Web版 有鄰

411平成14年2月10日発行

[座談会]中世の魅力を語る
中央公論新社『日本の中世』刊行にちなんで

東京女子大学名誉教授/大隅和雄
東京大学教授/五味文彦
中央公論新社書籍編集局/山形真功
中央公論新社書籍編集局/木村史彦
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から木村史彦・山形真功・大隈和雄・五味文彦の各氏と篠﨑孝子

右から木村史彦・山形真功・大隈和雄・五味文彦の各氏と篠﨑孝子

はじめに

『日本の中世』

『日本の中世』
中央公論新社

篠﨑中世は日本の歴史の上で大きな転換が起こった時代であり、日本の文化や日本人の生活の基礎が築かれた時代でもあります。近年、中世の歴史についてさまざまな角度から研究が進められ、その具体的な姿が次第に明らかになってまいりました。

こうした新しい成果を踏まえて、2002年2月、中央公論新社から、新しいシリーズ『日本の中世』全12巻の刊行が開始されます。

きょうは、ご執筆者のお二方と、編集担当のお二方にご出席いただきました。中世の魅力やその面白さを語っていただきながら、内容をご紹介いただきたいと思います。

ご出席いただきました大隅和雄先生は東京女子大学名誉教授で、中世思想史をご専攻です。鎌倉仏教にもご造詣が深いとうかがっております。

五味文彦先生は東京大学教授で、中世政治社会史をご専攻です。近年、文学や芸能など文化史全般にも関心を寄せていらっしゃいます。

また、『日本の中世』の編集を担当されております中央公論新社編集局の山形真功さまと、木村史彦さまにもご出席をいただきましたので、このシリーズ全体の構成や特徴などについても、お話しいただきたいと思っております。

日本文化の骨格を築いた時代を展望

篠﨑今度のシリーズは、すでに刊行されています『日本の古代』『日本の近世』『日本の近代』の後を受けてということですね。

山形はい。先生方を前に僣越ですが、日本の文明の大きな骨格、考え方の基礎が築かれたのが中世だと思います。

かつて、日本の歴史は応仁の乱から始まるとも言われましたが、それが鎌倉時代、平安末ぐらいから新しい日本の骨格が築かれていった。それに伴って絵巻物、随筆、軍記物語という形で、多様多彩な人間の姿、顔形が見えてくる。それがたいへん魅力あるものと考えてきましたが、1999年ごろから新しい企画として立てることが可能になり、各先生方のおかげで、ようやく刊行までにこぎつけました。新しい中世の姿、形が見えてくるシリーズになると思います。

五味『日本の古代』の後すぐ『日本の中世』というお話があったとうかがっていますが、ちょうどその頃は、中世史では社会の微細な動きや人々の心の動きまでもとらえようとする社会史の見方で、網野善彦先生や石井進先生たちがどんどん新しい研究をされ、成果を発表されている時代でしたから、きちんとまとまってやるのが難しい状況でした。

そこで、『日本の近世』『日本の近代』が刊行された後、中世の社会史的な流れがある程度見えてきたところで、一度総括して次の展望を見極めるということから、網野先生、石井先生もこの企画に同意されたのではないでしょうか。

ですから、両先生がここ何年か一生懸命やられていたことがこのシリーズの中にあらわれているというのが、私の印象です。

考古学、民俗学、歴史学が一体となった『中世のかたち』

富士山と矢倉岳(右)、手前は酒匂川

富士山と矢倉岳(右)、手前は酒匂川

山形第1巻の『中世のかたち』は、石井先生が今まで考えられてきたことの集大成のようなところがあり、考古学、民俗学、歴史学の3分野が統合されたような内容になっていると私は思いました。ですから、写真・図版も、北海道から青森や栃木、鎌倉の考古学の発掘写真、また絵図資料など、豊富に取り上げています。

五味石井先生は昨年の10月、この原稿を書き上げたところで急逝されましたが、石井先生は「歩く歴史学」「足偏(あしへん)の歴史学」と言われているように、よく各地に出かけられました。奥様からお話を聞くと、ほとんど毎日、外へ出ていらしたそうです。書斎派とは全く違うタイプで、今度の本もそれにふさわしい内容です。

