Web版 有鄰

585令和5年3月10日発行

関東大震災から100年 – 海辺の創造力

萬年一剛

今年は関東大震災から100年。私の祖父母は4人ともすでに他界したが、いずれもその経験者だった。私の印象に残るのは母方の祖母の話である。当時、祖母は横須賀に住む小学校1年生で、地震当日の9月1日は始業式でお昼前に帰宅をした。ランドセルを降ろして着替えようとワンピースの裾をたくし上げて、頭の上まで隠れたところで地震に襲われたという。視界がないところ慌てて脱ぎ捨てたが、太い大黒柱の頑丈な家は地震でも無傷で、戦後も使われ続けた。地盤と建物の条件が良ければ当時でも被害は限定的だったという話は、妙に印象に残る。

現代に生きる多くの人々は、1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災など大きな被害地震を体験してきた。これらに比べ、関東大震災は社会状況が大きく異なる時代の古い震災であるかのように感じられるかもしれない。しかし空前絶後の地震災害と言えば関東大震災をおいて他にない。この震災を長年研究する武村雅之氏によれば、関東大震災の死者・行方不明者数は約10万5千人、被害総額は当時の国家予算の360%を超えるとされる。東日本大震災と比べると犠牲者数で約5倍、国家予算基準で約20倍の大災害である。

この未曾有の災害で人々は何を経験したのだろうか。震災の50年後に出版された吉村昭の『関東大震災』は多様な視点からこの震災を描いた名著だが、地震後の被災地を襲った物資不足の記述は強烈である。例えば横浜市内では飢えと渇きに苦しめられ、支援の遅さに不安を煽られた被災者による強盗団が横行したという。東京では運行再開が早かった東北本線など北に向かう列車に、飢えに苦しむ被災者が殺到し、客車から溢れ、屋根に上がったり、窓にぶら下がる者も多数いた。しかし、そうした者は蒸気機関車の煤煙や火の粉を浴びて意識を失い転落したり、架線に触れて感電することも多かった。信越本線の碓氷トンネルでは転落死者の遺体が累々と横たわっていたという。

関東大震災の中心被災地である東京・神奈川の当時の人口は約521万人で、日本の全人口の約9%に過ぎなかった。しかし、現在は東京・神奈川に全人口の約18%もの人々が集中している。災害時にこの規模の人口を支えることが出来るのだろうか。近い将来の発生が確実視される南海トラフ地震で、東京・神奈川の被害は比較的軽微とされる。しかし、人口、産業、交通網が集中する西日本が広範囲に被災すれば、物資不足とは無縁ではないだろう。また、富士山が大規模な噴火をして降灰をもたらした場合、東京・神奈川はおそらく中心被災地となるが、その交通網は機能をほぼ失う。こういう視点で見直すと、建物の耐震性向上や社会経済の発展ではクリアし切れていない防災の課題に気付く。関東大震災の時と比べて、我々はどのくらい進歩して、どこが依然として足りないのだろうか。100周年を契機に、国を揺るがす大災害であった関東大震災を振り返り、多くを考えたい。

(神奈川県温泉地学研究所主任研究員 火山学)

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