Web版 有鄰

426平成15年5月10日発行

[座談会]予告されていたペリー来航
神奈川県立歴史博物館「150周年記念 黒船」展に寄せて

東京大学大学院教授/三谷 博
明海大学助教授/岩下哲典
神奈川県立歴史博物館学芸員/嶋村元宏

左から嶋村元宏・三谷博・岩下哲典の各氏

左から嶋村元宏・三谷博・岩下哲典の各氏

<所蔵の記載がないものは神奈川県立歴史博物館蔵>

はじめに

ペリー提督(「金海奇観」)

ペリー提督(「金海奇観」)
早稲田大学図書館蔵

編集部嘉永6年(1853)6月3日(旧暦)、ペリー提督率いる米艦隊が4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航し、約200年にわたった鎖国の時代に終りが告げられました。

ペリー来航から150年目に当たる今年から来年にかけて、各地でさまざまな催しが計画されておりますが、神奈川県立歴史博物館では、特別展「ペリー来航150周年記念 黒船」が、この4月26日から6月15日まで開催されます。

そこで、本日は、鎖国体制の中でペリー来航の情報がどのように伝えられたのか、また、日米交渉の実態などをお話しいただきながら、黒船来航が日本社会に与えた影響などについてご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました三谷博先生は、東京大学大学院教授でいらっしゃいます。日本近代史がご専門で、幕末・維新期の外交政策を研究しておられます。

岩下哲典先生は明海大学助教授でいらっしゃいます。日本近世・近代史がご専門で、ペリー来航予告情報を始め幕末情報史を研究されております。

嶋村元宏さんは神奈川県立歴史博物館学芸員で、今回の展覧会を担当されました。展覧会の見どころなどもご紹介いただければと思います。

嘉永6年(1853)、4隻の黒船を率いて浦賀沖に

ペリー艦隊随行画家ハイネの水彩画「久里浜上陸」

ペリー艦隊随行画家ハイネの水彩画「久里浜上陸」
明星大学蔵

編集部「ペリー来航150年」と言われますが、ペリーは2度、日本に来ていますね。

嶋村150年前の嘉永6年(1853)6月に、4隻の黒船艦隊が神奈川県の浦賀沖に姿を現し、久里浜に上陸してフィルモア大統領から日本の皇帝(将軍)に宛てた国書を手渡して日本を離れます。そして翌年に予告通りに再来日し、横浜に上陸して日米和親条約を結びます。

これによって約200年続いた鎖国に終止符が打たれ、それが一般的には日本の新しい時代を切り開いたというふうにされています。

それまで江戸幕府は、オランダと中国との通商はしていましたが、ほかの西洋諸国とはしていなかった。そのような状況の中で、ペリーが来た目的の一つは、日本と通商をしたいというのがあった。

二つ目は、太平洋に航路を開くために、蒸気船の燃料である石炭の補給場所を確保したい。三つ目は、難破した捕鯨船の乗組員の保護で、そのために日本に港を開いてほしいということがペリーが持参した大統領の国書には書いてあったわけです。

今までは、突然現れたペリーに対して、幕府も庶民も驚き、あわてふためいたという話もありましたが、最近は新しい研究が出てきています。

18世紀末に松平定信が鎖国体制を一段と強化

編集部徳川家光によって始められた鎖国が、18世紀末に意味合いが変わったということですが。

三谷近世日本はペリーが来るまで閉じていたというのはその通りですが、閉じ方が違っていた。近世前半は、日本人が主な拘束の対象で、海外に出ていくのも帰ってくるのもいけない。外国に対してはキリシタンのイスパニア、ポルトガル、それらと縁戚を結んでいたイギリスは来てはいけないけど、ほかの国は来てもよかった。

18世紀になると、東アジア海域全体で貿易が縮小して船の行き来が少なくなったけれど、特定の国以外は来ても構わなかった。それを松平定信はひっくり返し、入港禁止の対象を異国船一般に拡張した。ただし、今までつき合いのある朝鮮、琉球、唐船、オランダ船だけは例外だと。

ですから、幕末に議論された鎖国は、外国船の来航禁止ということで、日本人の出入国の問題は誰も議論していない。そういう意味で、定信は19世紀前半の日本人の対外関係の議論の枠をつくった。

