Web版 有鄰

413平成14年4月10日発行

[座談会]わが愛する丹沢

丹沢自然保護協会顧問/ハンス・シュトルテ
日本山岳会員・横浜山岳会員/奥野幸道
横浜山岳協会顧問/植木知司
丹沢自然保護協会理事長/大沢洋一郎
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から植木知司、奥野幸道、ハンス・シュトルテ、大沢洋一郎の各氏と篠﨑孝子

右から植木知司、奥野幸道、ハンス・シュトルテ、大沢洋一郎の各氏と篠﨑孝子

※印の写真は奥野幸道氏撮影

はじめに

塔ノ沢から西丹沢を望む(中央奥が檜洞丸、右奥が大室山、その手前が白ヶ岳)

塔ノ沢から西丹沢を望む(中央奥が檜洞丸、右奥が大室山、その手前が白ヶ岳)※

篠﨑神奈川県の屋根と呼ばれ起伏の多い山稜や深い谷、ブナの原生林など変化に富んでいる丹沢は、東京や横浜から近いこともあり、手軽に楽しめる山として多くの人々で賑わっています。本日はそんな丹沢を長年、こよなく愛してこられた方々にお集まりいただき、丹沢の魅力とその今昔を語っていただきたいと思います。

ハンス・シュトルテ先生は、1934年(昭和9)に来日されたドイツ人の神父様です。1947年(昭和22)に栄光学園に赴任されて副校長、山岳部長を務められ、「天狗さん」の愛称で親しまれています。太平洋戦争前から丹沢に登られ、『丹沢夜話』(正・続・続々)3冊を有隣堂から出版させていただいています。

奥野幸道先生は、日本山岳会員、横浜山岳会員で、シュトルテ先生同様、戦前から丹沢に登られています。ブルー・ガイドブックスの『丹沢』を長年執筆され、現在は神奈川新聞に「丹沢今昔」を連載されております。

植木知司先生は、横浜山岳協会顧問で、神奈川県アフリカ登山隊長(1966年)、チョゴリ峰登山隊総隊長(1990年)などを歴任され、『かながわ山紀行』『かながわの峠』などのご著書がございます。

大沢洋一郎先生は栄光学園教諭でいらっしゃいます。丹沢自然保護協会を中心として活躍され、会報の『丹沢だより』も編集されております。『丹沢だより』には、現在、シュトルテ先生も奥野先生も連載をされております。

きょうは大沢先生に進行役も兼ねてお願いします。

原生林におおわれ、沢も暗かった戦前の丹沢

大沢シュトルテさんと奥野さんは、同じ頃から丹沢に入られ、戦争で一時中断しますが、戦後しばらくして復活されて以来、丹沢を見つめ続けてこられました。まず、最初に丹沢に行ったときのことをお聞かせください。

シュトルテ68年前、昭和9年に私が日本に来たときはまだ20歳でした。ドイツでワンダーフォーゲルの運動に参加していまして、それは、国を知りたいならその自然を知れという考えだった。それで、日本に来てからも、日本はどういう国であるかを知るには自然を体験しなければだめだと思いましたが、上智大学の留学生だったからお金がない。だから、東京を大分歩きました。小田急の千歳船橋に上智大学の運動場があって、そこから多摩川まで歩くと丹沢や富士山が見えるんです。それで、あの山に行きたいなと思っていました。

当時、日本では、自転車屋で、1日40銭ぐらいで自転車を借してくれたんです。それでまず大山に行った。麓まで自転車で行って、ケーブルカーに乗る金がないので歩いて登った。夏だったので汗びっしょりになりましたが、あれだけの原生林を見たのは初めてでした。ドイツでは見たことがなかった。

それから昭和12年に、小田急のパンフレットに、私が日本に来た「昭和9年に丹沢林道ができた」と書いてあるのを見た。これは私のためにつくられたと思った。それでその5月に友だちと2人で自転車で行ったんです。観光用の地図を持って行ったんですが、地名を読めないから、場所を聞くのが大変で、大分笑われた。何とか蓑毛まで来て、そこからヤビツ峠まで2時間ぐらい、砂利の林道を自転車を押して登ったんです。峠からは下りになったけれど、そこも砂利だから、パンクとマメに苦しめられました。

