Web版 有鄰

421平成14年12月10日発行

[座談会]文藝春秋80年
「文学」と「時代のニュース」が両輪

作家/城山三郎
ノンフィクション作家/半藤一利
文藝春秋代表取締役社長/白石 勝
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から白石勝・城山三郎・半藤一利の各氏と篠﨑孝子

左から白石勝・城山三郎・半藤一利の各氏と篠﨑孝子

資料写真は文藝春秋提供

はじめに

創業者・菊池寛

創業者・菊池寛

篠﨑雑誌『文藝春秋』が大正12年(1923)1月に創刊されてから、間もなく満80年を迎えます。会社のご創業もこのときと伺っています。創業者である菊池寛先生は「中正な自由主義の立場にあって、知識階級の良心を代表するつもりである」と、同誌の編集の根本精神を書かれています。

『文藝春秋』は、大正・昭和・平成にわたって、雑誌ジャーナリズムの王道を歩み、また菊池寛が制定した芥川賞と直木賞は、わが国の文学の振興に大いに寄与するところがあります。そして、現在の文藝春秋という会社はこうした遺産を受け継ぎながら、常に出版界をリードしてこられました。

本日は、創業以来80年に及ぶ文藝春秋の幅広い歩みをご紹介いただきたいと思っております。

ご出席いただきました城山三郎先生は、昭和32年に「輸出」を文藝春秋発行の『文學界』に発表されて文學界新人賞を、また、『別册文藝春秋』に発表された「総会屋錦城」で第40回直木賞を受賞されました。現在は菊池寛賞の選考委員をされています。

半藤一利様は『週刊文春』『文藝春秋』の編集長、文藝春秋専務取締役などを歴任され、現在はノンフィクション作家として活躍されております。『「真珠湾」の日』『清張さんと司馬さん』など、多数の著作がございます。

白石勝様は文藝春秋の代表取締役社長でいらっしゃいます。編集の第一線で活躍され、『文藝春秋』の編集長をされていた平成2年12月の特集「昭和天皇の独白八時間」は実売数が100万部以上という記録をつくられました。

菊池寛が創刊 「一には、自分のため、一には他のため」

『文藝春秋』創刊号

『文藝春秋』創刊号

篠﨑創業80周年を迎えられますが、菊池寛先生が雑誌を創刊されるまでの経緯と会社設立の関係はどうなっているんでしょうか。

半藤菊池さんは、見たこともないんです。昭和23年に亡くなられ、私は昭和28年入社ですから。私たちの会社は妙なもので「先生」と言わないで「さん」づけなんです。これは佐佐木茂索さん(2代社長)も池島信平さん(3代社長)も同様で、間違って「社長」なんて呼ぶときもありますが。

菊池さんは、当時もう大文豪で、たくさんのベストセラーを出しているし、本当は作家でいいんですが、1つは、菊池さんのもとに若い作家らが慕って随分集まっていたというのがあります。

もう1つは、プロレタリア文学が全盛のとき、それに対して菊池さんはあまりいい思いをしていなかった。それで、若い人たちの発言の場、物を書いたりする場がないというのが、菊池さんの心を突き動かしたのではないか。

『文藝春秋』創刊の辞が有名で、「私は頼まれて物を云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを云つてみたい」と書いています。その後に、「一には、自分のため、一には他のため」とあって、若い人たちにもそういう場をうんと与えたいとあります。若い横光利一さん、川端康成さんとかがそばにいましたので、彼らのためにという意味もかなりあったのではないかと思います。

ですから、菊池さんは本当は小説家としてやっていけば何でもできる方なんですが、編集に乗り出したんです。ところが、経営の才能は全然ないんじゃないかと思います。

そこで、佐佐木茂索という非常に几帳面なところがある新進気鋭の作家に目をつけ、作家をやめさせて引っ張り込んだ。彼はものすごく優秀な経営者です。それで文藝春秋はきちんとした会社になってきて、長持ちしたということは言えるかと思います。

ただ、あくまでも菊池さんの編集に対する、雑誌に対するセンスというか、今までの雑誌と違う雑誌をつくってみせるというセンスは、ものすごく生きたと思います。

“真珠夫人”で時ならぬ菊池寛ブーム

菊池寛『真珠夫人』

菊池寛『真珠夫人』
(文春文庫)

