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423平成15年2月10日発行

[座談会]横浜みなとみらい21 —着工から20年—

横浜みなとみらいホール館長/渡壁 煇
株式会社横浜みなとみらい21代表取締役専務/高橋正宏
東京大学助教授・横浜市参与/北沢 猛
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から高橋正宏・渡壁煇・北沢猛の各氏と篠﨑孝子

左から高橋正宏・渡壁煇・北沢猛の各氏と篠﨑孝子

※印は、(株)横浜みなとみらい21提供

はじめに

横浜みなとみらい全景

横浜みなとみらい全景※
左からランドマークタワー、クイーンズスクエア(中央の3棟)、手前は汽車道

篠﨑みなとみらい21の事業が昭和58年(1983)11月に着工されてから、今年は20年を迎えます。横浜の都心臨海部、ウォーターフロントの開発として注目を集め、ランドマークタワーなどを始め、国際会議場や美術館などが建ち並ぶ横浜の新しい“顔”として、多くの人々が集まる都市空間に成長しました。本日は「みなとみらい21」をめぐって、都市計画やそこに根づいた文化などさまざまな角度からお話をいただきたいと存じます。

ご出席いただきました渡壁煇様は、横浜みなとみらいホールの館長でいらっしゃいます。NHKのプロデューサーとして音楽番組を制作、その後サントリーホールの総支配人、制作監督を経て、平成10年(1998)4月に横浜みなとみらいホール館長に就任されました。

高橋正宏様は株式会社横浜みなとみらい21代表取締役専務でいらっしゃいます。横浜市がこの事業を計画する段階から関係されており、先ごろ出版された、『横浜みなとみらい21−創造実験都市』を編集されました。

北沢猛様は東京大学助教授で、都市工学をご専攻です。横浜市都市計画局都市デザイン室長を務められたご経験もあり横浜の街づくりの歴史にもたいへん詳しくていらっしゃいます。

港ヨコハマは夢が運ばれ、夢を運び出すところ

横浜みなとみらいホール

横浜みなとみらいホール
(2002-2003 シルヴェスターコンサート 横田敦史🄫)

篠﨑渡壁さんはNHKに何年間いらしたのですか。

渡壁26年間です。最初が「夢であいましょう」という番組でした。日本の場合は、26年勤めたら終身で定年を迎えればいいじゃないかという感じですが、私の人生には非常にいい出会いがあり、その中のお一人が芥川也寸志さんでした。

黒柳徹子さんと芥川さんの司会で7年間続いた「音楽の広場」という番組があったんです。その「音楽の広場」が最盛期を迎え、人気絶頂のときに、この番組は、今やめるべきだと私は決心しました。

というのは、NHKのような大きな組織の中では、番組が軌道に乗り出すと、大抵、担当者が替えられるんです。次の新しい番組をつくってほしいと。そうすると、「音楽の広場」のような個性的な番組は、大抵だめになってしまう。後にNHKの会長になられた川口幹夫さんが当時、放送総局長だったのですが、川口さんに「来年はどうする」と言われたので、一番いい時期にやめたいと。

その後、テレビの世界に、ものを創るという雰囲気がなくなり、私自身、限界を感じる時期を迎えました。そういう時期に、芥川さんがサントリーの佐治敬三さんに会わせてくださったのですが、佐治さんにほれ込んで、87年にNHKをやめ、88年4月からサントリーホールへ行きました。

サントリーホールで副支配人、総支配人、制作監督を務め、そこで、当時の高秀秀信横浜市長から、「横浜へ来てくださいませんか」とお声をかけていただきました。

そのときに、印象にあるのは、98年3月に港北区の横浜国際総合競技場が7万人集めてオープンの試合をやりました。それがまず、新聞に出ました。それから最後の決心をした後に、横浜港に世界一周の豪華客船クイーン・エリザベスと飛鳥とオリアナ、その3隻が白い船体を並べている写真が出たんです。