当時はどこにでも自転車屋があった。それで鳥屋村の自転車屋でパンクを直してもらい、やっと東京の上智大学に戻ったんです。

札掛のケヤキの下で休息

シュトルテ覚えているのは、札掛という所です。有名なケヤキがまだあって、その下で休んだんです。

奥野このケヤキは、昭和12年7月の台風で傷ついて枯死してしまったんです。

大沢丹沢山は江戸時代は「御林」で、入山が禁じられていたんです。その頃の丹沢山というのは、今、東丹沢とよばれている物見峠から大山、表尾根、塔ノ岳、丹沢山(当時の山名は三境山)、三ツ峰に囲まれた地域です。

幕府は、樅、栂、欅、榧、栗、杉の6木を留木として伐採を禁じていて、山麓の村々が交替で見回っていたのですが、その際、タライゴヤ沢と藤熊川の出合の広川原にあったケヤキの木の洞の中に見回りの番札を掛けていた。それで札掛という地名がついた。集落ができたのは明治時代になって木こりが住むようになってからです。

手づくりのピッケルで表丹沢へ

林業労働者の拠点だった戦前のユーシン(昭和16年)

林業労働者の拠点だった戦前のユーシン(昭和16年)※

大沢奥野さんは。

奥野昭和12年4月に、会社の連中4人で表丹沢に行ったのが最初です。16歳でした。そのとき、ピッケルは買うと高いから会社でつくろうと。東洋鋼材という会社に勤めていましたので。みんなで、昼休みに機械工場に行ってピッケルをつくった。まだ持ってます。それを持って、夜、大秦野からテクテク歩いて、蓑毛橋の橋の下でオカン(野宿)をした。そのときは柏木林道(蓑毛からヤビツ峠に至る登山道)は知らなかったので、4人で飯ごうをぶら下げて、“なんて長い道だろう”と思いつつ丹沢林道を歩いた。

やっとヤビツ峠に着いたんですが、暑い日で、二ノ塔、三ノ塔まで行って、そこでみんなばててしまって、縦走しないで戻った。それが最初の丹沢なんです。だから、すごく思い出になっています。

大沢その頃、丹沢に登る人は結構いたんですか。

奥野余りいなかったですね。それでやみつきになって相模野会という横浜のワンダーフォーゲルのグループに入ったんです。それから、昭和17年に入隊するまでの5年間、丹沢によく行きました。丹沢に行くときは、夜行朝帰りで、朝は会社の裏門から入っていった。(笑)

大沢その頃は、森の様子や景色も、今とは随分違っていたと思うんですが。

奥野檜洞丸なんか昼間でも暗かったね。ドウガク沢、ザンザ洞もそうだった。沢はみんな両わきから木がかぶさっていた。ユーシンは今は立派なヒノキ林になっているけど、当時は、まだ植えたばっかりだったんです。林業の人たちの拠点になっていたユーシンの小屋は昭和5年にできたのですが、小田原で刻んだ材木を雨山峠を越えて運んでつくったそうです。

昭和25年、初めての表丹沢を一人で縦走

大沢植木さんは。

植木私は群馬県の生まれですから、周りに山がいっぱいあるので、戦争中から山にはよく行っていました。

当時、自転車は貴重でしたから、榛名山も赤城山もできるだけ歩いて行きました。その後、妙義山が好きになってよく行ったんですが、30年前の浅間山荘事件のとき赤軍派は裏妙義から浅間山荘に行ったんです。そのときに使われたルートのガイドブックは私の書いたものだった。(笑)

それで、昭和25年1月から横浜税関に勤めることになり、さっそく4月に丹沢に行ったんです。それが丹沢の最初です。

横浜に出てきてできた山の先輩から、「行くなら絶対一人で行け」「絶対歩くんだ。帰りは渋沢まで歩いてくるんだ」と言われていたので、忠実にそれを守った。

大秦野から歩いて蓑毛に出て、そこから真っ直ぐ大山に登ったんです。当時は、尾根筋にかすかな踏み跡があったので、それを探しながら行って、大山からはイタツミ尾根を通ってヤビツ峠におりた。

それから二ノ塔、三ノ塔、新大日と、いわゆる今の表尾根を行ったんですが、ばてばてで三ノ塔に行き、今で言えば烏尾に登って、それから新大日に出て、ほうほうの体で塔ノ岳にたどり着いた。

