Web版 有鄰

424平成15年3月10日発行

山の作家・深田久弥
不朽のロングセラー『日本百名山』 – 特集2

田澤拓也

今年は深田久弥の生誕100年

今年は「山の作家」として知られる深田久弥の生誕100年にあたる。

深田は明治36年(1903)3月11日、石川県の大聖寺町(現加賀市)に生まれた。ちょうど日露戦争のはじまる1年前のことである。生家は、この町で紙と文房具をあきなうかたわら印刷業をいとなんでいた。大聖寺は福井県との県境に近い。深田は旧制福井中学をへて上京し、旧制一高、さらに東京帝大文学部哲学科へと進学する。

大聖寺の町からは東の空に白山(最高峰の御前峰は標高2702メートル)を仰ぎ見ることができる。深田は、日夜、この名峰を仰ぎ見ながらそだった。山歩きをはじめるようになったのは、小学6年のとき大聖寺学生会の先輩たちに連れられ、郷里の富士写ヶ岳(標高942メートル)に登ったのがきっかけだった。このとき先輩たちから健脚をほめられて、以後、山歩きが病みつきになったという。中学1年生の夏休みには福井から大聖寺まで30キロの道のりを歩いて帰省したこともある。そして中3の夏休みには初めて白山の頂を踏みしめた。

旧制一高に進学すると、同校旅行部(山岳部のこと)に所属し、北アルプスや奥秩父の山々を本格的に歩きまわるようになる。まだ一般にはなじみのうすいスキーも、この時期に習いおぼえた。一方で文芸にも目覚め、一高文芸部委員として堀辰雄や高見順らと活動を共にしている。

東大に籍をおきながら改造社に入社

深田久弥(大峯山で、昭和32年5月下旬)

深田久弥(大峯山で、昭和32年5月下旬)
深田森太郎氏提供

昭和2年(1927)秋、東大2年生となっていた深田は、当時1冊1円の「円本」が大ブームを呼んでいた花形出版社・改造社の入社試験を受けて合格する。

大学に籍をおきながら同社で働きはじめた深田は、その直後、運命的な女性との出会いをはたす。折から募集中の同社の第1回懸賞小説の下読みを命じられ、その中に『津軽林檎』と題された作品を見つけだしたのだ。筆者は青森市に住む元代用教員で、脊椎カリエスをわずらって自宅療養中。深田と同じ24歳の北畠美代という女性だった。のちの作家・北畠八穂である。

北畠の作品は予選を通過し、選考委員の一人だった佐藤春夫にも評価されたが最終的に入賞を逸した。ところが彼女の作品に興味を抱いた深田は北畠に手紙を書き、はるか青森まで会いにいく。2人の遠距離恋愛がはじまり、やがて北畠が親の反対を押しきって上京し、2人の同棲生活がはじまった。

北畠八穂と二人三脚で次々に抒情的作品を発表

北畠と暮らしはじめた直後から、雑誌『改造』の編集部員である深田は、かたわら同人誌に『津軽の野づら』や『オロッコの娘』をはじめとする北国の若い女性を主人公とした抒情的な作品を次々と発表しはじめる。これらの作品で高い評価を得た深田は、筆一本で立とうとしたのか、昭和5年(1930)秋、東大を中退し、改造社も退社してしまう。

昭和7年(1932)秋、鎌倉に引越した深田は『改造』に『あすならう』という小説を発表している。この作品もまた好評で深田の出世作となったが、内容は、5年前、北畠が懸賞小説に応募した『津軽林檎』と酷似している。北畠の自筆原稿は、現在、青森県立図書館に保存されているが、深田の名前で発表された『あすならう』は北畠の原稿の津軽訛りを修正し、手ぎわよくリメイクしただけといって過言ではない。

実は、この『あすならう』だけでなく『オロッコの娘』や『鎌倉夫人』など、戦前の深田の小説の大半は、北畠の手によって第一稿が執筆されたと見られるのである。

こうした”二人三脚”は、当然、親しい友人たちの気づくところとなった。同じ鎌倉文士の一人で文芸評論家の小林秀雄は、新聞の文芸欄に深田の小説集を取りあげて「この作者一人の手つきではない」と指摘し、また川端康成は『東京朝日新聞』に『鎌倉夫人』の連載が決まったとき、深田邸を訪ね、北畠に新聞小説を書く心がまえを話し、北畠が「今度、(深田)当人に、そうおっしゃって下さいまし」と答えると、頭を振り、「あなたにそういっとけば」と微笑したという。

こうした二人三脚は、もし深田と北畠が生涯そいとげていれば、おそらく明るみに出ることはなかったかもしれない。2人は昭和15年(1940)3月にようやく入籍をしている。

