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424平成15年3月10日発行

[座談会]高座郡衙の発見と古代の相模

(財)かながわ考古学財団調査研究部調査第一課長/大上周三
平塚市博物館館長代理兼学芸員/明石 新
藤沢市教育委員会博物館準備担当学芸員/荒井秀規
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から明石新・大上周三・荒井秀規の各氏と篠﨑孝子

右から明石新・大上周三・荒井秀規の各氏と篠﨑孝子

※の写真は、かながわ考古学財団提供

はじめに

高座郡衙跡全景 左は神奈川県立茅ヶ崎北陵高校の校舎

高座郡衙跡全景 左は神奈川県立茅ヶ崎北陵高校の校舎※

篠﨑茅ヶ崎市にある神奈川県立茅ヶ崎北陵高校の建て替え工事をきっかけに、昨年、かながわ考古学財団によってグラウンド内の発掘調査が行なわれました。その結果、これまで所在のまったくわからなかった古代の高座(たかくら)郡の役所である郡衙(ぐんが)の跡が発見され、話題を呼んでいます。発見されたのは「正倉(しょうそう)」と呼ばれる倉庫や「郡庁」と推定される大型の建物跡で、神奈川県の古代史の上からもいろいろ重要な意味をもつ遺跡と考えられます。

神奈川県教育委員会は埋蔵文化財の保護を優先して校舎の建設を取り止め、遺構は現在は埋め戻されております。

本日は、郡衙と推定される遺構が発見された茅ヶ崎市下寺尾西方A遺跡の調査の概要についてご紹介いただき、さらに古代の神奈川についてもさまざまな角度からお話しいただきたいと存じます。

ご出席いただきました大上周三様は財団法人かながわ考古学財団調査研究部調査第一課長でいらっしゃいます。

明石新様は平塚市博物館館長代理兼学芸員でいらっしゃいます。平塚市の四之宮周辺遺跡の発掘調査などにも当たっていらっしゃいます。

荒井秀規様は、藤沢市教育委員会博物館準備担当学芸員で、古代史がご専門でいらっしゃいます。

茅ヶ崎市下寺尾で古代の役所跡が

篠﨑まず、遺跡の概要について紹介していただけますか。

大上発掘調査は、昨年の6月から12月まで、私ども、かながわ考古学財団で、茅ヶ崎北陵高校の校舎の建て替えということで行ないました。

下寺尾西方A遺跡は、旧石器から中世まで、いくつかの時代の遺跡が重なり合っている複合遺跡です。今回の調査で出てきたのは縄文時代前期の竪穴住居と、弥生時代中期後半の集落です。これは集落の周りが溝で囲まれている環濠集落と言われているものです。

それから、きょうの話の中心になる古代、とくに奈良時代の役所跡と、それに関連する施設です。

北側で検出された正倉(倉庫群)

北側で検出された正倉(倉庫群)※

役所跡は、調査したグラウンドの北のほうから正倉と呼んでいる倉庫跡と、南のほうからは郡衙の中心になる政務や儀式を行なう郡庁が出てきました。遺跡の所在地が古代の高座郡にあることから、高座郡衙の跡だろうと推定されます。

倉庫群と郡庁の間は、距離にすると90メートルぐらいありますが、その間には竪穴住居とか、掘立柱建物と言って、役所に関連した建物と推定されるものがかなり出てきています。

郡庁域では正殿という建物が一番中心になる施設ですが、その一部も出てきました。

郡庁の規模は全国で二番目の大きさ

南側で検出された郡庁

南側で検出された郡庁※

篠﨑郡庁というのは、郡役所のことですね。

大上はい。郡庁域は一般的に、「コ」とか「ロ」の字形をした建物の配置になっており、その中心に正殿が位置します。今回発見された正殿は、柱の間で数えると、五間×二間で、周りに庇が取りつく建物になると考えられています。

そして、その北側に後殿という桁行(けたゆき)八間×梁間(はりま)二間の細長い建物が出ています。また東側のほうにも脇殿という桁行六間以上×梁間二間の建物も見つかっていますが、遺構はさらに調査区域の外側に伸びています。