塔ノ岳は、あのころは頂上はまだ草でいっぱいでした。ブナがいっぱいあって、それは素晴らしかったことを覚えています。

下りは大倉尾根を通って大倉へおり、歩いて渋沢へ出て帰ってきた。その翌月に西丹沢に入りました。

それ以来、丹沢は群馬の山と全然違うよさがあって、特にガレの部分がすごく新鮮に映ったのを記憶しています。私もやみつきになりました。

大沢そして、その後はさらに大きな山へと向かわれたわけですね。

植木海外へは、昭和41年にアフリカに行ったのが最初です。

中学2年のとき、雪合戦をしながら歩いた初めての丹沢

大沢私が初めて丹沢に行ったのは昭和36年、栄光学園の中学2年の時です。

栄光の山岳部に入っていた友だちから、冬休みに雪が降る丹沢に行こうと誘われた。札掛に栄光ヒュッテができて4、5年目でした。7、8人で行ったのですが、偶然に、本当に大雪だった。ヤビツを越えたら一面雪で、ずうっと雪合戦しながら行ったのを覚えています。初めて行った丹沢が、そういう非常に楽しい雪山の思い出だったから、天狗さん率いる山岳部に入ったんです。

それがきっかけで、栄光学園に20年前に戻ってきたら天狗さんから山小屋の鍵を渡されて、丹沢に深入りして現在に至っています。

翌日見て、恐ろしくなった夜間登山訓練で歩いた木馬道

木馬道の橋(タライゴヤ沢 昭和29年)

木馬道の橋(タライゴヤ沢 昭和29年)
ハンス・シュトルテ氏提供

大沢シュトルテさん、戦後、丹沢に戻ってこられたのはいつ頃ですか。

シュトルテ本当に丹沢に戻ったのは、昭和22年の栄光学園創立のときです。そこから徹底的に丹沢を歩くことになったんです。

札掛に丹沢ホームができたことを知り、生徒20人を連れて行ったんです。当時、大秦野から蓑毛までのバスは1日に3、4本しかなかったので、暑かったけれど、とにかく歩いた。1週間合宿したんですが、これはすばらしかった。渓谷にはまだ木馬道がいっぱいあって、今、栄光ヒュッテがあるタライゴヤ沢の谷も、全部木馬道だった。

大沢木馬道というのは切り出した材木を運び出すためのレールです。

シュトルテそれで、今思うと無責任だと思うのは夜間登山です。昭和25年の夏でしたが、夜、山を歩くことも山岳部員として慣れておかなければと思って、丹沢ホームを夜11時に出て、長尾尾根の上ノ丸から本谷のほうに下って、そこから木馬道を塩水出合まで歩いた。真っ暗でしたが、懐中電灯は使わせなかった。肉眼で夜の道を行く訓練ですから。ただ、これは二度とやらなかった。

というのは、上ノ丸から本谷に下るのに本谷川に橋がないんです。まず私が川を渡って、それから、みんなザイルを伝って川の中を歩き、そこから塩水橋まで木馬道を歩くんです。木馬道は枕木でしょう。両端のそりが通る部分は油がついていてすべるから、真ん中を歩かなければいけない。枕木の間が空いているから、真っ暗な空間を梯子で歩いている感じでした。やっと塩水橋に出て、丹沢ホームに戻ったのは朝の4時頃。

それで翌日、本谷に行ったら、枕木は普通は土の上に置いてあるのが、ここは川の上で、7、8メートルぐらいのスギの丸太の上につくってあり、そこを歩いたわけです。これは知らなかった(笑)。翌日見たときには、とにかく恐ろしかった。

昭和24年にシベリアから帰り横浜山岳会に入る

大沢奥野さんが戦争から帰ってこられたのは……。

奥野満州に3年、シベリアに4年いました。シベリアから帰ってきたのが昭和24年10月です。その数か月前に、引揚船でシベリアから帰国した人たちが、そのまま京都での集会に参加して騒ぎになった京都事件が起きたばっかりだったんです。共産党に集団入党するとか。僕が帰ってきた船は誰も共産党に入らなかったんだけど、会社では「共産党の筋金入りが帰ったきた」と組合で大騒ぎになった。それで東洋鋼材を辞め、翌年、日本鋳造に入った。