そして開国についてはしばしば、日本は少しずつ開国に向かって変化して、ペリーが来たことでパッと開いたととられがちですが、実は逆で、18世紀末の定信の時から、どんどん外交政策をタイトにしていっています。文政8年(1825)の異国船打払令とか、ペリーが来る直前に、アヘン戦争の時に一旦やめた打払令をもう一度出そうかという議論をやるぐらい狭くしていっていた。それをペリーが来た時に逆転させ始める。そこに無理があったから幕府は壊れたといえるでしょう。

ヨーロッパで何が起こっているか関心が高かった幕府中枢

編集部幕府は外国に門戸を閉じていても、知的な関心は高かったようですね。

岩下江戸時代の海外情報の第一は長崎に来航するオランダ船から提出される「阿蘭陀風説書」です。オランダ通詞が翻訳し、長崎奉行を通じて幕閣にもたらされた。もう一つ、中国船からの「唐風説書」もあり、それらを通して海外情報を得ていた。しかしこれらは老中や老中から特に許された役人しか見ることが許されなかった。

三谷日本は政策上は国を閉じていきながら、好奇心はどんどん増して情報をたくさん集める。そして非常に正確に海外情勢の分析をやっています。例えば、ナポレオン戦争が起きていることを、オランダは日本側に全然伝えてないんですが、日本側はそれを察知している。

岩下一番それを知ろうとしたのは仙台藩医の大槻玄沢で、文化元年(1804)にロシア使節のレザノフが長崎にきたときに連れてきた漂流民の津太夫らを尋問する。どうして漂流民がロシア船で連れてこられたのか。また、レザノフの前にラクスマンが日本に開国を要求してきますが、なぜロシアは日本に関心を持つのか。ヨーロッパで何か起こっているんじゃないかと漂流民をさらに尋問する。

そしてヨーロッパの社会変化が何に起因するのかを知るためにオランダ商館長のドゥーフに問い合わせるんですが、ドゥーフもちゃんとした情報を渡さず、玄沢もナポレオンまでは把握できなかった。

三谷ドゥーフは、レザノフの行為はロシア皇帝の命令であり、ロシアとイギリスが結託して日本に押し寄せるというでたらめまで言っているんですが、幕府はそのごまかしに乗らずに自分たちの分析を信じていたと思います。

オランダ船の名目でアメリカ船などもすでに長崎に入港

三谷『オランダ商館日記』のドゥーフが書いていた秘密の部分の翻訳が出た。長崎に入っていたオランダ船と称するものがアメリカ船だったり、雇いのハンブルク船だったりということはある程度の人は知っていた。ドゥーフは公式にはそれを隠していたのですが、全部筒抜けになっており、オランダ通詞が長崎奉行に告げ口し、長崎奉行は老中に告げ口している。ところが、オランダ船でないとわかると責任問題になるからみんな知らん顔をしていた。

岩下貿易を継続したいというみんなの利害が一致していたからです。長崎では箇所銀・竃銀の配分と言って、貿易の利益を各戸に配分するお金があって、それで長崎の人たちは夏を乗り切っていた。奉行も当然貿易からの上がりを吸い上げているし、老中・勘定所の中にも長崎掛の役人がいて、ずっとつながっている。だから貿易を継続するためには見て見ぬふりをしなくてはいけない部分があった。

西欧の世界制覇の動きが及ぶことを予測

アヘン戦争

アヘン戦争
(財)東洋文庫蔵

三谷19世紀の前半、特に定信以降、将来、西洋諸国の世界制覇の運動が日本に及ぶだろうという見通しは幕府の首脳や、その周辺の知識人には共有されていたと思います。これはいつ深刻になるかわからないというタイプの危機です。そうすると普通の人は、くよくよしないで今を楽しく生きようと考えますが、そうでない人もいます。

その典型的な例が水戸・徳川家の徳川斉昭や会沢正志斎、藤田東湖という人たちです。彼らの攘夷論は、わざと西洋と戦争を起こし日本人全体を戦場の中にたたき込んで、性根を鍛え直そうというもので、ものすごく過激なんです。