郡庁の規模は、推定で東西64メートルぐらい。これは全国的に見てもかなり大きな部類で、少し前のデータですが、全国で二番目ぐらいの大きさだろうと言われています。一番大きいのは鳥取県の万代寺遺跡の因幡国八上郡衙で、東西92メートルぐらいで、飛び抜けて大きい。

北側の正倉域からは、高床式の倉庫群が東西方向に4棟見つかっています。その倉庫群の南側には、桁行が十二間以上、梁行二間という非常に細長い大きな側柱式の掘立柱建物が見つかっており、合わせると5棟になり、それらが規則的に並んでいるということです。

郡庁・正倉も7世紀終わりから8世紀初め

遺跡全体図

遺跡全体図※

大上出てきた土器や竪穴住居との重複関係で考えますと、郡庁も正倉もほぼ同じ時期で、7世紀の終わりから8世紀の初めぐらいまでの、かなり短い期間しか機能していなかったということがわかってきています。

場所は茅ヶ崎市の一番北、寒川町と接している所で、台地の上になります。台地が西側に細長く伸びていて、それを取り巻くように小出川が流れているので、恐らくその川が利用されていたと思われます。また、南側には駒寄川が流れています。

明石高座丘陵という低い台地ですね。

大上郡庁と正倉の間の掘立柱の建物が規則的に並んでいる所は、宿泊施設としての館などの可能性があると言われています。最終的には、ここに掲載した「遺跡全体図」より調査が進んでおり、もう少し建物が出ていて規格的な配置をしていて、ここからは硯が出たりしています。

旧相模国では鎌倉郡衙に続く二例目の発見

篠﨑館というのは、お役人たちの住まいですか。

大上例えば国司が来たときに泊まる所とか、郡司という郡の長がそこで寝泊まりをしたのかもしれません。

篠﨑正殿とか正倉は、柱の穴からどんな建物がイメージできるんでしょうか。

大上正倉は高床ですね。正殿のほうは、低い床が敷いてある床敷か土間かですね。

篠﨑今回の調査に着手するまで、郡衙があると想定されてはいなかったんですか。

大上縄文時代の遺跡や弥生時代の竪穴住居などがあるのはわかっていましたが、ここから古代の役所、高座郡衙の跡が出てくるとは想定していなかった。神奈川県内では4例目、旧相模国では鎌倉郡衙に続く2例目の発見です。

旧石器時代の遺物も確認できるが放置された時代も

篠﨑この遺跡は旧石器時代から中世まで確認されているそうですが、例えば旧石器時代からはどういうものが出てきているんですか。

大上旧石器時代は1万3千年から3万5千年くらい前の時代です。今回の調査では旧石器は出ていないのですが、かつて出ているということで、旧石器時代の遺跡もあるということになっているんだと思います。

篠﨑そこに、ずっと人々が住み着いていたことも考えられますか。

大上旧石器時代から連綿と住んでいたというわけではなく、狩猟をしたり食べ物をとる場であったりとか、全く関わりのない場所であったかもしれません。

今のところ見つかっているのは、縄文前期の竪穴住居です。一口に縄文時代と言っても約1万年も続く長い時代です。それ以外の時期の遺構は見つかっていないので、この場所で生活したり、無住の地であったり、そういうことが繰り返されたと思います。

弥生時代の面からは大規模な環濠集落の遺構

環濠の断面(弥生時代中期)

環濠の断面(弥生時代中期)※

篠﨑弥生時代中期後半の面からは環濠集落が確認されたということですが。

大上周囲に溝を巡らせた大規模な集落です。この遺跡からは新旧の溝が2本見つかっています。部分的には集落が拡張されたと言われています。中からは28軒の竪穴住居跡が見つかってますが、その中に焼失住居と言って、焼けた痕跡のある住居が多く含まれているそうです。

また、それらの竪穴住居からは、中国大陸の影響を受けた抉入柱状片刃石斧という磨製石斧とか、大型の勾玉の未成品、鉄製の斧が2点出たりしているので、出土遺物からもかなり注目される遺跡になると思います。

