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419平成14年10月10日発行

[座談会]鎌倉大仏建立750年 -記念特別展と発掘調査の報告-

文化庁文化財審議会専門委員・成城大学教授/清水眞澄
神奈川県立金沢文庫長/高橋秀栄
鎌倉大仏周辺発掘調査・主任調査員/福田 誠

左から高橋秀栄・清水眞澄・福田誠の各氏

左から高橋秀栄・清水眞澄・福田誠の各氏

※印の写真は鎌倉市教育委員会提供

はじめに

国宝・阿弥陀如来像(定印)―高徳院

国宝・阿弥陀如来像(定印)―高徳院
井上久美子撮影

編集部鎌倉・高徳院の大仏は、建長4年(1252)に鋳造が開始されてから、今年は750年に当たります。これを記念して、神奈川県立金沢文庫では特別展「鎌倉大仏と阿弥陀信仰」が10月3日から12月1日まで開催されます。

大仏造立には多くの謎があり、歴史や美術史、仏教史など、さまざまな面から研究が進められてきましたが、昨年と一昨年、大仏の周りの発掘調査が行われ、造立に際しての遺構やかつて大仏を覆っていた大仏殿の規模が判明しました。

本日は、大仏のさまざまな謎の解明にアプローチされている研究者の方々にお集まりいただき、研究成果を伺いながら、金沢文庫で開催される特別展についてもご紹介いただきたいと考えております。

ご出席いただきました清水眞澄先生は、中世美術史がご専門で、成城大学教授でいらっしゃいます。文化庁文化財審議会専門委員などを務めておられます。

高橋秀栄先生は神奈川県立金沢文庫長でいらっしゃいます。中世仏教史がご専門で、今回の特別展を担当されました。

福田誠先生は一昨年と昨年、鎌倉市教育委員会が実施した大仏周辺の発掘調査の主任調査員を務められました。鶴見大学でも教鞭をとられております。

大仏をめぐる7つの謎

編集部鎌倉の大仏にはさまざまな謎があると言われていますが、最初に清水先生から問題点をいくつか挙げていただけますか。

清水鎌倉大仏に関しましてはわからない点が大変多い。

“謎”と言っていいかどうかわかりませんが、わかっている点、わからない点ということで、7つ挙げました。

1つは、現在の銅造の大仏ができる前に木造の大仏があったということ。

『吾妻鏡』の嘉禎4年(1238)に「深沢の里の大仏堂事始め」とあって、仁治2年(1241)に大仏殿が完成し、寛元元年(1243)に供養が行われている。このときは木造の大仏です。これは『東関紀行』という紀行文にもはっきり書かれています。それが、約10年後の、『吾妻鏡』の建長4年(1252)の記事に「金銅の釈迦如来を鋳始める」とでてきます。なぜ木造が銅造に替わったか、その理由がはっきりしないという点が1つ。ここには釈迦如来と書かれていますが、これは阿弥陀如来の単なる誤りで、現在の大仏が建長4年のものであることは間違いないと思います。

2番目は勧進聖人、つまりお金を集めるお坊さんとして浄光という方が出てきますがその人がどういう人であったか、出自その他が不明な点。

3番目は、鎌倉幕府によって編さんされた『吾妻鏡』には浄光一人の名前が出てきますが、あれだけの大仏をつくるので、恐らく幕府なり北条氏が関与していたのではないかという施主について。

4番目は、鎌倉に大仏が造られる40年ぐらい前に東大寺の大仏の開眼供養がありましたが、東大寺とのかかわりはなかったのかという問題。

5番目は、銅造の大仏についてですが、その技術。どのようにして現在の銅造の大仏をつくったのか。この点は、まだ問題が残されています。原型の素材の問題、あるいはそれをどのように完成に導いたか。それをつくった鋳物師についてもよくわかっていません。

6番目は、大仏の完成の時期がはっきりしていない点。

7番目は、現在の大仏の阿弥陀如来は、着衣として衲衣(のうえ)をまとっていますが、その着方が、非常に珍しい形式であるという点。また手をおなかの前に組んで、いわゆる弥陀定印という形をとっていますが、なぜ定印の阿弥陀であるか。