中国から復員後北畠と別れ志げ子と再婚

ところが、その翌年5月、深田は”初恋の女性”と思いがけなく再会をはたす。その女性は、文芸評論家・中村光夫の姉の志げ子だった。深田は、かつて一高の学生だったころ、通学路ですれちがう5歳年下の女学生の志げ子に思いを寄せていた。中村の結婚披露宴で偶然再会をはたした深田は、たちまち、この新たな恋にのめりこむ。

脊椎カリエスで寝たきりの北畠の目を盗むようにして、深田と志げ子は登山行を繰りかえし、志げ子は昭和17年(1942)8月に男児を出産する。やがて深田の不倫生活は北畠の知るところとなったが、泥沼状態は深田の出征で一時休戦となる。

昭和21年(1946)夏、中国大陸から復員した深田は北畠の待つ鎌倉の家にはもどらず、志げ子母子の待つ越後湯沢に向かった。ほどなく北畠と別れ、志げ子と再婚し、以後10年ちかく郷里の大聖寺や金沢で雌伏生活をすることとなる。

北畠と別れ、もう戦前のような抒情的な小説を書くことはできなくなった深田だが、その間、失意の深田を慰めてくれたのは、昔と変わらぬ郷里の白山の姿だった。

『日本百名山』が読売文学賞を受賞

深田が山岳誌『山と高原』に『日本百名山』の連載を開始したのは、再上京から4年後の昭和34年(1959)3月号からである。日本全国の山々の中から深田が名山と思う山をリストアップし、毎月二山(一山につき400字詰め原稿用紙5枚)ずつ取りあげていく連載は、昭和38年(1963)4月号まで計50回に及んだ。この連載を1冊にまとめた『日本百名山』が新潮社から刊行されたのは、東京五輪の3か月前の昭和39年(1964)7月のことだった。

この『日本百名山』は翌年春に読売文学賞を受賞した。以後、今日まで続くロングセラーとなっていくのだが、賞の最終選考委員会で同書を強く推したのは小林秀雄だった。かつて深田の”二人三脚”を筆勢鋭くたしなめた小林は、同時に深田から登山やスキーの手ほどきを受けた山仲間でもあった。小林は、その推薦理由をこう書いている。

「著者は、人に人格があるように、山には山格があると言っている。山格について一応自信ある批評的言辞を得るのに、著者は50年の経験を要した。文章の秀逸は、そこからきている。私に山の美しさを教えたのは著者であった。(中略)自分の推薦に対しほとんど全委員の賛同を得て、わが事のように嬉しかったことを憚りながら付記しておきたい」

こうして深田は「山の作家」として復活をはたしたのだが、実は、自らの足で踏破した日本の百の山々の紀行文をまとめたいという構想は戦前から持っていた。昭和11年(1936)には山岳誌『山』に巻機山(まきはたやま)紀行を発表し、以後一山ずつ自分の好きな山のことを書いていきたいとしているし、その4年後には山岳誌『山小屋』に、題名もずばり「日本百名山」として一回二山ずつ取りあげる連載を開始している。だが、どちらの連載も、戦雲が重く垂れこめていく時局のなかで、ほどなく中断されている。

少年時代から山歩きが好きだった深田にとって『日本百名山』は、まさに若いころから構想をあたためつづけてきたライフワークだったのである。後半生はヒマラヤやシルクロードの紀行や文献集めに情熱をかたむけた深田だが、もちろん国内の山歩きも精力的につづけていた。

郷里の加賀市に「深田久弥 山の文化館」が開館

「深田久弥 山の文化館」(加賀市大聖寺)

「深田久弥 山の文化館」(加賀市大聖寺)

昭和46年(1971)3月21日、深田は山梨県の韮崎郊外の茅ヶ岳(標高1704メートル)に登山中、山頂まであと一息の尾根を歩きながら脳溢血で倒れて不帰の客となった。享年68だった。

波乱に満ちた生涯を送った深田だが、その大らかで温厚な人柄と、権力やお金とは無縁のスローな生き方は人々の共感を呼ぶ。深田が亡くなってから32年になるが、百名山踏破を目指す人たちは、いまなお後を絶たず、『日本百名山』は、いまや”中高年登山者たちのバイブル”といった感がある。

昨年12月、深田の郷里の加賀市大聖寺に彼の業績をたたえるための「深田久弥 山の文化館」が開館した。旧絹織物工場跡地の石蔵を改装した展示室には、彼の原稿や万年筆、パイプ、テント、アイゼンなど生前のゆかりの品々が展示されている。生誕100年を迎え、深田は、いまなお山に登る多くの人々に愛されつづけているのである。

田澤拓也
田澤拓也(たざわ たくや)

1952年青森県生まれ。
著書『百名山の人』 TBSブリタニカ 1,600円+税、『空と山のあいだ』 角川文庫 590円、ほか。

※「有鄰」424号本紙では4ページに掲載されています。

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