篠﨑菊池寛さんは小説家としても大成されていましたが、最近はドラマでも……。

白石そうなんです。テレビ放映がきっかけになって、時ならぬ“真珠夫人”ブームになり、新潮社さんは文庫で上下巻出して、文藝春秋も文庫で出し、今、部数は10万を超えています。うちの若手社員の感想は、とにかく面白いと言うんです。こんな面白い小説を書く人が、うちの社をつくったとは信じられないと。

じゃ『真珠夫人』に続けというわけで、私どもには菊池寛の孫もいますので子会社の文春ネスコが『第二の接吻』、文藝春秋の文庫からは『貞操問答』を出し、それぞれ好調です。

社内の女性が、まず読み出したのですが、現代的で、読み出したらとまらないと。今、時ならぬ菊池寛ブームです。

若い社員は『恩讐の彼方に』や『父帰る』は教科書で読んでいますが、当時の現代物をこれだけ面白く書いているのは初めての発見なんです。幹部社員も初めて読むのが多かったんじゃないですか。

この一種のブームはテレビのほうからフィーバーみたいなものが伝わってきて、当方もその波に乗った。不思議なえにしを感じます。ちょうど80周年に突然、菊池寛大先生がよみがえってきた。

設定がうまく話題になるようにつくっている

白石みんなが、お茶を飲んでいても、食事をしていても「菊池寛さんは」という話になる。なぜあんなに面白いんだと。要するにベッドシーンがないことが一つ。当時はベッドシーンまでいかないんです。そうすると、一生懸命筋を考えなくちゃいけない。この筋が劇的なんですね。社員一同感服している。

城山社外でも感服していますよ(笑)。あれは設定が非常にうまい。前半は、いやな男の所へ家庭の犠牲になって嫁いだけれど絶対に貞操は守る。どうやって守るか。その設定がすごくうまい。それで最後まで引っ張っていく。

後半は芥川を思わせる人物が出てきて、仲間になって新しい話になったり、当時の文芸作品を批判したり、当時のカレントトピックスがどんどん入ってくる。言葉なんかも英語が入ってくる。そうすると、読んでいないと話題についていけなくなる。実にうまい。感心した。

半藤大正9年発行ですがあのころの人は小説は皆うまいですね。

城山うまいし、話題になるようにつくっているね。

『文藝春秋』のタイトルは菊池寛のエッセイ集から

篠﨑菊池寛さんが作家から編集者になって、『文藝春秋』という雑誌が始まる。最初から会社組織でおやりになったんですか。

半藤一応文藝春秋社と名乗りましたから、会社組織でやったんだと思います。とは言っても、社長は決まっていますけれども、専務とか、常務とか、取締役とかいう組織があったのかどうか、いくら調べても出てきません。何もなかったんじゃないでしょうか。経理も大福帳で。(笑)

つまり同人誌なんですね。ちょっとたってから株式会社にしています。

『文藝春秋』というタイトルは菊池寛のエッセイ集のタイトルで、それをポンと使っただけなんです。菊池さんはそういうところが大ざっぱなんです。薄っぺらな雑誌ですけれども、5、6号まではプロレタリア文学に徹底的にけんかを売っている。

それで一遍に名を売ったと言うとおかしいですけれど、「『文藝春秋』あり」というところを見せたようですね。菊池さんも多分そのねらいがあったんでしょうね。当時、雑誌では、すでに『改造』や『中央公論』ができてましたから。

現場主義、地についたジャーナリズムを徹底

篠﨑『文藝春秋』創刊のころの日本はどんな状況ですか。

半藤日本の文化は明治、大正と発展してきた。その果たした役割としてジャーナリズムにものすごい功績があるというのが、菊池さんの見方です。それは文部省以上である。ジャーナリズムが日本文化をつくったと言ってもいいのだ。したがって我々もジャーナリズムに参画する。先ほどのスローガンの形で力を尽くしたいというのが菊池さんの考え方なんです。

ただ、日本のジャーナリズムはみんな架空の論を振りまいて、余り地についていないから、我々はもう少し地についたジャーナリズムでいく、とも言うわけです。

ですから、評論よりも、むしろ現実そのものを作家の方に書いてもらうとか、あるいは大学の先生ばかりでなく、一般の人たちからも、いい話を持っている人を引っ張り出してこようという考え方を非常にはっきり示します。

もう1つは、菊池さんは小説家ですから、日本の文学をもっと立派なものにしたい。そのためにはジャーナリストは文学がわからなきゃだめである。文学がわかる人を『文藝春秋』に引っ張ってきて、編集者もジャーナリストも文学のわかる人にして、日本の文学をきちんとしたものにしたい。