その他にもわからない点が幾つもありますが、以上7つの点を主に挙げました。

発掘調査――大仏の周囲は地層が斜めに堆積

大仏の周囲の斜めに堆積した地層

大仏の周囲の斜めに堆積した地層※

編集部こうした謎を踏まえて、大仏周辺の発掘調査からはどういうことがわかってきたのでしょうか。

福田発掘調査というアプローチから、どういう見方ができるのか。それから実際に発掘調査を行ったときに、どんな結果が見えてきたのかをお話しします。

清水先生が挙げられた謎の中で木造の大仏と銅造の大仏については、結論から言うと、木造の大仏については痕跡がつかめませんでした。

それに大仏ができてから750年の間に境内はいろいろ手が入れられており、一筋縄にはいきませんでした。

それでも一昨年の調査で一番最初に、大仏の正面を掘ったときに、露出した地面に縞模様が見えたのです。大仏に向かって平らな地面の所を上から見ると、大仏に向かって帯状に並んでいる色の異なる地面が見つかりました。当初それがどういうものなのかわからなかったので、今度は横を深く掘ってみましたら、大仏に向かって堆積している土が斜めになっていました。それを水平に切ってしまっているので、実際に地面の上で見えるものは全部、縞模様に見えることがわかりました。

大仏の周辺、大仏の正面・左側面・裏側を同じように調査したところ、大仏を中心にして、周囲の土の堆積が全部斜めになっていたことがわかってきました。

大仏の周りをどんどん埋めていった痕跡

ふいごの羽口・左ふいごの羽口・右

ふいごの羽口※

福田そして、斜めに堆積した土の中から、ふいごの羽口(銅を鎔かしたときの送風管の口)の破片とか銅滓(鎔かしたときのかす)、飛び散った銅の破片などが出てきたんです。

そこで考えたのは、それは大仏を中心として円錐形の堆積になっていたんだろうと。清水先生のご著書の中で、大仏を鋳込んでいくときに、周りを土で埋めていくイラストを見た記憶があったのです。斜めの堆積が全部大仏を中心としているので、鋳造のときに鋳型を押さえるため周りをどんどん埋めていった痕跡が今、見えているんだろうということになったんです。

大仏をつくる前に地面を整地していた

大仏周辺根固め遺構模式図

大仏周辺根固め遺構模式図※

福田それから大仏をつくる前の地面はいったん全部整地していることが、さらに深く掘った所でわかりました。斜めに堆積している土層の下は土の堆積が全部平らなんです。

編集部それは地下何メートルぐらいですか。

福田大体海抜11メートルぐらいで、全部そろっています。現在、大仏の周りに石畳があります。これが大体14メートルです。当時の地表はそれより1メートル下でしたから、およそ2メートル下です。平らな大きな敷地をつくるというのがまず一つ。

しかも、裏に山が迫っています。大仏の位置は大谷戸と小谷戸のちょうど合流地点の所なので、地盤としては、後ろには山の岩盤があるので、平らにした地面も岩盤が露出していたと思われます。そうすると、大仏は後ろはしっかりした地面で、前のほうは谷で、それを埋めているから、前のほうが弱いんです。それをある程度しっかり固めているとは思うんです。

例えば関東大震災のときに大仏は前にずれています。それは、もしかすると地盤と関係あるのかもしれません。

使われた銅は宋銭ではなく、塊を国から輸入

福田それで、実際に出てきた銅の破片などを成分分析してみたんです。

昭和30年代に大仏の台座を修理したときに、東京国立文化財研究所が大仏の銅の成分分析をやっています。その頃の資料しかないんですが、今回出土した銅の破片も、それとごく近い値でした。それから銅に含まれている鉛の分析から、中国の華南産の銅が使われているだろうということまではわかってきました。

大仏は鉛が多いと言われ、宋銭を鋳つぶしたとか、よく言われていますが、宋銭には一個一個の品質に結構ばらつきがありますので、そういうものを鎔かしたのではなく、塊として中国から輸入したものを使っているんじゃないかなと思います。