それで、こんなにすばらしい横浜に迎えられるんだと思ったら、本当にぞくぞくする思いだったというのが、そのときの実感ですね。

海から横浜を見て強烈な印象を受ける

渡壁NHK時代に、芥川さんと一緒に「あゝ荒城の月滝廉太郎生誕百年」という番組を創りました。ライプチヒまで取材に行きましたが、そのときに横浜のゲーテ座跡なども取材に来たんです。

滝廉太郎は上野の音楽学校に入って、ゲーテ座に通っていたんですね。横浜に楽譜を買いに来たり、演奏を聴きに来たり。東京にはなかったわけです。あの時代のいろんな音楽家たちはみんな横浜へと来たようで、これも何かの縁かなと思いました。

それで、海から横浜を見たことがないので、ぜひ見せてほしいと言いましたら、市の船を出してくださいました。船から見ると、クレーンもいっぱいある、立派なベイブリッジはある。

海から見るとまず、クレーンがよく似合う都市だなと思いました。それからハングル文字などもありましたが、船籍もわからないようないろいろな国の船が夢を運んできて、横浜から夢をまた運び出すんだなと。

ここで、このホールの責任を持たされるというのは非常に重い気持ちもしましたが、夢も持ちましたね。海から横浜を見ることができたのは強烈な印象でした。

プランニングにエネルギーを投入できる会社、横浜MM21

篠﨑みなとみらい21という会社は第三セクターということですが、具体的にはどのようなお仕事をなさっているのでしょうか。

高橋私どものような会社は全国で割と少ないんです。例えば東京臨海副都心ですと土地を造成して、その造成した土地を売りながら町をつくっていくデベロッパーの役割を持っているので、経済不況になったりすると、会社が行き詰まるという問題が発生するわけです。

でも、私どもの会社は、そういう意味ではソフトだけの会社で、不動産は一切持っていないんです。不動産を持っているのは、例えば埋立事業をやった横浜市港湾局とか、昔の地主さんであるJR、横浜市、三菱地所、区画整理事業をやった都市基盤整備公団などです。その土地にどういう街をつくったらいいか工夫し、誘導するのが私どもの会社です。

仕事としては、3つあります。1つは、企業を誘致して街づくりを促進すること。

2つ目は、これは北沢さんの専門の分野ですが、都市デザインという手法を使って、美しく活力のある街をつくっていく。街づくりを誘導していくということです。ビルをつくる場合、市民が楽しんで使え、見ても美しく、街全体としては、気持ちよく機能的であるように。

3つ目は、例えば動く歩道などの公共施設を管理して、街を快適、円滑に維持管理していくこと。

私どもの会社の一番大きな特徴は、今言いましたように土地を持っていないということです。昨今はやりのTMO(タウン・マネジメント・オーガニゼーション)のはしりみたいな組織です。

ですから、プランニングにエネルギーを投入できるのです。そのため、横浜市と都市基盤整備公団と三菱地所、横浜商工会議所の四本柱でつくった会社です。

篠﨑横浜にまた1つ、美しい街ができあがる。とっても楽しみなんです。

全国に先駆けてアーバンデザインを採り入れた横浜へ

北沢私は生まれたのは信州ですが、育ったのは会津の喜多方で、中学3年までおりました。修学旅行が横浜だったんです。当時、氷川丸がユースホステルになっていて、そこに泊まったのですが、そのとき生まれて初めて港というものを見たんです。それは先ほどの渡壁先生の話ではないですけど、非常に強烈な印象でした。その後、父の転勤で横浜に引っ越してくることになり、横浜に住んだわけです。中学、高校は横浜です。

大学では、都市計画と都市デザインを勉強していましたが、研究テーマとして喜多方と同じように蔵づくりの町並みが残る川越のことを随分調べました。歴史的な町の魅力に引かれていたのだと思います。

横浜に就職したのは、これもまったく偶然で、都市づくりの中でもデザインをやりたいと思っていたら、横浜市はアーバンデザインを全国に先駆けてやっているということで、横浜市に入ることになったんです。

