたちの働きを、家族が認めていた証拠のように思われます。

物見遊山は桑の葉が育たない1月か2月に

圭室高野山の高室院の史料を見ますと、ある時期から相模国の人は伊勢や高野山に行くのが正月になる。それまでは、陽気のいい時期に行っているんです。なるべく軽装のほうが楽ですから。

現存の史料は宝永からですから、長田先生がおっしゃった時期には、明らかに1月に行って、2月のうちに帰ってきているんです。霜にやられて桑の葉が育たない時期に物見遊山に行く。春蚕が始まる2月末までには帰ってこないといけないんです。

編集部米づくりよりも、蚕のほうの理由で時期が左右されていたんですね。

夫と大喧嘩、自由気ままに生きていた女たち

編集部女性がからんだ事件もありますね。

長田夫と対等に喧嘩をするということは、明治・大正期にはちょっと考えられなかったものです。ところが江戸時代には夫と大喧嘩をした女性がいるんです。

上溝村の若妻(とみ)ですが、この家は一石余しか持高がないというから、貧しい階級だと思います。5人家族ですが、舅姑、小姑の妹は奉公に出ていて、気楽な若夫婦二人暮らし。ある日、旦那が用足しから帰ってきたら、女房がいない。やっと帰ってきたので、「どこへ行っていた」と聞くと、「どこへ行こうと私の勝手」と返事をして、近所に聞こえるほどの大喧嘩になるんです。それで5人組が駆けつけてきましたら、妻のとみは家を飛び出して、行方不明になった。手分けをして探したら、深夜に堰にはまって水死体が上がったというんです。かわいそうな結末なんですが、よく旦那に突っかかっていける元気があるなと思いましたね。

もみ合ったとき、旦那が妻を傷つけたらしく、取調べがあるんですけれど、村人がこぞって旦那に同情し、罪にならないようにと嘆願書を出して、血の道逆上での自殺ということで一件落着しました。

この事件は弘化3年(1846)ですが、その4年前の天保13年に、農民がこのごろぜいたくになったというので、戒める御触書が出ているんです。農民の女で髪を元結いで結ぶ者がいるけれども、それはいけない。藁で結べというんです。ところが、とみの死体の検視書を見ると、朝鮮べっこうの笄に鉛の簪と、2つもアクセサリーをつけているんです。

貧しい農民なのに、よくそんな金があったと思うのですが、割に自由気ままに、自己主張していたんじゃないでしょうか。そういう例が古文書にたくさん出てくるんです。

女人講をつくって旅行 2か月ぐらい家をあけることも

女性の旅

女性の旅
広重「東海道五十三次細見図会神奈川」(部分)
神奈川県立歴史博物館蔵

編集部ほかの地域の女性はどうですか。

圭室女人講が大山も江ノ島もあります。例えば芸者さんとか、料理屋の仲居さんのグループといった職業講的なものや、近所の奥さんたちが集まっての講もあります。

意外に女性は昔から強かったんじゃないかと思います。法令上は不利になっていますが、必ずしも弾圧されていたわけではない。2か月ぐらい主婦が家をあけることが可能であったことは事実ですね。そして、高野山だって、伊勢にだって行っています。

高野山が寄付を募るとき、男だけでは人口の半分しかお金は取れない、それで女性からも取っているんです。高野山は江戸中期の享保のころは女性が入らないように警備していますが、現実には入っています。お金を出したんですから、当然行きますね。

関東からはそんなに多くないのですが、関西や東海地方の人はかなり押しかけています。高野山は女人禁制で、高野山では明治5年まで女は一人も入れなかったと言いますけれど、あれは嘘です。山内の宿坊の宿帳に自分でちゃんと記帳しています。

女房が離縁状を書かせたり、東慶寺に駆け込んで内済で離縁

神崎一般に離縁状は亭主が書きますけれど、女房に無理に書かせられたということもあると思う。文面には、今後自由だと。解放ですね。そんな見方もありますね。

圭室私も東慶寺の史料を見ているんですが、絶対に別れない亭主もいるんですよ。警察権のない東慶寺ではどうしようもないので、町奉行に訴えて、何か別の犯罪でつかまえてもらう。そして離縁状を書けと言っても書かない。そういう場合、結局別れられないんです。

たいていは、東慶寺に駆け込むと言われると、近所の手前ぐあいが悪いので、内済、つまり、話し合いで離縁します。東慶寺でも一番多いケースは内済です。それもなるべく短い期間でないと、東慶寺の門前の宿屋の宿代など、出費もかさむ、本人同士が別れたいなら早く別れろということなんです。