特に先生が最近もっとも関心を抱かれていたのは北方の地域です。北海道の上ノ国町の勝山館(かつやまだて)の発掘の成果。それから歴史民俗博物館の館長をされていた時代に、歴博を中心に発掘がなされた、中世の有数な港湾である津軽の十三湊(とさみなと)。そこを中心にした北方の世界が、本書からは一つ浮かび上がってきます。

それから当初から関心を持たれた鎌倉。鎌倉はかつて御家人制研究会編集の本で『都市鎌倉における「地獄」の風景』を発表されました。これはかなり衝撃的な論文だったんですが、それをベースにしながら鎌倉という場の持っている意味を探っています。特に境界という、外部との接点の切通しや、その周辺の文化がどういう意味を持っているのかという問題です。

それから、南の方では、南の境界である鬼界ケ島、硫黄島辺りのあり方を見据えて、地域的に全体として中世の列島の社会はどういう形をなしているのかを描いています。

さらに、中世の商人の姿を探りながら、差別された人々の動きを追っています。このあたりは最近の成果を盛り込んだ意欲的な分析と叙述となっていて、読みごたえがあります。

山形石井先生が書かれていることですが、「頼朝が足柄山の矢倉岳に腰かけ、左足で東の外ケ浜、右足で西の鬼界ケ島を踏んでいる」という安達盛長の夢が記録されています。先生は、これが日本の境界だというところから始めたいというお気持ちがあったと思います。外ケ浜というのは津軽半島の陸奥湾側の海岸です。

祖師研究ではなく日本人の心の問題を

篠﨑第1巻は、石井先生の絶筆となってしまいました。2巻目の『信心の世界、遁世者の心』は大隅先生のご執筆で中世の人の心に迫っておられるとうかがっておりますが……。

大隅ちょうど100年ぐらい前の19世紀の末から、原勝郎さんが論文を次々に発表し、日本とヨーロッパを比較して日本の中世を考えるという研究が始まりました。中世という呼称を近代史学の用語として初めて使ったのも原さんで、その影響が強くて、その後の研究の大筋は原さんがレールを敷いたような格好になっています。それからどうやって抜け出すか、何を受け継ぐかというのが大変なことなんです。

宗教のほうで言うと、原さんが、鎌倉新仏教の興起は日本における宗教改革だと言った。それがちょうど100年前ですが、100年間ずっとその土俵のなかでしか物が言われていない。宗教改革だとすると、どれが正統でどれが異端だとか、正統の中がどう分裂したかとか、最近はそういう議論が盛んなんです。

ヨーロッパでも中世は本当の心の宗教じゃなくて、書物の宗教として展開したという議論がありますが、日本中世の宗教の研究は、たいへん無理して書物の宗教ばかり見てきたきらいがあるんです。当然ヨーロッパの宗教改革と比較して、ルターやカルヴァンと、日蓮や親鸞や法然と比較したわけで、中世の仏教史研究がもっぱら祖師研究になった。

それからもう一つは、祖師の伝記を細かく細かく調べていく。史料が余りないから難しいのですが、伝記研究と教義の研究をやって、本当の日本人の心の問題というのが抜けているんじゃないかと、私は前から思っていたのです。

親鸞とか道元を研究するとどうしても研究者が自己投入をして、近代的に解釈してしまう。それで日本の仏教史研究には宗派の体制というのが今でも残っていて、宗派史の問題が研究の中心になっています。宗派のそれぞれが独立して研究されていて、ずいぶん細かい議論はありますが、比較がほとんどできないんです。

同時代人の目線で中世人の心を考える

大隅つまり、何に対して親鸞なり法然なりを比較するかということが、余りされてなくて、歴史の中にどういうふうに位置づけるかという論が立てられないんです。だから、何とかして土台の部分を考えなくてはいけない。私は学生のころからそういうことを考えていました。

それで、無住(むじゅう)というマイナーな宗教者がいるのですが、その無住に聞く形で、今回は書きました。無住は一宗派に所属しないで、いろんな所を渡り歩き、思想としては浅いのですが、自分が見られる範囲でいろんなものを見て、それを説話に書いた。

