Web版 有鄰

581令和4年7月10日発行

北条氏と天変 – 海辺の創造力

塚田 健

NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の原作ともいえる鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』は編年体で書かれ、少なくない数の天文現象の記事が載せられている。例えば日食の記事は22件、月食の記事は37件あり、惑星に関する記事も70件以上ある。これは当時、天変が地上の人事を、特に施政者(鎌倉幕府であれば鎌倉殿や執権北条氏)の過ちを明示していると捉えられていたためだ。

実際、都には国の機関として陰陽寮が置かれていた。幕府も陰陽師を都から呼び寄せ、特に源家将軍が絶えてからは、将軍の出自が摂家に移ったこともあり幕府内に独自の陰陽師集団(天文方)を抱えるようになったようである。

幕府首脳部が天変を気にしていたことがわかる一例を紹介しよう。『吾妻鏡』寛喜4年1月5日条に次のような記述がある。

「寛喜四年正月大五日丙戌未刻 月犯太白經天〔相去四寸所〕 去貞應三年四月七日有此變 同六月十三日右京兆卒亡凡和漢共非佳例 而今依爲年始 天文道不出言云々」

寛喜4年1月5日、月と金星(太白)が非常に近づいて見えた(これを犯という)。去る貞應3年4月7日に同じような現象が見られたときは、その後6月13日に執権・北条義時(右京兆)が亡くなった。そもそもこの現象は日本でも中国でも良い例はなく、年初に縁起が悪いので天文方は奏上しなかった、というのだ。月と金星が近づいて見えること、そして昼でも見えることは、さほど珍しいことではない。しかし、過去の例があって報告すれば何か不吉なことが起きるのでは、という不安を煽りかねないと天文方は判断したのだろう。言い換えれば、それだけ幕府首脳部が天変を畏れていたということになる。

一方で、特に北条氏は天変を利用するしたたかさも持ち合わせていたようだ。このあたり、“坂東武者”北条氏らしいといえる。

例えば、『吾妻鏡』承久3年5月18日条には、明け方の東の空で金星と火星が大接近したという記述がある(「太白星陵犯 惑星」)。しかし、天文シミュレーションソフトで再現してみると、最接近は4日前のことで、しかも犯と呼べるほどの大接近ではないことがわかる。実は承久3年5月はこの日まで記事がない。そして翌日の記事は後鳥羽上皇が諸国に北条義時追討の院宣を発したことが鎌倉に伝わったというもの。同日、北条政子は御家人たちに檄を飛ばし、同月22日には北条泰時や時房らが率いる軍勢が鎌倉を出立している。いわゆる承久の乱だ。結果は皆さんもご承知の通り。本来ならば犯とはいえない現象を犯と記し、しかも最接近の日をずらす……乱の勝者たる幕府、そして北条氏の意図が含まれている気がしないだろうか。

歴史書である『吾妻鏡』には、当時を生きた人たちの“想い”までは書かれていない。しかし、天文現象は一部を除いて計算し再現することが可能で、記された“事実”と起きた天文現象の“真実”の差から、彼らの意図を推し量ることができるかもしれない。たまには天文という、少し変わった視点で歴史を見てみるのはいかがだろうか。

(平塚市博物館学芸員・天文学)

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