Web版 有鄰

431平成15年10月10日発行

[座談会]神奈川県立近代美術館 葉山館誕生
—海と緑の山にかこまれた出会いの場—

洋画家/奥谷 博
町田市立国際版画美術館館長/青木 茂
神奈川県立近代美術館館長/酒井忠泰
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から酒井忠康・奥谷博・青木茂の各氏と篠﨑孝子

左から酒井忠康・奥谷博・青木茂の各氏と篠﨑孝子

※は神奈川県立近代美術館蔵

はじめに

篠﨑鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にあります神奈川県立近代美術館(以下「鎌倉近美」)は、1951年(昭和26)、日本で最初の公立近代美術館として開館し、以来、さまざまな企画展の開催や特色ある活動を行ってこられました。そして本年10月11日には、葉山町の一色海岸に面した御用邸の近くに葉山館がオープンすることになりました。

そこで本日は、開館を待つばかりの葉山館におじゃましまして、開館記念展「もうひとつの現代展」や施設の概要についてご紹介いただきながら、鎌倉近美の開館からの歩みと今後の美術館のあり方について、いろいろとお話を伺いたいと思っております。

ご出席いただきました奥谷博先生は、洋画家としてご活躍で、葉山にご自宅とアトリエをお持ちでいらっしゃいます。1982年には、「奥谷博展−―静けさと神秘の詩」を鎌倉近美で開催されております。84年には第3回宮本三郎記念賞を受賞されたほか、96年には日本芸術院会員となられました。

青木茂先生は1972年から83年まで鎌倉近美で学芸員をお務めになり、跡見学園女子大学教授を経て、現在は文星芸術大学教授および町田市立国際版画美術館館長でいらっしゃいます。幕末明治の初期洋画を研究されております。

酒井忠康先生は1964年から鎌倉近美に勤務されて、92年から館長を務められております。最近は、国内外の現代彫刻に大きな関心を持って活躍されております。

世界で3番目の近代美術館としてオープン

篠﨑葉山館がオープンするまでの経緯を伺えますか。

酒井鎌倉近美は、ご存じのように、大変小さい美術館で、時代になかなか適応しにくいんです。

いままで本館であった鎌倉館は、1951年にできました。さきほど日本で最初の近代美術館というお話がありましたが、世界では、パリの近代美術館、ニューヨーク近代美術館(MOMA)に次いで3番目なんです。

1966年に池側のほうにガラス張りの新館をつくって、延べ床面積が2,500平方メートルになった。それが手狭であるということで、84年に北鎌倉寄りにあった県営駐車場を、当時の長洲一二県知事が勇気を持って美術館の土地に切りかえて、別館をつくった。そこが、大体1,500平方メートルで、合わせて約4,000平方メートルです。

ところが、日本の県立美術館の平均の延べ床は10,000平方メートル前後で、6,000足りないわけです。そこで、6,000平方メートルを目標にどこかに分館をつくったらということで、いくつか候補地はあったんですが、即刻解決する感じではなかった。

八幡宮の旧館を改築して、新しい時代に適応する建物に衣がえしようという案もあったんですが、鎌倉は文化財保護法の発祥の地ということがあって、抜本改築はなかなか容易でない。しかるべき場所に美術館を用意しておかなければ困るかもしれないということから、急転直下、葉山の地になったんです。

日本では珍しい海辺に面した美術館

酒井葉山館の場所は県有地で、山側の三ヶ岡も神奈川県の公園なんです。海側、現在美術館があるところは、かつては高松宮様の夏の別邸があったところで、大変由緒のある土地なんです。ですから県側も、単なる公園をつくってもなかなか難しいと考えていたみたいです。それで、美術館ならご迷惑をかけることはないだろうというので決まったということです。