横浜の地元商人がつくった横浜船渠会社

横浜の中心部(明治39年測図)

横浜の中心部(明治39年測図)
中央の白い部分は新港埠頭

北沢市役所に入ってすぐに横浜国大の先生たちと一緒に、横浜はどういうようにできてきたのか歴史を調べて『港町横浜の都市形成史』という本を出しました。3年ぐらいかかりました。そしてそれをもとに『ある都市のれきし』という子ども向けの絵本を書きました。

横浜の歴史を見るということは港を見るということですね。港を見れば、町のことが大体わかる。

そのなかで特に面白いのは明治39年の地図です。それ以前は小さな港で、沖合に船をとめて、はしけで荷などを揚げていたのです。近代港湾というのは、桟橋と直接貨物船がつけられる埠頭と防波堤、これが基本的な3点セットなんです。これがないと少なくとも船をつけて、効率よく人や荷物がおろせない。

もう1つ足りないものがある。船の修理です。遠洋をはるばる来た船は相当傷んでいるわけで、それを修理する場所がないと出航できない。で造船所が必要なわけです。

横浜船渠会社(明治38年頃)

横浜船渠会社(明治38年頃)

桟橋や埠頭は、当時、国の非常に重要な港湾でしたから国が整備する。しかし造船所は民間サイドでやろうと。明治24年に横浜の地元財界人の大谷嘉兵衛、高島嘉右衛門、原六郎、そこに東京から渋沢栄一たちが加わり、横浜船渠会社を設立した。地元資本で、横浜の人たちがつくったことは、後の街づくりにも意味を持ったと思います。

横浜の人は、港にはもちろん愛着はありますが、造船所の中にはなかなか入れない。でも、吉川英治の『かんかん虫は唄う』と長谷川伸の『ある市井の徒』に出てくるということで、市民には知られていたわけです。

1号ドックは水を入れ、2号ドックは水を抜いて保存

北沢僕が非常に面白いと思ったのは、明治29年に最初のドックをつくるんですが、船を修理するドライドックはそのままずっと使われてきたことです。長寿命です。

水をせきとめた後に水を抜いてドライにするのでドライドックと言うのですが、大正6年には修理だけではなく、造船も始めた。昭和5年に完成した氷川丸とか、日本郵船の三大豪華客船に数えられている有名な秩父丸もここで造られました。

当初は横浜船渠会社といっていましたが、昭和10年になって三菱重工に合併され、最初は三菱重工業横浜船渠、その後に三菱重工横浜造船所と名前が変わってくる。

都市デザイン室でみなとみらい地区を担当することになったのですが、ドライドックを解体する前に、まだ動いているところを調査をしたんです。すごく感激しましたね。船が入っていると、またすごいんです。それで、これは何とか残せないかなと。実際に担当になって保存交渉をやったのですが、僕にとっては2号ドック(現在のドックヤードガーデン)の保存は印象に残る仕事でした。

篠﨑よく残してくださいましたね。今、国の重要文化財ですね。

北沢残し方もいろいろ議論があって、1号ドックは、日本丸が入って、水が入っているので、隣は水を抜いた状態で見れるといいねと。そうするとドックが2つ並んでよくわかりますから。

古いものを新しい町の中に残しているという意味でも、みなとみらいはすごく面白い町だと思います。何となく残っているというのではなくて、それが当時どういうふうに使われていたかがわかるように工夫して残してある。

汽車道も、昔、新港埠頭に船が着いて、そこから貨物列車で全国に荷物を配送する。その線路があったんです。今、船は着いてないけれども、そういう仕組みがわかるように残しておくことが重要ではないかと思う。