篠﨑それが『沙石集(しゃせきしゅう)』など、いくつかの作品になっていくわけですね。

大隅そうです。それで同時代人の目線で見た中世の宗教というのはどんなものだったのかを、あまり難しく考えないで単純に紹介してみるのも意味があるのではないかと思い、宗教改革論みたいな事がらは別にして、中世のことを考えたいと思ったのです。

特定の宗派を選択(せんじゃく)することに反対した無住

無住像

無住像
(名古屋市・長母寺蔵)

篠﨑無住という名、一般的にあまり知られていませんね。

大隅無住は梶原景時の子孫だと言われています。証拠は何もないんですが否定するような材料もないし、梶原の一族だと考えれば都合よく読めることが多いのです。

梶原一族が頼朝に滅ぼされた26年後の嘉禄2年(1226)に鎌倉で生まれています。とても貧乏だったらしく、あちこちを転々として、南都にも京都にも行くのですが、それが面白いところだと思うんです。

鎌倉を出て、常陸あたりに行ったけれども、そこも何となく住みづらい。奈良、京都に行ってもだめで、結局、尾張に住み着くわけです。ですから、京都と鎌倉の中間の尾張で、50年ぐらいの年月を過ごす。そういう所で見たものを『沙石集』に書いているんです。

篠﨑無住は最初に、鎌倉の寿福寺に入ったんでしょうか。

大隅そこで最初に文字の読み書きを覚えたわけです。

五味それで、禅の修行をしたんですが、どうもうまくいかない。

大隅結局、基礎をきちんとやってないから、何をやってもみんな挫折するんです。一時は律宗に傾いたけれど、共同で何か事業をやると、いつも仲間外れになって、やめてしまう。それから座禅に憧れて座禅をしたのですが、脚気になって座れなくなり、それもあきらめる。

だから、結局、特定の宗派に属さないわけです。たくさんある仏教の中で一つだけ選んで、それを簡単にして、例えば念仏を唱えれば救われるとか題目を唱えればいいんだというので宗派ができる。それを選択(せんじゃく)と仏教史で言うんですね。無住はそれを偏執(へんしゅう)といって終始反対する。人々を救おうとしている点ではどの宗派も究極は一つで、補い合えばいいと。

『沙石集』は、無住が説法する際の手控えみたいなものですが、読者は無住と同じような坊さんですから、難しい専門用語なんかを使っています。無住が書いた本は一生懸命写され、回し読みされた。だから、『沙石集』は無住と似たような説教師が喜んで読むような格好になっています。

それと、自分も少しは仏教を勉強したんだというので、ちょっと教義めいたことも書いてある。これらが積み重なって『沙石集』になっていると思うのです。

中世の信心の雰囲気がわかるような話

『頬焼阿弥陀縁起絵巻』『沙石集』とほぼ同様の説話が描かれている

『頬焼阿弥陀縁起絵巻』
『沙石集』とほぼ同様の説話が描かれている
(鎌倉市・光触寺蔵)

篠﨑『沙石集』って、どういう意味なんですか。

大隅石を割って玉の原石を見つけて、それを砂でみがくということです。それで宝玉をつくるわけです。だから自分が書いたものは、砂や石のようなものだけれど、これを理解してうまく使ってもらえば、美しい玉を手にすることができるかもしれないと序文に書いてあります。

篠﨑どのようなことが書かれているのですか。

大隅例えば、阿弥陀の利益(りやく)ということが出ています。鎌倉の町の局が、あるとき怒って、身近かに使っている女童(めのわらわ)の片方の頬に、銭を焼いて押し付けた。ところが、自宅にまつってある阿弥陀を見ると、その火印が女童にではなく、阿弥陀の頬にあった。女童が念仏を信じていたから、仏が身代わりになってくれた。日ごろの信心が大切であるという話です。

これと同じような話が鎌倉の光触寺に伝わる『頬焼阿弥陀縁起絵巻』という鎌倉末期の絵巻に書かれています。ですから、そういう部分を並べてゆけば、中世の信心の雰囲気を読者にわかってもらえるような話が多いんです。