鎔かした青銅を40回ぐらいに分けて流し込む

大仏の鋳込んだ痕跡(左背後から)

大仏の鋳込んだ痕跡(左背後から)

編集部今のお話で、大仏の周辺の地層が斜めに堆積しているということですが、これは鋳造していくやり方と関連しているわけですね。

清水鋳造するためには、まず原型(原像)がなくてはいけない。それをもとに外型と中型をつくって、その両方の型と型の間に、銅に錫・鉛などをまぜた青銅を鎔かして流し込むという作業なんです。

それが11メートル以上ある大きな像ですから、一遍に型をつくることができないので下から何段にも分けて外型と中型を置き、それに流し込み、また固まった段階で、その上に型を積んでもう1回流し込む。大仏は段から言うと8段になるわけですが、実際は恐らく40回ぐらいに分けて鋳込んでいるはずです。

編集部同じ段でも前とか後ろを別別に型をつくっているからですか。

清水そうですね。8段ですが、1段をいくつかに分けて鋳込みますので。

高橋それに携わる人たちで、鋳物師とかは、1回につき何人ぐらいがかかわっているんですか。

清水全くわからない。鋳物師は別にして、原型をつくる人、型をつくる人、木を切る人、運ぶ人、鎔かす人、鋳込む人がいて、ものすごい人数でしょうね。

編集部型自体は何でつくるんですか。

清水真土型と言って、粘土に近い鋳型用の土をふるいにかけて細かくし、それを焼いて固めてつくるんです。そしてその中に流し込む。型はある厚みしかないので、それを固定しなければいけない。固定するには、もちろん木も使ったでしょうが、外型を押さえるために土で固めるというのが基本的なものでしょうね傾斜している土の堆積が発見されたというご報告で、まさにそういう技法でつくられたのかなという思いはあります。

原型を近くに置き、そこから型をとって鋳造

編集部清水先生がおっしゃった真土型の遺品は出てこなかったんですか。

福田できた後、そういうものは全部壊してしまいますから。今回見つかった斜めの堆積も、結局、つくっていく途中のものではないんです。大仏を全部鋳込んでしまうと土の山ができる。今度はその土をどけて大仏を掘り出すわけです。掘り出すときに、一番最初に整地した所から、大仏殿の基壇の高さになる分だけ掘り残した。おかげで残ったという形になります。

型の破片みたいなのも幾つかありましたが、どこの物かは全然わからない。赤黒く焼けていることは確かですね。

清水東大寺の大仏の場合は、若草山のほうを削って盛りそれで整地して大仏をつくるわけで、そういう点も似ていると思うんです。盛った方から型とか、銅の破片、木簡などもたくさん出ているんです。

鎌倉の場合、今度出てきたのは、どの辺が多いですか。

福田向かって左側からです。ただ、周りではずっと同じように鋳込んでいきますから、大仏を掘り出したときの土と鋳型の破片は、そう遠くないところ、たとえば裏の谷間に捨てている気がします。

清水そこは全部かさ上げしているんですね。

福田現在の大仏を鋳込むときには、型をとる原型と、鋳込まれていく大仏が2つ並んでいたんでしょうか。

清水そこが、やはり問題ですね。鋳型をそんなに遠くから運ぶとは考えられないので、原型を割と近くに置いたと思うんです。原型を置く場所と、これから銅造の大仏をつくる場所をあらかじめ考えてつくったと思うんです。

大仏の原型はもともとあった木造の大仏を利用か

福田鎌倉の今の大仏の原型は、やはり木でしょうか。

清水私は木だと確信しているんです。土という説もありますが、これは何倍も労力と難しさが加わるから、そういうことはあり得ないと思います。原型が土であるか、木であるかは、鋳造技術にとって大きな問題なんです。

