Web版 有鄰

572令和3年1月1日発行

近世おせち物語 – 2面

権代美重子

新しい年の始まりは、いつも清々しく、1年の安寧と多幸を祈り厳かな気持ちになります。お正月の楽しみの一つに、「おせち」があります。重箱に詰め合わされた料理を縁起を思い浮かべながら味わうと、「良い1年でありますように」という思いが新たになります。「おせち」が今のような形で一般家庭で祝われるようになったのはいつ頃でしょうか。

「おせち」の由来

古来、お正月には家々に歳神様が訪れ幸せをもたらす、とされてきました。国学者本居宣長(1730~1801)は、「とし」という語は「登志」であり「穀物」「イネ」をあらわし、歳神様は農耕神であると述べています。元来お正月の迎年祝賀は、収穫を感謝し新しい年の農耕生活の無事と豊作を祈る農耕行事であり、「おせち」は日々の加護への感謝と祈りをこめて歳神様に御馳走する「神饌」でした、暮れにいらっしゃる歳神様に供え召し上がっていただき、翌日の元旦にそのお下がりをいただきます。神様が召し上がったのと同じものを食べることで神様の霊力を分けていただこうという「直会」の習わしです。

「おせち」という言葉は「御節供」に由来し、1年の節目ごとに行われた平安時代の貴族の節会の際に供された料理のことを指しました。やがて武家社会の儀礼時の宴席料理になり、江戸時代に徐々に一般庶民にも広がっていきます。

井原西鶴『日本永代蔵』(1688)に「春の物とて是非調へて、蓬莱を餝りける」と、お正月の床飾り「蓬莱」が出てきます。「蓬莱」は、中国の不老不死の仙人が住むという理想郷蓬莱島を模したもので、平安時代の貴族の祝宴の飾りに由来する「招福」の縁起物です。三方の台の中央に松竹梅を立て周りに白米を敷き詰め、熨斗鮑・搗栗・昆布・干柿・橙・伊勢海老・梅干などを飾りました。江戸の風俗書『守貞謾稿』(1837起稿)には「上方では蓬莱、江戸では喰積という」とあり、三都(京都・大坂・江戸)で広く飾られていました。

『萬家日用惣菜俎』(1836)屠蘇・雑煮・おせち(重箱詰)で客をもてなす。後方に蓬莱飾りが見える。

『萬家日用惣菜俎』(1836)
屠蘇・雑煮・おせち(重箱詰)で客をもてなす。後方に蓬莱飾りが見える。
国文研データ

「喰積」の名のように軽くつまむ程度に乾物や果物が盛られており、江戸では年賀客に必ずふるまうとともに家族も食べました。蓬莱の飾り物を少し食べると寿命が延びると信じられていたのです。やがて飾るだけとなり、寛政頃(1789~1800)から、飾るための膳(喰積)と食べられる祝肴を詰めた重詰が作られるようになりました。この重詰が今のような「おせち」の原型と言われています。

「おせち」の祝肴

文化年間(1804~1818)後期の風俗調査書『諸国風俗問状答』に「組重の事、数の子、田作、たたき牛蒡、煮豆等通例、其外何様の品候や」とあり、どんな祝肴が詰められていたかがわかります。「数の子」「田作」「たたき牛蒡」「煮豆(黒豆)」は今も「おせち」の定番料理です。全国的にこの4品を基本として、それに地方によって郷土料理が詰め合わされていました。

8代将軍徳川吉宗(1684~1751)は、「正月だけは、富める者も貧しい者も同じものを食べて祝って欲しい」と、「数の子」を正月料理に加えることを推奨しました。「数の子」は鰊の卵で、その粒の多さから子孫繁栄の縁起物とされました。江戸時代には北海道や北方の日本海沿岸に春になると海の色が変わるほど大群の鰊が押し寄せました。鰊は、鰊粕、身欠鰊、干数の子等に加工され、北前船で上方や江戸に大量に運ばれました。『守貞謾稿』に「鯡を江戸で食する者は稀で、もっぱら猫の餌である」とあるほど大量に流通し、食用よりも灯油や商品作物の栽培肥料として多く利用されました。数の子も手に入りやすく安価でした。