説話を使って歴史を考えられるようになれば面白い

五味それまでの説話集は大体京都を中心としたものですが、これが東国を中心に話が集められ、つくられるというのは、何か特質があるんでしょうか。

大隅あると思いますね。無住は京都が余り好きじゃなかった。

五味それ以前の説話集はかなりワンパターンな説話になっていますが、無住のはちょっと違いますね。

大隅説話集というべきかどうか、議論の余地はあります。日本の古典の中で歌集は別格で数が多い。ジャンル別にして物語、文学、紀行文、随筆と言いますが、今、中世前半までのもので残っている物語・紀行文はそんなに多くはない。

説話は3、40は残ってますから日本の古典の中では大きなグループです。だけど書いてあることは荒唐無稽で物語や軍記物以上に歴史の史料にならない。歴史を書くときのちょっとしたエピソードとして利用されるぐらいです。でも、かなりの分量があるので、説話を使って歴史を考えられるようになれば、中世史はもっと面白くなるんですけどね。

私は、20世紀の歴史学では説話は扱えなかったけど、21世紀には扱えるようになる、それが21世紀の歴史学だ、頑張ってくれと若い人に言ってきました。

地獄に落ちる話は庶民や武士ではなくお坊さん

大隅面白いと思ったのは『沙石集』のなかに、地獄の話がいくつかありますが、庶民や武士が地獄に落ちた話はほとんどない。地獄に落ち、地獄でもこんなことをやっているというのは皆、坊さんです。

無住のような人が「地獄は恐ろしい」と言ったら、聞きにくる人がいなくなり、収入がなくなるだけです。ですから地獄絵でも、平安末から鎌倉前半までの、知識人の自己批判とか、危機意識みたいなものを裏づけにした地獄絵は迫力があるけれど、中世の後期に入ったら、全然迫力がなくなる。

つまり、庶民は地獄なんか全然恐れていない。地獄に落ちても、地獄にはお地蔵さまがいて救ってくれるという話になる。仏教も大衆化してきて、坊さんも適当なところで妥協し、みんなを喜ばせるような話をして、たくさんお布施をもらうというのが、坊さんの生き方になってくるわけです。

兼好の古典的感覚と無住の庶民感覚

兼好法師像

兼好法師像
(神奈川県立金沢文庫蔵)

篠﨑中世というと、『徒然草』の兼好法師というか、清貧の思想のようなイメージをもつんですが……。

五味兼好が清貧であったかどうか、実のところよくわからないのですが、無住と兼好がすれ違って会って会話をしたらどうでしょうか。兼好は無住をばかにするかもしれませんね。

兼好の精神風土はまさに古典文化からの生粋なものを受け継いでいるのであり、当時の世相を冷ややかに見ていて、書いたものには結構毒がありますが、無住のものにはありませんよね。

大隅そう、それがなさ過ぎるのが問題ですね。

五味ですから無住は世の中になかなか受け入れてもらえない。われわれは兼好的な感覚に一方では憧れるんですが、でも現実に生きているときは無住的な生き方で、何か一つのことをやっていても徹底し切れないというのがあります。ただ、あまりにも自分に近過ぎるから、ちょっと共感しがたいのかもしれない。

でも、『沙石集』のようなものがそれ以前の時代に書けたかというと、書けない。ですから、あの時代は面白い時代だと思っています。

『沙石集』以外に『雑談集(ぞうたんしゅう)』『聖財集(しょうざいしゅう)』など幾つも書いてますし、こうした作品が鎌倉的な世界に、それまでとは違う形で読まれ、広がりができた。だから、その新しさが受け入れられたと思うんです。

読者が生まれて、それを回覧するような性格を持っています。その辺がそれまでとはちょっと違うと思う。

無住に中世の人々の心があらわれる

五味私は歴史学でも説話集をきちんと探らなければいけないということから、その方面の研究もやっているんですが、無住はかなり異質なのかもしれません。それ以前とちょっと違うんですね。