一度いらしてくだされば、ここがいかにすばらしい景観かということは感じていただけると思うんですが、日本では海辺に直接面した美術館というのは珍しくて、茨城県の五浦にある、岡倉天心ゆかりの茨城県天心記念五浦美術館とか、九州の別府市美術館とか、そう多くはないんです。けれど、諸外国で言うと、イギリスのロンドンにテート・ギャラリーというのがありますが、その分館がセント・アイヴスとかリバプールにあります。ごく海のそばでは、地中海だと、南フランスのアンティーブの海辺にピカソ美術館がある。それから、デンマークのコペンハーゲン郊外に現代美術のジャコメッティのたくさんのコレクションを持っているルイジアナ美術館があります。

諸外国では、海辺の美術館は、どちらかというと喜ばれる傾向にあるんです。

篠﨑最高の環境ですね。

酒井隣は、昭和天皇の海洋研究の成果を陳列している「葉山しおさい公園」です。

奥谷その隣が御用邸ですものね。

塩害・津波対策を考慮した高レベルの技術

酒井御用邸がすぐそばにあるということで、高さの制限とか、いろいろと気を使うことがありました。あまり居丈高な建物をつくるわけにもいかない。

それに海に近いので、塩害とか作品の保護・保全の問題もある。それで、関東大震災のときの津波の高さが6、7メートルあったらしいので、1階のレベルでかろうじてそれを超える10メートルの条件で建てたんです。

外見はそんなに大きくないけれど、展示室などを見ると意外に思うぐらいの大きさは持っているんです。

篠﨑海風が入らないように、室内の気圧を上げてあるそうですね。

酒井そうです。それからエアコンは性能の高いものにしてあるんです。企画展のための展示会場は、自然光と人工光の両方、調節がきくようにつくりました。

篠﨑収蔵庫はどのあたりですか。

酒井地下2階にしました。扉を何重にもして、津波対策を考慮に入れて、非常に高いレベルの技術でこしらえました。

奥谷収蔵庫は気をつけないと。私は高知県の出身なんですが、台風のとき水が来て、高知の県立美術館の収蔵庫の作品が大分やられたんです。そのことは、運営委員会でも皆さん随分ご心配されていましたよね。

運営委員会を組織して将来像を話し合う

酒井うちの美術館は開設以来、運営委員会を組織していまして、それぞれ名士の方に加わっていただいていました。逗子にお住まいだった文化功労者で東大名誉教授の脇村義太郎先生に長い間会長をお願いして、画家の片岡球子先生とか、音楽評論家の吉田秀和先生、作家の永井路子先生とか、そうそうたる人たちが加わって、けんけんがくがく日夜いろいろとお話を聞いて、指示を仰いだんです。

最後のほうには、平山郁夫先生、青木先生や奥谷先生に加わっていただいて、この美術館の将来像を話し合っていただいた。そのときに皆さんが一番心配されたのは、やはり津波や塩害の問題でした。

記憶される美術館をめざした展覧会活動

篠﨑葉山と一番長いかかわりをお持ちなのは、奥谷先生ですね。どういうきっかけで来られたのですか。

奥谷葉山の景色は海あり山ありで、私が生まれ育った高知県の宿毛とちょっと似ていたからです。

私は葉山にくる前、一時、鎌倉の鶴岡八幡宮の源平池のすぐそばに住んでいたことがあるんです。そのころに近美ではムンクとかクレー展などをやっていたんです。日本のはしりみたいな感じでした。

そういう展覧会や、最近だと大正時代の洋画家・関根正二とか、村山槐多とか、戦前の長谷川利行とか、とても印象に残るような展覧会をやってくださっているんです。学芸員の人たちが力を合わせて研究した成果で、本当に充実した作品が並べられるというのか、とてもいい展覧会をやっているんですね。

酒井それは大変ほめてもらって、うれしいお話しなんだけれど、時々涅槃のふたをあけて、警鐘を鳴らさなければならないんです。土方定一という化け物みたいな人がいて、人々に記憶される美術館になろうということでしごかれた。記録される美術館は多いんですが、そうではなくて人の記憶に深く残る活動、ということだったと思います。

美術館を支えた土方定一氏の思想

酒井土方定一先生は、鎌倉近美に開館前からかかわっていた人です。開館時は副館長で、65年に館長に就任しました。

戦前にドイツに留学して、帰国後、草野心平らとともに詩人として活躍しながら、文学・美術の評論活動を行っていた。戦後、北京から引き揚げてきて近美にかかわった。『土方定一著作集』をはじめ著作も多数あります。