この2つのことを最初のころはやった。その意味では、『改造』や『中央公論』とは一風変わったジャーナリズムとして出てきたんです。

一般人の投稿も載せて、読者にわかりやすい文章を

白石創刊初期の段階で、こんなことも言っています。この雑誌は一般人の投稿も、著名な人の原稿も載せていくが、どこを削るとか、タイトルはどうするとかいうのは、全部編集者が決めると。

ともすると、雑誌はその当時、その時代の著名な方の原稿を載せる貸し座敷という形になりかねなかったのを、菊池寛さんは編集権というか、編集者はもう少し原稿に介入していくべきだと考え、読者にわかりやすい、面白い文章を提供したいという気持ちが強かったんじゃないか。

それは『文藝春秋』という雑誌の大衆性につながっていくと思うんですが、うちはアカデミズムではない。ジャーナリズムだ。象牙の塔の中で物を考え、発表していくのではなくて、読者に向かってわかりやすく物を発表していくということです。編集者の仕事を初期段階でかなり意識していたことを言っています。

『文藝春秋』には昭和の大事件の当事者が毎号出てくる

創業65周年記念出版 『文藝春秋にみる昭和史』

創業65周年記念出版
『文藝春秋にみる昭和史』

篠﨑『文藝春秋にみる昭和史』を見ると、文藝春秋さんの歩んでこられた時代が、それぞれの記事に実に見事に反映されています。編集されたのは半藤さんですね。

半藤これは65周年のときのお土産だから2冊にしようというので、2冊の予定でつくっていた。そしたら昭和天皇が倒れられた。同時に私らもピーンときて、昭和が終わるなら、年号が変わるまでもう1冊入れようじゃないかと。ほとんどでき上がった最中に変えて3冊になった。

私に言わせると、1巻目はものすごくよくできた。2巻目、3巻目は少し引き延ばしなんです。できは少しよくないと思いますが、ほかの人は一切口を出すなと独断と偏見で一人でやったんです。

やりながら感服したのは、創刊以来の『文藝春秋』は、実にきちんとその時その時の大事な問題を、当事者やその時代に生きている人たちをよんできて話を聞いています。ですから、あらゆる昭和の大事件は『文藝春秋』を読むと当事者らしい人が必ずちゃんと出てくるんです。

戦前の『文藝春秋』の編集者たちは、座談会をやると、余り整理しないでドカーンと載せるんです。長くて面白くないのもあるから、少し落としましたが。ただ、そういう意味では『文藝春秋』は非常につくりやすい。『中央公論』でつくろうとすると、論ばかりになって、恐らくできないんじゃないですか。これは論は何もない。全部当事者なんです。菊池さんたちからの方針である現場主義、地についたジャーナリズムが徹底していたみたいですね。

軍部の独走をはっきり批判している当時の『文藝春秋』

篠﨑例えば「西田幾多郎を囲む座談会」に三木清や谷川徹三さんらが出ている。半藤さんが言われたように、近衛文麿、松岡洋右、それに宇垣一成が組閣工作を書くとか、当事者の声が聞こえるような形の編集だと思います。

半藤例えば、「満蒙と我が特殊権益座談会」は、「敵中横断三百里」の陸軍の建川美次、中野正剛とか、すごい大物も入れてちゃんとやっているんです。これは昭和6年の満州事変を、軍部の独走を珍しいぐらいはっきり批判している。建川さんが皆からやられて、たじたじとなっているところもあります。「五・一五事件の厳正批判」とか、「改訂小学読本批判」は座談会じゃないんですが、私の時代の「サイタサイタ サクラガサイタ」の教科書が時代をおかしなほうにひん曲げていくんじゃないかと予感しているようなことがあったり、なかなかしっかりしているんです。「言論の自由と圧迫を聴く座談会」なんて、実に言論の圧迫がひどくなっているじゃないかと。

篠﨑だけど、よく発行できましたね。

半藤かなり危なかったんじゃないですか。ただ『文藝春秋』が非常にいいのは、当局のほうが論評雑誌じゃなくて、菊池さんが「六分の慰楽、四分の学芸」と言っているから、半分娯楽雑誌と思われていたんじゃないか。