編集部『吾妻鏡』の記事にある木造の大仏が今の大仏の原型としてつくられたとも考えられるわけですか。

清水それはないと思う。鎌倉の大仏を知る手がかりは非常に少ないのですが、もともと6年ぐらいかかってお堂ができて、しかも、そのお堂は『東関紀行』の作者によると「十二楼のかまへ望むにたかし」という大きなものだし、良信という偉いお坊さんが来て開眼供養をしているので、当初から原型のためにつくったものでないのは確かだと思います。ただ、その木像が何らかの形で残されていて、それを利用したとするのが一番合理的な考えではないかと思います。本来、その目的でつくったのではないけれども、結果的にはそれを原型とした。だから、脇に置いて型どりすることはできたんじゃないかと考えています。

大仏殿の礎石の下は何層も砂利を敷きつめる

大仏殿の礎石

大仏殿の礎石※

編集部発掘では地層のこと以外に、どのようなことがわかりましたか。

福田今の露座になっている大仏自身も、当時大仏殿があって、記録にも出てくるんです。幸いにも火災がなかったおかげで、今の大仏は残っているんですが、大仏殿が実際にどのような規模であったか、今までわからなかったのが今回の調査で明らかになった。これが、2つ目の大きなポイントです。

大仏殿を探索してやろうと調査しましたが、礎石が全部抜かれてしまっていました。現在、大仏の周囲に平べったい礎石がぽんぽん置いてありますが、あれは全部いいかげんに置いてあるだけなんです。

大仏殿柱間図

大仏殿柱間図※

一昨年、境内に礎石が幾つ残されているか全部調べてみたんです。すると大仏の周囲に置かれているだけでなく、庫裏の庭の庭石として立っていたり、溝の縁の石として置かれていたり、庫裏の裏に行くと、真ん中がくり抜かれて水盤になっていたり。そういうものも全部含めて残されているのは、53個までは確認できました。大体60個あったというような江戸時代の記録があります。なぜ60個かというと、7間4方の建物だから、柱と柱の間が1間で8個、8×8で64個。そして大仏の所の真ん中が4つ抜けるので、ちょうど60個でいいのかなと思ったんですが、実際に礎石自体は抜かれてしまって残っていませんでした。

大仏殿の大きさは間口145尺奥行きは140尺

大仏殿の礎石の下の根固め

大仏殿の礎石の下の根固め※

福田実際の地面の上にはもう残されていませんでしたが、そのかわり礎石があったであろうという所に直径3メートルぐらいの範囲に直径10センチぐらいの砂利がずっと敷きつめられている。

考古学の場合、わからなかったら、地面を掘ってみて横から見るというのが常套手段ですので、掘ってみると、深さ2メートルまで、砂利と泥岩をサンドイッチにつき固めているんです。違う2種類の土を交互につき固めながら、版築という土壌改良をやって全体の強度を上げる方法がありますが、どうもそれに似た形で、礎石の下の部分だけに根固めをやった跡がそれだろうということがわかってきました。

それが一昨年の調査で3か所見つかり、昨年の調査では7か所で見つかりました。一昨年の調査で、大仏殿は間違いなくあったということが確信としてつかめたので、昨年は規模を確定しようということで調査したわけです。

実際に7間4方の大仏殿の跡が見つかり、資料を裏付けるように、間口が145尺(約44メートル)、奥行きが140尺(約42・5メートル)の規模の大仏殿が間違いなく、ここにあったということが明らかになりました。

高橋日蓮が上野殿という人にあてた手紙の中に、大仏堂の釘が大根のように大きいと書いてある。大根を6本贈られて、そのお礼の手紙に書いている。だから、日蓮は実際に大仏や大仏殿を見ているということですね。

土壌改良に使ったのは茅ヶ崎海岸の砂利

高橋発見された砂利は、どのあたりから運んできたものなんですか。

福田鎌倉では、岩盤と言っても泥岩と砂岩しかないので、砂利は、全部よそから持ってきています。茅ヶ崎の柳島あたりの海岸の砂利を持ってきたのではないかと、元神奈川県立生命の星・地球博物館の松島義章先生から教えていただきました。