濠の深さは1.5メートルぐらいあります。こういう周囲に溝を掘ったのは、集落を防御するためと言われています。

篠﨑横浜市の港北ニュータウンの大塚遺跡からは竪穴住居跡が90軒ほど出たそうですが。

明石大塚より大きいでしょう。綾瀬市の神崎遺跡という弥生後期前半、2世紀ごろの環濠集落が高座丘陵の中では一番よく知られています。けれども、西方A遺跡の時期は中期と古く、それも非常に大きな濠で囲まれたムラが発見されたということです。

壬生氏の一族が高座郡に大きな勢力をもつ

篠﨑今回発見された郡衙には、どのような氏族が関係したと考えられるのでしょうか。

荒井まず、高座郡の字ですが、江戸時代以降、今まで高座郡と書いていますが、当時は、「座」を「倉」と書いて「たかくら」と読んでいます。

高座郡の郡司は、壬生(みぶ)氏だろうと考えられます。郡司というのは郡の役人でいくつか階層がありますが、一番上の大領が壬生氏だと考えられています。

これは、平安時代の史料からさかのぼるやり方なんですが、『続日本後紀』に、承和8年(841)段階の高座郡司として壬生直(みぶのあたい)黒成という人物が出てきますので、まず当時、壬生氏が郡司だったことがわかります。

郡司の職は世襲制ですので代々、壬生氏が就任していたのではと思います。

同じころに相模川の西側の大住郡の大領にも壬生直広主がいるので、まとめて壬生氏という形で捉えていいのではないかなと思います。かなり大きな力を持っています。

律令制以前は、国造(くにのみやつこ)という官職名がありますが、これはヤマト王権から与えられた官職で、この国造も壬生氏であったと推定はされています。

4世紀にはすでに中央のヤマト王権と交流

篠﨑古代の相模を考えるとき、やはりヤマト王権と東国との関係が問題になりますね。

明石簡単に言いますと、古墳時代、平塚の真土大塚山古墳とか川崎の加瀬白山古墳から、畿内の古墳から出土したものと同じ鋳型で造られた三角縁神獣鏡という銅の鏡が見つかっていますから、4世紀にはすでに、この地方と中央との交流があったことが確認できます。

荒井それに、4世紀から6世紀代の反映になりますが、『古事記』とか『日本書紀』に有名なヤマトタケルの東征説話があります。

相武(さがむ)の小野という所で相武の国造がヤマトタケルを火攻めにしようとして返り討ちになったとか、三浦半島の走水で弟橘比売が入水するという話はよく知られていますが、こうした説話はいずれもヤマトの勢力に対する相模勢力の抵抗と屈服を物語っていると推定できます。

地方の豪族は、次第にヤマト王権の支配に組み込まれ、ヤマト王権はその地方を支配する長として、国造を任命します。国造に任命されたのが中央から派遣されたものか、服属した在地の土豪かはっきりしませんが、相模国では相武国造と師長国造が任命されています。

明石律令国家成立以前のことですね。相武の国造領域は相模川流域、師長の国造が酒匂川流域、あと鎌倉別(わけ)と、相模国には3つぐらいあったようです。

その後、相武の国造は、律令体制で高座郡と大住郡の2つに分かれる。平安時代、大住郡と高座郡の役人の長は壬生氏でいいんですね。

荒井はい。壬生氏です。

相武国造の本拠は伊勢原の比々多神社周辺

明石古墳時代後期、中央から、そうした郡司(評司)が任命されるまでの相武の国造の中心地としては、6世紀終わりから7世紀にかけては伊勢原に比々多神社があります。伊勢原の登尾山古墳や、らちめん古墳は彼らのお墓と考えられ、あまり大きくないんですが、副葬品として、金銅製の馬具や鏡、環頭大刀が出ています。一応そのあたりが相武の国造の本拠地と考えられるということなんです。

その後、相武の国造領域は分割されます。そこが問題になるんです。後に高座郡が置かれた領域も、最近、かながわ考古学財団が寒川の宮山中里で掘っていまして、古墳が出てくる。

そしてこの近くは横穴墓がたくさん出たりするから、そこも地域の豪族層がいるし、また、その北側の海老名とか綾瀬に行くと、その時期の古墳群がある。後で話します平塚、大住あたりも、それなりの勢力を持った者がいる。だから、いくつかの豪族がいたと思うんです。