館長としてのリーダーシップはすごいものがありましたね。美術評論家・美術史家としての自分の問題や関心から企画案を立て、学芸員を総動員して実現させる。

日本の近代美術を、通史的にながめたり、あるいは作家の戸籍みたいなものまで、一つ一つ調べていた時代があった。ワーグマンもそうだし、高橋由一なんかも、実際のところは簡単な履歴一つつくるにも、大変な騒ぎだったんです。今はコンピューターがあったり、調査が行き届いたけれども、作品がどこにあるのかも、その人のお墓がどこにあるのかもわからないというところから、一から始まったわけです。

「パウル・クレー展」や「エドワルド・ムンク展」は1969年、70年で、大阪万博や高度成長期の、美術館が大きく変貌した時期の象徴的なものだったんですが、その底流には、日本のそういう地道な実証研究を美術館がしていこうということがあった。

近代日本洋画の中での存在を知らしめた「高橋由一展」

酒井それともう一つ、うちの美術館というか、土方定一の思想と言っていいんだけれど、ある成果を得て、ある時期になってさらに充実した視点なりを持てるようになったら、また展覧会をやりなさいというのがあるんです。

高橋由一「江ノ島図」 1876~77年 油彩※

高橋由一「江ノ島図」 1876~77年 油彩※

実は「高橋由一展」は1964年にやっているんです。これが最初の「高橋由一展」で、ある意味で、近代日本洋画の中に大きな位置を占める高橋由一という存在を知らしめた最初の展覧会だった。

その後、71年に、「高橋由一とその時代展」で、さらに高橋由一の周辺の明治初期の美術史を調査研究した成果を展覧会にしようというときに、我々が頼りにしたのが、東京芸大資料館にいらした青木茂先生で、資料を次々と出していただいた。その次の年、たっての願いで鎌倉近美に来ていただいたんです。

そして驚くべきことは、青木先生は通勤の片道2時間の電車の中で、活字おこしをされていないあらゆる基礎文献を読まれて、明治初期洋画の基礎台帳をつくられ、芸術選奨文部大臣賞をもらわれた。

青木私が田舎から東京へでてきたころ、ちょうど鎌倉近美ができたんです。それが何とも派手な新しい美術館でしょう。あんなものはまだ全くなくて、まだバラックがあったころです。

そして展覧会を、年に10本もやって、そのなかには当たり外れもあったんだろうと思います(笑)。けれど、次々と、新しい、今までどこでもやっていなかった作家を取り上げて、そしてちょっと怪しいんじゃないかなと思うぐらい、「こうだ」と言う。

ある見方で統一しちゃうところがあった。それは土方先生の持ち前だったんでしょうな。いずれもひどく新鮮でしたよ。

鎌倉に来てみましたら、酒井さんをはじめ、一騎当千の人がいまして、それはすごいんだ。みんなおっかない。

私はそれまで国立だったでしょう。作品を借りるということがなくて、いつも貸すほうだった。ここに来てから、どこかに借りに行って、「お願いします」と頭を下げるんだけれど、「もうちょっと下げて」なんて言われる。おもしろい苦労をしました。

それから、夕暮れからお酒を飲みながら話をするのが習慣になってまして、そこで先輩からいろんな話を聞いた。私は随分歳をとってから来たので、ずっと外様のような気がしていたんですが、それでも仲間がお酒を飲んでは、美術館での経歴も関係なしに話し合えた。それで幾つかの展覧会もやったんです。