ドックヤードガーデンも、よく見ていただくとドックだけではなくて、周りにあった、キャプスタンと言う船のもやいを巻き上げる機械類も残っています。

横浜の中心部は全部埋立地

高島町を走る鉄道

高島町を走る鉄道
(国輝「神奈川蒸気車鉄道之全図」)神奈川県立歴史博物館

篠﨑横浜船渠ができる前は、このあたりは海だったそうですね。

北沢東海道から横浜に来るには、野毛山を通って、今の吉田町を通って馬車道に入るというルートだった。伊勢山の下あたりは急に海に落ちていたので非常に便が悪かった。便をなるべく悪くしたという話ですね。吉田橋のたもとに関門があって、出入りをチェックしたわけです。チェックした内側を関内(かんない)とよんだ。

それで、鉄道を敷くときに伊勢山下の一帯を埋めたんです。山を削って線路を敷くことは当時の技術ではできないので、東神奈川のあたりから海面をずっと埋め立てたわけです。高島嘉右衛門が埋めたので高島町という町名がついている。海の中を線路が通っていたので、当時、汽車に乗ってみたら面白かったんじゃないかと思いますね。

高橋横浜の中心部は全部埋立地なんです。もともと旧都心は大岡川の流域を、江戸時代を通して少しずつ、新田開発という形で埋めてきた。横浜駅のほうは帷子川のデルタを埋めてきた。そして鉄道を通すために高島町とか横浜船渠をつくるために入船町を埋め立てた。今のみなとみらいも埋め立てて、新しい都心をつくっている。

ですから、3つの地域は、それぞれが時代は少しずつ違っても、埋立地の上にできているということですね。

北沢帷子川一帯も全部入り江で、流れ込んでくる川の河口を残して、浅瀬をだんだん埋めていく。

篠﨑入江の中で川の部分を残したということですか。

北沢そうです。

篠﨑掘割なのか、自然の川なのか、どっちなのかなとずっと思っていたんです。

北沢一応川としての機能はあるけれど、どちらかというと運河。埋め立ての町だし、運河の町だし、港町だし、いい町だったんでしょうね。

関内と横浜駅の2つの地区を一体化する構想

篠﨑昭和40年に、当時の飛鳥田一雄横浜市長が六大事業を打ち出し、その1つとして、みなとみらいの構想がつくられたわけですね。

高橋いろいろ目的がありました。1つは、横浜は、安政6年(1859)の開港のときには東海道から外して町がつくられたわけです。外国人とのトラブルを避けるため、幕府が交通の便が悪い所を選んだんです。ですから都市が大きくなってくると交通の便のいい横浜駅周辺が繁華街になって都心が2つに分かれたんです。

しかも、もっと大変なことは、東京という世界有数の大都市が近くにあることで、機能がみんな東京に集中し、横浜の都心機能は弱い。弱い都心が横浜駅周辺と関内の2つに分かれているのは問題だ。それを1つに拡大強化しようという事業がみなとみらい21事業です。そこで、中間部分に町をつくって、2つの都心を一体化させて都心を強くしようということで、それが一番大きな目的です。

細郷道一市長の頃、横浜の五重苦とよく言われました。大震災、昭和恐慌、それに戦災、接収で被害を受け、しかも東京のベッドタウンとしての人口爆発と、都市として非常に苦しんできたわけです。

昭和37年、人口150万だった当時、すでに将来300万にもなるだろうということが予想されていましたから都心を強化しなくてはいけないと提案されました。そのことが一番大きいんです。

この構想のすごい点は、造船業が盛んだった時期に、三菱重工にその場所を明け渡してもらい、その部分を都心にして、関内と横浜駅周辺の2つの都心を1つにしようという発想をしたことです。

飛鳥田市長の時代、田村明さんがおられた研究機関でそういう提案をされた。本当に驚くべきことです。その後、船はどんどん大型化していき、マンモスタンカーとか、コンテナ船になったりしたこともあって、ここのドックでは対応できなくなり、結局移転に合意していただいた。

みなとみらいは金沢の埋立事業とセット

八景島周辺(金沢区)

