Web版 有鄰

592令和6年5月10日発行

アニメーション映画に描かれた戦争と人間 – 2面

柴 那典

国民文学としてのアニメーション映画

アニメーション映画は、今の日本における国民文学のようなものになっているのではないだろうか。そんなことを思うようになったのはだいぶ前。宮﨑駿監督の『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』が当時の記録を塗り替える動員を果たした20数年前がひとつのターニングポイントになったはずだ。現在の歴代興行収入ランキングを見ても上位にはアニメーション映画がずらりと並ぶ。

単にヒットしているというだけではない。作品が広い影響力を持つことによって、それを駆動する想像力が社会に敷衍するようになった。

今はいったいどんな時代なのか。我々はどこに向かっているのか。そういう「大きな物語」としてのナラティブの一翼を、大作アニメーション映画が担うようになった。

そう考えると、昨年はそういった「国民文学としてのアニメーション映画」の傑作ぞろいの1年だったと改めて感じる。先日発表された第47回日本アカデミー賞では、宮﨑駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』が最優秀アニメーション作品賞を受賞した。ほか、優秀アニメーション作品賞に選ばれた作品には『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(古賀豪監督)と『窓ぎわのトットちゃん』(八鍬新之介監督)があった。『鬼太郎誕生ゲゲゲの謎』は水木しげるさんの漫画『ゲゲゲの鬼太郎』を原作としたオリジナル新作で、『窓ぎわのトットちゃん』は黒柳徹子さんの幼少期を自伝的に描いた同名のベストセラーの初の映画化だ。

3つの作品を観た人は、そこにひとつの共通点があるのに気付くはずだ。どの作品も戦時下の日本が描かれている。「戦争を生き延びた日本人」が主人公になっている。特に『鬼太郎誕生』と『窓ぎわのトットちゃん』の2つの作品には、単なる時代設定の類似だけじゃなく、それを通して何を描くかというテーマの関連がある。戦争というものが、本質的にどういう構造のもとに成り立っているのか。それが人の心にどんなものをもたらすか。そういうことが作品に描かれている。

戦中も戦後も変わらない搾取の構造

『総員玉砕せよ!新装完全版』/書影

『総員玉砕せよ!新装完全版』
講談社文庫

『鬼太郎誕生』の舞台は1956年。政府が「もはや戦後ではない」と宣言した高度経済成長期の入り口の頃だ。しかしその物語は戦争と密接につながっている。

物語は帝国血液銀行に勤める水木という男が、哭倉村の龍賀一族を訪れるところから始まる。

復員兵である水木は戦中の体験をトラウマとして抱える。仲間たちが理不尽な玉砕を強要された当時の記憶がたびたびフラッシュバックする。玉砕命令を出しておきながら自分は逃げようとする上官の姿や、病気や飢餓に倒れる仲間たちの姿が心に浮かぶ。このあたりの描写は実際に太平洋戦争に従軍し南方戦線の過酷な状況を生き延びた原作者・水木しげる自身の体験を描いた『総員玉砕せよ!』からの引用だ。

水木が訪れた哭倉村は、血族と因習に縛られる閉塞感に満ちた社会だ。しかしそこは単なる田舎の村ではない。哭倉村を支配する龍賀一族は、血液製剤「M」の生産によって巨額の利益を得て、日本の政財界の黒幕的な存在となっている。「M」とは接種した人間が疲れもなく昼夜働けるようになる薬剤で、戦時中は兵士のために、そして戦後は企業戦士のために使われたという。「ヒロポン」と称されたメタンフェタミンの頭文字を想起する人も多いだろう。

つまり、『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』においては、戦中も戦後も変わらない「人が使い潰される」搾取の構造が物語のキーになっている。

日常を侵食する戦争の影

『窓ぎわのトットちゃん』・書影

『窓ぎわのトットちゃん』
講談社文庫

『窓ぎわのトットちゃん』の舞台は1940年代の東京。落ち着きがないという理由で小学生を退学になったトットちゃんが、転校先のトモエ学園を独自の教育方針で運営する校長・小林宗作や個性豊かな同級生たちと共に活き活きと過ごす日々を描く。