相模野会は終戦後は再建されなかったので横浜山岳会に入りました。川崎の家は空襲で焼けてしまったんですが、山の写真だけは、家内が小田原の実家に持って行ってたので残ったんです。

明治6年に丹沢に登ったアーネスト・サトウ

丹沢周辺図

丹沢周辺図(クリックして画像を拡大)

篠﨑登山は西欧から入ってきた概念ですよね。

大沢そうです。丹沢もそうですが江戸時代までは、山には山岳信仰の対象として修験者が登ったり造林や伐採、炭焼きなどの生業のために登ったわけです。

こういった、信仰や生業のためではなく、登ること自体に楽しみや価値を見いだす登山、いわゆる近代的登山は、日本には1870~80年代に、イギリス人を主とするヨーロッパ人によって持ち込まれたといわれています。

篠﨑明治6年(1873)11月にイギリスの外交官のアーネスト・サトウが丹沢を歩いているそうですね。

サトウが『日本旅行日記』に「丹沢でアトキンソンが遭難」と題して書いてますが、サトウはアトキンソン、ハネン夫妻といっしょに横浜を出発し、大山から蓑毛に下り、ヤビツ峠、札掛から宮ヶ瀬に出て相模川を船でくだり、厚木に出ています。その途中、札掛の先の大洞渓谷でアトキンソンが遭難するんですが、無事、宮ヶ瀬にたどりつく。

奥野僕は、その時のコースを歩いたんです。アトキンソンの「反省記」によれば、渓谷を下って行って、うっかり大きな石を越えてしまい、戻るに戻れず、岩山をよじ登り川を越え、ずぶ濡れになってようやく宮ヶ瀬にたどり着いた、とある。遭難というより、一人で、戻れなくなったということでしょうね。

大きな石を越えた所というのは、小さな峡谷になっていて、胸ぐらいの深さの川が流れている。僕も渡れるかなと思ったんですが、上を回って反対側へ行ってみて、行かなくてよかったと思った。行ったら、やはりアトキンソンと同じように戻れなかったと思う。彼は寒いときに、あの沢を下って宮ヶ瀬まで、よく無事に行ったと思います。

篠﨑当時、宮ヶ瀬は居留外国人に人気があったようで幕末から明治初期のベアトの写真にも何枚かありますね。

植木サトウは前年の明治5年に、富士山から山伏峠をへて、道志経由で宮ヶ瀬に行っている。つまり、北から行ったので、今度は南から行こうとしたんでしょうか。

明治から昭和にかけ植物調査をした武田久吉

篠﨑サトウの次男で植物学者の武田久吉さんも丹沢によく行かれたそうですね。

奥野武田さんは、明治38年にできた山岳会(のちの日本山岳会)の発起人の一人で、明治後期から昭和にかけて、たびたび丹沢で植物調査をされ、僕も手紙のやりとりをしたことがあります。

明治38年に初めて登った塔ノ岳では、頂上のウメバチソウとウスユキソウの大群落が素晴らしかったと『明治の山旅』に武田さんが書いている。今、丹沢にはウメバチソウはほとんどないですね。袖平山辺りには最近までありましたが。

塔ノ岳に登って、丹沢山塊は都会に近いにもかかわらず山や川が深山幽谷なのに興味をもち、翌年は蛭ヶ岳に行っているんですが、その時は天候が悪くて登れなかった。

材木を運び出した木馬道や森林軌道

大沢奥野さんも植木さんも人が山で暮らしていたり、いろんな形で山を利用していた時代の様子を随分ご覧になっていると思いますが。

植木木馬道は丹沢には随分ありましたね。山に入るときも下るときも、どうしても通らなくちゃいけない場所だった。シュトルテさんが言われたように真ん中を歩かないと、すべりやすい。だから1列で歩く。沢筋の所などに橋がかかっていて、そこに木馬道がついていますがちょっと見ると断崖です。山仕事の人は、木馬道の棒の間に足をつけてよく引っ張ったりして行ったなと、すごく感心しました。

あと、かなり急な所は歩くよりは、木馬道のそりの上に乗ったほうが楽です。「乗っていかないか」と乗せてくれる人もいますし、「危ないからやめておけ」と言う人も。乗せてもらったこともありますが、「そのかわり命は保証しねえぞ」と。(笑)