荒井重層的になっていたと思います。一時期は伊勢原でしょうね。

明石領域が広いから、どの地域の勢力が一番手になるのか、二番手なのか、わかりませんが、そういった複雑な政権争いがあったんじゃないかと思います。

荒井大抵、1つの川の水系で一つの大きな勢力があります。相模川を中心に、両側に、1つの相武の国造という感じでいいと思います。

ただ、それが川の左右で、例えば国造や豪族の一族の範囲をどこまでとるかという問題もあるんです。また、拠点が動いていたり、あるいは古墳がつくられる墓域が動いていたりもしますが、広い意味で相模川流域で一つの勢力圏にとらえてもいいかと思います。そのなかで、一時期どこが一番強い、次はここが強いというのが出てくるんでしょう。さらに、中央にうまく取り入った勢力もあるだろうし拒否した勢力もある。

壬生氏の「壬生」は「乳部」とも書き、中央の氏族の子どもを育てる一族という意味でつけられた名前で、養育一族、養育氏族という言い方をします。名前から言えば中央につながった勢力です。

律令国家となり、相模国は8郡に分けられる

神奈川県域の古代の郡境と郡衙

神奈川県域の古代の郡境と郡衙

篠﨑中央では7世紀半ばになると、大化改新の詔(みことのり)によって全国を国や郡に分け、国司を地方に派遣する中央集権体制がつくられますね。

荒井律令体制がいつから始まったかということですが、教科書的には大化改新で、蘇我氏を倒して、それで律令制が始まったという形になっています。それは『日本書紀』に書いてあることを、そのまますべて信じるならばということなんです。

『日本書紀』は後から編纂されたもので、後の知識で史実を書き直しています。今の考え方は、蘇我氏を倒した、大化改新というほどのものではないにしろクーデターはあった。そこですぐ、蘇我氏が滅びたから、じゃ律令の政治を始めましょうというわけではない。大化改新の詔という有名なものも一つの基本方針を出しただけで、すぐにできるものではない。実際には、7世紀後半、天智朝から天武朝、持統朝のあたりでだんだん律令体制ができてきたと考えられています。

そのなかで、国造勢力も改編があって、まず、評の役人になります。そして8世紀はじめに大宝律令が制定され、地方制度として国・郡・里の3つの段階になります。この時に評が郡に変わるんです。ですから、急に郡になったわけではなく、国造の国が評になり、それから郡に変わっていく。役人のほうも、国造から評督とか評司という役職になり、それが郡司になる。実際には国司の推薦で中央が任命する形をとりますが。

高座郡は藤沢、茅ヶ崎、相模原などをふくむ広い地域

篠﨑郡の以前の行政単位が評ということですね。

荒井はい。相模の西部にあった足柄評は、郡としては足(柄)上郡と足(柄)下郡に分かれています。

明石江戸時代まで、相模国と武蔵国という行政区画がありますが、この呼び名は律令時代に端を発しています。今の川崎と、横浜の大部分は武蔵国。それ以外の所を相模国と言い、8つの領域に分ける。その分けた所を郡と言うんです。郡には郡衙が置かれて、郡の役人が住む。郡の広さはまちまちです。

大上相模国では高座郡が非常に広く、現在の藤沢、茅ヶ崎、相模原、大和、座間、海老名、綾瀬と寒川の7市1町が入っている。

郡衙を本拠地とは別の場所に置いた可能性も考えられる

篠﨑大化改新で何が変わったんですか。

荒井蘇我氏、物部氏、大伴氏とか、中央の豪族が個別にあちこちの地方と関係を持っていたのを廃して、中央集権国家をつくるというのが律令体制です。それ以前もある程度まとまりはあったけれども、全国的に通用する法律、すなわち律令で支配を広げていくわけです。

篠﨑当時、壬生氏が在地の役人の長として、この一帯を支配していたわけですが、壬生氏に関連する遺跡は周辺にあるんですか。

大上一般に郡衙を置く場合には、いくつかの考えがあるようなんです。1つは、豪族が拠点にしている場所に郡衙を置く場合。もう一つは国の政策もあるのでしょうが、本拠地ではない所に郡衙を置く場合。高座郡衙の場合、どういった理由で下寺尾に置かれたのかは、大きな問題になると思うんです。