能面や円空など多彩な展覧会

「能面展」ポスター 1979年

「能面展」ポスター 1979年

酒井青木先生で印象深いのは、1979年の「能面展」ですね。私が会場のディスプレイをお手伝いして、総監督は土方先生だけれど、担当者は青木先生だった。

篠﨑能面の展覧会を近代美術館でなさるのは、すごい試みですね。

酒井日本の彫刻としてやる。おもしろい展覧会だったんですよ。

青木酒井さんが展示をやらせろと言うわけですよ。あれは御神体みたいなものですから、能の面の中は普通なかなか見せない。もちろん能を見に行っても、かぶっているところしか見えないでしょう。ところが酒井さんは、裏側が見えるように展示しちゃった。アクリルケースの中にぶら下げたんです。専門家は中が見えるのでびっくりした。中は思ったよりちょっと荒っぽい彫りがしてある。そしてサインがあったりね。

奥谷以前、能楽師の人にお聞きしたのですが、能の面には命が入ってくるんだそうです。だから、裏から見せることは大変なことじゃないんですか。

青木そうなんでしょう。それを私ら知らないからやっちゃった。後から聞けば、大変なことらしいですよ。

奥谷そう思いますよ。能面の展覧会なんて初めてじゃないですか。

青木恐らくどこでもやっていない。

酒井1960年の「円空上人彫刻展」も鎌倉が最初でした。それから1965年の「木喰上人の彫刻展」も最初なんです。そのたびに学芸員はえらい苦労をする。

ただ、美術館というのは、言ってみれば愛想のない空間ですよね。そんなところに日本画を並べたり、仏様を並べたりするんだけれど、あんな展示というのはほんとの姿かしらと思うときがある。

ヨーロッパの考えとは違って、日本の美術はちゃんと床の間にかけるなり、しかるべき場があったわけでしょう。その前に座って、いいお茶を飲んで、いい話をしてという「しきたり」みたいな中で、暮らしと一体になっていた。そういう考え方が土方先生の中にありました。暮らしと結びついた美術ということがあって、それで展覧会も非常に多彩になったんです。

独自の視点で研究した日本の近代洋画

篠﨑初期洋画の研究についてはいかがでしょう。

青木開館20周年の「高橋由一とその時代展」。私はここに入る前でしたが、カタログなんかにもちょっと変わった履歴なんかを載せさせてもらいました。

それと、「近代日本洋画の150年展」というのを15周年記念でやった。

酒井66年ですね。

青木この「近代」は明治からじゃないんですよ。日本の近代はいつからかということは、今は明治維新からということをあまり言わないようになって、もう少し前から準備されていたんだと、歴史のほうでも言うようになったんですが、それを先取りして、今の歴史家よりももっと早いところに近代を置いた展覧会をやりました。あれは非常に新鮮なものでした。

酒井当時は、明治100年で日本じゅうがかまびすしいというか、みんな100年、100年なんです。それが土方定一という人にはちょっとおもしろくないんだよね。それで中身がどうなるかわからないのに、最初に展覧会のタイトルが決まって、それで後はやれという感じだった。

葉山館開館記念「もうひとつの現代展」

篠﨑今回の開館記念特別展のお話を少ししていただきたいと思います。

酒井タイトルは「もうひとつの現代展」としたんですが、「何がもうひとつなんだ」と言われると、微妙に難しいところがある。広い意味で、美術ももうひとつの歴史なんだということなんです。

私たちがつき合っている歴史はいろいろあるけれど、美術作品を通してまた違う面が見えるかもしれない。また、美術史における「もうひとつ」という考えもある。

今回の展覧会は、新しく建った美術館には違いないので開館展だけれど、それ以前に鎌倉での長い歴史があって、その延長で葉山館ができたということがある。老舗は老舗なんです。

ただ、私の記憶をさかのぼっていくと、80年代以降から、地方に大きな美術館や、施設的に恵まれた美術館がどんどんできてきて、活発になってきて、自然のうちに3周おくれのトップランナーみたいな感じになった(笑)。いつでもトップなんですよ。だけど、現実は3周おくれている。それで葉山をつくることによって、そこを挽回しようということなんです。

決して威張ったわけではなくて、貧しい老舗、3周おくれのトップランナーが開館展をやるんだから、台所の貧しさをそのまま見せてしまおうというのが、私の考えなんです。というのは、ずうっとお金なくしてものが集まった美術館なんですよ。