奥野昭和36年に子供を連れて広沢寺温泉の裏山から日向薬師に行ったんです。道を歩いて行くと、川の所に木馬道があった。子供は怖いと言って、はいずっていた。あれが一番後まで残っていた木馬道かも知れません。

水ノ木橋を渡る森林軌道(昭和29年)

水ノ木橋を渡る森林軌道(昭和29年)※

それから、世附川一帯の材木は、水ノ木から浅瀬の製材所まで森林軌道のトロッコで運んだ。何回か乗せてもらったことがありますが、植木さんと同じで「命が要らなきゃ乗っていけ」なんて言われて、一番前に乗ると、カーブの所では、乗っかっている丸太のところが川の上に出ちゃうんです。トロッコは昭和41年まであったそうです。

植木私は木を山から出すような現場もよく見ました。ワイヤーが今でも山の中に残骸として所々に残っていますよ。あるいは上で伐り出したのをワイヤーでずうっと引いて、下に降ろす。

奥野木馬がなくなってから、今度はケーブルでおろすようになった。

炭焼き小屋や林業に従事する人びとの集落

大沢その時代は山の中に住んでいる人も相当いたわけでしょう。奥野さんが登ったときはどうでした。

奥野水ノ木には以前は飯場が5、6軒あったんです。地蔵平には昭和35年まで小学校の分校もあった。

東の早戸川上流の大平にも集落があって、林業をやっていたそうですが、関東大震災でほとんどがだめになったそうです。

篠﨑親しくしてらした方もいらしたのですか。

奥野大平では炭焼きをやっていた斉藤さんのうちには、よく泊めてもらったね。それから、去年、春木屋という旅館に行ったら、家を改築して、昔の資料は何もないと言っていたけど、あそこには武田久吉とか、昔の人はみんな泊まったんです。

大沢植木さんもいろいろお付き合いがありました?

植木私は、奥野さんより少し若いから、そこまで付き合いはなかったけど、山の中には炭焼き小屋がたくさんありましたね。炭焼き窯は冬は暖かいんです。土まんじゅうみたいで、夜、オカン(野宿)するときに、横によく寝たことがあります。

あと、最初の頃は山は頂上ばかりをねらっていたのが、だんだん年とともに下ってきました。麓には文化がいろいろあって、興味深いですね。奥野さんはよくご存じだと思いますが、いろいろ鉱山もあったんです。

奥野水無川の上流のセドノ沢の大日鉱山からはマンガンが出た。

植木あと神ノ川にも結構鉱山の坑道があった。

水害で残ったご神木の箒スギに調査を兼ねて登る

箒スギ(左端)が水害にあう前の箒沢の集落(昭和31年)

箒スギ(左端)が水害にあう前の箒沢の集落(昭和31年)※

大沢奥野さんは箒沢の箒スギに登られたそうですね。

奥野一番親しかったのが戦前から付き合いがあった箒沢の佐藤浅次郎さんで、御料林の見回り役人みたいなことをやっていたと思うんです。

それで大正時代に浅次郎おじいさんがご神木といわれた箒スギに登り、上から縄をたらして、箒スギの高さを測ったと言っていました。おじいさんが登ったんだから、僕もということで、昭和45年に友だちと2人で登ることになった。7時から登り始め、登り終えて降りてきたたのはお昼だった。

てっぺんが折れて皮がはがれているのが心配で、その調査を兼ねて登ったんですが、上は直径が20センチぐらい。風で折れたらしいんだけど、新しい芽がいっぱい出ていてすごく元気がよかった。

シュトルテ水害のときによく残りましたね。

奥野昭和47年の水害のとき僕はちょうどNHKの取材で行っていて遭遇したんです。7月10日に箒沢の浅次郎おじいさんのところに泊まって水ノ木に取材に行って、11日は雨が降っていたけれどユーシンに行った。それで12日の朝からすごい集中豪雨だったんです。

