Web版 有鄰

585令和5年3月10日発行

牧野富太郎と神奈川 – 2面

伊藤千恵

この春から放送が始まるNHKの連続テレビ小説「らんまん」は、植物学者・牧野富太郎博士(以下、博士と略す)が主人公のモデルとなり、その生涯が描かれます。江戸時代末期である文久2(1862)年に土佐の佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた博士は、独学で植物学の知識を身につけ、二度目に上京した22歳の頃から東京大学の植物学研究室に出入りを許され、徐々に東京を拠点として植物学研究の道をひた走ることになります。そして、日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけ発表し、新種や新品種などを含めて生涯で1,500種類以上を発見・命名し、日本の植物分類学の礎を築いた一人となります。植物を研究するために全国各地に調査した博士は、東京の隣県である神奈川県内にも数多くの足跡を残しています。

箱根は一顧の価値ある土地

博士が重きを置いていた場所として、箱根が挙げられます。博士は「植物についての箱根は一顧の価値ある土地の一つであると言ってさしつかえがない」と言っています。その理由としては、火山であってその地勢により、箱根でなければ得難きものがある点を博士は指摘し、「はこね」と名の付く植物が数多くあることからも、それを裏付けることができます。博士自身も箱根の駒ヶ岳に多く分布し頭花の総苞が粘ることが特徴のハコネギクや、富士、箱根、伊豆半島のみに分布し葉の表面に淡黄褐色の星状毛が密生するハコネグミを命名しています。

『植物学雑誌』第1巻第1号第1版

『植物学雑誌』第1巻第1号第1版

その箱根と博士の関わりとして、『植物学雑誌』の創刊号に掲載された論文について触れたいと思います。『植物学雑誌』は博士が植物について発表できる場をつくろうと友人とともに計画し、明治20(1887)年に東京植物学会の機関誌として創刊されます。その1巻1号に掲載された博士の「日本産ひるむしろ属」の論文は、「本年八月予函嶺(箱根山の別名)ニ遊ブノ日植物ヲ同地ニ採集スルニ際シ蘆(芦)湖ノ水草六種アルヲ知ル」から始まります。この水草6種のうち3種はヒルムシロ属であったことから、日本で見られる10種のヒルムシロ属の識別表とともに、ヒロハノエビモ、ササエビモの図と詳しい解説を掲載しています。図は、右にヒロハノエビモ、左にササエビモを配置し、それぞれの花、果実を拡大し部分図として添えられていて、種の特徴をよく捉えています。これらの図は前年明治19(1886)年9~10月に博士が箱根に長期滞在した際の「箱根植物調査記録」という研究ノートに同様の構図のスケッチが残されており、それを基に描かれたと考えられます。小学校中退という学歴で植物学教室の学生でも教員でもなかった博士にとって、『植物学雑誌』の誌面は肩書などではなく実力を示すことのできる重要な場であったことでしょう。この論文には博士の知識と技術が存分に盛り込まれ、植物学にかける情熱がひしひしと伝わってきます。そして、博士が論文の題材として箱根の植物を選んだ理由には、当時の植物学者達が箱根という地に関心を持っていた背景があるように思います。

横浜植物会を指導

神奈川県立第一中学校での横濱植物会の集まり

神奈川県立第一中学校での横浜植物会の集まり、
前列向って左が牧野富太郎
(個人蔵)