ですから、その辺は前の古墳時代がどういう状況にあったかということで、下寺尾の付近に壬生氏の本拠地があったのか、それとも本拠地が別の所にあって郡衙が置かれたのかこれから考えていかなければいけないことです。

郡衙が短期間で移動した理由は不明

七堂伽監跡の碑(下寺尾寺院跡)

七堂伽監跡の碑(下寺尾寺院跡)

篠﨑郡衙が他所へ移転した理由には、どのようなことが考えられるのですか。

大上大きく移動する場合と、近辺に移動するのと、2つぐらい考え方があると思いますが、今のところ、どっちとも言えない。

茅ヶ崎北陵高校のグラウンドでは7世紀の終わりから8世紀初めまでしか郡衙は見つかっていませんが、なぜ短期間しか使われなかったか。これは一つは、高座郡は相模国の中でもかなり広いということがあります。

あとは人口。7世紀終わりから、8、9、10世紀まで同じ人口だったとはとても思えない。例えば人口の増加に影響されて、場所を大きく移すこともあるし、行政機関を北と南の2つに分けるということも、ほかではあるようです。

郡衙に付随する下寺尾寺院は9、10世紀まで存続

居村木簡

居村木簡
茅ヶ崎市教育委員会提供

大上それを考えるうえで1つのヒントになるものとして、郡衙跡の近くに下寺尾寺院跡があります。そこから礎石や瓦、灰釉(かいゆう)陶器の類が出土しています。これがつくられたのは7世紀後半か末ぐらいで、9、10世紀ぐらいまであったと言われています。

神奈川県内では寺院と郡衙がセットになっている場合があり、橘樹郡衙と推定される川崎市高津区の千年伊勢山台北遺跡と影向寺の関係もありますし、鎌倉郡衙跡の近くでもお寺の屋根に葺いたと思われる瓦が出土したと聞いています。下寺尾でもお寺がずっと継続していると考えると、郡衙はあまり大きくは動かないで、付近に建て替えられた可能性は高いんじゃないか。

それから、茅ヶ崎市居村B遺跡というのがありますが、そこで放生会という宗教行事が行なわれていて、そのことを書いた天平5年(733)の木簡が出ています。8世紀の前半ですから、あまり大きくは動いていないのかなという気もします。

放生は生き物を放すことによって功徳を得るということで、仏教信仰の広がりの中で全国的に行なわれ、特に天皇が病気になったときに、そうした功徳を積むと天皇が長生きをするといわれています。

大規模で整った配置――鎌倉郡衙や都筑郡衙をしのぐ

鎌倉郡衙の遺構(鎌倉市今小路西遺跡)

鎌倉郡衙の遺構(鎌倉市今小路西遺跡)
鎌倉市教育委員会提供

篠﨑十数年前に、鎌倉郡衙が鎌倉市御成の今小路西遺跡から発見され、それによって頼朝以前の鎌倉の歴史が大きく書きかえられましたが、今回の発見からはどんなことが言えるのでしょうか。

大上一つは郡庁域の規模が大きいということが重要だと思います。郡衙が高座郡のこの場所にあるのは、それなりの意味があるだろうと思います。

それに、郡庁がかなり整った配置をしているので、規模が大きいことも併せ考えると、相模国の中でもかなり重要な位置を占めていたのではないかと思います。

明石横浜市緑区の長者原遺跡で確認された都筑郡衙の郡庁域は約50メートル、今小路西遺跡が大体50メートルクラス。それに比べて高座郡衙は64メートルと非常に大きい。国庁にしてもおかしくない規模です。さらに、7世紀の終わりから8世紀初頭にしては非常に整いすぎています。正殿があって、北に後殿、東西に脇殿があるという構造のものがこの時期に出るということは、中央と直結するような建物構造をとっていたとも考えられます。