素晴らしい天王寺尾根のブナ林や富士山

鍋割山のブナ林

鍋割山のブナ林※

篠﨑みなさまは丹沢のどこが一番お好きですか。

シュトルテ辛いですね、いっぱいありすぎて。一つは、ブナの林。丹沢さんから東に行く天王寺尾根のブナ林はいいね。

奥野僕もブナ林。ブナ林が少なくなってきて寂しいんだけど、今残っているのでいいのはやはり天王寺尾根。

植木私はブナ林の素晴らしさを初めて感じたのは檜洞丸でした。それから最近は、蛭ヶ岳と丹沢山の間にある鬼ヶ岩から少し下りた所のブナがきれいですね。

奥野あそこはシロヤシオの群生があるんです。

シュトルテ天王寺尾根はブナが枯れているということはないでしょうね。

大沢大木は元気ですが、下草が全然なくて、若い木がないですね。マルバダケブキやバイケイソウなど、シカが食べない草が繁茂してます。

植木日高辺りはブナの墓場みたいですね。

大沢20年ぐらい前までは本当にきれいなブナ林でしたよね。

奥野僕は100年計画でブナの林をつくってほしいと言っているんです。100年ないとダメです。ダムをつくっても、ブナがなければいい水はたまらないんです。それをどうやって実現するかですね。

人と行き合ってもじーっと見ていて逃げないカモシカ

シュトルテもう一つ素晴らしいのは動物との付き合いですね。シカと違ってカモシカは人が近づいても逃げないんです。じーっと見ている。

初めてカモシカにあったのは長尾尾根の上ノ丸からオバケ沢に入る道でしたが、藪からカモシカが飛び出してきて、立ち止まったんです。カモシカはウシと同じ種類だということを思い出し、ドイツでは牛の乳を搾るのに音楽をかけるので、「菩提樹」を歌ったんです。そうしたらじっとして聞いていましたね。

奥野僕も山神峠で、尾根にいるシカの写真を撮っていたら、後ろの方で何か気配がするんです。それで振り向いたら、すぐ後ろでカモシカがじーっと僕の方を見ている。サッと逃げないんです。雨の日で、毛に雨の雫がたまっていて、その姿は今でも忘れないね。

植木私も山神峠で、何度かカモシカと行き合いましたね。やはり、こちらの顔をじーっと見ているんですよ。そのうちに山の奥のほうへ入っていきましたけど。

大沢カモシカは少なくなったんじゃないですか。シカのほうが強いから。

植木クマの写真を撮りに札掛のちょっと奥の山に行ったことがありますが、クマの温かい糞は見つけたので、近くにいたことはわかったのですが、結局、クマにはあいませんでした。

単純に嬉しいのは富士山

鬼ヶ岩から富士山を望む

鬼ヶ岩から富士山を望む
(富士山の右手前は檜洞丸、右奥は南アルプス)※

篠﨑とくに印象に残っている丹沢は、どういうところでしょう。

大沢単純に嬉しいのは丹沢の山越しに見える富士山ですね。

篠﨑いろいろあると思いますが、どこからご覧になった富士山がよかったですか。

大沢やはり蛭ヶ岳かな。

シュトルテこれはむずかしいよ。姫次かな。蛭ヶ岳の北の方です。

奥野僕は鍋割山から大丸に行く鍋割尾根から見た富士山ですね。あそこは昔はテンニンソウの群落があったんですが、今はシカに食べられて何もない。

テンニンソウ

テンニンソウ※

「塔ノ岳」か「塔カ岳」かで論争も

シュトルテ山とか沢の名前、これは残念ながら徹底した研究はないんです。しかし、それはぜひ一度専門家に調べてもらいたい。

なぜかというと、一つは、日本で問題になったのは、明治時代、測量のとき、陸軍の陸地測量部が地元の人に名前を聞いて、それを漢字で書いていった。それで、北アルプスの白馬岳は「しろうまだけ」と聞いて白い馬と書いた。そしてみんな「はくば」と言う。これは「白」じゃなく、苗代の「代」なんです。苗代にあったワラでつくった馬を私も昔はよく日本の水田で見たんです。雪が解けると、岩が黒くなっていって代馬に似ている。だから「しろうま」と言う。丹沢にも、そのようなことがあるだろうと思うんです。

驚いたのは、西丹沢の箒沢で、偶然にそこの村の年配の人に聞かれたんです。「これからどこに登るの」と。それで私は「檜洞(ひのきぼら)に行く」と言った。そうしたら、「ひのきぼら、ではない。ここは、ひのきどう」と言うんです。ほかにも「えのきどう」が雨山峠あたりにある。だから「ひのきどう」の「どう」に「洞(ぼら)」という漢字をつけたんです。

それからあるとき、塔ノ岳山頂の尊仏山荘を管理していた山岸猛男さんに、うっかりして塔カ岳(とうがたけ)と言ったら、「これは塔ノ岳(とうのたけ)だよ」と注意されたんです。

奥野言われた?