新聞批判が雑誌の役割の一つ

半藤新聞は昭和6年の満州事変以降はがたがたになります。雑誌は『中央公論』も『改造』も頑張る。『東洋経済』は石橋湛山がいますから特に頑張ります。我が『文藝春秋』もどうしてどうして。

篠﨑新聞と雑誌ジャーナリズムの違いは、いかがでしょうか。

白石私が編集長をやっているころ、社の首脳部から言わたことで印象に残っているのは、『文藝春秋』の大きな役割の1つは、新聞批判だということを言われました。だから「新聞エンマ帖」というのを、4ページ程度ですが、ずっとやっている。あれが『文藝春秋』にとって、非常に意味のあることなんだと言っていました。

新聞は、雑誌に比べてメディアとしての影響力は絶大である。新聞は権力なんだ。雑誌は権力に向かって闘うものであるから、政府批判・官僚批判をやるのと同じぐらい力を入れて新聞批判をやるべきである。新聞が世論を誘導していく。その誘導の仕方で非常に危険なときがあるから、目を離してはいけない。常にチェックする役割を持っているんだということを言われたものです。編集者は、そういう先輩の言うことを随分頭に入れて、実際の編集作業に当たっていくことが多い。

篠﨑具体的には田中金脈問題がまさにそうだったんですね。

白石そうですね。あのときも新聞記者は、金脈の実態を知っているけれど、日常的にそれを見ているだけにニュースと思わなかった。そういう意味で言うと、雑誌は、政治部、社会部、経済部なんてない。言ってみれば、雑誌の編集者は素人なんです。素人ゆえに、いろんなものに対して喜怒哀楽を感じる。そういう立場にいつも身を置いている。ある意味では非常に自由で、感受性を持ち続けられるところがあるようですね。

世論が一方的に動くときにアンチテーゼを出すことも

白石そのことで先輩編集者からよく言われたのは、例えば、今、国民感情が何かのことで沸騰して、ワーッと1つの方向に行こうとしているときに、その渦中に入って、我先にと先を競って走り出すようなことはやめろ。雑誌とは、もっと冷静な気持ちをいつも持ち続けて、今進んでいるこの方向が、果たしていいのかどうかを見極めろと、折に触れ言われたものです。

半藤例えば一番象徴的なことでは、戦後の『文藝春秋』は、菊池さんが追放になって、文藝春秋社は俺の一代で終わりにするというんで、後に残った人たちが文藝春秋新社という形でスタートした。だから昭和21年に2か月ぐらい休刊しています。いずれにしてもスタートが遅れたから相当苦闘したんです。

その苦闘の昭和24年、池島信平さんが編集長のときに、「天皇陛下大いに笑ふ」という座談会をやって当たったわけです。池島さんになぜやったのかと聞いたら、ちょうど東京裁判があり、天皇は免除されていますが、各雑誌や新聞などが天皇批判で、かなり国民世論がわいているころです。

そのときに池島さんが、日本人の天皇に対する気持ちはもっと素朴なものじゃないのか、そういう世論に対するアンチテーゼとして「天皇陛下大いに笑ふ」をやったと。初めは「天皇大いに笑ひ給ふ」という題でしたが、どうせアンチテーゼで出すなら、世論に格好つけないで「天皇陛下大いに笑ふ」でいいと佐佐木茂索が言ったという話です。誰か批評で書いていました。『文藝春秋』も世論に乗って「給ふ」を抜かしている。代りに「陛下」をつけている、何事であるかと。世論が一方的に動くときには雑誌の果たす役割があるんだということはよく言われましたね。

超一級の資料「昭和天皇の独白八時間」

「昭和天皇の独白八時間」

「昭和天皇の独白八時間」
(『文藝春秋』1990年12月号・目次)

篠﨑昭和天皇に関しては「昭和天皇の独白八時間」がありますね。

白石90年12月号の特集記事です。未公開記録で、昭和21年3月から4月にかけて、太平洋戦争の経緯を側近らが4日間にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものです。

この聞き書きの存在は、断片的に『側近日誌』によって暗示されていましたが、この年に発掘された記録は全内容を天皇の語りのままで、「私は……」という一人称で記録してあり、戦中の昭和天皇の姿が初めて明らかになったと言えます。

この記録を残したのは、当時、昭和天皇の御用係を務めていた寺崎英成氏で、娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんが父上の遺品を整理されて発見されたと、連絡が入った。