篠﨑そういう時代性は、どういうところから来るんですか。

五味石井先生のご本にあるように、鎌倉の後期は、日本社会そのものがかなり大きな流動期に入っていまして、都市的な場である十三湊を始め、鎌倉も最初から都市として明確に発展したのではなくて、この鎌倉後期ぐらいから発展しています。

発掘の成果によると、鎌倉の中のいろんな遺跡・遺物が急速に出てきます。各地の現在につながるような港町とか門前町は大体鎌倉後期ぐらいに形がつくられてきているんです。

それだけ大きく流動している時期で、今までの王朝風の高尚な説話集というだけではとても済まず、絵巻に描かれたり、あるいは話の内容が庶民の中に入っていくようなものでないとだめになったんです。そのような歴史的な位置にあった無住をどう扱うかというと、大隅先生でないとなかなか味が出てこない。

ですから、私も無住はぜひとも扱いたいとは思うんですが、とてもそこまでは手に負えません。

篠﨑さきほど、日本の骨格とか、考え方の基準が中世にできたとおっしゃいましたけれども、その一つのあらわれなんでしょうか。

五味そうですね。無住に帰結するような、例えば、神仏習合みたいな考えをはじめとして、大体、10世紀から11世紀ぐらいに出てきます。

大隅無住は神仏習合の動きもよくとらえています。

五味そうした考えの大体は『沙石集』の中にも出てきます。ところが、中世後期になると、かなりまた異質なものが展開する。

その部分も無住の中に萌芽的にあらわれているように思います。無住を探ってゆくと単に中世だけではなくて現代でも、あまり人は変わっていないんだということがわかってきます。

「北条時頼よりも自分の方がしあわせだ」

北条時頼像

北条時頼像
(神奈川県立歴史博物館蔵)

山形大隅先生に教えられたことですが、無住は、日本でほとんど最初と言っていいくらいの自伝的文章を書いているそうですね。

大隅『更級日記』みたいなものも自伝的なものだと言えば、いろいろな作品がありますが、ちゃんと問題を立てて、自分の一生は何だったのか、幸せだったのか、不幸だったのかということを一生懸命考えた文章を最初に書いたのは無住だといってもいいように思います。『雑談集』の中の一節です。

山形北条時頼よりも自分のほうがしあわせだとか。

大隅無住は年齢が近かったせいか、そういうときに時頼を意識しているんです。時頼は権力を握っているけれど、自分のほうが自由だとかね。

山形素直で面白い歌をつくっていますよね。例えば、へつらって富めるよりも、へつらわずに貧しく生きるほうがいい、とか。

中世にはなかった「宗教」という言葉

大隅今回は同時代人の目というのを強く意識して書きました。例えば、中世には、今われわれが使っているような仏教という言葉はないんです。中世ではお経のことを仏教と言うんです。宗教という言葉ももちろんない。宗教という言葉は幕末につくられた訳語としての造語ですから、当時のものには、仏法と書いてある。それで仏法のほうがはるかに内包していることが多いのです。だから仏教という言葉は避けようとすると、説明がなかなかうまくいかない。(笑)

宗教的行為だとか、宗教的活動だとか、宗教家だという言葉は、言いたくても使わないようにしました。宗教・仏教という近代語を使うと、どうしても教義・教学のことに傾いてしまう。

天台座主の、慈円が書いた『愚管抄』でも、仏法は始終出てきますが、仏教という言葉は一度も出てきません。

中世のみなぎる力と美のあり方を問い直す

篠﨑五味先生は、第7巻の『中世文化の美と力』のご担当ですが、これはどういう内容になるのでしょうか。

五味今回は中世の文化ということで、私自身は、絵巻物のほか、今まで歴史学のほうではなかなか扱えない史料を探ってきました。

ただ、中世の文化と言っても大変広がりがあるので、美術史の佐野みどりさん、国文学で芸能に造詣の深い松岡心平さんに加わってもらいます。中世文化史と言うと、宗教史の方では個別にはありますが、総体としてはほとんどなされていないので、かなり難しいことになりそうです。

手がかりは、鎌倉後期が、それ以前の中世前期とその後の中世後期との転換点に当たることから、そのあたりを一つのポイントに選び、前期と後期の文化のあり方を考えてみようかと思っています。刊行は8月です。