それから礎石に使った大きな平べったい石はどうも早川とか、根府川の上流の石を実際に岩盤から切り出してきたものを加工しているだろうということです。

高橋砂利一つでも、相当の人員を動員していることがわかりますね。そういう意味ではいい発掘調査で、画期的なことですね。

福田それと、今回の調査では瓦がまったく出ないんです。ということは、屋根を葺いている材料は、檜皮葺とか柿葺ではないかと思われます。

清水東大寺の大仏殿と違うわけですね。

鋳造を始めて8年から12年で完成

高橋銅造の大仏の完成時期ですが、清水先生は前に建長4年(1252)に鋳造が始められて8年から12年たったころ完成したんじゃないかと発表されました。それを決める手がかりは、鋳造に携わった鋳物師の丹治久友の肩書を挙げられています。

完成以前はただの「鋳師」でよかったけれど、大仏の鋳造が終わったら、その功績が認められたので、それ以後、「新大仏鋳物師」の肩書を使い出した。大仏の完成の時期はもっと早まってくるかと思うんですが。

清水そうだと思います。4年の差なんですね。大仏の完成は文応元年(1260)から文永元年(1264)頃までの間と言いましたが、鋳始めてから早くて8年、遅くとも12年くらいかかっているのではと言ったのです。

高橋正嘉2、3年(1258−9)頃に、鎌倉入りした良忠上人が慈恩坊という人を仲立ちにして、浄光の所を訪ねたら、そのときは大仏殿は造営中でまだ完成していない、いわゆる「大営未遂」という状況だった。良忠は浄土宗第三祖の法灯を継いだ方です。

そして翌年、文応元年の川越の養寿院の釣鐘では、丹治久友の肩書が単に「鋳師」。それが、4年後の東大寺とか金峯山の梵鐘の肩書には「鎌倉新大仏鋳物師」などと刻んでいる。

また西大寺の叡尊が弘長2年(1262)に鎌倉に下って来たときの『関東往還記』という記録の中には「大仏悲田」とか「大仏の尼」という呼称が出てくるので、完成の時期を少し早めていいのかなと想像しているんですが。

清水何とも言えない。

高橋鋳物師の丹治久友の肩書の使い方ですが、大仏にかかわりを持ち始めたから使い始めたのか、完成して勲章として使ったのか。

清水勲章として使ったというのも、余り説得力がある説ではないと思っています。ただ、このぐらいにできたんだろうというふうに考えているんです。上横手雅敬さんが『吾妻鏡』の記事に出てこないのは『吾妻鏡』の弘長2年が欠巻だから、それ以後はないんだというので、2年ぐらい早めたんですが、それも説得力がない説です。

このころに完成したとすれば、文永5年(1268)に日蓮の書状の中に、大仏殿の別当を非難する手紙が出てきます。ですから、ちょうどいいんです。その後に、名越北条氏が大仏殿をつくるのにつながるので、このくらいにできていてもいいかなと。

特別展では阿弥陀来迎図や浄光の一切経も

編集部特別展「鎌倉大仏と阿弥陀信仰」では大仏と阿弥陀信仰は、どのように紹介されるのですか。

高橋この展覧会は3つの柱を立てました。まず第1に阿弥陀信仰とその造型、第2に中世の鎌倉大仏、第3に近世の鎌倉大仏の復興と大仏詣というものです。当然、中世の鎌倉大仏が中心になりますが、金沢文庫には、大仏殿の別当をした忍性の画像、金沢貞顕が大仏殿の造営費を求めるために中国に船を派遣したという文書など含めて関係資料が10点ほどあります。それに加え、まず鎌倉大仏が阿弥陀像であることから、その印相に注目しました。

来迎印の阿弥陀如来坐像

来迎印の阿弥陀如来坐像
神奈川県立歴史博物館蔵

鎌倉大仏は弥陀定印を結んでいますが、当時は来迎印の阿弥陀も結構多かった。ほかに説法印の阿弥陀もあるそうですが、今回は定印と来迎印の異なる2種類の阿弥陀を数体、展示します。定印の阿弥陀如来は伊豆の長岡の北条寺から、来迎印の阿弥陀如来は神奈川県立歴史博物館から出陳いただきました。ともに運慶様式の仏像です。