寄贈寄託が主流の特色あるコレクション

酒井高度成長期に、予算が何億、何十億とあって開館して、常設展示室に、こんなものを買いましたとお披露目する美術館では決してないわけです。

開館のときには、コレクションは全くなかったんです。でも現在、収蔵品は総数で約9,500点にのぼります。

油彩画でいえば、明治期の高橋由一をはじめとして、松岡壽、中村不折、黒田清輝など、大正期では萬鐵五郎、岸田劉生、梅原龍三郎ら。

大正末から昭和初期では、佐伯祐三、前田寛治、三岸好太郎、さらに靉光、松本竣介や麻生三郎など、展覧会活動を通じてのコレクションがあります。

彫刻ではイサム・ノグチから李禹煥までの代表作、日本画では山口蓬春をはじめ片岡球子、高山辰雄ら、その他、国内外の版画についても、重要な作品を収蔵しています。

では、ゼロスタートで、何でそんなに集まったのという摩訶不思議なことがある。

美術館の収集は、一つは購入です。それから寄贈寄託です。基本的にはそれ以外にはない。つまり、鎌倉近美は、寄贈寄託が主流のコレクションなんです。

古賀春江「窓外の化粧」 1930年 油彩※

古賀春江「窓外の化粧」 1930年 油彩※

たとえば、川端康成氏から古賀春江の代表的な作品「窓外の化粧」などを寄贈いただいたり、展覧会をとおして作家や作家の遺族、収集家や美術愛好家との縁とともにコレクションが充実していった。

それはどういうことかと言うと、展覧会をしますね。すると、現役の作家の展覧会をした場合でも、物故者の展覧会でも、遺族なり、あるいは作家ご自身なりがある感謝の念というか、気持ちというものがあって、作品を利用してくださいということで美術館に寄贈してくれた。そういうものが、50年間にどんなにあるかというので、今回お披露目をするわけです。

篠﨑それが鎌倉近美の特色ですね。

酒井はい。それと、ここのコレクションの中心は、日本の近代美術なんですけれども、美術館の開設が1951年(昭和26)なので、それ以前の近代とか、明治、大正のものは、いずれ出すとして、今回は特に、あえて1950年代以降の美術館活動にともなったものを出そうと。戦後の現代美術をそういうことによって展望できれば幸せだと思っているんです。それに、それぞれの作品がここにおさまった経緯やエピソードもあるんですよ。

横山操「波涛」の修復時にみつかったもう一枚の絵

横山操「波涛」 1960年 紙本着彩※

横山操「波涛」 1960年 紙本着彩※

篠﨑例えばどんなものがあるんですか。

酒井今回の「もうひとつの現代展」でいえば、日本画の横山操の作品で「波涛」というのがあるのですが、これは彼の作品の中では大きさから言えば最大級のもので、非常にダイナミックな晩年の力作なんです。何年ぶりかで収蔵庫から出して修復をしてもらったんですが、そのとき裏側からもう一枚絵が出てきた。こちらは初期の具象的なもので、画学生が描いたみたいな絵なんです。これはうちの所属に帰するものなのかどうか微妙に難しいところだったんですが、改めて手続きを取り直しました。

こういったことは、実はこのケースだけではないんです。日本画の中では前衛的なグループに属した人で三上誠という福井の絵かきさんがいるんですが、その人から寄贈していただいた絵からも、修復のときに、裏からもう一枚、別の絵が出てきたことがあったんです。

作家にとって展覧会は真剣勝負の場

奥谷博「足摺遠雷」 1981年 油彩※

奥谷博「足摺遠雷」 1981年 油彩※

酒井奥谷先生にも、82年の展覧会のあとに、ご自身が最も強く印象に残していらっしゃる郷里の作品を寄贈していただいて、今は美術館の収蔵品になっています。

奥谷「足摺遠雷」というのを。

篠﨑描かれているのは、高知の海ですね。

奥谷足摺岬は、私の住んでいたところからバスで1時間半ぐらいのところなんです。あるとき、足摺のお寺に泊まったことがあるんですが、ちょうど台風が来まして、波の花というんですかね、波が玉みたいになったのが舞上がってくるんですよ。足摺岬の海岸じゅうに、その泡が飛んでくるんですよ。普通はもっと下のほうだけなんですけれど。自然の異様な風景とでもいいましょうか。それと、足摺はものすごい断崖なんですよ。その壁に波が当たる音がゴォーと響いてくるんです。すごい。台風のときですから雷が鳴っているような感じなんです。

