Web版 有鄰

426平成15年5月10日発行

横浜大空襲の頃
鎮静的な空想力について – 特集2

赤塚行雄

横浜中心部のあちこちで火の手があがる

横浜市の中心部

横浜市の中心部

死体累々とした横浜の中心部、とりわけ、真金町(南区)、日ノ出町(中区)辺りと、私が住んでいた横浜の辺境、神奈川区の斎藤分町辺りとでは、その惨状は比較にもならないだろう。後年、私の妻となる藤田勢津子は、中心部にいた。

まだ、9歳で、山梨県鰍沢町に疎開していたが、ちょうど祖母につれられて、所用で家に帰ってきた時、横浜大空襲にあってしまう。

1945年5月29日午前9時。B29爆撃機500機、P51戦闘機100機の大編隊が横浜上空を覆う。凄まじい爆音、不気味なザザーッという音をたてて雨のごとくにふりそそぐ焼夷弾、たちまち空は昏くなり、あちこちに火の手があがる。

彼女の家は、中区末吉町にあり、前を大岡川が流れている。その川岸近くに防空壕があって、母や祖母と一緒に飛び込んだ。壕の奥には、彼女の兄が大切にしていた『泉鏡花全集』などが積まれていたが、次々に難を避けて飛び込んでくる通りがかりの大人たちに押され、彼女は本の上にへたりこんでしまう。「おばあちゃん。呼吸ができない!」と、勢津子はうったえる。日本は、ドイツのように公共用退避壕をつくっていなかった。それで、家庭用防空壕がぎゅうぎゅう詰めになってしまったのだ。しかし、やがて、まだ焼けていない三春台に向かって人々が駆けだして行ったので彼女は救われたのである。

けれども、三春台は、その後、火の手を上げて大変なことになる。巡回中の憲兵が、彼女の父親に、逆方向を指差して、駿河橋の方に逃ろというので、一家は駿河橋に向かった。そこから、防空団員の指示で商工実習(現・神奈川県立商工高校)に避難する。ここで、カンパンや高粱(コーリャン)入りのお握りの配給をうけた。

疎開先に戻ったあと家族を心配し失語症になった少女

後から駆けつけた父親や兄が、保土ヶ谷の別荘に行こうというので、一家はまた移動する。それは、彼女の伯父の別荘で、辺りは緑に囲まれ、こげ臭い匂いもなく、全く罹災していない。ひとまずはホッとするものの、彼女は、翌日は、疎開先に戻らねばならない。

いやいやながらも家族と別れ、祖母と一緒に、父親に送られて鰍沢に向かうが、横浜の現実から遠ざけられ、外的な意味感覚を失ってしまう。とりわけ、あの大空襲を体験した直後のことで、その後、家族はどうしているのだろうかと心配でならない。

外的な意味感覚を失うと、意志を操縦することができなくなり、精神的におかしくなってくる。幻覚や、憂慮や、主観的な感情が人間を窒息させる。

彼女は、いっとき、失語症になってしまう。何か喋ろうとしても、言葉がでてこないのである。

東白楽駅付近に投下された爆弾でふきとんだ家

炎上する横浜市内(1945年5月29日)

炎上する横浜市内(1945年5月29日)
横浜市史編集室提供

横浜大空襲以前にも、幾度となく空襲があった。最初は、私が小学6年生のころ。ドゥリットル隊のB25双発爆撃機が超低空で飛来してきた。座敷に寝ころがって『少年倶楽部』に読みふけっていたら、もの凄い爆音がして、家がガタガタゆれる。思わず窓からのぞくと、暗緑色の太い胴体の爆撃機が、家スレスレに飛び去るのがみえた。高射砲の硝煙が、小さな雲となってむなしく残っていたが、わが航空隊は虚をつかれて追尾することもできなかったのである。

横浜第二中学(現・神奈川県立翠嵐高校)の入学式の時、校長の斎田先生の訓辞があった。「本日より、私たちは、諸君を紳士として扱う。従って、諸君も自覚して、紳士らしく、抑制力のある行動をとって貰いたい」。

昨日までは半ズボンだったが、中学生になると長ズボンをはき、腕時計をつけ、万年筆を胸にさしたりしていた。そのころは、中学生になると大人として扱われていたから、こちらも無理しても、その気で行動しようとする。

神奈川区斎藤分町の私の家の近くに、善龍寺という寺院がある。そして、かつては、その向うに蓮池という綺麗な池があった。岸辺には葦がしげっており、ザリガニ釣りができるので、子供たちの格好の遊び場になっていた。

大空襲以前の3月末、横浜専門学校(現・神奈川大学)から、東白楽駅の方に向かって、何発か爆弾が投下され、蓮池の向こう側にあった家々が、ふきとばされたことがあった。大きな欅の木があって、赤い服や着物などが、いつまでも梢にひっかかっていた。死体も吹き飛ばされた。死傷者、約50名。不発弾もあり、縄をはり、防空団員が警戒に当たっていた。この空襲以後、焼夷弾の方が効果的ということになったらしい。

捜真女学校の礼拝堂の屋根の上で揺れていたB29の翼

捜真女学校(明治末~大正)