博士の日記の記述を見ると、箱根以外にも鎌倉、大磯、平塚、横浜などの地名とともに月に一度程度、神奈川県を訪れている記述が見られます。それは、明治42(1909)年に県立第一中学校(現・希望ヶ丘高校)教師松野重太郎が中心となり創立した横浜植物会を、博士が指導していたことによります。博士は後半生では植物の研究のみならず植物知識の普及に力を入れていき、全国各地の植物愛好会の指導をしているのですが、その先駆けとなった組織が横浜植物会です。横浜植物会は日本で初めて作られた植物同好会で、現在も続く伝統のある会です。では、博士は横浜植物会でどのような指導をしていたのでしょうか。松野が明治45(1912)年2月に『神奈川縣教育會雑誌』に記した「横濱植物採集會」の記事には、博士に講話および標本の鑑定を依頼し、野外での実地指導をしてもらっていたことが記されています。例えば、日本産竹類についての講話では、研究史から始まり、分類に必要な部位の解説、花の収集が困難であること、開花要因の解明の必要性、花の構造はイネ科の花とは異なること、果実の形態、竹の利用法、画家の描いた竹と筍の観察の不十分な点などなど……多岐にわたる話をしています。また、足を伸ばした御殿場での採集会では、シロバナイナモリソウを関東山地の特産品として百余りの標本を採ったり、大きなサンショウバラをおそらくバラ属の世界における「最優大者」と称えたり、ナツノタムラソウの雄しべが花冠より突き出る点をアキノタムラソウとの区別点として解説したりする博士の様子が紹介されています。

親しく植物を語り合う仲間がいることは、博士の研究にも良い影響を与えていきます。先に博士の発見・命名した植物は1,500種類以上にのぼると書きましたが、それらはすべて博士が発見したというわけではなく、全国各地の植物愛好家が見つけ、それを博士に問い合わせることで新種・新品種であることが判明することもあったのです。松野は明治45年に横浜市西区でメダケに似ていて、葉が垂れず葉鞘(葉の基部で茎を巻いている部位)に毛がある特徴のササを見つけます。博士はこれを新種とし大正7(1918)年にヨコハマダケ(Arundinaria matsunoi Makino)と命名します。学名の種小名 matsunoi は、発見者である松野への献名です。博士は日本の植物相を明らかにし、それを植物誌にまとめることを生涯の目標とし、昭和15(1940)年に集大成である『牧野日本植物図鑑』を刊行します。全国各地で地域の植物を愛し見つめ続ける仲間たちがいたからこそ、博士はこの偉業を成し遂げることができたと言っても過言ではないでしょう。

ウスガサネオオシマの咲く庭

博士の夢が日本の植物相を明らかにすることであったなら、博士の研究を支え続けた妻・壽衛の夢は標本館をそなえた植物園のような我が家を持つことでした。植物を研究するには、植物採集のための旅に出掛けたり、海外の文献を購入したりと出費がかさむのですが、壽衛は嫌な顔ひとつせず一言も不平を言わず尽くしてくれたと博士は自叙伝に記しています。博士が収集した標本は40万枚、文献は4万5千冊にもおよび、それを収納する広い家を必要としたため、家賃が払えず度々引っ越さざるを得ないこともありました。そんな中、壽衛は標本や文献が火事で燃えないよう東大泉の雑木林の中に家をつくる計画をし、大正15(1926)年に小さな一軒家を建てるのです。惜しくも壽衛は転居後まもなく病に倒れ、昭和3(1928)年に亡くなります。博士は壽衛亡き後も、庭に全国各地で採集した植物を植え「我が植物園」と呼び、庭を大切に育んでいき、現在は練馬区立牧野記念庭園となっています。今でも博士の植えた植物など300種類以上が生育しており、4月になるとウスガサネオオシマが花を咲かせます。ウスガサネオオシマは博士が昭和6(1931)年に真鶴で発見したオオシマザクラの変種で、花弁が5~10枚の半八重となる特徴があります。博士はこれを証拠に里桜はオオシマザクラを元にして発展してきたという説を唱えました。当時はまだその説は証明されていませんでしたが、近年遺伝子による調査が進み、里桜にはオオシマザクラが深く関与していることが明らかとなってきています。決して派手ではないウスガサネオオシマが咲く度に私はこの庭が植物学者の庭であることを痛感し、真鶴でこの桜を発見した際博士はどんな風に喜んだのか想像して笑みがこぼれてしまいます。

伊藤千恵(いとう ちえ)

1980年東京生まれ。横浜国立大学環境情報学府修了、学術博士。練馬区立牧野記念庭園学芸員。

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