異国船打払令を1825年に出しますが、これは決して日本が好戦的になったのではなくて、どんな手荒な措置を外国船にやっても戦争にはならないという確信のもとに行われたことだと思うんです。ところが、1840年にアヘン戦争が起きた。たった15年です。幕府の役人が、ロシアとの戦争は起きるはずがないと判断したのは、それまでの経験から言うと極めて合理的でした。ところがこの時、水戸の突飛な考えをしている人の予想が、むしろ当たってしまうというどんでん返しが起きる。それで彼らはスターになっていくわけです。

嘉永5年の別段風説書でペリーの来航を把握

編集部アメリカが日本に来るのを、幕府は知っていたんですか。

岩下幕府は1年前の嘉永5年の阿蘭陀別段風説書によって、翌年の春以降にアメリカの蒸気軍艦がペリーに率いられて江戸湾にやって来ること、軍艦派遣の目的は通商要求にあること、上陸して城を攻める軍隊を連れていることなどを把握していた。

その前にアヘン戦争情報という形で南京条約の内容が幕府に提示されたり、弘化元年(1844)にオランダの軍艦パレンバン号が国王ウイレム2世の開国勧告の国書を携えて長崎に来航し、 西洋諸国のアジア進出などの状況とアヘン戦争での清の敗北を強調しながら、鎖国体制の変革を促している。

さらに、アメリカ議会で北太平洋で操業する捕鯨船主らのロビー活動によって、日本を開国しろという議論が沸騰しているというのが嘉永3年(1850)の別段風説書でわかっています。

別段風説書は阿蘭陀風説書のスペシャルニュース

徳川慶勝「阿蘭陀機密風説書」

徳川慶勝「阿蘭陀機密風説書」
徳川林政史研究所蔵

編集部別段風説書というのは、阿蘭陀風説書とどう違うんですか。

岩下阿蘭陀風説書の別仕立て、スペシャルニュースということです。通常の阿蘭陀風説書は、多くて十か条ぐらいのニュースで、オランダの拠点であるジャワのバタビアから長崎まで、ポルトガル船を見たとか見ないとか、大したことのない情報を載せています。

それとは別に、アヘン戦争などは幕府にとって大変重要な情報で、量も多いので、そのため別仕立てで百条ぐらいの別段風説書が幕府に出された。それ以前も、オランダ商館は幕府への忠誠として情報を提供していて、レザノフの来航予告情報も、別段風説書に当てはまるのではないかと言われています。

三谷多分、ドゥーフがいろいろ隠していたことがばれて、オランダは幕府に相当きついことを言われた。そこで商館長が代わったときに、その名誉挽回のためにオランダ側から始めたのではないかと僕は思っているんですが。

編集部今度の展示にも風説書がでますね。

嶋村はい。ペリー来航時に老中だった阿部正弘の子孫に伝わっていたもので、阿蘭陀別段風説書の嘉永3年、4年、5年という、ちょうどペリーが来る前の風説書です。現在は古文書類は当館が所蔵しています。

ペリー来航の情報を阿部正弘が海防役の大名に伝達

編集部長州の浪人だった吉田松陰は、アメリカ船が浦賀に来ることを知っていたそうですね。

岩下吉田松陰はペリー艦隊を目の当たりにして、アメリカ船が来ることは半年前からわかっていたので、非常に悔しい、と手紙を書いています。恐らく浦賀奉行所のなかで噂されていたことを、そこに出張していた与力の小笠原甫三郎から佐久間象山が聞いて、象山から松陰も聞いていたのでないか。大もとの出所は老中の阿部正弘になるわけです。

三谷阿部がそういうところへ漏らすことは絶対ないと思う。阿部は海防役の大名にはちゃんと伝えていますが、吉田松陰らへ漏れたのは長崎通詞からだと思う。

岩下阿部正弘は、今、三谷先生が言われたように、長崎と琉球の警備を担当している外様大名の薩摩藩主島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正、福岡藩主黒田長溥に風説書のペリー来航予告情報の部分だけを提供しています。正確には嘉永5年の11月末です。