資料が本物かどうか、半藤さんに見てもらいました。しかし、何のためにこの記録が作られたのか、不明な点は多いのですが、当時は戦犯逮捕や天皇退位が検討されていた時代状況です。独白録は「天皇無罪論」を補強するため、天皇ご自身からお話を伺う機会をもったものとも考えられるし、逆に、自ら昭和を回想して後世に記録をとどめようとのご熱意を抱かれたとも推察される超一級の資料です。

城山三郎――経済問題など多方面に寄稿

『文學界』戦後復刊の第1号

『文學界』
戦後復刊の第1号

篠﨑城山先生は読者として『文藝春秋』を最初にお手に取られたときのご記憶はありますか。

城山私が大学在学中の学長は上原専禄という人で、君たちは古典を読みなさい。本を読みなさい。新聞、雑誌は読む必要は、ないと。(笑)

篠﨑『文藝春秋七十年史』によれば昭和52年6月号から、「国際経済戦争の最前線をゆく」を連載されていますね。

城山『文學界』に投稿した「輸出」が新人賞をもらったから、その延長線上でしょう。「経済の時代のエース城山三郎氏」と書いてある。(笑)

半藤経済の専門家である先生が、中国とかソ連とか方々に行ったんです。

白石非常に新鮮で魅力的な企画でしたよ。城山先生と『文藝春秋』とのご縁は非常に長いし、頻度も高く、いろんな分野にわたっています。

城山アメリカ講演旅行も第1回目ですから。柴田錬三郎さんと私と山崎朋子さん。

白石今年だけでも『文藝春秋』に3回お書きいただいています。7月号では「私をボケと罵った自民党議員へ」、これはメディア規制に対してお怒りになって書かれた。4月号では「危機の蔵相 その生と死」、2月号では「企業戦士の悠々自適」、これは「無所属の時間」が、いかに大切かを説かれたものです。

半藤つまり、評論家にやらせると経済問題とかは複雑になってしまうから。とにかく城山さんは便利なんです。

白石『文藝春秋』は経済に弱いという弱点があったんです。専門家の学者に経済問題を書いてもらっても編集者が大体理解できない。城山さんがお書きになると、人間が生きてきて、非常に面白い。

半藤編集者が読んで理解できないものは載せたくないんです。

自民党の政治家を描いた「賢人たちの世」は『文藝春秋』の連載

篠﨑城山先生は、お若いときから作家になろうと思われたのですか。

城山私は商家の長男ですから跡を継ぐことになっていた。それで本ばかり読んでいるから、これにうちを継がせたら、うちはつぶれるということが親はわかってきて、10歳違いの弟に家督を。だけど経済の学校へ行けと。

名古屋で商家の長男の場合ですと、名古屋商業学校ということになります。そこから行けるベストのコースの学校というと一橋。しかし、卒業後は一橋に残ることよりも、とにかく本を読むことをしたい。そしたらおやじが、学者でいいから名古屋に帰ってこいというので、愛知学芸大学へ。11年勤めました。

白石私が『文藝春秋』の編集長をやっているときに、城山さんに「賢人たちの世」というのを書いてもらったんです。連載です。

昭和の三賢人と呼ばれた政治家、椎名悦三郎、前尾繁三郎、灘尾弘吉の3人です。このころ自民党は腐敗し切っていたんですよ。これは田中角栄の後遺症などがあって、権力闘争が激しかった。総裁選で依然として金が乱れ飛ぶという時代でした。

城山そういうときに竹下さんが総理になってすぐ、そういう批判にこたえるために民間から賢人と呼ばれる人を何人か集めて顧問にして、政治をよくしたいために賢人会議を発足させるといって、小渕官房長官から直接電話がかかってきた。

「賢人会議のメンバーになってほしい」「いや、私はそういうことはしませんから」「でも、話だけでも聞いてほしい。三拝九拝してもいい」と。それで「今から旅行に行くことになっていますから」と言って、バッと箱根に行っちゃった。

それで賢人たちが昭和にいたというから、賢人と言われる人が日本にいたのかと調べ出した。やっぱり3人とも立派な人ですね。

白石こういう方も自民党にいるということで、非常に大勢の方に読まれました。

「輸出」が新人賞を受賞したのは『文學界』だったから

城山私は昭和32年に『文學界』の新人賞に「輸出」という小説を投稿しました。戦争中は忠君愛国の大義があったけど、戦後は輸出立国という大義がある。新しい大義が出てきたということを書いたのですが『文學界』に投稿してよかったね。ほかの文芸雑誌に投稿したら「輸出」という題を見ただけで文芸雑誌の編集長は落とすでしょう。