八景島周辺(金沢区)
横浜市港湾局提供

高橋もう1つは、町中の工場は公害のもとだというので、東京も川崎も工場を都市の外へみんな出した。ところが横浜では、公害工場であろうと横浜の活力のもとだし、横浜の市民が働いている場所なんだから市内に移そうと、金沢に土地を提供した。それで敷地も広くなり公害対策も十分でき、かつ事業も拡張できるようにした。そして跡地を再開発して、みなとみらいの都心に切りかえる。

ですから、みなとみらいは金沢の埋立事業とセットなんです。金沢の埋立事業も飛鳥田さんの時代に始まった六大事業の1つです。相互の関連性がある大きなプロジェクトであると同時に、埋立事業の考え方も大きく変えられました。それ以前の根岸湾の埋め立ての場合、大工場用に青田売りをしたんです。つまり、埋める前に売る。そのお金で埋立事業をやった。日本の成長期だったからできたと思うんですが。

しかし、そういう方式はよくないと。金沢の埋立地をつくるときには総合的な町をつくらなくてはいけない。市内の公害工場を移すとか、工場の従業員用の住宅もつくろうとか。それから埋め立てで市民が海岸に全然出られなくなってしまうので、市民が海に接する場所として八景島や海の公園をつくったわけです。

そのときから青田売りの工場用地をつくる埋め立ては止め、横浜の都市づくりのための素地みたいなものがつくられた。総合的な都市経営を考えた都市づくりの路線が敷かれた。

市長は飛鳥田さん、細郷さん、高秀さん、中田さんと今四代目になりますが、40年間、都市づくりの基本的な部分ではずっと一貫してきた。横浜の都市づくりにとって非常に幸せだったと思います。

街づくりのエポックとなった日本大通りと山下公園

北沢私が横浜市に入ったのは昭和52年で、まだみんな計画段階でした。私は今、非常勤の特別職で横浜市の参与をやっていますから、今の市長で四代おつき合いをすることができた。

横浜市の開発事業は、社会情勢も変わったので、最初と今では、埋め立ての面積も建物のスケールも違うけれど、例えば、みなとみらいでは、港沿いには大きな公園をつくろうという話は最初の計画から変わってない。

横浜の街づくりの中で大きなエポックは、幕末の1866年の慶応の大火後に、最初の都市計画をやり、今のスタジアムがある横浜公園から海に向かって日本大通りをつくった。

もう1つは関東大震災の後に、瓦礫で埋め立てて山下公園をつくったことです。

現在の都心部の街づくりの基本は田村明さんが考えられた話でしょうが、みなとみらいにも臨海公園があったほうがいいだろうと。それから、港に向かうアクセスがあったほうがいいというので、今のクイーン軸とか、まだ完成していないキング軸とか、港に向けての通りをつくろうという計画になっています。それは横浜の歴史に合った発想だと思うんです。ですから、市長や担当者が替わっても、そういう思想が生き残っているいい場所だと思うんです。

篠﨑横浜は歴史に残る国際港都という精神が、ずっと流れているんですね。

北沢何かずっと流れているものがあるんじゃないですかね。横浜人は新しいもの好きとよく言われますが、それだけではなくて、人間的なゆとりとか幅があるのではないでしょうか。瓦礫を使って公園をつくるというのはなかなかの発想だと思います。震災後の大変な時期は、公園よりもっと飯の種になるような土地にしろという声もあったでしょうが、そこをちゃんと考えている。

みなとみらい21のお披露目でもあった横浜博覧会

横浜博覧会会場(平成元年)

横浜博覧会会場(平成元年)※

篠﨑平成元年(1989)に横浜博覧会が開催されましたね。

高橋横浜博覧会には3つの目的があって、1つは、市政100周年、開港130周年のお祝いをするイベント。

もう1つは、横浜はかつて港町で、鶴見、神奈川、西、中、磯子、金沢の臨海部に人口が集積していて、町も形成されていたけれども、内陸側はほとんどなかった。それが戦後、東京のベッドタウン化したことによって内陸部が急激に開発されてきた。「東京市民」と言われ、横浜に住んでいながら、横浜の都心には一度も来たことがないという人がたくさんいる。それで、臨海部の人たちと内陸に住んでいる人たちとの融合を図ろう、そのお祭りにしようというのが2つ目の目的だった。