また阿部は、年末には、御三家、江戸湾防備の四大名、浦賀奉行には情報を伝達しています。

嶋村今回の展覧会に出ます島津家文書(国宝)の中で言うと、長崎から得ている情報が3通あり、阿部からもらったものも1通あります。

外様大名の黒田長溥は海軍建設の建白書を幕府に提出

岩下風説書を受け取った長崎防備担当の黒田は、焦って、嘉永5年12月に走り書きの対外建白書「阿風説」を提出する。

三谷黒田の幕政批判が、ペリーが来る前に堂々と行われているのを見たときには仰天しました。これは岩下さんが発見されたんです。

岩下黒田は、結局このままでは戦争が起きたら犬死にするしかないと。じゃ、どうするか。例えばアメリカ帰りの中浜万次郎を呼び、海軍をつくったらどうだろうかなどと建白している。

しかし、建白書の中には幕府の役人を批判するような文言がかなりあるので、結局それは無視された。その黒田の上書が残っていたのは尾張の徳川慶勝の所なんです。

徳川斉昭、徳川慶勝や島津斉彬も黒田の上書がどうなるのか相当心配していて、ある程度応援したようなところがある。それに対して勘定所の役人たちが、外様大名や御三家が幕政に口出しするのをきらって、建白書を無視した。

三谷前だったら、おとがめをこうむるところを、おとがめなしで幕府側が黙っていたのは、相当こたえたんだと思いますね。

黒田の批判の一番のポイントは、もうペリーが来ることはわかっているんだから、今から海防をちゃんとやって、相手の通商要求を断る準備をしなさいと。

ただ、そう言われても責任を負う立場からすると、やはりそこまでは踏み切れない。ペリーが来ると言っていても来ない可能性だってあり、実際にイギリスの使節はそうだったのだから、幕府側が無策だったとは必ずしも言い切れない。

「泰平のねむり……」の落首は明治になってから

編集部よく、「泰平のねむりをさます蒸気船」と言われていますが、来航の情報を幕府はすでにつかんでいたわけですね。

岩下斎藤月岑の『武江年表』の嘉永6年6月3日条に「泰平のねむりをさますじやうきせんたつた四はいで夜も寝られず」と出てきます。ただ、この部分ができ上がったのは明治10年なんです。ペリー来航のことが書いてありながら、同じ日付の部分に安政の五カ国条約とか後のことまで書いてある。

ですから、この落首は、明治10年代ぐらいまでにはさかのぼれるけれども、それ以上はさかのぼれないんです。

三谷『側面観幕末史』には別の狂歌が入っています。例えば「毛唐人呼の茶にした蒸氣船(正喜撰)たつた四はひで夜もねられず」と書いてある。「泰平のねむり」というのは、明らかに江戸時代の人は眠っていたと見ているわけで、これは後の人しか言えないことです。

中国航路のために補給基地がほしかったアメリカ

三谷アメリカの来航の事情ですが、実は、これを研究した日本人は今まで一人もいない。だから、これについて我々が知る手がかりは、アメリカ海軍史の大家モリソンが書いたものの翻訳が2種類。それと今から10年ぐらい前のピーター・ワイリー著『Yankees in the land of the gods』の翻訳(『黒船が見た幕末日本』TBSブリタニカ刊)、この2つぐらいしかないんです。

最初に嶋村さんが言われたように、大統領の国書が求めてきたのは、書かれた順では、第一番目が通商問題、二番目に石炭補給のための開港の問題、三番目に漂流民を手厚く保護してほしいという問題です。しかし、ワイリーらの本を見ると、通商よりも港を開くことが重要だった。

中国との間に蒸気船航路を開設するのに、水と石炭を積んでアメリカ大陸から中国まで行くと、それだけで一杯になり、積み荷は積めない。ですから、石炭や水を補給するための寄港地がほしいわけです。日本には石炭も出るそうだし、と。

先走りすると、ペリーはあれほど脅しに成功したわけですから、通商をもぎ取るのは簡単だったはずだし、日本側も通商は覚悟していたのに、彼らは要求しなかった。どちらもお互いの思惑は全然知らなくて、実は同じことを考えていたんです。