作品を豊かなものにしているのは、アニメーションならではの描写だ。朱に塗られた唇と頬紅が印象的なトットちゃんや小児麻痺を患う友だちの泰明ちゃんなど子供たちの造形は昭和の児童画を参照しているという。トモエ学園のあった自由が丘を中心にした当時の町並みを描いたタッチは綿密な取材に基づくリアルなもので、一方、子供たちの空想や内面世界を描いた夢のような幻想的なシーンも強い印象を残す。よくあるアニメの記号的な表現とは一線を画したものになっていて、その手法と作品の主題が結びついている。

トモエ学園はいち早くリトミックを取り入れ、今で言うインクルーシブ教育を実践していた自由で先進的な学校だ。だからこそ、天真爛漫で自由奔放で、集団からはみ出してしまうトットちゃんのような子供たちが伸び伸びと過ごすことのできる場所だった。出会いの場面でトットちゃんの話を何一つ遮ることなく何時間も聞き続けた小林先生の人間性が物語を支える屋台骨のような役割を果たしている。

そして作品のもうひとつの軸になっているのが、そんな日常を侵食する戦争の影だ。裕福で文化的な家に生まれたトットちゃんが平和な暮らしを満喫している物語の冒頭、1940年の時点で日中戦争は始まっている。ラジオの音声や街の様子でそれとなく示される。そして物語が進むごとに、日々の暮らしからは自由と豊かさが失われていく。日の丸や勇ましいスローガンが貼られた貼り紙が目立つようになる。トットちゃんの服は汚れ、食事も満足にとれなくなっていく。

貧しさだけでなく、市民による強い同調圧力が日常を侵食するようになっていく。いつも学校で食事の前に歌う「よく噛めよ」の歌を歌っていたトットちゃんは、国民服を着た見知らぬ大人に「卑しい歌を歌ってはいけないよ。君たちも銃後を守る立派な少国民だろう」と叱られる。その後にトットちゃんと泰明ちゃんが雨の中でミュージカル映画『雨に唄えば』のように共に踊るシーンは、子供ながらの美しい抵抗のようで胸を打つ。

物語の終盤、とても大きな悲しみを抱えてトットちゃんが駆けるシーンは映画のクライマックスだ。ガスマスクをかぶって戦争ごっこをする子供たち、出兵する兵隊を見送る人たち、片足を失くした帰還兵、骨壺を抱いた女性。戦争がもたらす熱狂と理不尽な悲しみが街に交錯する。

作中で最も印象的だったのは、空襲で全てを失うも「今度はどんな学校を作ろうか」と最後まで折れることなかった小林先生の姿だった。戦時下の抑圧が強まる東京で「人を人として扱う」ことを貫く教育者の気概が描かれていた。

2つの作品を通して見えてくるのは、戦争を「かつてあった悲惨なこと」としてではなく、今の時代に共通する構造を持ったものとして捉える視点だ。

もちろんその背景には今も各地で戦火が絶えない世界情勢がある。ロシアによるウクライナ侵攻、そしてイスラエルによるガザへの攻撃。「戦争の世紀」と呼ばれた20世紀が終わって20年以上が経った今も多くの人たちの命が失われ続けている。

ただ、それだけではないとも思う。戦争がもたらす心性を「人を人として扱わない」ことに見出すなら、それは一見平和で治安のよい場所に思える現在の日本でもあまねく存在し続けているのではないか? という問いかけが込められているように感じる。

今はいったいどんな時代なのか。我々はどこに向かっているのか。そういう「大きな物語」の問いを立てるとき、戦争について語るとき、多くの人は「国家」のような大きなものをその主語に捉えがちだ。けれど、そうではなく、本質はむしろ人の心の中にある。2つのアニメーション映画はそんなことを改めて考えさせてくれるように思う。

柴 那典(しば とものり)

1976年神奈川県生まれ。音楽ジャーナリスト。著書『ヒットの崩壊』講談社現代新書 880円(税込)、『平成のヒット曲』新潮新書 946円(税込)他多数。

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