それから、鎌倉の光明寺所蔵の当麻曼荼羅縁起絵巻、さらには善光寺式三尊の形をとる横浜の龍華寺の仏像などで構成しました。特に注目されるのは知恩院から、「早来迎」の名で知られる国宝の阿弥陀二十五菩薩来迎図、同じく知恩院の中国伝来の阿弥陀浄土図を展示できることです。

浄光上人供養の阿弥陀如来像

浄光上人供養の阿弥陀如来像

それから、市原市でみつかった浄光上人の菩提を弔うために寛□(蓮)という大仏の住職によってつくられた銅造の阿弥陀如来像も拝借しました。像には、文永11年(1274)という銘文があり、これによって浄光上人がこの前年か、それ以前に亡くなっていることがわかります。

浄光が銅造大仏を鋳始める1年前に奉納した一切経

「相州新大仏」一切経

「相州新大仏」一切経
(個人蔵)

編集部浄光が奉納した一切経も出るそうですね。

高橋建長3年(1251)に「相州新大仏」に奉納されたお経です。一切経は、本来は6,000巻位の大量のお経を言うんですが、現存しているのは大般若経600巻だけなんです。この一切経は木造大仏が完成した記念に合わせて、さらに翌年につくる金銅の大仏の無事完成の祈りを込めて写させたものだと思います。

書写に関わった人たちの名前は全部で12人ほどです。結構大がかりな書写行で、20人いれば30巻ずつ経典を書写することになりますが、そういう分担書写をして奉納したことになります。

展示にお借りするのは、410から420までの間のものです。これでちょっと興味深いのは、経名と巻数の下に「生」という文字が書かれています。これは千字文で、千字文のついた大般若経というのは、中国のお経をテキストにしていなければ書けないことなんです。

当然それの原本となるテキストが必要です。その頃、宋版の大般若経は、鎌倉の寿福寺、あるいは永福寺に所蔵されていた程度。そこのものを写させてもらっているんじゃないか。なお、巻418を写した隆然というお坊さんは大変達筆な方です。

この一切経は、当然、木造大仏が完成したときに出来上がっていますから、以来、大仏殿の中に奉納されていたはずです。それがどうして今日まで残っているのか。明応7年(1498)の大津波のときに大仏殿は流されたので、大仏殿に置いてあれば、そのとき失われたはずです。もしかすると、大仏の像内に奉納されていたために流されずに残ったのではないか。このことも今後、研究していく材料の一つかと思います。

珍しいのは三島大社から拝借する2通の古文書で、ともに「大仏寺」と書かれている。鎌倉大仏は室町時代に大仏寺という寺号を呼称していたことを示す貴重な資料です。

高徳院に伝わる近世の資料も一堂に公開

編集部高徳院の近世資料も公開されるそうですね。

高橋いわゆる江戸期の大仏殿の再建に向けた動き、あるいは疲弊していたお寺を増上寺の祐天というお坊さんと弟子の養国上人が復興のために大変な働きをする。

そのときのスポンサーが野島新左衛門で、正徳2年(1712)の頃、その動きの中で、現在の正式な寺名、高徳院ができた。鎌倉時代は律宗の忍性がかかわったり、その後、禅宗の建長寺、あるいは長谷寺が管理していたりと、宗旨にも紆余曲折がありましたが、真言宗から本来の大仏にふさわしい浄土宗の宗旨に改め、材木座の光明寺の管理からも離れてお寺として定まってきます。そういう関連資料も、高徳院の特別なご配慮で、今回公開されます。

養国上人が寄進した釈迦如来坐像が里帰り

養国上人寄進の釈迦如来坐像

養国上人寄進の釈迦如来坐像
岐阜県・新長谷寺蔵

高橋養国上人が寄進した釈迦如来坐像が岐阜で見つかり、それも展示されます。

清水関市の新長谷寺所蔵のものです。たまたま岐阜県博物館で開催された特別展にその像が出品され、像底の銘文から大仏の別当であった養国上人が寄進した像であることがわかりました。そこには「相州鎌倉長谷深沢里、獅子吼山清浄泉寺」と書かれている。現在の高徳院のことで、どういう経緯かはわかりませんが、養国上人が鎌倉から岐阜に移した。その像が里帰りというか、もと祀られた場所に帰ってくるというのが大きいですね。