3つ目は、みなとみらい21という街づくりをして、新しい都心、21世紀の都心をつくる。そのお披露目をしようということです。

ですから、横浜博覧会は、「宇宙と子供たち」というテーマでしたが、博覧会そのものとしては、未来の都市を楽しくお見せしましょう、という仕掛けでやったんです。

博覧会の会場というのは、迷路みたいに道を曲げてつくるのが普通なんです。真っすぐの道にすると、単調になって博覧会場としては面白くない。ディズニーランドなんかご覧になるとわかると思いますが、あの中の道は周遊できるように曲がっています。

ところが横浜博覧会はそういうのではなくて、みなとみらい21の基本構想をベースにして碁盤の目状につくり、パビリオンをその上に乗せた。つまり、未来の街を皆さんにお祭りの中で見せてあげますよと。乗り物もゴンドラや鉄道や未来のHSST(磁石で車体を浮上させ、リニアモーターで走る列車)を通したりしました。

また、一般に博覧会ではパビリオンの中でのイベントが中心ですが、町並みを歩いているときに楽しくなくては街にならないというので、街路の飾りやイベントやストリート・パフォーマンスなどもたくさん入れました。

非常に変わった博覧会になりましたが、評判もよくて、素晴らしい、みなとみらいのお披露目になりました。

モール(歩行者専用の道)みたいなものを軸にいろいろ演出したのですが、博覧会後は逆に、それを街づくりの中にも生かしてきました。横浜博覧会はそういういろいろな工夫をしたんです。

北沢1つの実験だった。

高橋そうですね。

都市づくりの構想――モールに沿って建物をつくる

横浜みなとみらい21の幹線道路

横浜みなとみらい21の幹線道路※

篠﨑将来、どんな街づくりを考えておられるのですか。

高橋みなとみらいの街づくりの特徴というと、いろいろな言い方ができますが、モールを中心に活気のある町並みをつくるということが一番重要なことです。

どういうことかと言うと、例えば東京の臨海副都心を見るとわかりますが、ホテルなど1つ1つの施設では横浜は太刀打ちきないような立派な施設ができています。ところが、あれは売れた土地につくっているだけで、あちこちに点在していて、街になっていません。

みなとみらいは街をつくろうということで、モールをつくって、その軸に沿って建物をつくっていく。そうすると街としてのにぎわいが出てくる。それは開発する側から言うと、にぎわっている所に建物を建てるのですから、投資もしやすいということがあります。

それからもう1つ、これは当時の市長がなかなか頑張られたなと思うのは、横浜美術館、マリタイム・ミュージアム、パシフィコ横浜といった公共的施設を先行的につくっていることです。文化とか、交流の施設ですね。最初から単なるオフィス街ではなくて複合的な街をつくろうとしていることが、2つ目の特徴です。

それからもう1つは、都市デザインに工夫を凝らして、歩行者空間を中心に、できるだけ美しい街、できるだけ魅力的な街をつくろうとしていることです。

その3つがみなとみらいを非常に特徴的な街にしているんです。そういうあたりに、みなとみらいの今日のにぎわいや美しさ、環境のよさ、そういったもののベースがあると思うんです。

篠﨑新港埠頭も経営の中に含まれるんですか。

高橋はい。赤レンガ倉庫も年間300万人の目標でしたけれど、開館してから半年で400万ぐらいの人が来館されています。

3つの軸を中心にポテンシャルの低いほうから開発

クイーンモール

クイーンモール※

高橋今、みなとみらいには、アウトドアのモールであるグランモールと、建物の中の海に向かうクイーンモールとがありますが、これから横浜駅側に、海に向かうキングモールというのをつくろうとしています。その3つの軸を中心に、街をつくっていきます。