『元亨釈書』を手がかりに音の芸能を探る

五味その際に一つ手がかりにしたのは禅僧の虎関師錬(こかんしれん)が書いた『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』です。これは日本の仏教史を意図して書かれています。これを手がかりにしながら、声明や読経、念仏、唱導と言われるような、音の芸能から探っていこうと考えています。音の問題を扱うのは、現在でも音楽は時代の先端をゆくことがあるので、それが時代とどう関わっているのかを考えます。

もう一つは、中世にはさまざまな書籍がつくられているので、そういう書籍自体がどういう形でつくられ、文化が形成されていったのかも考えていきます。

現在につながる、いわゆる古典芸能、古典文化と言われる能、お茶、お花も大体始まりは中世です。しかし、それが中世で生まれたときは全く違うもので、もっと大きなエネルギーを持っていました。それが、時代の推移とともに整えられていって、力を失っていきます。本来持っていた中世の文化のみなぎる力、美のあり方を問い直し、現代に伝わってくるなかで失われていった力を発掘し直そうという意味合いがあります。

中世の文化には、以上の芸能だけではなくて、和歌を始めいろんなものがあるので、それらにある問題点もあぶり出しながら、文化の持っていた力を示すことができればいいなと思っているんです。

琵琶法師の語りや能はもっと早いテンポだった

篠﨑具体的な作品ではどんなものがありますか。

五味書物でいえば、『新猿楽記』に始まり、今様では『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』、故実書では『禁秘抄(きんびしょう)』、『平家物語』も説話集も取り上げますし、藤原定家の日記の『明月記』。今まで歴史のほうでなかなか手が出せなかった領域に積極的に踏み込んでいきます。

それと和歌ですね。和歌は読みとか解釈が独特なので、素人が手を出すとやけどをするんですが、定家の日記を読んでいるものですから、扱わざるをえません。

山形和歌は朗詠するのが普通だったんですか。

五味和歌会では読み上げます。その読み上げも現在、宮中の歌会でやっているものとかなり違うみたいです。例えば中世の平曲は現在の琵琶法師の語りとは大分違うと思います。当時はもっと早いテンポだったようです。能にしてもそうだというんです。江戸時代ぐらいになってスタイルが生まれてくると、だんだんゆったりしてきますね。そういうもとのテンポの問題が重要になります。

木村早歌とか早物語とか特に「早(はや)」を付けますね。それは対置するものがあって、「早」を付ける。

五味そうですね。ちょうど鎌倉後期ぐらいから「早」を付けることが多い。禅宗の影響かもしれませんね。

文化を支える人々に大きな広がり

片瀬の浜を歩く琵琶法師

片瀬の浜を歩く琵琶法師
(『一遍聖絵』 歓喜光寺・清浄光寺蔵)

篠﨑中世の文化というと、従来は鎌倉初期に重点がおかれていましたね。ところが今のお話では後期のほうが重要だとのこと。それは、いわゆる世俗化、大衆化というふうに考えればよろしいんですか。

五味普通に言えば、鎌倉後期から大衆文化状況ですね。文化を享受し、支えていく人々に大きな広がりがある。『一遍聖絵』などの絵巻にしても、みんな勧進でつくられる。人々に勧めて喜捨をお願いするために。

それ以前の絵巻は、例えば後白河院や貴族に見てもらうというような性格で、注文があってつくる。ところが、この時代から違ってきます。いわば古典的な美が体現されている国宝は、ほとんど鎌倉前期ぐらいまでで、それ以後はかなり大きく違ってきます。

ですから、写経などを見ても、現在残っている鎌倉中期ぐらいまでのものは非常に罫線がきれいで、装飾経の典型になりますが、その後のものは字はまばらで、罫線もきちんと引けていない。大衆化とは、それだけいろんな人々がそこの場に入り込んできて支えるようになっていくから、美のあり方も大きく変化していきます。

村落の結びつきが強まり情報も密に

篠﨑中世後期に、例えば生産性が上がってきたということとも関係がありますか。

五味それも一つはありますね。ちょうど中世後期ぐらいになると、都市的なものが各地に生まれ、地方の村々にもつながりができてきますから。石井先生はそこを人間の鎖の網の目という形で言われています。

