Web版 有鄰

580令和4年5月10日発行

無謀な挑戦 – 海辺の創造力

吉野万理子

2月。小雨のぱらつく寒空の下、私は横須賀の街をとぼとぼ歩いていた。目的地は追浜の「DOCK」。横浜DeNAベイスターズの選手が使うグラウンドと室内練習場、そして若手の寮がある。ファンにとっては聖地だ。

彼らは、沖縄のキャンプ地にいる。練習場が空いているこの時期だからこそできる一般向け野球教室。未経験者向けもあると知り、うっかり申し込んだのだ。そして、しまった、と、後悔がじわりと広がっていた。

自宅にこもって文章ばかり書いていると、自分の年齢を忘れているが、気が付けば半世紀生きている。同行の友人は同い年とはいえ、フラメンコの達人だ。もう一人はだいぶ若い上に、リンクに年中通うスケーター。

私はといえば……運動不足の極み。心の拠り所は「階段」しかない。

今年の初め、『階段ランナー』を上梓した。各地の実在する階段が随所に登場する物語で、構想段階から実際にたくさん上った。東京タワー(六百段超)、京都の伏見稲荷大社(約二千段)の他、横浜、鎌倉、逗子の階段も作品に登場する。おかげで上り癖がつき、エスカレーターと階段がある時は(たいてい)階段を選んでいる。

だが、野球で使う筋肉に、それは関係あるのだろうか?

最低限、肉離れやアキレス腱断裂など、主催者に心配と迷惑をかけるハプニングは避けなくては、と思う。

「DOCK」のグラウンドを右手に見ながら進むと、突き当たりは海だ。ゆったり流れる川にしか見えないが、対岸は横浜市の野島で、ここは平潟湾なのだった。

海を背にして、「DOCK」の入口を通って受付に向かう。不安が募る一方で、申し込んだ当初の好奇心も再び沸き起こってくる。

選手たちが使う室内練習場を一度は見てみたかった。さらに、元現役のプロ野球選手たちがコーチを務めるのだ。きっと遠目に見る程度で、話す機会はないだろうけれど。

いざ始まると無我夢中の1時間半だった。

遠目に見るどころではなく、元選手、現コーチたちは目の前を行ったり来たりしている。

私のしょぼい手投げキャッチボールを見た松井飛雄馬コーチは、「肘を引いて、こう投げましょう」と指導してくれた。バッティング練習中、たまたまミートした私の打球を見て、荒波翔コーチが「おおっ!」と驚いてくれた。去年まで現役だった飯塚悟史コーチは「ストレートはボールをこう持って」と教えてくれた。何なのだ、この夢空間は。無事、肉離れもアキレス腱断裂も免れた。

帰り道、雨は止んでいた。気温は5度を切っているのに、海風が暖かく感じられる。

国道16号線を渡って、追浜駅の改札までの階段を上った。得意のはずの階段だが、足が限りなく重い。もう筋肉痛が始まっていた。治まり次第、習ったことを反復しなくてはと誓った。これから心の拠り所は「階段」に加えて「バッティングセンター」となるのだ。

(作家)

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