シュトルテ怒られた。

奥野山頂近くの坐像に似た尊仏岩とか御塔といわれていた大きな石に由来すると思うので塔ノ岳が正しいと思いますね。「塔ノ岳」か「塔カ岳」かで論争があるんです。

篠﨑その岩は今でもあるんですか。

奥野大正12年の関東大地震で大金沢に落ちてしまって、今はないんです。

昔の丹沢は現在、東丹沢といわれている狭い地域

植木私も丹沢の山の名前を調べてますが、最初に言葉ありきだったと思うんです。それで後になって漢字を当てはめている。そのへんで聞き違えたり、間違えたりすることもあるんでしょうね。

シュトルテ水ノ木の先から山中湖に出る三国峠のそばに「鉄砲木ノ頭」という山がありますが、これは「鉄砲水」なんです。なぜかというと、その下に鉄砲水の沢がある。沢の名前は普通は上の山の名前になっているんです。「木」と「水」を間違った。

奥野大室山も、かつては僕たちは大群山と書いていましたね。

植木字を間違ったということではないんですが、丹沢山は、昔は三境山と呼ばれていたんです。さきほど大沢先生が言われたように、かつての丹沢は、現在、東丹沢といわれている狭い地域だった。それが、一つの山に丹沢という名前がついたばかりに山地全体が丹沢と呼ばれるようになった。

丹沢山も、私は三境で十分だったと思うんです。地名というのは簡単に変えてはいけないと思いますね。

湘南軌道の駅名と区別するため小田急は「大秦野」に

渋沢丘陵から見た表丹沢(昭和43年)

渋沢丘陵から見た表丹沢(昭和43年)※

シュトルテ丹沢の表玄関ともいっていい小田急の「秦野」駅は数年前まで、「大秦野」という駅名だった。

奥野僕たちが丹沢に行き出した戦前から、表丹沢へ行くには、小田急の大秦野駅と渋沢駅が拠点だったんです。渋沢駅は水無川や四十八瀬川の沢登りをする人や西丹沢の玄倉川の沢に行く人なども利用していた。

シュトルテ小田急の駅名に「大」がついていたのは、大正2年(1913)に、製材や葉たばこなどを輸送するため秦野・二宮間に開通した軽便鉄道の「湘南軌道」の駅名が「秦野」だったので、昭和2年(1927)に開通した小田急の駅は、それと区別するためだったんです。

植木同じ名前をつけられないですからね。その軽便鉄道は昭和12年には廃止されています。

丹沢を守ることの難しさ――自然保護と資料保存

丹沢湖の湖底に沈んだ世附の集落(昭和31年)※

丹沢湖の湖底に沈んだ世附の集落(昭和31年)※

大沢植木さんもいろいろ麓のほうはお調べになったんですか。

植木奥野さんとはまた違う視点で、山麓の文化に興味を持ちました。道祖神とか。

峠に立つと、かつて通った人たちのにおいがぷんぷんするんです。仕事の人も、病人を担いで越えた人もいるでしょうし、峠は生活の道だったと思うんです。峠の頂上付近には石仏があったりする。昔の人たちが旅の安全を祈願したんでしょうね。

峠には不思議と2つの名前があるんです。例えば尺里の人は虫沢に行く峠のことを虫沢峠と呼んでいる。ところが同じ峠を、虫沢の人は尺里へ行く峠だから尺里峠と呼んでいる。

篠﨑目的地に向かっているんですね。

植木そうです。国土地理院の地形図には一つしか書いてないんです。多く使われているほうが峠の名前として載っているんでしょうね。

峠を通して、ただ単に山の高さ、山はこうだというのではなくて、山を昔から見上げていた人たちの生活がわかるような気がしました。そうするともっと大きな意味の、例えば丹沢の麓から中腹や頂上を見ると、視点が広がって私自身も楽しいなと思った。

大沢山麓の村には古文書などの記録も随分残っているでしょうね。

奥野箒沢などは明治、大正で3回も大火があって、古文書とかは全部焼けてしまって、今残っているのは藤衣、つまり藤の繊維でつくった衣だけだそうです。古文書とかがたくさんあったそうです。この地域は北の道志とのつながりが深いんです。