半藤そうですね。もしかすると、2、3枚読まれただけで落選。

城山編集長が上林吾郎さん。あの人は自分で戯曲を書くぐらい文学もわかるけれども、文藝春秋の伝統で社会もわかる。それで、下読みの段階で残してくれたんでしょうね。それで選考委員会ではもめた。3対2で、私を推した平野謙さんは、その後の「文芸時評」で、新人賞の選考委員として「輸出」を推したのは間違いであったと書いてある。あれ、きっと近代文学の仲間に言われたと思う。

半藤あんなもの小説じゃないと言われたんですかね。

城山そう言われたと思うね。反省しているなんて書いてある。3対2だからひっくり返るところだからね。

半藤危なかった。

城山伊藤整さんも選考委員で、伊藤整さんは私の大学の先輩なんですが、相手を推している。あの人は文壇にすごく気を使った人だから、後輩を推したと言われたくなかったんでしょう。それで後で会ったときに、僕は何もできなくてごめんねと言いましたね。だから、危なかったですよ。

白石城山さんはタイトルのつけ方がお上手なんです。『粗にして野だが卑ではない』は、何年間も続いた日本の1つの道徳基準といいますか。

城山石田礼助の言葉だから。借用がうまいんです。三賢人とか。

白石大ベストセラーですね。

篠﨑その言葉は、人口に膾炙(かいしゃ)しました。

半藤『大義の末』もいい題です。あれが発表されたとき、うまい題だと思いました。

芥川賞・直木賞――友情と恩返しが文学賞に結実

篠﨑文藝春秋さんは芥川賞・直木賞を制定されましたね。

白石『文藝春秋』の編集部は10人ちょっとしかいないんです。けれど、時のニュースに関心をもって、それを取材したり原稿を発注するのは『文藝春秋』の「春秋」の部分です。それだけではこの雑誌の編集者は務まらない。文芸もわかれということなんです。

それで『文藝春秋』の目次に何本か連載小説が載っていますが、高名な先生方ばかりです。編集者は、その人たちの原稿取りをしつつ、一方で、その時代の大きなニュースを追いかける。両方やっています。『文藝春秋』の編集部では、おまえはニュース専門、おまえは文芸専門とはなってないんです。

芥川賞・直木賞のときに、『文藝春秋』の編集長が司会をやるんです。社長は芥川賞の選考委員の席に陪席するんですが、一切しゃべってはだめなんです。しゃべると、選考委員の先生に怒られるんです。だけど、ひょっとして自分に質問でも来るんじゃないかと思うから、ちんぷんかんぷんじゃしようがないので、そのためには、候補作を全部読んでないといけない、俺は苦手だというのでは困る。そういうのが伝統的な『文藝春秋』の編集部のあり方です。

半藤そうですね。ですから、戦前も戦後も小説家が社長なんです。小説家の社長が亡くなった後は、池島信平さんは一種の文人ですね。

要するにこの会社は、編集者は文学というものがわからなきゃだめだというのが基本にあるんです。『中央公論』の人と一緒に酒を飲むと、彼らは空理空論ばかり(笑)。『文藝春秋』の人たちは空理空論は余りやらない。あいつは文学がわからんとか、大体現実論をやるわけです。

担当が終わった後も谷崎潤一郎や佐藤春夫と会う

半藤そういう意味では私なんかも実にいい経験をしました。若いころ『文藝春秋』の編集をしていたときに、谷崎潤一郎さんの『幼少時代』、佐藤春夫さんの『人生の楽事』の担当になり、谷崎さんと佐藤春夫さんの所へ伺うわけです。それで担当の仕事が終わっても、時々谷崎さんや佐藤春夫さんに会ったりしている時代がありました。その意味では、こんなにうれしい会社はないと思いましたね。ですから、一般の総合雑誌の人たちのように、俺は経済だ、俺は政治だとか、すみ分けにはしないんですね。

篠﨑それがいいんでしょうね。文藝春秋の風土というか、独特のお人柄がある。

白石その点、半藤さんなんか際立っているんだけれど(笑)、歴史だけは勉強しろと。昭和史は特にね。

半藤それは池島さん麾下でやっていましたね。池島さんは特に歴史好きですから。

芥川が病気になっても書いた売り物の「侏儒の言葉」

『文藝春秋』第2期同人

『文藝春秋』第2期同人
(前列左が菊池寛、その後ろ左から斎藤龍太郎、芥川龍之介、宇野浩二、久米正雄、佐佐木茂索、直木三十五)

