Web版 有鄰

414平成14年5月10日発行

阿川佐和子と『いい歳 旅立ち』 – 人と作品

軽妙でリズミカルなエッセー集

阿川佐和子
阿川佐和子
−文藝春秋提供−

落語好きと“頭の中の朗読”が文章にリズムを

〈電車に乗ったら、前に座っている女性が文庫本を読んでいた。えらいなあと思った。電車で読書に集中している人の姿を見かけるたびに、激しいコンプレックスと憧憬の念を抱かざるを得ない。〉

阿川佐和子さんの『いい歳旅立ち』(講談社)の「読めないもの書き」と題した章の冒頭である。

本を読むということは、知識、教養の問題だけではなく良い文章のもつ呼吸を体得するということだろう。本を読まなかった人が、なぜこれだけ軽妙でリズミカルな文章を書けるのか。かねて不思議に思っていた。

「いまでもそうなんです。電車で本を広げて何頁か目を通しているうちに、周りの人の話し声がピンピン耳に入ってくるんです。途中でハッと気づくと、いままで読んだはずのところが全然頭に入っていないんです」

同じ疑問は〈父はことあるごとに私を叱った。本を読みなさい。読まないからお前はダメなんだ〉と本書にも書かれているように父君の阿川弘之氏にもあったらしい。

氏の最新刊『春風落月』中の「娘の学校」に〈何しろ本を読まない子供だった〉娘が文章を書き始めたと聞いて愕然としたとある。その後〈時には親の欲目かと疑ひながら、「あれ、案外うまいぞ」と感心することすら〉あるようになった。理由を考えると〈どうも最後に落語が残る〉。

落語好きの父君は、志ん生、文楽のテープを車の運転中など繰り返し聞き、「つまらない小説読むより、こっちの方がずっと勉強になる。散文だって此の種の話芸と同ンなじで、一番むつかしいのは間の取り方なんだ」と言い聞かせていたのだという。「落語の影響は他の方からも指摘されたことがあります。私は落語にある江戸の下町の風景とか、男女関係が好きなんです。志ん生の『替り目』知ってますか」と、その筋書きを語ってくれたが、巧みな声色と記憶力に感心した。

もう一つ、著者は本を読むとき、声こそ出さないが、一字一字を頭の中で朗読している感じだという。冒頭にあげた文章につづいて〈今でもおそらく普通の人の3分の1ぐらいのスピードでしか活字を読むことができない〉とあるのはそのためだろう。だがその“頭の中の朗読”が文章のリズムを体に染み込ませているのではないか、と思う。

父母兄弟のこと、自分のこと、世間一般もろもろのこと

本書は、これまでに書きためたエッセーが、I「確認家族」、II「主役時代」、III「いい歳 旅立ち」に分けられている。

Iは父母兄弟について。章題になっている「確認家族」はアメリカで車の免許を取った父君が、家族を乗せて走るとき、信号のない交差点などにくると大声で「レフチェッ!」「ライチェッ!」と叫ぶ話。すると家族全員が、左を向き右を向き、車のないことを確認したうえで、「クリアー!」と合唱したそうだ。

「レフチェ」「ライチェ」が「レフト チェック」「ライト チェック」であることが分かったのは、後年のこと。幼い著者は、この儀式をどの家庭でも行なっているものと信じており、たまたま同乗した友達に仰天されたという話がおかしい。

「主役時代」は子供のころから現在に至るご自分の話。幼稚園のころモデルをしていたという話と、珍しいその写真が載っている。本が嫌いだったという著者だが、“栴檀は双葉より……”とはいわないが、やはり何らかの因縁が感じられる。

なにせ写真を見ると、どこかの文学全集の出版広告らしく、髪を長く垂らした可愛い著者が抱いている本の背表紙は、「イソップ童話集」と読めるのだから。

「いい歳 旅立ち」は世情一般についてなど、もろもろ。父君は、先の文章を〈「此の頃、お父さんのこと書かなくても、中々面白くて味があるわよ。お父さん、きっと御安心でしょうね」と言われるやうになる日の近からんことを切望して筆を擱く〉と締めておられるが、とうにそうなっている。

いまや「阿川弘之って佐和子さんのお父さんなのね」と言われているのである。この本にしても、発売10日後には再版がかかっているのだ。

「でもダメなんです。編集の方に、直したいところがあったら言って下さい、と言われたんですが、その話が父の耳に入ったら、呼び付けられて」

父君より忙しい?時間を割いて実家に行ったら、父君は本の数十か所をチェックして待ち構えていたという。

「驕るのはいけないが、私は何も知りません、と卑下自慢になるのもいけないとか、文章はむつかしいですね」

いやはや偉い父を持つのも大変である。

(金田浩一呂)

『いい歳 旅立ち』・表紙

いい歳 旅立ち
阿川佐和子/講談社/1,500円+税

※「有鄰」414号本紙では5ページに掲載されています。

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