幸いにして火事にならなかった古いものが、丹沢近辺にはまだまだ残っていると思うんです。それを何とか発掘して、丹沢の文化を紹介していきたいなと思っています。

丹沢の資料保存会を設立

ウメバチソウ※

植木丹沢に関する本もたくさん出ていますし、奥野さんが撮影された戦前からの写真をはじめ、貴重な写真類もたくさんあります。これらが次の世代の人に役に立つのなら、私たちが残していかなくてはいけないと思うんです。

昔の人は、どちらかといえば本は自分の手元に置いていた。しかし、その人が不幸にして亡くなった場合、家族に理解がなければ、それらの本は古本屋に出されて散逸したり、写真は捨てられたりして貴重な資料がますます少なくなってしまう。それは大変残念なことですし、何とか残す方法はないだろうかと、遅まきながら去年、丹沢の資料保存会を立ち上げたんです。

奥野さんにも相談役になっていただき、今30人程度のメンバーですが、定期的に集まって、とりあえず丹沢に関する資料のリストづくりを進めているところです。

今後は、資料調査のほかに、地元の人への聞き取り調査なども並行してやっていき、将来的には公立の資料館にできればと思っているのですが。

人が住んでいない場所を守る難しさ

大沢僕は、ここ20年間の、丹沢が急速に、また一番おかしくなった時期を見ていますが、稜線を歩いていて、森がなくなってしまった。木が枯れて、草原というか、はげ山みたいになっている。

神奈川県の総合調査によると大気汚染とシカの問題だそうです。とくに変化が激しいのは、主に大気汚染の影響を受けやすい南側の斜面と、一番人が入り、人が歩くことで影響を受けやすい主稜です。

篠﨑シカはどういうところが問題になるんでしょう。

大沢シカは、もともとは平地にいた動物です。下の方を人間が取ってしまったからだんだん山の上に追いやられた。ちょっと上がった所は植林されており、さらに上に追い上げられてしまった。シカは草を食べますから植物が駄目になってしまうんです。

それで、今、とりあえず、上の方の植生を守ろうと、シカが入らないように柵をしています。以前は植林地を守る柵だったのが、今度は何でもない草を守るためなんです。

奥野シカはクマザサの芽を食べて生きているんだけどクマザサが枯れているから大きなモミの木の幹をかじっているわけ。死んだシカを見ると、みんな歯がだめになってるんだそうです。

大沢今、神奈川県では、メスのシカを撃つことと、特別保護区でも撃つことを許可して、シカの数を調整しようという方向に転換しているんです。

丹沢の自然を守るという難しさとも重なりますが、丹沢を守っていくのに一番の問題は、人が住んでいない場所だということです。つまり、丹沢を守りたいと発言する人は外側から丹沢を見ている人で、住んでいる人がいないから、行政も関心を向けない。おまけに丹沢は、幾つもの自治体にまたがっているんです。

ですから、資料の問題にしても自然保護の問題にしても、丹沢の問題を一つにまとめて結論を出し、実行していくのはすごく難しいんです。だけど、今やらなければだめなんです。

シュトルテ本当の自然の保護というものは、よそ者に限る。なぜかというと地元の人は、山の木や水や土は自分の生活のためなんです。だから、これにさわらないで大切にしようということは無理な注文だったんでしょう。そういう傾向は日本だけの問題じゃなく、世界中ですよ。

大沢丹沢は、人が行くことによっても、随分おかしくなってる。そういうのを見てますと、最近は「皆さん、丹沢に行きましょう」とばかりは言いたくなくて、「もう、行くの止めましょう」という気持ちが半分ですね。

篠﨑きょうはどうもありがとうございました。

Hans Stolte(ハンス・シュトルテ)

1913年ドレスデン市生れ。
著書『丹沢夜話』正・続・続続(品切れ)、1,553円~1,942円+税。

奥野幸道(おくの ゆきみち)

1921年石川県生れ。
著書『丹沢山塊』 ゼンリン 1,143円+税、ほか。

植木知司(うえき ともじ)

1931年群馬県生れ。
著書『かながわ山紀行』 680円+税、『かながわの峠』 695円+税、いずれも、かもめ文庫。

大沢洋一郎(おおさわ よういちろう)

1947年横浜生れ。

※「有鄰」413号本紙では2~4ページに掲載されています。

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