長者原遺跡(都筑郡衙)も今小路西遺跡(鎌倉郡衙)も大体同じ時期で、それで一番整っているのは高座郡衙なんです。その辺に、疑問を感じるんです。

地元の勢力ではなく中央の強い方針でつくられた可能性

明石もう1つ、7世紀末から8世紀初頭は、実はいろいろと問題を抱えています。

国府の件ですが、国司は中心部の政庁や国庁で実務をする前に、どこかの郡衙に住まなければいけない。それを荒井さんは国宰所と言われ、小田原市の下曾我遺跡を考えられていますが、相模の国庁がつくられる前に、そうした国司が郡庁の所をうまく間借りして、そこに住んでいたのかなと、私は想像するんです。そうすれば、立派な郡庁でもいいのかなと。

荒井正確には評衙なんです。その後、郡衙に変わる。

長者原遺跡(都筑郡衙)もそうですが、最初からいきなり公的につくるのではなく、地元の豪族の屋敷を改築するような形でつくられ、次の段階で正式なものにしていくという二段階を踏むんですが、高座郡衙は、いきなりちゃんとしたものをつくっているので、地元の勢力というより、中央の強い方針でつくられたものだと思います。今の明石さんの話は、心情的には国府が平塚へ移るという伏線になっているわけです。それも1つの考え方かなと思います。

明石考古学で出てくるのは、建物跡と遺物だけでしょう。ですから、それを歴史の一環として解釈を加えるにはなかなか難しいんです。

大上奈良文化財研究所の山中敏史先生に見てもらったのですが、郡庁域の正殿の柱穴は大きいと言われていましたので、この立派さは間違いないと思います。

国司より郡司のほうが強かった地元に対する影響力

篠﨑そうすると、国宰所ということでしょうか。

荒井全国的に国府は8世紀の第2四半期にならないと遺構が出てこないもので、それ以前は、国司は評衙や郡衙とかに併設された国宰所にいたんだろうと、大方の人が共通見解として持っていると思うんです。ただ、それが一定の場所にいたか、国内を移動していたかという問題はあります。

明石律令国家は農民から税金を取り立てるでしょう。税金を取るさいに、一番の実力者は地域の豪族です。彼らが郡司層になるんですね。ですから、ここに基本的に郡衙(評衙)を先につくっておいて、税を取るわけです。その後、郡衙を取り仕切る国の国府をつくるというほうがわかりやすいかなと思うんです。中央が最初に地元をきちっとつかまえる。それで中央から国司が派遣されて仲よく手を握ったりして、うまく1つの国をまとめ上げるということだろうと思うんです。だから、郡司に逆らわれたら国司は困る。逆らったかわりに首になるかもわかりませんけど。

荒井国司は任期制で替わりますが、郡司は終身職が原則で、しかも世襲しますから地元に対する影響力は当然、郡司のほうがはるかに大きいんですね。

篠﨑兵力みたいなものも持っていたんですか。

荒井もともと国造層は私兵みたいなものをもっていました。それが律令体制のなかで、兵士となり軍団の兵に転化されていく。

もともとは在地の豪族、つまり郡司の在地支配を基準にした間接支配、これが律令国家です。国司からいきなり人民に行かず、間に郡司が入るんです。

壬生氏の本拠地から離れた茅ヶ崎にあるのは中央の政策か

篠﨑10世紀に編纂された『和名類聚抄』に、高座郡の郷名が出てきますが、この遺跡はその郷名に当たるような場所だったんでしょうか。

大上郷というのはいくつかのムラが集まってできる行政単位で、高座郡には高座郷というのがあって、一般的に郡名と同じ郷名の所に郡衙がある。それを当てはめれば下寺尾西方A遺跡の所は高座郷という可能性もなくはない。けれども、海老名市の本郷遺跡とは限らなくても、海老名市の辺りに高座郷を比定するのが一般的な理解なんです。

もしそうであるならば、海老名市辺りに郡衙があってもいいのに、南の茅ヶ崎の下寺尾に郡衙があることは、1つの大きな問題になってくると思うんです。

壬生氏の本拠地は、伊勢原の比々多神社のほうだろうというお話がありましたが、幾つかの縁者、一族からなっているんでしょうから、相模川の東で壬生氏の1つの勢力があってもいいのかなと思っています。

