早瀬詠一郎
『しらべの緒』(集英社)という表題は邦楽の鼓(つづみ)に由来する。
〈鼓には前後二枚の革が張られている。その二枚をつなぐのは胴だが、そこにからんで音を締めたり弛めたりする紐のことをいう。調子も音色も、しらべの緒ひとつの加減で定まった〉という。この小説は、その緒に男女のかかわりをたとえて伝統的な舞踊・邦楽の世界で重視される“色”を描いた珍しい作品だ。作者の早瀬詠一郎氏は、放送作家として活躍する一方、岡本紋弥の名をもつ「新内」語りの師匠でもある。
「もともと僕は、三味線の家元などをやっていた邦楽屋の息子で、2歳のときから日本橋のデパートの舞台に出ていました。芸道を描いた作品には『絵島生島』(舟橋聖一)など、これまでも幾つかありますが、いずれも客席から見た舞台であって、楽屋からはだれも見ていないんですね。そこで、小さいころから楽屋にひたってきた僕としては、そこに生きる人間の匂いや痛みを書くことを仕事にしなくてはいけないのではないか、と考えたわけです」
この小説の主人公・梓は40歳。エリート医師の妻で、2女の母でもある。日舞を修得し名取の資格をもつ。80歳になっても現役として活躍する師匠・勘寿の舞台を見に来て、鳴物方の能管の甲高い音色が〈足の裏から、脚の付け根まで、裂けよとばかりに伝わってきた〉ことから、新しい世界が始まる。
梓はその笛方、橋戸桟月の弟子となって稽古場へ通うことになるのだ。桟月のもとには墨染めの若者が内弟子として仕えている。2人は普通の間柄ではないらしい。桟月にも淫蕩な噂が多い。それを承知で、というより、半ばそれを期待して梓は桟月のもとへ通うのだ。こういう設定によって作者は芸道における〈色〉とは何かを追求するのである。
「“色”であって、べたべたした“色気”ではありません。抑えてもにじみ出てくるのが“色”です」
世阿弥のいう「秘すれば花、秘さずば花なるべからず」に通じる心の有り様だろうか。しかし、何気なく座った姿勢や足運びなどの挙措の端々ににじみ出る“色”を体得する色ごとの修行は、いい得べくしてたやすいことではない。
〈遊びであっても、本気であってもいけない。そのどちらともつかない色ごとが、「肥し」となってゆくのではないかと思う。〉
と作者は述べ、その“虚実の皮膜”に真実があるのだというのだ。こうして梓は、色の虚実の皮膜をさまよい歩くことになる。
「芸道ににじみ出てくる“色”はパターンからは出てきません。大切なのは“型”ではなく“形”なんです。古典の芸道のすごさは人間の寿命をはるかに越えていることでしょう。三世代経ってようやく一つの形ができてくるのです。バカな継承者は、ただ“型”だけを伝えようとしますが、そんなのは死んだものです。“型”のように簡単には教えられない形が“色”です。僕はそこで“狂え”と言っているんです。“狂う”というのは何かを“切る”ことです。切る――カットではありません。切ない・切迫する・緊切する・切実……の切です。この切は“歎き”です」
“色”を求める梓は、人もうらやむ幸福な家庭を捨てて狂うことになるのだが、そのクライマックスは、師匠桟月と墨染めの内弟子と三つどもえの愛欲のパーティだ。そのシーンは……ここで読者の楽しみを蹴ちらしてしまうことは避けよう。
ただ、つけ加えれば、男女の色ごとやゲイ、ホモなどの関係は、芸道の世界では日常茶飯事だということだ。内幕小説と読まれる恐れはないのか――。
「いや、特定のモデルはおりませんから。僕が小さいころから見知ってきた世界のことを書いているので、登場人物も何人かの人間を複合して造っていますし、僕の理想として造った人物でもあります」
狂った末に家族を切り、笛の師匠とも別れた梓は、やがて80歳の踊りの師匠・勘寿に乞われて養女となる。言い遅れたが、この師匠の踊りこそ、梓にとって色を感じさせる理想の芸なのだ。それはこの老媼が、まだ床の中で指戯にふけったりするからだという。「燃え尽きたと思える木にも、紅葉というあでやかな美しさを最後に見せるじゃないこと。……」とかつて梓に言った。いま、梓の膝の裏には、しっかりとその老媼のキスマークがつけられている。
〈見えないところゆえに映えるのだ。〉
(藤田昌司)
※「有鄰」413号本紙では5ページに掲載されています。