高橋養国上人の復興事業は、スポンサーである野島新左衛門がお咎めをうけて島流しにあったり、高徳院の屋根から火が出て、お堂を焼いてしまったりで、大仏殿の復興はできなくなってしまうわけです。

残されたさまざまな謎――願主・作者・着衣など

編集部いろいろな謎を解明する中で、大仏造立と幕府との関連はどうでしょうか。

清水あれだけの仏像をつくるのに浄光一人が勧進をしてつくったとは考えにくい。それがそもそもの出発点です。そうすると、北条泰時が執権で、北条時房が連署ですから、実際に何かをするときの機関としては、幕府が出てくると思うんです。

それなのになぜ浄光の名前が出てきて、北条氏や幕府が関与したことが『吾妻鏡』に出てこないのかというところがわからない。

高橋信仰の立場から、阿弥陀に救いを求めたい、また大きな仏像をつくりたいというのが浄光の最初の素朴な願いであったと思うんです。

ところが、そういう仏像づくりに加担してもらうため、勧進を始めたものの、一人から1銭の銅銭をもらうよりは100枚のお金をもらったほうが集まりがいい。そうやって鎌倉武士なんかと接触している間に大物が加わってきたんじゃないか。それがやがて鎌倉北条氏、あるいは幕府も後押しをするという大きなうねりとなって浄光を支え始めた。一介の念仏僧が一人でなし遂げられないことを、途中から幕府が支援者になって成就したと私は感じているんです。

なぜかというと、金沢文庫の『大仏旨趣』に「弥陀の引接にあずかり共に一仏蓮台に座さん」(弥陀の来迎にあずかって極楽浄土の蓮台の所で共に過ごしましょう)という願望を持っていた人が勧進僧になって登場するんです。浄光の名前は出てきませんが。

そうすると、浄光という人は勧進上人で、まずは大仏をつくりたい。しかも、初めは木造の大仏だけでよかったんだけれど、金銅の大仏につくり替えられるはめになる。銅造とて雨露を避けるためには当然、阿弥陀堂もつくらねばならない。浄光自身の素朴なスタートとは違って、巨大なものへと変えられていったんじゃないかと思うんですが。

清水私は造立を発願した願主も施主も北条氏だった可能性が高いと思っています。

大仏には運慶一派の様式があることは確実

編集部大仏は鎌倉彫刻の代表的なものと考えた場合、様式的にはいかがですか。

清水従来から言われていることですが、鎌倉時代は、運慶、快慶という慶派の最も活躍した時期ですから、張りがあって、強くて、動きがある。運慶一派の様式がそのまま鎌倉時代の彫刻を引っ張っていくという形がある。

鎌倉の大仏を見ても、体の全体の張りとか、あるいは着ているものの衣紋のうねりとかに運慶一派の様式があることは確実で、よく言われるのは、いわゆる宋風と言われるものが、どの程度そこに加わっているか。人によっては、鎌倉における宋風の最も早い作例だと言うわけです。

それは鋳造技術にもかかわることで、先ほど言いましたように、原型に最初の木造を使ったとすると、1230年代の形が出るわけです。建長4年に鋳物にしますが、原型がつくられたのはそれより早い木造の時代のものということになり、その時代の像として考えないといけない。

だから鋳造技術と様式の問題は大きく関係してくるわけです。宋の影響というと、頭の上の肉髻(にっけい)が低いこと、それから猫背であることという2つ以外には、顔の表情は、例えば目はやや異国的な感じを受けますが、鎌倉中期以降の宋風とは違うと思うんです。

宋の影響は何段階かあるわけです。早い時代に入ったものを慶派仏師は巧みに取り入れているわけで、そういう点では、慶派仏師が宋風を消化して、それが鎌倉時代の中期以前に、いわゆる後で言われる宋風という形になって出てきた。

大仏に表われた宋風は平安の末ごろから日本に入ってきた中国の文化が慶派の仏師に影響を与え、それが鎌倉に来たんじゃないかなと思っています。原型となる木像の作者もそのあたりに近い人物かと思っています。