仮に海老名市本郷の辺りが高座郷ということであれば、その辺りに壬生氏の本拠地があって、中央の政策的なもので茅ヶ崎のほうに郡衙が置かれたと、今のところ私は考えているんです。

郡衙が移転したのは交通網の変動に関係か

大上先ほども話に出ましたが、寒川町の宮山中里遺跡で、30メートルぐらいの前方後円墳が見つかっていまして、そこは距離的には下寺尾と海老名の本郷遺跡のちょうど中間になるんです。時期は6世紀後半から7世紀初めぐらいなので、その辺とのかかわりも、今後考えていかなければと思っています。

郡衙が茅ヶ崎のほうに位置しているのは、東海道が海岸寄りを走っているからで、多分それは流通とか中央の政策的なもので郡衙の場所が選ばれたと考えられないかなと思うんです。

明石そう思います。

荒井国分寺が海老名にあるというのが最大のポイントで、天平期ころには高座郡のなかでは、やはり海老名辺りが文化の中心なんです。

ただ、相模の場合、この遺跡の時期の問題とも絡んできますが、交通網からいうと、武蔵国は東海道ではなく、東山道です。ですから東海道は横浜、川崎のほうに行かないで三浦半島から房総半島に行くのが最初です。それが宝亀2年(771)に武蔵国が東海道となって、海老名から東京都の府中のほうへ上がっていくルートに変わるから、その時期に、相模国内の公的施設は配置替えがあるはずなんです。その時期とうまく合ってくれれば、郡衙が動いた理由は多分、交通網の変動、つけ替えで済むんですが。

相模国府の所在地は――平塚から大磯への転移は確実

鬼瓦(小田原市千代寺院跡)

鬼瓦(小田原市千代寺院跡)
小田原市・富田千春氏蔵

篠﨑最後に相模の国府をめぐって、神奈川の古代の様子を教えていただきたいのですが。一般的には、海老名市に国分寺跡があるので、その近くに最初の国府が置かれたのではないかと言われておりますね。

荒井国府が移動するのはほかにもあるのですが、相模の場合は特に問題が多いのです。ほかの国では、移動しても移動先は大体見当がついていますが、相模国で間違いないのは、まず平塚に一時期あって、その次に大磯に移ったことです。ところが、ほかの国では一般に国府は国分寺のそばにあるから、国分寺がある海老名に国府があったとするのは江戸時代から考えられていることです。

もう1つは、海老名の国分寺が完成する前の仮指定の国分寺が小田原の千代寺院跡だという考えです。この寺は7世紀末にさかのぼる可能性がある古い寺院で、武蔵の国分寺の鬼瓦と同じ型で製作された鬼瓦が出土しています。そうすると、必然的に国府は小田原だとする説が生れる。

ですから、順番でいくと、小田原→平塚→大磯と、海老名→平塚→大磯の2つと、あと、小田原と海老名は状況証拠だけですから、そうしたものを切り取った場合、国府の場所は平塚と大磯しか残らないという考え方があります。それが明石さんの考え方で、私も奈良時代の終わりは平塚でいいかなと思っています。

そこから先、どこまでさかのぼれるかというのは難しいところですが、国府とか郡衙は路で結ばれているのが一般的なので、今回、高座評(郡)衙が茅ヶ崎で発見されると、東海道が海岸線を通っていると考えられる点では、国府の位置は海老名説よりも平塚説にかなり有利なんです。ただその後、なくなっているのがまた次の問題ですが。

平塚市四之宮周辺を決定づける「国厨」の墨書土器

墨書土器「国厨」(平塚市稲荷前A遺跡)

墨書土器「国厨」(平塚市稲荷前A遺跡)
平塚市教育委員会提供

明石この問題は遠くて長い問題で、天保年間(1830年ごろ)に編纂された『新編相模国風土記稿』から出ています。昭和50年代以降、平塚市がかなり遺跡を調査して、いろいろな遺物が出ていますが、肝心の政庁が出ていないので平塚説も必ずしも100%ではない。私自身としては大住郡(平塚、伊勢原、厚木、秦野などを含んだ地域)に国府があったことはほぼ間違いないと思っています。