篠﨑芥川賞と直木賞は文藝春秋という会社が差し上げる賞かと思っていたんです。

半藤違うんですよ。財団法人日本文学振興会。理事長は社長じゃないんですか。

白石あくまでも文学振興会の理事長が授与しているんです。

篠﨑でも、これを創設したのは菊池寛さんですね。1回目が昭和10年ですから、財団ができる13年までは文藝春秋社がやっていた。

半藤友情でやっていたんです。芥川さんが昭和2年に亡くなって、それ以来菊池さんは寂しい思いをしていて、それで直木さんだけを頼りにしていて、直木さんも亡くなった。どうしてもこの2人のことを忘れたくない。『文藝春秋』が今日あるのは、この2人のおかげである。

芥川さんの「侏儒の言葉」が売り物ですから、芥川さんは病気になっても、それだけは『文藝春秋』に書いたんです。それから直木さんは、匿名で、最初のころからあらゆる人をバッタバッタと切りまくっています。ついでに自分も切りまくっている。わからないように(笑)。それで『文藝春秋』の匿名批評は名物だったわけです。

篠﨑『文藝春秋70年史』を拝見すると、3周年の執筆回数番付があるんです。東の横綱が芥川龍之介、西の横綱が直木三十五です。お2人は大正のころから健筆を振るわれたんですね。

半藤芥川さんなんかは、『文藝春秋』だけに書いた時代もあるんじゃないですか。そういう意味では菊池さんはお2人に対してものすごく友情も感じたし、それで最初はその恩返しなんです。ですから、そんなに一生懸命やるつもりもなかったようですよ。

ところが、これが受けた。そのころには佐佐木茂索さんが、これは経営と別にやるべきであると、ちゃんと文学振興会と分けたんです。

篠﨑佐佐木茂索さんの功績は大きいですね。

半藤ものすごく大きいです。茂索さん、茂索さんと気軽に言うけれど、おっかない人で震え上がったものです。

白石社長と言わないで先生と呼んでいた社員もいた。今でもOBたちが「先生」と言うと佐佐木茂索です。

経営を軌道に乗せたのは2代目社長の佐佐木茂索

篠﨑創刊号は全部売れたけれども、赤字だったんですね。それで、経営を軌道に乗せていったのが、2代目社長の佐佐木さんということですか。

半藤そうです。戦後に聞いたバカ話ですが、文春は売れていたので、ものすごく紙を使ったんです。紙はロールになってますから、使い終わると芯が残りますね。あるとき、総務部長か誰かを社長室に呼び、「君、つまらんことを聞くけど、あの芯はどこへやるのかね」「そのまま返しています」「返すことはないじゃないか。あれは文春が全部買ったんだ。それをタダで返す必要はない」と。

それで、また芯に使うわけです。これは笑い話ですけど、そのぐらい厳しく目を光らせた。

篠﨑でも、そういう方は大事ですよ。『文藝春秋』の定価は最初は十銭で、廉価も1つのキャッチフレーズになっていますね。

白石そうです。『中央公論』がそのとき八十銭です。

半藤でもだんだん廉価ではやっていけないので、悲鳴を上げながら少しずつ上げています。悲鳴を上げるのも読者に見せるんです。編集後記で、これこれでとてもやっていられないから、これから十五銭に上げさせてもらうと。

篠﨑今では信じられないけれども、表紙に全部「菊池寛編輯」と書いてある。すごいパーソナリティーのある雑誌という感じですね。

半藤と思いますね。昭和14年3月号を限りに、戦争が激しくなってから取ったんです。ご自分が国の報国会とか、あっちの会長とかに奉られたりするので、実際に一々見てやっていられない。責任のないやつはだめだというので外したんです。

菊池寛賞のほか、大宅ノンフィクション賞や松本清張賞も

篠﨑文学の振興をはかるため文藝春秋さんは芥川賞・直木賞のほかにも賞を設けられています。菊池寛賞は城山先生も選考委員ですね。

白石もちろん。今は選考顧問という形でお願いしています。この賞は膨大な量を読んでいただくので大変です。

半藤菊池さんは幅の広い方ですから、全部網羅するとなると、文学、理系、戯曲、放送、スポーツ、とにかくありとあらゆる。

城山資料は段ボール2箱です。

半藤とにかくあの人は自分で全部やっていますから。馬主ですからね。映画の大映の社長で、そういうことで全部やっているので、広範囲になるんです。この賞はえらい賞ですね。