そのときのこととか、それから足摺の七不思議と言われている根笹。私が考えるのに風が強いので大きくなれないんですね。そんなこともずっと聞いたりしていまして、巨大な自然の驚異、人間の祈りを表現したんです。

ほんとうは上から見ると、波はもっとずうっと離れて見えるわけです。ところが、私なりに考えた場合に、それだと画面におさめたとき、つまらなくなってしまう。抽象的に、画面を平面に見るほうが効果があるのではないかというので、波をもっとグーッと近くに持ってきたんです。

酒井ちょっと葉山の海と違いますね。

篠﨑男性的ですね。

奥谷葉山の海はもうちょっと穏やかですね。城ヶ島のほうまで行っても。足摺の海は、黒くて深いんです。

篠﨑鎌倉近美で展覧会をなさったときはまだ40代ですか。

奥谷47歳ですね。鎌倉近美でやった者としては非常に若かったんです、ほんとに。だからみんなびっくりした。それで最近になっても、「あれは印象に残ったね」と言う人がいますね。

展覧会は、初期からずっと年代を追って並べていきますから、正直に言うと作家としては非常に怖いんです。あらが全部見えてしまいますし、いくら知名度があるとか言っていても、作品がよくなければそれまでなんです。作品だけなのです。

その人の人生が全部出ますから、作家にとってはたいへんな真剣勝負でもあるし、こういうところで展覧会ができて、それを自分自身でながめて、さらに自分なりに反省することは、すごく勉強になるんです。

「壁が立つ」かそうでないかで力量を判断

酒井ほんとうに勉強になりますよ。すごく厳しい言い方をしますと、我々学芸員というのは、ある意味では患者を診るお医者さんみたいなところがあるじゃないですか。あるいは墓掘り人みたいなものかもしれないけれど。それで、我々プロの用語では、壁が立つかどうかという言い方をするんです。

篠﨑壁が立つというのはどういうことですか?

酒井つまり絵をかけたときに、絵が壁にがちっとかかっているか、勝負しているかということが決め手になる。アマチュアの人たちは、ただ絵が飾られていれば、それでいいと言うのだけれど、私たちプロは、この画家はだめとか、いいとかは、壁にもっているか、もたないかということで判断する。それを、「壁が立つ」という言い方をするんです。それはもう、はっきりわかる。怖いです。

奥谷先生が初期からずっと並べてと言われたんだけど、これはめちゃくちゃ怖いんです。名前はでかいけれど、意外とだめだという画家もいますよ。展覧会をやってみるとよくわかる。一発でわかってしまいます。

奥谷そうなんです。展覧会ができることは、作家にとってはものすごく光栄で、うれしいことなんですが、反面非常に怖いんですよ。だから命がけでやるぐらいのね。

いくら名前があったとしても、こんな力しかない人なのかとか、見た人にいろいろ判断されるわけです。学芸員の人の眼は、もっとずっと厳しいんじゃないかと思います。

酒井そうそう、厳しいですよ。(笑)

奥谷大体鎌倉近美の学芸員の先生方はくせがあって、特徴があってアクが強いというのかな。

篠﨑このお二方を見ているとよくわかりますよ。人間らしいというか、人間臭いと言ったほうがいいかしら。

奥谷ちょっと違う。いわゆる普通と違うところがあって、またそれだけ鋭いところがあるんです。

篠﨑同じ壁にかけるにしても、全然別なところにかけるのと、鎌倉の近美にかけるのでは、壁が立つか立たないかというのは、全然ステータスが違うんでしょうね。

大きさにかかわらず力のある作品は壁に負けない

青木壁の話で言うと、鎌倉館のガラス張りの新館に、光が変なふうに入ってきて、明るくてでっかい壁が一つあるんです。天気がいいと源平池に青い空が映るでしょう。それが反射してくるから光の色が変わってくるんですよ。ブラインドがありますが、ブラインドを通してもやっぱりだめなんです。そしてガラスが厚いので、曇ったような日でも、ガラスを通してくるからちょっと青っぽくなる。奥谷先生の作品は大きさに関係なしに、その壁に置けるんですよ。力があるんです。

