Web版 有鄰

431平成15年10月10日発行

有鄰らいぶらりい

生涯最高の失敗』 田中耕一:著/朝日新聞社:刊/1,200円+税

ノーベル賞受賞後、著者はタレントか芸能人のように、サインやツーショット写真を求められたという。真面目な話をしても、中でちょっと言った面白い場面だけが切り取られ「癒し系」とか「出世を断った変人」などの虚像がいまだに消えない。

芸能人なら人気が大事だが研究開発には障害。そっとしておいてほしいと伝えても、「奥ゆかしい」と解釈される。善意の誤解である分、なおさら苦しい立場に立たされ、海外移住まで真剣に考えた、という。

しかし逃げずに自分をちゃんと知ってもらうべきだと思い直し、書き下ろしたのが第1章「エンジニアとして生きる」。一般人向けに真面目な話をしたのが第2章「生体巨大分子を量る」。第3章「挑戦と失敗と発見と」はこの時の山根一眞氏との対談。

職人だった父、頑張りやの母から受け継いだ粘り強さ、常に祖母から聞かされた“もったいない”という言葉が、間違った薬品を混ぜた試料を捨てずに使い、賞につながる発見となる。自然に対する畏敬の念を育てた故郷の富山、大学の仙台、職場の京都。真面目なことがカッコ悪くネクラと言われる世相への批判など、盛りたくさんの内容である。

クライマーズ・ハイ』 横山秀夫:著/文藝春秋:刊/1,571円+税

昭和60年(1985)8月12日、史上空前の大惨事となった群馬県御巣鷹山での日航ジャンボ機墜落事故を、地元新聞社の紙面づくりの現場から描いたドキュメンタリー・ノベルだ。

中心になって展開するのは「北関東新聞」で、事故の全権デスクとして活躍する社会部ベテラン記者・悠木和雅。この夜、悠木は同社営業の山仲間の安西と一ノ倉沢に出かけ、最も危険とされる衝立岩に登る予定だったが、それどころでなくなる。ジャンボ機が消えた、長野・群馬県境に墜落したらしい、という一報以来、一週間ほとんど不眠不休で地元紙としての紙面製作に全力投球することになる。

現場に記者も送り込む。その惨状を送稿させる。だが、その日に限って輪転機の都合で締め切りに間に合わない。記者はムクれる。また全ページ特集を組んだため、予定の広告をふっ飛ばしてしまい、広告局長からは厳重な抗議。それだけではない。折しも地元出身中曾根総理の靖国神社参拝、地元高校の甲子園出場などのビッグニュースが重なり、それぞれ軽視できない。

一方、この日、山仲間の安西はクモ膜下出血で倒れていた……。凄い迫力の作品だ。

武家用心集』 乙川優三郎:著/集英社/1,500円+税

武家の平常心ともいうべき静かな精神力をテーマにした作品集。まず巻頭の「田蔵田半右衛門」が感動的だ。半右衛門は30石の植木奉行で、出世欲も捨て、非番の日は、もっぱら海岸で釣り糸を垂れている。8年前までは70石の群奉行だったのだが、事件に巻き込まれて処分されたのだ。その原因は半右衛門の義俠心にあった。以来、半右衛門は静謐な生活を信条としているのである。

そうした中で、兄の勘定奉行の今村勇蔵から難題を押し付けられる。藩主の内命で、藩の実力者として台頭してきた家老・大須賀十郎を秘密裡に討てというのだ。上意だという。もちろん首尾を果たせば、恩賞が与えられる。苦悩の末、半右衛門は下調べにかかる。

だが、大須賀暗殺の理由として挙げられた不正は、かなり歪曲されたものだった。むしろ大須賀家老に非はなく、家臣の人気の高まりで勢力を増してきたことに対する反対派の陰謀だということがわかる。半右衛門は兄の依頼を断り絶交される。

その矢先、大須賀は数人の賊に襲撃される。たまたま通りかかった半右衛門は大須賀に助勢、賊を倒す。かくて藩内の陰謀が明らかになり、半右衛門は思わぬ褒章に預かることになるが……。他7編。

コーランを知っていますか』 阿刀田 高/新潮社/1,500円+税

20世紀はマルクス主義を知らないと、東西冷戦の原理もわからなかったが、21世紀はコーランとイスラム教を知らないと、新たな世界情勢が理解できない。とくにわれわれ日本人は、イスラム教とは縁のない日常を過ごしてきただけに、昨今の過激なイスラム原理主義にはおろおろするばかりだ。

イスラム教の教典コーランとはいかなるものか、著者は平易にかみくだいて、軽口も交えながら解説してくれる。もともとイスラム教はユダヤ教やキリスト教とは同腹の神教だ。したがって一神教であり、日本人の多くが信仰している仏教とは縁がない。キリスト教より600年ほど後に、マホメットがアラーの神の啓示を受けて預言者となり、神の言葉を人間の言葉として伝えたのがコーランである。

その原理は六信五行だという。六信は教徒が信ずべきもの。すなわちアラー、天使、啓典、預言者、来世、天命。五行は実践すべき行為で、信仰告白、礼拝、斎戒(断食)、喜捨、そして、巡礼という。

著者は、それらを入門書として、おそらくこれ以上平易には語れないだろうと思われるほどやさしく解説してくれるが、それでも、コーランのページを開くとすぐ“牛”が出てくるなど、わからないことが多い。

(S・F)

※「有鄰」431号本紙では5ページに掲載されています。

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