長田相模原からも大分駆け込んでいますね。

僧侶が人妻と密通し死罪になるところ内済で解決

圭室綾瀬市の曹洞宗の寺院の僧侶が人妻と不義密通を働いた事件があるんです。

当時の寺院は今の戸籍にあたる「宗門人別帳」を作成しておりました。「宗門人別帳」に記載が無いと、キリシタンということになってしまいます。菩提寺の僧侶がこれを楯にして人妻に不倫を要求し、不義におよんだわけです。

狭い村ですから、噂にもなり夫が現場を押さえた。ところが、夫は先祖の墓所がある手前、僧侶には怒りの矛先は向けずに、妻や仲人に離縁を申し出たりと、いろいろ紆余曲折があるんですが、しかし僧侶の態度に怒った妻は仲人と一緒に僧侶を訴える願書を中本山に差し出しています。不義密通は両者とも死罪ですが、結局、願書を取り下げ、役人や組寺の寺院が中に入り内済で解決しています。僧侶は寺を隠居させられて、女房のほうに僧侶からお金が支払われています。

長田上溝村でも僧に言い寄られて村中の噂になって、夫ともめた女房もいますし、下男と密会中に夫に殺された若妻もいました。

丹沢は大山詣に代表される信仰の山

編集部丹沢山麓は、戦国時代は後北条氏の所領でしたが、徳川家康が江戸に入ると大きく変化しますね。

神崎相模野がほとんど幕領なのに対し、丹沢山麓のうち南のほうは小田原藩領がほとんどを占めている。北部の津久井、愛甲は最初は幕領が多いのですが、後半からは旗本領になります。山塊全体は御料林です。

これには一つの逸話があるんです。天正18年(1580)に関東に入った徳川家康が、三増山を遠望したとき、後北条が三増合戦で武田と戦って負けたことを知っていて、「後北条氏が滅びたのは、山を粗末にしたからだ」と言ったというんです。

家康は、現実にこの辺を徳川氏の直轄地にして、たしか寛永元年に、この山塊全体の地域を御林に設定しています。

神奈川県下で最初から最後まで幕領の面積が一番多かったのは丹沢山地の周辺、あるいは、山の中です。明暦の大火のときには、ここから相模川を伝わって良材をどんどん江戸へ送っている。いかに重要視されていたかがわかります。

大山の阿夫利神社は平安時代からの名社

五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」

五雲亭貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」
神奈川県立歴史博物館蔵

編集部丹沢は、信仰の場所というイメージがありますが、その代表的なのは大山詣ででしょうか。

圭室そうですね。平安中期の『延喜式神名帳』の中に阿夫利神社というのは「あふりのかみのやしろ」という記載があります。これが記録上一番さかのぼれるものです。

縁起の方は、天文元年(1532)の記録で、大山寺の開山は良弁、開創年代は天平勝宝7年(755)とあります。これは良弁が東大寺の大仏殿を建立した時期と同じです。つまり東大寺の縁起をそのままここに引いています。

正確な記録では鎌倉時代の『吾妻鏡』にかなり出ています。元暦元年(1184)には大山寺に免田として田を五町、畑八町を寄進したとか、その後、北条政子の安産祈願に代参の人が行ったという記録も載っています。『相州古文書』によると、足利尊氏が同じように丸島郷を寄進しています。

江戸初期には25人の僧侶と多数の山伏が

高野山高室院「川西壇回帳」

高野山高室院「川西壇回帳」(享保20年)

圭室江戸時代には、「関東古義真言宗本末帳」の寛永10年(1633)の記録ではお札を発行できる寺が12坊あります。それに衆徒が13人で、要するに正式な僧侶が25人いました。そのほか無供の衆徒・交衆の員数を定めずとあり、つまり、ほかに、山伏が数多くいたということだと思います。

次が、享保20年(1735)の高室院の檀回帳です。

神崎高室院の史料は、寒川町史のときに発見されたんですね。

圭室はい。これは高野山から派遣される使僧が檀家を回ったときの記録で、武蔵や相模の檀家数を書いております。それを見ますと、いろんな宗派のお寺がありますが、特に古義真言宗という高野山系が圧倒的に多くて32か寺、その下にお札配りをする御師が135人おります。