篠﨑負けないんですね。

青木負けない。あの壁に置くと「あっ、そうか」ということがわかるんですよ。

絵によっては、大きさにかかわらず、小さい絵だなと感じるものと、小さくても、大きな壁にちゃんとかかるのとあるんです。

葉山ゆかりの巨匠の作品を第一室に

酒井美術館は何でも包容できるとは限らない。やっぱり多少向き不向きがありますね。

ここの美術館で言うと、まず葉山ということがあります。この地には、山口蓬春、加藤栄三らが居を構えていた。こういう日本画の巨匠が縁が深くておられる。それで「もうひとつの現代展」のときに、第一室には、土地にえにしの深い人の世界をまず紹介してあげたいというのがずっとあったんです。

現代美術は、世界がどうのということを気にすることはあっても、足元ともっと密接に結びついたところから現代を考えるというのも一つでしょう。

篠﨑そうですよね。

酒井だから、あまり難しい話はともかくとして、葉山にいた巨匠の先生たちの絵をまず見てもらって、さらには、いろいろな、ここで持っているものを見てくださいと。

特に葉山館では、収蔵庫に長く保護していたものを出していこうと考えているわけです。鎌倉ではなかなか展示する機会がなかった作品が結構あるんですよ。その典型的なものが棟方志功の「花矢の柵」なんです。これは半端じゃなくてめちゃくちゃ大きい作品なんです。

感情を揺さぶる不思議な力がある葉山の海

酒井それと第2弾がベン・ニコルソンというイギリスの画家なんです。イギリスの南のほう、ドーバーの南にセント・アイヴスという芸術家村があった。そこにいて、非常にしゃれた絵をかいた画家なんだけれども、そのお父さんはウィリアム・ニコルソンと言って、日本で言えば黒田清輝みたいな人なんです。2代にわたって大変に尊敬を集めた、イギリスの近・現代の代表的な画家なので、日本ではそう広く知られていないんだけれど、センスが抜群で、この際一生懸命我々が紹介してあげようと。

それをお願いしたイギリスの研究者が数か月前に会場の下見に来たんです。もう涙を流さんばかりに感激して、その絵のための美術館かと言ったんですよ。もう何の問題もない。感激だ。まさにノープロブレム。

そのあと、葉山港に面したフランス料理店でお茶を飲んだりしていたら、夕日が落ちてきたんですよ。そしたらセント・アイヴスそのものだと言うんですよ。葉山の海は人間を感動させる。感情を揺さぶる何か不思議な力がある。それでこれは日本一の美術館になる条件を備えていると思った。もう皆さん、ここへ来て、きっと泣きますよ。

美術館で夕日を見て、海を見て、その風景を見て泣く美術館はありません。逆に言うと、展覧会は何でもいいから来てください、と。

篠﨑だけど、なまじの画家の方の作品では負けてしまいますね。

酒井おっしゃるとおりなんです。ここで勝負するのは大変ですよ。だから絵描きさんには、ぜひ挑戦をしていただこうということなんです。

日本じゅうにいい美術館はたくさんありますが、ほんとうの芸術の戦いの、最後の究極の場は葉山です(笑)。これから葉山の時代が来そうなそんな気がするんですよ。

山口蓬春文庫をはじめとする充実した図書室

青木もう一つ、ここは図書室をつくった。今、美術館で図書室があるのは、横浜美術館と、ごく最近はじめたばかりの東京の国立近代美術館だけなんです。

ここは、先ほど話に出た山口蓬春が近くに住んでいたでしょう。

酒井美術館の真ん前、1分とかからないところです。蓬春記念館もあるんですが、蓬春先生が亡くなった後、奥さまが、鎌倉に500点ぐらいの作品を寄贈してくれた。蓬春先生は大変勉強家でして、半端じゃない蔵書で、べらぼうに高い、いい本が何千冊もあるんですが、それも一緒に寄贈してくださったんです。それが鎌倉の別館を開設するきっかけになったんです。それを我々は全部整理して、蓬春文庫をつくった。