「田作」は片口鰯を炒って味付けしたもので、豊作祈願の縁起物です。鰯は日本で最も漁獲量の多い魚です。農業を兼業していた漁民が余った鰯を田に埋めたところ米の豊作となったのが縁起の由来です。「五万米」とも書き、宮中で豊作祈願の年始の儀式にも供されていました。由来にもあるように最も多かったのは肥料としての利用でした。江戸時代中期には、商品作物、特に木綿の栽培生産が盛んになり肥料の需要が高まりました。効果の高い干鰯はお金を払って買う貴重な肥料で「金肥」と呼ばれていました。食用としての鰯は安価であったために「下魚・下賤な魚」とされていましたが、庶民に最も親しまれている魚でした。

「たたき牛蒡」、ゴボウは地中深く根を張ることから家内安泰をあらわす縁起物です。中国から漢方薬として伝わり、平安時代『類聚雑要抄』(1146)に宮中儀式の膳に供せられた記録があります。日本では食用として栽培され、江戸時代には全国で作られ常食されるようになりました。実用料理本『料理物語』(1643)には様々な調理法が紹介されています。江戸時代には相撲になぞらえた格付け番付が流行りました。『日用倹約料理仕方角力番付』(天保の頃、刊年不明)で、ゴボウ料理は全212種の中で小結(3位)に上がっています。

「煮豆」は、まめに(健康で)働き暮らせるように、という願いを込めた縁起物です。今は黒豆ですが、江戸時代は「座禅豆」と呼ばれていました。僧が座禅をするときに、この豆を食べると尿意を抑えられるからだそうです。風俗書『嬉遊笑覧』(1830)には「正月殊さらにこれを設て正式の様なれど、昔酒の肴に絶ず用いたる遺風なり」とあり、かつては酒の肴でした。今のような砂糖と醤油を使った黒豆の煮物は、江戸の高級料亭八百善が正月向けに考案しました。艶やかな黒の発色を良くするために煮るときに錆鉄釘を入れ、やわらかくふっくら仕上げるために重曹を加えるという工夫は、さすが高級料亭八百善です。

「おせち」には「御馳走」というイメージがありますが、江戸時代には「おせち」の食材はどれも手に入りやすく安価なものばかりでした。吉宗は幕府の財政再建を目指し年貢米を五公五民に引き上げ質素倹約を奨励した将軍でした。言葉の真意は、「正月から質素倹約に努め、それぞれの持つ縁起を心に刻んでさらに勤勉に励めよ」ということだったようです。

今の「おせち」へ

『萬家日用惣菜俎』(1836)「正月節料理」と「年始重詰」についての記載。

『萬家日用惣菜俎』(1836)
「正月節料理」と「年始重詰」についての記載。
国文研データ

興味深いことに『萬家日用惣菜俎』(1836)を見ると、重箱の1段ごとに1種類の祝肴が詰められています。「かまぼこ」や「きんとん」が「おせち」に加わったのは明治時代から、「だて巻き」は料理人の作る料理でしたが大正時代に女学校の割烹教育や大人向けの料理教室が盛んになって家庭の「おせち」に入るようになりました。一般家庭で「おせち」を重箱に詰めるようになったのは明治時代以降のことで、「おせち=重箱に入った正月料理」というイメージが確立したのは太平洋戦争後のことです。デパートなどが見栄えのよい重箱入りの御節料理を発売し、購買意欲を誘うため美しい写真を載せ各料理の縁起を強調して紹介しました。やがて多くの人々が都会に住むようになり核家族化が進んで家庭内伝承が薄れ、雑誌やテレビの料理番組で紹介されるものが「おせち」のお手本になりました。重箱の詰め方が、口取り、焼きもの、酢の物、煮物の形に落ち着いたのも昭和時代に入ってからです。

古くからの伝統と思われていますが、文献を調べると「おせち」の歴史は意外と新しくメディアの影響の大きさを感じます。近年ではお取り寄せが盛んになり「おせち」も豪華になってきました。時代とともに「おせち」も変化しています。

権代美重子(ごんだい みえこ)

1950年大阪府生まれ。観光学者。日本のもてなしと食文化研究家。(財)日本交通公社、高崎経済大学他講師。著書『日本のお弁当文化』法政大学出版局 2,200円+税ほか。

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