なぜ街づくりをクイーン軸から始めたかというと、いろんな事情がありますが、ポテンシャルは横浜駅側のほうがあるから、まず、ポテンシャルの低い桜木町側から開発を進めていくといった手順をとったのです。

現在は街づくりも進んで、いよいよ横浜駅側の開発の段階を迎えつつあります。

民間の力が最大限発揮されたランドマークタワー

高橋ランドマークタワーはできるのがもう1年遅かったら、不況が厳しくなって、あんな立派なものはつくれなかったかもしれません。本当にぎりぎりのタイミングだったと思います。

昨年完成した今の丸ビルよりも、はるかに高い品質ですし、規模も大きいんです。そのぐらいの心意気で三菱地所がつくった施設です。

民間のビルとしては、みなとみらいで最初のビルですから、すごく頑張ってくれたんです。時期もよかったということでしょうね。ランドマークタワーがその後のビルの基準となり、横浜銀行も三菱重工も、クイーンズスクエアも頑張ったビルをつくってくださった。

北沢そういう意味ですごく質の高い街になりました。民間企業の力もうまく引き出せた。それはまた、横浜みなとみらい21という会社の役割だったかもしれません。

ここは明治20年代に横浜船渠を民間の人たちの力でつくったというのが出発点で、現在は、横浜みなとみらい21という会社が中心になって民間の力でつくられてきたし、これからも多分、民間の力が最大限発揮できるような街になるんじゃないでしょうか。だから、逆に面白くなる可能性が大いにある。

篠﨑そこがまた横浜らしいですね。上からの指示に従うだけではなくて、下から盛り上がるものすごいパワーがある。

渡壁そうなんです。それが城のない町なんですよ。

北沢自主自立の雰囲気というのがありますね。

明治の頃に、居留地の側もそうですが、日本人町のほうにも町会所を中心とした自治組織があって、自分たちで町を治める。

渡壁城のない町というのは、こんなに民間の力がというか、お上からのものでない力に結びついていく。今、街づくりの話をお聞きして、本当に私は横浜の皆さんを尊敬しますね。

「文化の城」を築いて、市民の心のよりどころに

渡壁私は瀬戸内海の横島という小さな島の生まれですが、母の実家は城のある広島県の福山です。

日本の大抵の都市には城があります。城は封建社会の名残を持っていますが、今の人たちには心のふるさとみたいなものになっています。

横浜にはいい意味での城というか、心のよりどころというものがない。じゃ何だろうと思ったときに、ある意味で、美術の城として横浜美術館がありますし、音楽の城として横浜みなとみらいホールがあります。そこを皆さんの心のよりどころにしてほしいなと。文化の城として築き上げられればいいなと思います。

オーストラリアのシドニーオリンピックのとき、人々が「シドニーってどんな所?」って言ったときに、「あの面白いオペラハウスがある所」と言うと、行ったことのない人でも「あっ、あれがある所」と世界中の人たちが思いを馳せたと思うんです。

だから、横浜ってどんな所と言うと、もちろんいろんな歴史がありますが、横浜みなとみらいホールという世界に誇るホールがある所、と言われるようなホールにしたい。この間来日したモスクワ生まれの指揮者ワレリー・ゲルギエフを始め、すでに世界中から集まってくれる音楽家、芸術家たちが、このホールはすばらしいと言ってくれます。

都心を一体化させる1つの軸になるMM新線が来年完成

篠﨑みなとみらいは平成17年に基盤整備が完了する予定で、完了すると就業人口が19万人、居住人口が1万人になるそうですが、現在の進捗状況はどうなんですか。

高橋事業的に言いますと道路や公園、港などの基盤は公共でつくり、それらの基盤を整えた後は、建物はできるだけ民間につくってもらおうという原則でやったんです。

基盤としては80数パーセント完了しています。そして平成17年にはほぼ終わります。建物は工事中のものを含めて47〜48パーセントできていますが、これを速いと言うか遅いと言うか非常に難しい。