村で言うと、村落の結びつきもかなり強くなって、村の掟もつくられ、地頭を追い出すこともあった。例えば「ミミヲキリ、ハナヲソキ」と脅迫する地頭に対して、紀伊の阿弖河荘(あてがわのしょう)の農民たちが抵抗するような事件もおきてます。そういう形で、大きくいろんな意味での変化がおこる。

大隅交通の便もよくなり遠くの社寺に詣でる遠隔地参詣もふえてくる。

篠﨑経済的ゆとりが大きくなって、技術の進歩で田んぼでの収穫高があがったとか。

五味そういう技術の進歩は大きいと思います。もう一つは情報の問題。あと、人口が、この時期に相当ふえていると思います。

ですから、石井先生が書かれていますように、最近、鎌倉の由比ヶ浜などから大量の人骨が発掘されています。それは合戦で亡くなった人を集中的に葬っただけではなく、さまざまな形で亡くなった人も含まれているようです。

山形無住がいた長母寺も一つの情報センターだったんでしょうね。

大隅そうだったと思います。ただ、仏教が日本人の間に広がったのは中世ですが、みんな仏教をちゃんと理解していたかというと、そんなことはないと思う。身内の者が死んだら、死体をそこら辺に捨てて平気でいたのが、坊さんを呼んでお弔いをするようになる。それで坊さんの需要が多くなると、いいかげんな坊さんもいっぱい出てきて、実際は仏教でお弔いしたつもりになっていても土着の民俗宗教風になっていき、仏教全体のレベルが下がっていく。

中世には古代や近世にはない面白さ

篠﨑中世という時代は魅力的で、近代史や近世史にはない面白さがあると思うんですが。

大隅古代は古代史研究とか古代史学となると史料は限られていて、議論していることは細かいことばかりなんです。

近世は史料があり過ぎるからなのか、議論の立て方がかえって単調になっている。全体に史料の密度が濃いから、九州のある藩のことを研究している人は関東のことには関心がない。

私が中世を面白いと思うのは史料も古代に比べればたくさん残っていて、使いようによってはいろいろなことが考えられるというのが一番大きいと思うんです。中世史そのものが面白いのか、今の研究の状況が面白いのか、両方だと思います。先ほど言いましたように、100年前にレールが敷かれ、それはかなり大きな見通しを持っていたから、ここ100年間の日本史研究というのは、中世史をやれば古代のことも理解できるし、それ以後のことも見通しがきくという格好になっていたわけです。

文化の面でいうと、日本文化が中世から始まるという面が実に多いと思います。

新しい見取り図を自分で書きかえることも可能

篠﨑五味先生は、いかがですか。

五味社会史の研究が、例えば中世から起きて広がったように、日本文化や社会のかたちが明確に見えてきたのが中世です。ですから、日本文化を考えるとき、中世まできちっとさかのぼって考えないと、本来的なものは探ってゆけない。近世、あるいは近代を通じてかなり変わってきてしまっている面がありますので。

それと、私がなぜ中世が面白いと思うかというと、先ほど大隅先生が言われましたように、史料が適度に残っているので、自分で新しい見取り図を書いたり、その図の書きかえが可能だから、やっていて楽しいんです。

石井先生が『中世のかたち』と言われているように、形があるかないかのような、不定型という要素が多分にある。研究者にとってみれば、そこでどんなものをやれるのかという腕試しの醍醐味があるけれど、つくってもつくってもなかなか手がかりが得られない厄介な問題もあります。

これが古代ですと、律令があり、中央集権的性格で固定されている。近世の幕藩体制も、だれもそれに異を唱えようとはしない。近代も西洋の近代に通じて、性格づけがはっきりしている。そういう意味でも、中世は一番わけがわからない。

