Web版 有鄰

421平成14年12月10日発行

神坂次郎と『猫男爵』 – 人と作品

史実に立脚した面白さの歴史小説

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神坂次郎

上州下田島の120石の大名

神坂次郎氏の『猫男爵(バロン・キャット)』(小学館)。これは近来になく面白い歴史小説だ。くどいようだが、それは荒唐無稽の面白味ではない。史実に立脚した面白さなのだ。

まず、主人公の猫男爵こと岩松満次郎俊純の意外性にひかれる。上州下田島の“120石の大名”なのだ。本来、大名とは1万石以上でなければ言わないが、満次郎俊純はたったの120石でありながら、江戸参府に際しては駕籠から袋傘に至るまで、最高級の格式のものが許され、江戸城での控えの間も大名・高家の「柳の間」。

なぜこれほどおかしな大名が誕生したのか。これはそのルーツに由来する。岩松満次郎俊純は源氏の祖、八幡太郎義家の正嫡、新田義貞の末裔だったのである。その系図に目をつけたのが徳川家康だ。

鎌倉幕府以来、征夷大将軍には源氏の血脈でなければ就けない、という不文律があった。由緒正しからざる家康はこの系図を分捕って自分のルーツを割り込ませたのだ。家康に狙われたのは、家臣に居城の実権を握られて僧衣をまとって逼塞していた13代岩松守純だった。家康に呼び出されて系図を持参し、広げて見せはしたものの、そのとき守純は耳が聞こえないふりをしてとぼけた。

「家康ご不興であった、と当時の記録に書かれています。そのため家康は、代償としてわずか20石をくれてやっただけだったんです。120石じゃない。たったの20石。それもいちばん辺鄙なところです。100石加増されたのは、その後、4代将軍家綱の代になってからです」

作者はこの土地を現地に足を運んで検証した。今でこそ改良され地味もよくなったものの、当時いかに条件の悪いところだったか確認できたという。

この土地柄だけでなく、全体にわたって採算度外視で詳しく実地検証しているのが、この作品の特色だ。数度にわたり現地を訪ね、バスを乗り継ぎながら、歩き回ったり、郷土史家や古老の話を聞いたりした。「私は元飛行隊の偵察兵でしたから、実際にチェックしないと気が済まないんですわ」。そのメモは、膨大な写真とともに作者の手許に保存されている。

農民の求めに応じネズミの被害に猫の絵を描く

岩松満次郎俊純が後年“猫男爵”と呼ばれたゆえんは、幕末、関八州にネズミが大量群生し、農作物や養蚕に甚大な被害をもたらした際、農民たちの求めに応じて、猫の絵を描いて下げ渡したからである。それらはすでに保存も悪く、破損しているものが多いが、旧家などから出てきて、古書店などに現れるという。

それらの中で傷みの少ない1枚を作者は入手した。本書の表紙を飾っているのがそれだ。それを見る限り、いかにもネズミが怖がりそうな威風堂々たる猫の絵で、満次郎は優れた画才の持ち主であったことがうかがえる。

綿密な時代考証とともに、このようにして作者が収集した珍しい史料が写真でちりばめられているのも、本書の特色である。たとえば当時の江戸ッ子が120石の大名をはやし立てた。「当世流行の見立て番付」のチラシ。「江戸中に二つないもの」の西の関脇に「百二十石、乗物 袋傘」と大書されている。

岩松満次郎の江戸屋敷は、駿河台の西、裏猿楽町にあった。江戸屋敷といっても百二十石の殿、当世に換算すれば年収380余万円という中流以下のサラリーマンの暮らしだから、旗本の屋敷の一棟を借りているに過ぎないが、ここではお耳役の藤蔵が近侍していて、幕府の内外で発生する事件を伝えてくれるのが面白い。藤蔵は作者がつくった人物だが、その話の内容は作者が丹念に収集した実話ばかりだ。

一例を挙げれば“虫責めの刑”。安中藩主水野信濃守が夫婦喧嘩に端を発し、正室に尻を斬られた事件で、信濃守は乱心として改易され、その寵愛を受けた妾は、裸にして大がめに入れられ、幾千匹もの蛇を注ぎ込まれたのだ。その残酷な刑の光景が史料から引用されている。

幕末、満次郎は新田官軍を立ち上げ武勲を立てる。その後は順風満帆。娘の武が維新後、長州藩の井上馨と結ばれる。井上馨は武を“武子”と呼んだ。華族の女性は名前の下に“子”を付けるようにとの政府通達を先取りした馨の心意気ではないかという。

明治16年、満次郎は特旨をもって華族に列せられ、従五位に叙せられる。バロン・キャットの誕生だが、その背後に武子と井上馨の後押しがあったことは紛れもないことだったという。

(藤田昌司)

『猫男爵(バロン・キャット)』・表紙

猫男爵(バロン・キャット)
神坂次郎/小学館/1,500円+税

※「有鄰」421号本紙では5ページに掲載されています。

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