関東一円に100万軒の檀家を完璧に押さえる

圭室天保年間の『新編相模国風土記稿』では、御師の数がふえて、合計が166軒になっています。この人たちが、関東一円と福島県、静岡県、長野県、山梨県、新潟の一部、つまり関東をちょっと広げたぐらいの範囲で檀那場を持っていました。

明治16年の「開導記」というのが残っていまして、それによると、村ごとに書き上げた檀家数が約70万軒ありますが、30%ぐらいは書き上げていない村がありますので、江戸時代にはおよそ100万軒ぐらいはあったのではないかと思います。大山信仰は檀家をほぼ100万軒、完璧に押さえていたと思います。

初穂料というのを、毎年、御師が集めにいきます。初穂料には300文、200文、100文という3つのランクがあります。100文としても100万軒ですから相当な金額ですね。平均をとって200文としますと、200文は5,000円ぐらいに当たります。これを100万軒に掛ければ、2けたの億になりますね。その程度の金は毎年上がってきていました。

お札配りにも、毎年行きますし、お参りに来る人もいます。夏山は夏場の20日ぐらいの期間です。今のお金に直すと1泊5、6,000円で、ごちそうが出ます。みんなのお札も買いますから、初穂料と同じぐらいの金は落としていく。ですから大山の年収は100億単位ぐらいで考えないと説明がつかないんです。

大山は、夏に限らず普段でも誰でも泊まれましたから、いつもかなり賑わっていたはずです。旅館だけではなく、そこに住んでいる人の家も約450軒あるわけですから、4人家族だとしても1,800人ぐらいがいるわけでしょう。そういう人たちの日常生活を支える商売人もいるわけです。米屋、みそ屋、酒屋、畳屋、魚屋など、大抵のものが中にありました。

編集部一つの地域社会をつくっていたんですね。

圭室神崎先生に教えていただいたと思うんですけれど「大山千軒」「須賀千軒」という相模の古い歌があるんです。平塚の須賀は船着場だからわかります。それに対して「大山千軒」とはちょっと考えられません。山中は約450軒ですが、入り口の伊勢原あたりまで加えれば、多分、1,000軒あったんじゃないですか。

大山信仰が強かったのは薬を配っていたから

圭室お札配りもありますが、大山信仰が強かったのは薬だと思います。山椒の粉なども早い時期から使っています。御師のうちの記録には薬の製法がかなり残っていますし、呪文も残っています。両方やるんですから、かなり治癒したと思います。

編集部薬はどこでつくるんですか。

圭室御師の家です。材料は江戸から購入してきます。

編集部お土産では独楽が有名ですね。

圭室独楽は地元でつくりますが、江戸でもせんべいとか、いろいろ仕入れます。それから扇子とか、お茶とか軽いものですね。他にも大山案内の地図とか、漆塗りの木ばちとかがあります。

実在の人物が記され説得力のある『大山不動霊験記』

圭室『大山不動霊験記』(15冊)を見ますと、一番多いのはやはり病気治しですね。150件ぐらいの事例のうち半分ぐらいが書き上げてありますが、これもまたおもしろいんです。高室院の相模国の檀家帳を調べると、『大山不動霊験記』に出てくる人物が特定できるんです。職業も出てきます。

例えば、宝暦10年、茅ヶ崎市柳島の名主で、廻船問屋の藤間伊左衛門が出てくるんです。この年、持船が大風で沈みますが、大山不動の名号を唱えた船乗りは助かったとしています。伊左衛門は宝暦6年、高野山へ参詣したことが宿帳に残っています。

私は、今までは霊験記の記事は全くでたらめだと思っていたんでが、実際はそうじゃない。実在の人物が出てきますから、説得力を持つんじゃないかと思いますね。

日向薬師と八菅修験

編集部大山の東には日向薬師がありますね。

圭室日向薬師・宝城坊は、横浜の弘明寺の十一面観音像とならんで有名な鉈彫りの薬師で、制作年代は平安時代と考えられております。日向薬師に今残っている一番古い銘は、1340年(暦応3年)の鐘です。古文書は1380年(康暦2年)の造営の記録が残ってます。開山は行基と言っております。

高野山には無量寿院と宝性院という2つの大きな寺がありまして、宝城坊は無量寿院の系統になります。開創は霊亀2年(716)と伝えています。江戸時代の初めに、徳川家康が、大山よりは少ないですが、寺領60石を寄進しています。大山のほうは157石です。