それで私は、現在の平塚市四之宮一帯に国府があり、それは8世紀前半までさかのぼるだろうと思っています。というのは、東海道が、平塚の海岸線から5キロぐらい行った所に、幅9メートルの道路が、最初の遺跡で43メートルぐらい、その後の調査で大体900メートルぐらいが、ほぼ東西に延びていることがわかりました。そして出土遺物から8世紀の中ごろにつくられたことがわかっています。

もう1つは、「国厨(くにのくりや)」という墨書のある土器が四之宮の稲荷前A遺跡から出土しています。相模国の台所を預かる所を意味する文字で、これが少なくとも8世紀後半です。小田原説も海老名説も、『日本三代実録』に載っている元慶2年(878)の地震で被害を受けたことを契機に平塚に移転したというものです。「国厨」の墨書の土器の年代と比較すると、約百年のギャップがある。そうすると、大きな2つの移転説の根拠はちょっと苦しいので、そういう意味では相模国府の位置は平塚でいいと思うんです。

大住郡衙の場所は高座郡衙と同じ東海道の要衝

明石あともう1つあります。高座郡衙が7世紀の終わりから8世紀初頭と言われましたね。平塚からは、その時期のもので、「大住厨」という墨書土器が出ています。それが8世紀の前半で、第2四半期ですから、その時期に大住郡の郡衙が成立していたと考えられ、そうしたものも今の国府の中に入ってくるだろうと。

もう1つは、平塚の天神前という遺跡ですが、そこからは7世紀の終わりから8世紀初頭の鍛冶工房跡が出ています。ですから、隣の高座郡衙の状況を見ると、大住郡衙も本来なら伊勢原のほうにあってもいいはずなのに東海道筋にあるということも、中央との意向が強いというふうに。

まず最初に大住郡衙を四之宮に持ってきて、そして高座郡衙のほうも茅ヶ崎の下寺尾に持ってきて、そこで基盤をつくって、その後、平塚のほうに要である国府を置いているんだと、私は思うんです。

交通ルートの変更に伴い、海老名に郡衙を移し国分寺創建か

篠﨑大住郡衙と相模の国府は同じ場所にあったと考えていいのですか。

明石という可能性が高いと思います。

荒井とにかく国分寺の問題だけなんです。平塚に国分寺があれば何でもないんですが。

明石国分寺と言われましたが、私も海老名周辺に最初、評衙というか郡衙があってもいいんですが、これもやはり東海道筋という所を考えれば一番近い所の下寺尾周辺に評衙を持ってきて、でき上がった後、海老名にもって行っていいんだろうと。

そうすると、問題になってくるのは、下寺尾寺院です。あれは残ってくる。それは例えば、下寺尾寺院跡を国府の出先機関と考えるか、郡衙の出先機関と考えるか、そこに郡が移っても、その地域に1つ公的な施設を残せばいいわけです。そして自分の本来の本貫地であった海老名周辺に郡衙をつくる。つくった後に国分寺をつくれば筋は通る。海老名に置かれているのは、立地条件からいうと、相模と武蔵を通るルート上で、確かにいい所にあるんです。そこで国分寺をつくればいいだろう。

篠﨑聖武天皇の詔によって全国に国分寺がつくられることになる天平13年(741)は、高座郡衙が下寺尾の場所からすでに移転した後ですからね。

荒井国分寺は基本的に、相模国のための寺じゃなく、律令国家のための寺として相模にある。天平期に天然痘とか藤原広嗣の乱とか、国内が乱れているので、それを鎮めるための国家の寺ということで、基本的には中国のまねです。相模のためのお寺は、下寺尾寺院とか、地元の豪族が建立した寺院ですね。

明石多分、壬生氏の一族が総力を挙げて国分寺をつくったと思うんです。その中心が高座の郡司でもいいと思うんですが、まだ、仮説ですから。

篠﨑どうもありがとうございました。

大上周三(おおうえ しゅうぞう)

1948年兵庫県生れ。

明石 新(あかし あらた)

1950年新潟県生れ。
共著『図説 平塚の歴史』郷土出版社(品切)、ほか。

荒井秀規(あらい ひでき)

1960年東京生れ。

※「有鄰」424号本紙では1~3ページに掲載されています。

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