中国のお茶や陶磁器の輸入が目的

「亜墨利加船渡来横浜之真図」

「亜墨利加船渡来横浜之真図」

三谷もう一つ大事なポイントは、アヘン戦争によって欧米の国々が東アジアに関心を持つようになった。

それまでは、中国とお茶の貿易をやっている程度だったのが、中国の港をいくつか開いて、香港を手に入れて、通商の拠点と軍事的拠点をつくった。それで腰を据えて、そこからどんどん次の関係を北太平洋につくっていこうと。そういう変化が起きたというのはかなり決定的ですね。一度、イギリスがそれを開くとあとのヨーロッパの国が群がり寄ってきた。

もう一つは、蒸気船の問題があります。帆船の方がスピードは速いし、積載能力もあるけれど、蒸気船のよさは向かい風でも走れるということです。

そのときイギリスとアメリカは、中国との関係で蒸気郵船、メールのスピード競争をやっていた。ちょっとでも速いほうが商売に勝つ。

ちょっと話を先に飛ばしますと、蒸気船が導入されたことで時間距離が縮まり、このことが日本が世界に巻き込まれてしまう大きな要因になった。

よくものの本には、イギリスで産業革命が起きて、工業力が増して、製品の売り場に困り、それらを無理やり押しつけるために日本をこじあけたという説がありますが、これは逆なんです。

実は、中国からはお茶、陶磁器を買いたい。ですから、西洋から見た輸入の問題であって、中国市場に工業製品を売り込むことは考えてない。後のハリスも、日本市場から買うことばかり日記に書いています。条約を見てもそうです。

ですから、産業革命の中の繊維産業の観点からはペリーの行動は説明できない。産業革命との関連では蒸気船という技術革新のほうに決定的な意味があった。

太平洋横断航路もペリーの立案

岩下ペリーは郵船総監として、平時には郵船の配置などを決める役職についていたことがありました。それが、有事には海軍になる。

三谷太平洋横断航路もペリーの立案なんです。郵船というのは太平洋だけじゃなく、一番のメインルートはヨーロッパと北アメリカの間です。ペリーはこれら全部の中心にいた。

それで、海軍の軍人ですから、戦時には軍艦として使えるような船をつくって、平時にはそれを郵船として使う。

当時のアメリカはゴールドラッシュで大もうけをしていたので、その金を専ら郵船につぎ込んでいた。

それをやっていたところ、中国航路を開設しようと別の人が言い出し、ペリーに立案を頼んだんです。彼は日本に来る気は全然なかったんですが、行くはずだった人が、途中でだめになったので自分で行くことになった。

交渉に使われた言葉は漢文とオランダ語

編集部ペリーが浦賀に来て交渉するときの言葉の問題がありましたね。

嶋村幕府の西洋言語はオランダ語で、ペリー艦隊が来たとき、オランダ通詞の堀達之助と与力の中島三郎助が一緒に船に乗りこむ。当時日本人は、外交言語は漢文を中心としていたので、2回目の来航では羅森という中国人も通訳官として来る。

それで双方がわかりあえた言葉はオランダ語と漢文だった。日本語→オランダ語→英語にして、英語→オランダ語→日本語にする。あるいは日本語→漢文→英語ということで、非常に複雑な通訳をしているので誤解も生じたと思います。

三谷ペリー艦隊には、ウェルズ・ウィリアムズという中国に滞在し、ある程度、日本語ができた宣教師がいたけれど、番船で日本の役人が近づいてきたときに、日本語で話そうとして通じなかったので、すぐあきらめた。そうすると、オランダ語を交渉言語にせざるを得ない。日本のオランダ通詞は非常に上手だったので、オランダ語で通したんじゃないですか。

オランダ語版と漢文版で内容が違う日米和親条約

三谷それで、これは翌年にペリーが2度目に来たときですが、日米和親条約を結ぶ前日に大問題が起きます。

横浜で日本側の交渉の主役となったのは、役人ではなくて通訳の森山栄之助ですが、ペリー側とやりあっているうちにだんだん譲歩して、アメリカ領事を下田に駐在させることまで認めてしまった。それが宿舎に帰ってから大問題になり、日本側は、それをどうやって断ろうかということになった。