捜真女学校(明治末~大正)
横浜開港資料館蔵

横浜大空襲に向けて、空襲が、いよいよ頻々と続いた。ある日の朝、前夜、空襲があったけれど、私は、そんなことをすっかり忘れて、元気よく二中に向かっていた。雑木林が新緑にもえ、その向うに捜真女学校の風情ある礼拝堂が見えてきたが、何と礼拝堂の屋根の上で、折れたB29の翼が、キラキラとひかりながら軽やかに揺れている。

捜真女学校脇の小道は、三ッ沢へ向かう私の通学路であり、「神、天にしろしめし、総て世はこともなし」といった世の中ではなかったのに、何だか、神の気配を感じるような一瞬だった。神が、そっと大きな翼を支えているような印象だったのである。

アメリカ兵の死体から盗まれた編み上げ靴

小路を登り切ると草原があり、そこに皮のボンバー・ジャケットを着た大柄なアメリカ兵の死体が横たわっていた。両腕を頭の方にまわし、顔はみえなかったが、立派な編み上げ靴をはいた脚が投げ出されていた。今は、安らかに眠っているという印象だった。

苛酷な時代を生きる少年には、鎮静的な空想力、あるいは、救済的な空想力といったものが働いていた。

たとえば、井戸に落ちた子供は、母親を求めて泣き叫ぶが、そのうち母親がうたってくれた歌をうたいはじめる。外傷的な状況の中で、その場にいない保護者の代わりを務め、自分を救済しようとするのである。

誰も滅多なことには驚かなくなっていた。私がショックをうけたのは、その帰りだった。依然として、憲兵も警官も来ておらずに、放置されていたが、何者かが、アメリカ兵の編み上げ靴を盗んで持ち去り、靴下だけになっているのであった。棘のように魂に突き刺さって忘れ難いのは、むしろ、そういう、無惨さであった。

灯火管制のなかで行われていた補習授業

中学1年の1学期が終わったとき、二中では生徒たちの成績順位を個々人に教えた。私は60位だった。300名近い生徒のうちの60位だったから、まあ上位だなと思ったけれど、私の叔父から、「こんな成績では、到底、陸軍幼年学校に入れないな」と叱られた。この一番若い叔父は、大学生の頃から、時々、私の家に遊びに来ていて、私たちは「兄さん」と呼んでいた。そのころ彼は、豊橋の陸軍予備士官学校を卒え、将校になっていた。「俺は戦死して大尉だな」と言うのが口癖だったが、敗戦直前にレイテ奇襲落下傘部隊に参加して、その通りになった。

話が前後するけれど、叔父に言われたことが気になり、私は、竜山塾に通いだしていた。二中の先生が、夜、自宅で補習授業をしてくれていたのである。竜山先生は京大哲学科出の漢文の先生で、三ッ沢の林の中に住んでいた。灯火管制の時代だったから帰りは真っ暗で、月のない夜はこわいくらいだった。

先生は、大きな家庭菜園をつくっていて、勉強がすむと奥さんは、よく芋じるこを御馳走してくれた。情けない話だが、食糧事情が悪く、菜園荒らしが流行していた。また、男手のない家を廻って防空壕を掘ってやり、高額な手間賃を要求する事件などがあって、新聞種になっていた。

勤労動員の帰り機銃掃射が一直線に大地を切り裂く

これも大空襲より少し前、新子安の昭和電工に勤労動員されていた時、空襲があるというので、私たちは帰宅を命ぜられた。駅近くまで来たとき、海岸の方から低空で艦載機が飛来して、機銃掃射が一直線に大地を切り裂く。私は、さっと横に跳び、難を逃れた。四方、八方からやられたら命はなかったろう。

私の友人は、省線に乗っており、東神奈川で掃射を浴びていた。電車から飛び降り、近くの慶運寺の石塔のかげにかくれたという。この男は、福井経正といい、後に京橋の中央図書館長になるが、そのころ、「横浜の空襲を記録する会」に加わっているから、いろいろと詳しい。

「あれも横浜大空襲前のことだよ。ところで、君は竜山塾に通っていたって? 俺は、佐久間塾に通っていたんだ」

剣呑な時代だったが、ギリギリまで二中生たちは、結構、勉強していたものだと思う。

機銃掃射を浴びた日、東神奈川駅近くまで歩いて来ると、焼けた市電があり、その周囲に、5、6体の黒こげになった死体があった。天に向かって手足をのばしたり、腹ばって腰をあげたりしていたが、悲惨だと思う前に、「まるで現代彫塑のようだ」と思ったのは、どういうわけだろう。

今、尚、続くアフガンやイラクの苦痛を思うと、改めて市民をまきこむ「ゲルニカ」への怒りが燃え上がってくるのを押さえることができない。

赤塚行雄
赤塚行雄 (あかつか ゆきお)

1930年横浜生れ。評論家。中部大学名誉教授。著書『人文学のプロレゴーメナ』風媒社 1,800円+税、『マダム篠田の家』第三文明社 (品切)、ほか。

※「有鄰」426号本紙では4ページに掲載されています。

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