篠﨑ほかに大宅壮一ノンフィクション賞、松本清張賞を設けておられますね。

多岐にわたる出版活動――女性誌・スポーツ誌も定着

『CREA』『Number』・表紙

『CREA』『Number』

篠﨑『オール讀物』も創刊70年を超えていますね。単行本、文庫、新書もありますが、創業70周年のときに『CREA』を出していますが、我々としては異色に感じたんですが。

白石これは今定着してきました。今では臨時増刊も出せるようになってきましたが、10年かかりました。ああいうものはうちの編集者気質に合わないというのが伝統的にあったんですが、そっちの分野に出ていかないとまずいという当時のトップの判断で、平成元年に始めています。女性誌への意欲は、私が会社に入ったころ、佐佐木茂索のころからあったんです。

半藤『別册文藝春秋』は戦後すぐぐらいの雑誌です。ですから、最近になって一番最初が『諸君!』(昭和44年)。それから『Number』が来て。

白石その後『Emma』で、『Focus』などが出たあとに創刊するんです。ただ、これは売れ行きに関係なしにやめようというトップの判断でやめましたね。

半藤『文藝春秋』の真価のためにやめる。

城山上林吾郎さんがつくった同人の雑誌『ノーサイド』というのがありましたね。

白石あれは平成3年で、上林さんが会長になってからつくった。あのときはほかにも2誌つくっている。3誌とも短命で終わっていますが。

半藤一言つけ加えておきますと、『オール讀物』にしろ、『漫画讀本』にしろ、これはみんな『文藝春秋』の臨時増刊号です。『文藝春秋オール讀物号』、『文藝春秋漫画讀本』とか。要するに昔の『文藝春秋』は、たくさん別冊をつくった。それがたくさん売れると、これは独立したほうがいいんじゃないかと。

80周年記念出版の『口語訳古事記』はロングセラーに

篠﨑80周年ということで、新しい企画を進められていますが、記念出版物をいくつか出しておられますね。

白石今、着々と出ていますが、単なる記念出版というだけではなくて、読者に買ってもらおうということです。そういうことをかなり意識してやっています。

それで『古事記』というのを、わかりやすくするため、古老をつくり出して、古老が語るという形での『口語訳古事記』を出したところ、これが売れまして、七万を超えました。これは今後ロングセラーになりつつありますので、楽しみなんです。

それから『世界戦争犯罪事典』は、三人の監修者がいますが、日本の定評のある学者、それからドイツの学者、その人たちが集まっていろいろな戦争について、極力事実のみで説明していこうという画期的な本です。これは本来ならば新聞社なんかが出してしかるべきものです。よく文藝春秋が出したと。ですから南京大虐殺などについても非常に客観的なものを提示しているんです。オピニオン性は全く入ってきていない。

それから『沢木耕太郎ノンフィクション』(全9巻)は、今、最も成熟した、しかも、ノンフィクションライターとしては若者にとって教祖的な存在の人が人生の途上で、自分の作品集を出すのは承諾しないと思っていたら、オーケーしてくれたんです。これもすぐ重版にかかったりしてベストセラーの上位にも顔を出しています。

それから中国古代物をずっと書いてきた宮城谷昌光さんの全集。これは他社の協力も得て全21巻で、11月に刊行を開始しました。

司馬遼太郎さんの対談集も11月から出しています。書きおろしでは、『本格ミステリー・マスターズ』がすでに5巻出てますが、全部で20巻ぐらいまとめて出します。

あと『芥川賞全集』『藤沢周平全集』を完結させようということで進めているということです。

篠﨑きょうは面白いお話を本当にありがとうございました。

城山三郎(しろやま さぶろう)

1927年名古屋生まれ。
著書『賢人たちの世』 文春文庫 448円+税、『落日燃ゆ』 新潮文庫 750円+税、ほか。

半藤一利(はんどう かずとし)

1930年東京生まれ。
著書『漱石先生ぞな、もし』正・続 文春文庫 正560円+税、続457円+税、ほか。

白石 勝(しらいし まさる)

1939年東京生まれ。

※「有鄰」421号本紙では1~3ページに掲載されています。

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