背景をちょっと説明しますと、アメリカ領事を下田に駐在させるということは、アメリカと国交ができたことになる。当時、幕府は、アメリカ船の一時寄港は認めるが、国交や貿易は取り決めないという方針をとっていたので、それは認められないわけです。

それで、森山が譲歩した駐在をどうやってひっくり返すかを林大学頭をはじめ全権団は考えたんです。どうしたかというと、3月3日の調印の前日、平山敬忠という役人が別の通訳を連れて日本側がつくった漢文版の条約を持って行った。その内容はオランダ語版とは書きかえてあった。

日本側は漢文版を正文として幕府に提出

三谷オランダ語で交渉していたときは、駐在の条件として、双方の国のいずれか一方が望んだときに置けると書いてあった。ですからアメリカが望んだら置ける。ところが漢文版のほうは、両国が同意したら置けると書いてある。日本側がノーと言えば置けない。そういうふうに書きかえたんです。

このときはウィリアムズが中心になって漢文をチェックしましたが、そういうペテンに気がつかず、これでいいと言ってしまった。それで翌日には内容の違う二つの条約が調印されてしまった。

日本側はあくまでも漢文版が正文であると。林大学頭は漢文を正文として、その日本語訳を添えて、これが条約ですよと幕府に提出した。老中のほうもさるもので、漢文版とオランダ語版と両方の日本語訳を集めて比較検討した。その過程で、オランダ語版の日本語訳と、漢文版の日本語訳が食い違っていることがわかったんです。

そこで3月末、これから漢文は交渉に使うなという達しが出ています。そして、その後の彼らの態度を見ると、一貫して漢文版が正文であると言い張ろうとしている。しかし、実際は漢文版がにせものだと知っているから、交渉については、これからはオランダ語だけでやれ、と命じたのです。

ペリーの「白旗書簡」をめぐる論争

編集部ペリーが浦賀にきたときに日本側に渡したとされる「白旗書簡」問題が、今、論争になっていますね。

岩下事実関係を申しますと、松本健一氏の著作『白旗伝説』などをもとに、『新しい歴史教科書』がコラム「ペリーが渡した白旗」を掲載しました。それにはペリーが降伏用に白旗二本を幕府に渡して、それに、「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になれば必勝するのはアメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しよう」との手紙が添えられていた、と書かれている。これらも含めて、21の研究団体が教科書の記述が間違っていると異議を唱えたのです。

三谷『白旗伝説』を支えている史料(『大日本古文書』の「幕末外国関係文書」一一九文書)は、にせものだとはっきり言えると思います。その中に、アメリカ船が寄越した文書の中に「皇朝古体文辞」で書かれたものがあるとありますが、恐らく日本列島の外に、当時、立派な古典日本文が書ける人はいなかった。こういう史料はありえません。

それから、この史料はあちこちから発見されると宮地正人さんは書かれていますが、政権の中枢にいた阿部正弘や徳川斉昭のもとからは出てこない。これが宮地さんが偽文書であると主張された論点で一番大事な部分です。

ウィリアムズの日記には「白旗があがるまでは訪問休止」と

三谷もう一つ、宮地さんが指摘されていることで、ペリー側の船が測量するときに白旗を掲げたということは、いろんな史料に出てくる。これは要するに争う意思はないという表現として白旗を使っている。だけど降伏の印として使えとは言ってないんです。争う意思がないということと降伏の印とは全然違うんですね。

徳川斉昭の『海防愚存』に「此度渡来のアメリカ夷、重き御禁制を心得ながら、浦賀へ乗入、和睦合図の白旗差出し……」とあります。戦争をする意思はないという表現です。斉昭は怒っていますが、それは、そもそも日本当局に交際を申し込んだのがけしからんということで、降伏の印として出せということが日本への侮辱であるとは書いてない。ペリー自身が日記に書いているように、外交は砲艦外交に違いありませんが、その証拠に白旗を持ち出すのは誤りです。

岩下もっとも軽い不快として白旗が『海防愚存』に最初に出てくる。

ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』の嘉永6年の6月4日には、「彼らには、白旗がどういう意味のものかがはっきり教えられ、朝、白旗があがるまでは訪問休止であると伝えられた」とあります。