日向薬師は、御師が大山に比べると少なく、享保20年(1735)の檀回帳には宝城坊、古義真言宗末寺6か寺と、本山派修験の山伏を十二坊抱えているにすぎないんです。

日向薬師は目の病気を治すということで、信仰の範囲が狭い。それに対して大山は何でも病気を治すんですよ。デパートと専門店の違いで、その意味では、目が悪くない人は、日向薬師に行ってもしようがないという感覚があったのでしょう。比較すれば、それほど繁盛はしていなかったようです。

八菅山は京都聖護院の末寺 室町時代の勧進帳も

編集部愛川町の八菅神社についてはいかがですか。

圭室『相州古文書』の中に、応永26年(1419)に、八菅山光勝寺再興勧進帳というのが入っています。開山が行基で、本尊が釈迦、脇侍が薬師・阿弥陀、勧進主は海老名季貞、目的は源家繁盛のためと書いてあります。このときの勧進の理由は、衆徒(僧侶)が貧窮していることと、僧坊が零落して堂舍の軒が朽ちてきた。そこで光勝寺の盛誉が発願主になった。これは足利持氏の袖判があります。これを勧進帳として持って歩いたことが考えられます。

『新編相模国風土記稿』には永正2年(1504)に兵火に遭って、その後、勧化して仮殿ができた。また天文10年(1541)に遠山綱景が再建したという棟札があります。天文12年の鰐口は現存するそうです。貞享4年(1687)と文政7年(1824)に勧化をしたとありますけれども、相対勧化と書いてありますので、これは幕府が認めた御免勧化ではありません。相対勧化は納得づくで金を出してもらうという意味です。

編集部勧化というのは、募金ですか。

圭室寄付金を集めることです。

八菅山は、京都の聖護院の末寺です。本山派修験ですから森御殿と称しています。八菅は、奈良の大峰に入らなくても丹沢山塊を35か所回れば完結するとありますが、やはり、春峰と秋峰と2回は大峰に入っています。その回数によって僧侶の階級が上がっていきます。

修験者はお祓いと伊勢や高野山のお札配りの下請け

圭室この本山派修験は、普段、何で生活するかというと、人が亡くなったときの死臭祓いですね。怪しげなものがとりつかないように祈祷をします。日常は伊勢とか高野山からのお札配りの下請けをやっています。

例えば高野聖は、相模国では高室院と慈眼院の2つの檀那場がありますけれど、それぞれ3万〜3万4千軒ぐらい握っているんです。一人じゃとても札は配れませんね。

まず高野山のお札を大坂から船で三崎に運び、今度は境川とか相模川、酒匂川に揚げていく。さらに川を遡上し、そして揚げたところの真言宗のお寺に置いておきます。高野聖は歩いてやってきて、一日分ぐらいを起点のお寺から担いで、それぞれの村に持っていきます。そして、村役人に頼むか、本山派修験を使って、ある程度のマージンを払って配ってもらう。

1月は伊勢で、2月は高野山、3月は秋葉という調子で来ます。村の人から見ると、毎月同じ山伏がやってくる。本山派修験の山伏は相模国に相当な数がいますけれども、まさに下請け集団です。今のゼネコンで言うと孫請けぐらいですか。そういうシステムになっていたんです。

編集部争うことはないんですか。

圭室お互いに縄張りは侵さないんです。しかも10か村ぐらいずつを縄張りにした手下がいますから、そういう連中と話をつけないと、外から入ってきた場合は妨害されます。

1軒のうちでその年のお札を数えてみると、20か所ぐらい来ています。豪農の場合には、板札といって玄関のところに打ちつける。長ければ長いほど、下に台をつけて支えてつけていくんです。

相模の農村の暮らしを描いた『游相日記』

渡辺崋山『游相日記』の挿絵

渡辺崋山『游相日記』の挿絵

編集部渡辺崋山が江戸から来ます。崋山が小姓をしていた田原藩藩主の妾腹の三宅友信という人の母親を訪ねたときの、『游相日記』がありますね。

神崎今の綾瀬市の早川出身のお銀さんが友信の生母なんですね。その人は後にこちらに引っ込んでしまいましたが、崋山は友信に、お銀さんがどうしているか見てきてくれと頼まれたんです。そして江戸青山道から歩いて来る。大山道ですね。

