井上荒野
井上荒野さんは井上光晴の長女。井上光晴といえば、戦後左翼文学の旗手として雷名とどろく存在だった。1992年没。主な作品に『地の群れ』『虚構のクレーン』『ガダルカナル戦詩集』などがある。
自筆年譜によれば、1926年(大正15年)5月15日、旧満州・旅順生まれ。父雪雄、母たか子。4歳のとき母と生別。父は腕の立つ陶工だったが、夢のごときものにとり憑かれて出奔放浪。このため7歳で長崎・佐世保に引き揚げたが、生活に困窮し、小学校高等科も中退、崎戸炭鉱の坑内で働いた。
この間、在日朝鮮人労働者の独立運動を煽動したとして逮捕・留置された。戦後、いち早く日本共産党に入党、九州地方常任委員となったものの、反主流派として除名。上京して作家活動に専念するに至った。
ところが、この経歴には嘘が多い――というのが、荒野さんの『ひどい感じ 父・井上光晴』(講談社)の主旨だ。旅順生まれというのも、朝鮮独立運動に加担して逮捕、というのも、嘘だというのである。
「川西政明さん(文芸評論家)が父の死後、『十八歳の詩集』の編者になられたとき、父の詳しい年譜を作成しようとして調べられて、その嘘が次々と明らかになったんです。その前に、父のドキュメンタリー映画『全身小説家』をつくるときに、映画監督の原一男さんが父の経歴に疑問を持たれ、おかしいと言っておられたので、川西さんが調べることになったんだと思います」
川西氏が調べたところによれば、井上光晴は福岡県久留米市生まれ、7歳のとき、陶工だった父が仕事を求めて満州に渡っている。
〈嘘吐きみっちゃん、と父は子供の頃呼ばれていたらしい。自分の口から出ることは何事もドラマチックに仕立てなければ気が済まないという性分は、結局生涯徹底していたのだと、亡くなってからのあれこれであらためてあきらかになった。〉
「なんでこんな嘘をついていたんだろうと、びっくりするよりも、あきれてしまいましたね。現実はくだらない。現実よりも自分が考えた虚構のほうがすばらしいと思うようになっていたのかもしれません。しかし、おば(父の妹)は知っていました。しかし父が生きている間は、父を絶対視していましたから、何も言いませんでした。父が亡くなってから、いきなりしゃべり始めたんです。」
井上光晴が虚構化していたのは、経歴だけではない。家庭生活も謎だらけだった。ほとんど毎週、2日間は家をあけて行方不明になった。どこへ行ったのか、また、だれと一緒だったのか、家人にはまったく知らされない。外との連絡は自室の専用の電話によった。
「母は気がついていたのでしょうけど、母も家庭というものをそれほど大切に考えていなかったのかもしれません。父に感化されてしまっていたのでしょう。そんな面倒くさいこと考えるのいやや、と思っていたのかもしれません。怠惰だったんです」
ただし、1度だけ決定的な事態が起きたことがあるという。
〈父がこっそりかけている電話を、母が聞いてしまったのである。(中略)ふいに両親の声が、ただならない雰囲気で、階下から聞こえてきたのだ。(中略)「バレたらしい」ということが、すぐにわかった。言葉の全部は聞き取れないが、父は言い訳に終始し、母は糾弾いている。
そのうち「吐き気がするわ」と母が怒鳴ったので、これは只事ではないと思った。〉
井上光晴の遺骨は、九州でも東京でもなく、瀬戸内寂聴が住職をつとめる岩手県の天台寺の墓地に眠っている。寂聴さんにすすめられたものだという。
「とんでもない父親だったなあと思いながらこれを書いたのですが、書いているうちにこういうことも本当は普通のことじゃないか、父はたまたまそれを形に現わしてしまったから、家がメチャクチャになったのに過ぎなかったのでしょう」
井上光晴は娘の目から見ても、虚構の真実に生きた“全身小説家”であった。
蛇足を言えば、「荒野」は父がつけた本名。〈この名前の最大の弊害は、「平凡な人生は似合わない」ということだ〉という。
(藤田昌司)
※「有鄰」419号本紙では5ページに掲載されています。