この時、白旗がどういう意味をもつのか、はっきり教えられたのです。ここでは、多分3つあると思うんです。いわゆる降伏の合図としての白旗、それから使者・軍使としての白旗。けれどここで言う白旗は、アメリカ側の意図としては、白旗が揚がったら訪問していい。そういう意味なんだということを教えただけだと思うんです。つまりペリーが教えた白旗は、この時かぎりのごく特殊なものだった可能性があるのです。なぜそれが大問題になるのかは、充分な説明が必要になるので、県博セミナー(5月17日)でお話しします。

大名間のネットワークがわかる絵巻などを展示

谷文晁「公余探勝図 武州神奈川一」

谷文晁「公余探勝図 武州神奈川一」
東京国立博物館蔵

編集部今回の博物館での展覧会の主な資料をご紹介いただきたいと思います。

嶋村この展覧会も松平定信に関する資料からスタートします。一つは、松平定信が、前年にラクスマンが来航し、初めての海防掛ということで防備関係の役職につき、江戸湾の海防の実態調査に乗り出すんです。そのときに谷文晁という絵師を同行させます。

谷文晁が描いた「公余探勝図」は美術的にも非常に評価が高くて、現在は東京国立博物館が所蔵していて重要文化財になっています。今まで美術史のほうでは風景画として評価されていますが、歴史家は余り着目せず、谷文晁については余り研究されていません。この展覧会で出品した絵画で一つのキーワードとなるのが谷文晁と、それに続く門下の高川文筌です。

谷文晁が描いた絵は、神奈川から三浦半島を通り、そして房総半島に渡る一連の風景画ですが、それは調査の実態を記録しているわけです。

もう一つ、谷文晁が宝船に模した絵を描いていて、それに常に、外国船に対して危機感を持たねばならないという定信の歌が入っている。これを通して、どんな時でも外敵を忘れてはならないということを庶民へ広めようとしていたのです。そういう状況が刷り物として残っています。今回の調査で、その版木が長野の松代の真田宝物館から出てきました。

谷文晁の弟子高川文筌や鍬形蕙斎らが黒船来航を描く

黒船見物の人々(「黒船来航風俗絵巻」)

黒船見物の人々(「黒船来航風俗絵巻」)
埼玉県立博物館蔵

嶋村谷文晁の弟子である高川文筌がペリー関係のものを非常に多く残しています。それがわかるのが早稲田大学が所蔵している、大槻玄沢の次男である仙台藩の大槻磐溪がつくらせた「金海奇観」という絵巻です。それからもう一人、津山藩のお抱え絵師だった鍬形赤子(蕙斎)も。

文筌の絵は阿部家にも残っていますし、絵のほうから見ても大名間でのネットワークがわかる資料です。高川文筌が描いた絵は、ほかに2回目の来航時の宮中でのパーティーの様子や、幕府がアメリカの使節団を呼び寄せて饗応する絵もあります。

編集部「黒船来航絵巻」と称されるものは数としては何十種類もありますね。

嶋村はい。全く同じことが描かれている絵巻は一つとしてないんです。つまり、何場面かをいろいろなバージョンでつなぎ合わせてつくられています。

東京大学史料編纂所が所蔵している「米国使節ペリー渡来絵図写生帖」には高川文筌や鍬形蕙斎の下絵がいろんな形で写されています。

恐らくそういった写生帖みたいなものを、いろんな絵師が自分で複写して、さらに絵巻に仕上げていった。

編集部ペリーの『日本遠征記』には日本人の絵師が黒船のそばに来てスケッチをしていると書かれていますね。

嶋村当時の横浜付近は真田藩の佐久間象山が警備に来ています。それからこれは記録として残っていますが、岡山津山藩の下屋敷が高輪にあり、まず第1回目のペリー来航が報知されると、津山藩は相州を警備していた彦根藩と川越藩に、異国船の状況を教えてくれとお願いをする。そうすると、川越藩のほうから逐一情報が入ってきて、江戸日記と呼ばれる下屋敷の日記に記録されています。