その後それにみならって、仲田定之助という大正・昭和にかけての、これまた大碩学で、大変な本持ちの美術批評家がいた。その人のものも入って仲田文庫となった。

近年では横浜の斎藤義重さん。亡くなる前に展覧会をやったんですが、それが縁で、先生はご自身がお持ちのほかの作家の作品とか、蔵書、日記類、写真類、あらゆる資料を全部丸ごと寄贈してくださった。それで斎藤文庫をつくったんです。

青木例えば私なんかも、蓬春文庫には見たいものがたくさんあるんですよ。なかなかよそでは見られない珍しいものがある。いい図書室で、そういうものが見られるなら、私もたまに来て、ちょっと開いて幸せな気分になりたいですな。

図書室ができるのはほんとうにいいことだと思いますよ。

美術に触れる環境を身近に

篠﨑奥谷先生、画家としてご注文はありますか。

奥谷鎌倉近美には、これだけ伝統があって、非常に鋭い学芸員の人たちがいる。そして、ここから出た人は、ほとんどが日本の指導的な立場にいるんです。そんなところを見ても、日本の手本になる美術館だと思いますから、今までの鎌倉近美をもう一つ突き詰めていただきたい。こういういい建物ができたんですからね。

我々が見て、あれはいい展覧会だったなと思うのは、結局、新しい目というか研究の成果で感動させるような作品がそろっている。それは2点でも3点でもいいんですよ。そういうものがなくて、ただ並んでいるという展覧会を見るとがっくりくるんです。

見せ場があるというんですかね、そのために学芸員の人が深く深く研究し、調べているような展覧会というんでしょうか。

絵の見方も気になります。さっき鎌倉館の大きな明るい壁の話がありましたが、ここは非常に明るいですね。

この間、多摩美の先生と話をしていたら、日本人の目にはもうちょっと明るくないとだめだと言うんです。外国人はやや暗くても見える。だけど日本人には、ライトを強くしたほうが絵はよく見える。

しかし外国からは、これ以上ルックスを上げると、絵がだめになるから上げないでくれと来るので、その辺のジレンマがあるんですが。

酒井展示会場には、光も人間的な光というかギャラリー全体の空気みたいなもの、体温みたいなものがある。恐ろしく冷たかったり、やわらかいいい気分になったりという雰囲気づくりがあります。

それと、今後の美術館のあり方を考える時に、美術に触れる環境が身近にあるかどうかという問題がある。それには子どものうちから美術館なり、作品や現物に触れることができなければならない。いまの学校の教育方針にも少なからず問題があると思う。

奥谷僕がパリの近代美術館へ行ったとき、子どもたちがたくさん来ていた。みんな真剣に説明を聞きながら作品を観ていた。日本と違って、小さいうちから日常の中で美術に触れる環境があるのでしょう。美術に対する興味を、みんなが自然に持っている。

酒井とにかく葉山へは、美術館だけの目的ではなく、海や山などのまわりの環境全体を楽しみながら来ていただいて、美術に触れていただければと思います。

篠﨑いろいろいいお話をありがとうございました。

奥谷 博(おくたに ひろし)

1934年高知県生れ。
著書『奥谷博』 芸術新聞社 2,427円+税、ほか。

青木 茂(あおき しげる)

1932年岐阜県生れ。
共著『松岡壽研究』 中央公論美術出版 12,000円+税、ほか。

酒井忠康(さかい ただやす)

1941年北海道生れ。
著書『彫刻家への手紙』 未知谷 3,400円+税、ほか。

※「有鄰」431号本紙では1~3ページに掲載されています。

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