日記によると崋山は、天保2年(1831)9月20日に江戸を出て、今の横浜市内を通って、2泊目は大和。そして今の厚木飛行場のところを通る。その周辺を柴胡の原と呼んでいます。今では、相模原でも柴胡は絶滅してしまいましたね。それが一面生えていた。24日に厚木に着いて遊んでいる。まさに青山から、今の246号線に沿った道を歩いたわけです。

『游相日記』には、古文書に出ていない、農民の生活様式が載っています。

例えば、お銀さんのうちは畳が敷いていない。板の間なんです。崋山が行ったとき、崋山には花むしろを勧めて、お供の町人には何にも勧めてないんです。それが中農の当時の実態で、崋山は絵まで書いている。

まずくて飲めなかったどぶろく

神崎早川村で、お銀さんと20年ぶりぐらいの再会をする。二人で涙にくれて、特にお銀さんは泣きながら応対したという、非常に情緒細やかな日記が書いてある。

そのときに崋山に振る舞った食べ物は、卵とじとか、そばがきとかで、そんなものが最高のごちそうだった。そのうちは中農層ですから、一般の生活は推して知るべしということなんでしょうが、酒が振る舞われた。どぶろくだった。崋山は大の酒好きなんです。しかし、大の酒好きの崋山でも、そのどぶろくはまずくて飲めなかった。一般庶民の飲んでいる酒はいかにまずかったかということですね。

厚木で村人の痛烈な幕政批判に驚く

長田私はこのお銀さまという人にとても惹かれるんです。あの時代は、江戸に奉公に出る娘が結構多かった。早川村の田舎娘が大名家に出るんですけれど、お殿様のお手がついて産まれた友信は、四男なんです。上の3人が亡くなって、跡取りになるはずが、養子が入ったりで藩主にはなれなかった。

お銀さまは、友信が幼いうちに実家に戻り、小薗村の農民と再婚したんですが、崋山が会ったときは5人の子持ちでした。彼女は随分老け込んでいたらしいけれど、子供たちがお行儀よく並んで、挨拶をちゃんとした。とくに長男は「いと太く逞しき男の子にて素朴いうばかりなし」と崋山は非常に喜ぶ。

そのときは留守だった夫は後で厚木まで追いかけてきて会うんですが、赤黒く日焼けして、角張った顔で口が大きく、太い眉、栗毛のひげで、声は鐘のようで、「厳然たる村丈夫、予が心甚安し」と非常に安心して、友信に報告したようです。

田舎娘から、大名の側室、御生母と、きらびやかな生活をしていたのが、農村に戻った。決して豊かじゃないけれど、夫と子供に囲まれて忙しく働く生活が一番幸せだったんじゃないかと思いました。

神崎崋山は厚木で、村人といろいろ話しているんですけれど、当時の幕政批判が痛烈に出ている。厚木は小田原大久保氏の分家の烏山藩の領地だったんですが、酒井村の駿河屋彦八という人が、崋山に「何か言うことがあるか」と尋ねられて、最初は黙っていた。最後に、問い詰められて、今の厚木は非常に困窮している。それは殿様が悪いんだ。それをよくするには殿様をかえてしまわなければだめだと批判をするんです。

それを聞いた崋山は愕然として言葉がなかった。そして最後に彦八に、おまえは犬畜生にも劣るものだと言った。

崋山は先進的で、また一流の学者と評価されています。それが庶民との対話から見ると、むしろ庶民のほうが現実の生活から出た鋭い批判をする。進歩的といわれた崋山の像と違う面が、こんなところに見られるんですね。

その30数年後、慶応3年(1867)には、この道を荻野山中藩の陣屋の襲撃隊が通る。武装して堂々と厚木を通って、山中陣屋に行って、藩をつぶしてしまった。そういう武装集団が通る。同じ江戸時代でも、天保2年(1831)と、それから30数年たった慶応と、通る人々はもちろん違いますけれど、当時の社会の変化がこの道一つ見てもよくあらわれているなという感じがします。

編集部ありがとうございました。

神崎 彰利 (かんざき あきとし)

1930年厚木市生まれ。
共著『鎌倉・横浜と東海道』吉川弘文館 2,500円+税、ほか。

圭室 文雄 (たまむろ ふみお)

1935年藤沢市生まれ。
共著『葬式と檀家』吉川弘文館 1,700円+税、ほか。

長田 かな子 (おさだ かなこ)

1924年京城生まれ。
著書『相模野に生きた女たち』有隣堂 1,000円+税、ほか。

※「有鄰」432号本紙では1~3ページに掲載されています。

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