中世の図柄は、真っ白な所につくるんですが、自分のつくり方が下手だと、どうしようもない。そういう怖さみたいなのも一方でありますね。

ですから、研究がどんどん専門分化していくと面白くなくなってゆく。中世の中でもある宗教制度や行事の細かな事柄を問題にするようになっています。それは一方では研究の一つの進展なんですが、ますますそういう中に入り込んでいくと、知らず知らずの間にだれかがつくった枠組の中で仕事をしていることになりはしないかと思って、残念です。学生には、「もうちょっと広がりを」と言っています。

中世には無文字の古代文化が文字化していく葛藤が

大隅先ほどの自叙伝ですが、無住が80を過ぎて文章を書いて、「嘉禄二年十二月二十八日の卯の刻に生まれたる也」と書くわけです。80になっても自分の誕生日と、生れた時刻まで知っている。戸籍があるわけでもないし、どこかに記録されているわけでもないから、古代では大きかった無文字の文化が、中世になって文字化していく。その対立葛藤というのは、大変激しいものがあったと思います。その両方が均衡していたのが中世の文化だと思うのです。それが中世文化の面白さではないでしょうか。

『平家物語』が成立するのは、膨大な無文字の語りの世界があって、それをどうやって文字化していくかという話ですからね。

篠﨑文字化していく中世から、今度のシリーズになるわけですが、多彩な人々というか、固有名詞がわかる人もかなり出てくる。また商人や職人たちとか、いろいろな階層の人々の動きがわかってきますね。

五味そうですね。ですから中世の人は、古代国家が崩れていく中での葛藤がすごくあるわけです。そういう葛藤の問題は現代とかなり似たような状況かなと思います。

ですから、現代とついついダブらせて見てしまうようなところがあります。もちろんそこから一度離れて、中世の視点から見ると、現代社会のいろんな問題も見えてくるという面白さも随分あるかと思います。

商人・職人、女性など個別のテーマを社会史的に集成

篠﨑このシリーズ全体の構成などをお聞かせいただきたいんですが。

山形石井先生も網野先生も言われましたが、中世通史を書くことは非常に難しい。もっといろいろな場面場面の個別のテーマをもとにして、中世を考える。そしてさらに日本の歴史を考えるとしたほうがいいというのが編集にあたられた両先生のお考えでした。まず、1巻から7巻までがテーマ別で、8巻から11巻ぐらいが、ある意味で通史になっています。

五味注目されるのは、これまでの社会史の中で中世の人々のさまざまな声や動きを取り上げているところです。商人・職人や女性、それから平泉、琉球などで活動する人人の姿、都市を舞台に生活する職能民、そういう社会史的な性格を扱うのは3巻から6巻です。

篠﨑今までと違った社会史的な面からの成果が入るので、とても興味深いですね。

山形ええ。大隅先生の原稿を拝読しましても、本当に中世の野山を歩いているような感じでして、親鸞や日蓮といった有名な人ではなく、地味な人でも身近に感じられるんです。

今、グローバル化とローカルがせめぎ合っているような世界状況で、それこそ現代は新しい中世だと言われる政治学者もたくさんおられます。そういう中で、新しい文化や文明を築いていった中世の魅力を、このシリーズ全巻で各先生によってぜひ出していただければと思っております。

篠﨑最近、女性史の研究にはめざましいものがありますが、シリーズ中の1巻を女性や子供にあてるのは画期的な試みではないでしょうか。

山形それもまた大変面白くて、例えば、あるお坊さんがずうっと結婚しないで年を取ったらどうするんだとか、介護は誰がするんだとかいうことまで、第4巻の『女人、老人、子ども』では書かれるはずです。

大隅それは2巻にもあります。お坊さんが年取って中風なんかになったらみじめだから、その前に結婚しておいたほうがいいと。

五味弟子どもが、もうこれは大変だからと、若い女性をつけた(笑)。そしたら急に元気になって長生きした。

篠﨑本日は、どうもありがとうございました。

大隅和雄(おおすみ かずお)

1932年福岡県生れ。
日本の文化をよみなおす』吉川弘文館 3,000円+税、ほか。

五味文彦(ごみ ふみひこ)

1946年山梨県生れ。
増補吾妻鏡の方法』吉川弘文館 2,200円+税、ほか。

※「有鄰」411号本紙では1~3ページに掲載されています。

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