定印にしたのは鋳造技術が困難だったからか

高橋仏像の手の形、つまり、大仏の印相については、来迎印の大仏を鋳造することが技術的に困難だったために弥陀定印にあえてしたんじゃないかと。私、鼻の筋のところから写真を折ってみたら、ぴったり左右相称なんです。印相も親指のところを折るとぴったり重なり合う。技術的にはどうなんですか。来迎印でも鋳造は可能ですか。

清水東大寺の大仏は右手を上げた形の来迎印ですし、運慶の子供の康勝がつくった法隆寺の阿弥陀如来は定印なんです。そうするとブロンズでつくる場合には、鋳造技術の面でやりやすいからとか、U字形で通肩のデザインにしたというのはちょっと違うかなと思うんです。というのは私は木像を原型に考えていますから。ただ、定印の阿弥陀如来像で指定されている重要文化財も、鎌倉中期ぐらいまでで20体ぐらい残っているんです。

高橋養国上人の釈迦如来像の印相と鎌倉大仏の印相は似てるでしょう。だから『吾妻鏡』の編さん者は間違えちゃうわけです。

庶民の願いとは別にシンボル的な意味があった

編集部造形という面からはいかがですか。

清水形の問題に関しては着衣形式の問題ですね。衲衣は、上半身に1枚しか着ていなくて、しかも両肩を覆っている通肩という形です。これはこの時代には、坐っている像では本当に珍しい。それがどこから来たのかが問題です。東大寺の大仏にならったのかというのが一つ。もう一つは立像ですが、当時流行していた善光寺式の阿弥陀如来像、これがブロンズである点が共通していますが、そういう着衣の問題。

それから定印の阿弥陀については、この時代、浄土信仰に基づく来迎印の阿弥陀如来像が多いわけです。定印の阿弥陀はもともと観想の阿弥陀で密教系の像ですから、浄土にいる姿を拝むことによって自分自身が頭の中に浄土の世界が描けるという考えです。そういう形をあえてとったのは、浄土へ行けるという庶民の願いとは別にシンボル的な意味があったのではないかというのが私の説です。

大仏裏の駐車場から出土した銅滓は養国上人の頃の遺物か

編集部750年の間に大仏にはいろいろな歴史があったと思いますが。

福田大仏の周りに石畳がありますが、江戸になってから、あそこで埋葬が行われているんです。偶然、1体だけ見つかったんですが、40代ぐらいの男性だという結論です。顔が大仏のほうを向いていて頭が東になる。ひょっとすると、この周りに、例えば結縁を求める人がまだいらっしゃるかもしれません。(笑)

それと大仏の裏側の駐車場のわきも何か所か掘らせていただいたんですが、そこでも銅滓というか、鎔けたかすが出て、それを分析しました。その結果、それは鎌倉時代のものと組成が全然違う。むしろ、銅の割合がものすごく多く、時代的には江戸ぐらいのものという気はしていますので、養国上人あたりが鋳掛けの修理をしたときの遺物なのかもしれません。ただ、これははっきりしたことはわからないですけれど。

清水私は鎌倉の都市計画の上で大仏の置かれた位置に非常に興味がある。それから建築のことや阿弥陀の形の宗教学、あるいは仏教史上の問題、それから当然、スポンサーとなった北条氏のことも調べたら面白いと思うんです。いろんな方が加わって、研究がますます盛んになるといいなと思います。

編集部こうした謎を考えながら展覧会を見るのも面白いかと思います。本日はありがとうございました。

清水眞澄(しみず まずみ)

1939年横浜生れ。
著書『中世彫刻史の研究』 有隣堂 5,600円+税、ほか。

高橋秀栄(たかはし しゅうえい)

1942年北海道生れ。
共著『大乗仏典』中央公論新社 3,796円+税。

福田 誠(ふくだ まこと)

1957年長野生れ。
報告書『鎌倉大仏周辺発掘調査報告書』鎌倉市、他。

※「有鄰」419号本紙では1~3ページに掲載されています。

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