そういった情報を得ると、今度は下屋敷にいた箕作秋坪を実際に浦賀に派遣した。秋坪と同行した絵師は小舟に乗って黒船に非常に接近して描いたようですね。

三谷津山藩は、川越藩と同じく越前松平の分家なんです。この姻戚関係が背景にある。

それから、箕作家というのは大事で、秋坪の舅の箕作阮甫という人は、後に蕃書調所(幕府が洋学教授や洋書・外交文書の翻訳などのために設けた機関)の中心人物になりますが、当時、日本で一番蘭学ができた人です。つまり当時の日本で最も優秀な蘭学者グループの一員が、黒船のそばまで行っているということです。

献上品として横浜で陸揚げされた電信機などを展示

幕府への贈り物(ペリー提督『日本遠征記』)

幕府への贈り物(ペリー提督『日本遠征記』)

編集部それからペリーの献上品は横浜で陸揚げされていますね。

嶋村いろんな物を持ってきています。ペリーの『日本遠征記』の中にその絵があります。蒸気車の4分の1の模型も持ってきていますが、これは現存していません。

逓信総合博物館が所蔵しているエンボッシング・モールス電信機は、平成9年に重要文化財になりました。それから電信機が入れてあった箱にフォア・エンペラーという銘板がついていて、それ自体も重要文化財で、5月5日まで展示しました。

庶民も持ち始めた異国への関心

編集部ペリー来航は日本にとってどのような意味があったのでしょうか。

三谷明治維新の発端はペリー来航だというのは多分誰も疑わないと思う。それがどういうウエイトを持っていたかというのは、かなり議論できると思うんですが。

岩下ペリー来航以前から国学和歌、漢詩でも地方と中央との情報の交流はあったわけですが、黒船とかペリーの天狗顔とかの情報は桁違いに多く、異国世界の情報に多くの人が関心を持ち、それに対して幕府はどうするんだろうか、日本はどうなるんだろうかと、多くの人たちが考えるようになったのではないでしょうか。

三谷それは大事なポイントですね。それまでは、ごく一部の幕府の役人と、ごく一部の知識人だけが、ものすごく気にして悩んでいた。ペリーの来航をきっかけに庶民に至るまで気にするようになった。一方では政府の側が変わり始める。それまで「鎖国」をだんだん強めていたのを逆転させる。そういう点では大きなインパクトがあった。

岩下吉田松陰なんかは日本の武士が褌を締め直すのはこの時期しかないということを言ってます。

三谷特に攘夷論の人たちは、こういう機会を待っていて、わざと西洋と戦争を起こしたいと言っていたぐらいですから。

岩下それで徳川慶喜を擁立しようとする一橋派がだんだん形成されてくるような気がします。幕府にどんどん働きかけていく。そして一橋派が非常に先鋭化していき、安政の大獄に至る始まりの一つでもあるかなと思います。

いろんなタイプの政策パッケージが全部そろっていた

三谷ちょっとさかのぼって、ごく少数の役人と知識人の世界だけについて言うと、もう十分に準備ができ過ぎるほどできていた。一方では極端な攘夷論を使って体制の改革をやろうという人たちもいたけれど、他方では相手側の圧力が強ければ譲歩して貿易をやってもいいという人もいた。また、西洋の到来を機会に積極的に貿易をやり、それで得た利益を使って海防をやって、西洋に支配されないようにしようという人もいた。

そういういろんなタイプの政策パッケージは既に一そろい全部あったんです。それをつくったのは18世紀末から50年以上の経験だった。当時の幕府の役人たちはものすごく真剣に考えていて、考えたんだけれども、ペリーが来る前は、抜本的な対策はできないと言っている。長い時間をかけた蓄積は、ペリー以後に生きてくるんです。

編集部どうもありがとうございました。

三谷 博 (みたに ひろし)

1950年広島県生れ。
著書『明治維新とナショナリズム』山川出版社 6,605円+税、『19世紀日本の歴史』(共著)NHK出版 2,200円+税、ほか。

岩下哲典 (いわした てつのり)

1962年長野県生れ。
著書『幕末日本の情報活動』雄山閣出版 11,000円+税、『江戸のナポレオン伝説』中公新書 700円+税、ほか。

嶋村元宏 (しまむら もとひろ)

1965年埼玉県生れ。

※「有鄰」426号本紙では1~3ページに掲載されています。

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