計画を立てるときは、みなとみらい21ということで、一応2000年にはでき上がるという設定はしていますが、都市づくりというのは完成というのはなくて、繰り返し、繰り返し変わっていく。

その時代に合わせて少しずつ街が変わっていくのが都市づくりだと思うんです。いろいろご意見がありますが、私どもの会社の前社長だった高木文雄氏は、急ぐな、街づくりというのはゆっくり、21世紀の終わりにいい街になっていれば、それで十分だとおっしゃっています。田村明さんも、街づくりを急いでも、ろくなことはないとおっしゃっています。

そういう遅い、速いということから言っても、この不況の中で、今も7棟の工事が進んでいる。ですから、そこそこのペースで街づくりは進んでいると思っています。

1年後にはMM新線が通るわけですが、これは非常に象徴的で、みなとみらいの都市づくりの一番の課題である都心、横浜駅の部分、みなとみらいの部分、関内とを縦にくし刺しにする鉄道なんです。つまり、都心を一体化させる1つの軸になる鉄道です。これが通ると、また街づくりも新しい展開が見られるようになると期待しています。

作曲したり絵を描くアーティストが住む創造的な町に

北沢最後に、みなとみらいに期待することを。

僕は街づくりの基本としてまず最初に空間の質というのを考えます。さきほどのキング軸であるとか、ウォーターフロントに公園があったほうがいいとか、町並みはこうだとか、空間の質や美しさを求めていく。

もう1つは、時間ですね。歴史的なものを大切にしているというのもそうだし、僕は最近東京に勤めているので、横浜に帰ってくると、ホッとしますし、ゆったりとした時間を感じます。この時間をつくり出すのは結構、難しいんだと思うんです。

だから、例えばホールの隣に住んでいれば、十分音楽を聴いて、その後、一杯飲んでうちに帰っても十分堪能できる。そういう時間が欲しいですね。

もう1つは、人間。みなとみらいに来て、僕はいろんな人と会っているわけです。ホールができ、そこでコンサートがあって、友だちと会ったり、そういうコミュニケーションがどんどんできてくるといいなと思います。そこがまだ希薄なんで、もう1つ横浜も頑張らなきゃいけない。

それからもう1つ、コンサートを聴いたり、美術館で作品を見たりというところはいいんですが、それを生み出す人たちがみなとみらいには少ない。アーティストが住んで、作曲するとか、絵を描くとか。そういうスペースがないんです。そういう創造的な町に工夫ができないか。そこがみなとみらいの課題かなという気がしているんです。

渡壁これからそれをつくろうと思っているんです。去年で4回目になりますが、ジルヴェスターコンサートというのを、大晦日にやっています。毎年31日の9時半から始めて、カウントダウンをして新年を迎えて、新年にちなんだ音楽を聴いたり、楽しいコンサートです。

これは本当にこだわりのかたまりでして、横浜、神奈川にゆかりのある音楽家たちだけが集まってやっているんです。声をかけて、100人からのオーケストラが完全にできます。コーラスの方を含めると200人の出演者になります。世界中で活躍しているようなソリストたちが正月でたくさん戻ってくるし。それは、横浜の力だと思います。ほかの都市では絶対できないことだと思います。

篠﨑本日は、ありがとうございました。

渡壁 煇(わたかべ あきら)

1936年東京生れ。
著書『楽屋に裏話、人にエピソード』 日本実業出版社 971円+税。

高橋正宏(たかはし まさひろ)

1941年横浜生れ。
著書『横浜みなとみらい21』 (株)みなとみらい21 2,500円+税。

北沢 猛(きたざわ たける)

1953年長野県生れ。
著書『明日の都市づくり』 慶應大学出版会 2,800円+税。

※「有鄰」423号本紙では1~3ページに掲載されています。

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