Web版 有鄰

514平成23年5月10日発行

總持寺−能登から横浜・鶴見へ – 2面

岩橋春樹

鎌倉時代、瑩山紹瑾禅師によって能登国に開かれる

瑩山紹瑾像(部分)

瑩山紹瑾像(部分)

總持寺は、永平寺とならぶ曹洞宗大本山で、鎌倉時代の元亨元年(1321)道元禅師四世の法孫である瑩山紹瑾禅師によって能登国鳳至郡櫛比荘(現、石川県輪島市門前町)に開かれた。その後、明治31年(1898)火災に遭ったのを機に、明治44年(1911)横浜鶴見の丘陵上(当時、神奈川県橘樹郡生見尾村鶴見)に移転再建され、併せて能登の旧跡は總持寺祖院とし、現在に至っている。

本年は總持寺が鶴見の地に転じてから100年にあたり、これを記念して總持寺所蔵にかかる代表的文化財を紹介する特別展「總持寺名宝100選」を神奈川県立歴史博物館で開催している(4月16日〜5月22日)。總持寺の文化財のまとまった公開は今回が事実上、初めてのことであり、一般には初公開の品も少なくない。

曹洞宗では永平寺と總持寺、2つの大本山があり、これを両本山と称している。そして、永平寺の開山である道元禅師を高祖、總持寺の開山である瑩山禅師を太祖とし、これを両祖として尊崇しているのである。一種の並立組織といっても良く、曹洞宗独自の教団構造である。日本の曹洞禅の出発が道元禅師と永平寺にあることは日本史の教科書にも記述されているのであるから、永平寺が曹洞宗の総本山であり、道元禅師が開祖であるとしてしまえば分かりやすいのであるが、そのようにはなっていないのである。

このようなあり方の背景に、曹洞禅の教えを高く掲げたのは道元禅師であったが、以後の曹洞宗の太く広範な展開には瑩山禅師はじめ優秀な弟子の活動が大きく寄与したことがあり、その門派の中心寺院である總持寺が大きな存在として位置付けられることとなった経緯がある。室町時代には能登国守護である畠山氏が檀越となり、ついで加賀・越前・能登の三国を領した前田家の強力な外護を得て、寺運ますます盛んとなったのである。

江戸時代には徳川幕府が曹洞宗における永平、總持、両本山体制を定めたが、現実には、何れが優位に立つかをめぐって対立抗争がしばしば生じ、最終的に円満な両本山制として決着をみたのは明治時代になってからであった。

火災を契機に明治44年、鶴見へ移転

能登から鶴見への移転は、まさしく思いきった決断であった。冒頭に記した通り直接の契機は明治31年(1898)の火災である。主要な伽藍を焼失し、再建計画を検討する中、移転案が発起されたのは社会情勢の変化を受けてのものであったろう。明治新政府の時代となり、前田家の後援、豊かな寺領も失われてしまった。一宗の本山は政治経済の中枢である東京方面に置くのが布教伝道に益があり、経済上も有利であるという議論が浮上してくるのもおのずからの成り行きであった。

總持寺仏殿

總持寺仏殿

もっとも、従来の檀信徒、住民の置き去りと受けとめた地元の能登では猛烈な反対運動が起こった。移転推進の幹部僧に対しての暴行沙汰も発生し、警察官が護衛につくという事態にも及んでいる。しかし、石川県知事の調停もあり、旧跡には別院(現、祖院)を再建することなどを条件に反対派も矛を収めたのであった。火災後9年を過ぎ、明治40年(1907)になっていた。

明治44年(1911)鶴見への移転が実現したとはいえ、諸堂の建造が一気になされたわけではなかった。当初の本堂は、山形総穏寺本堂を移築したもので、いわば仮の本堂。現在の放光堂がそれである。自前の仏殿が完成したのは大正4年(1915)。記録や古写真などから推して大正年間半ばには大略の伽藍と境内の整備がなされたようである。とはいえ、開山堂と法堂を兼ねた大祖堂は昭和40年(1965)、三門は昭和44年(1969)と、伽藍整備は現在も進行中である。要するに堂宇の大半は移転後の新築建造物であるが、仏殿の端正な結構はまことに格調高い。近代社寺建築として名作のひとつといえよう。「大雄宝殿」の扁額を掲げる。

草創以来の伝世品と鶴見移転後蒐集品の2種類の文化財

總持寺に所蔵される文化財に関して指摘しなければならないのは、その性格が大きく2つに分かれていることである。その1は、總持寺が草創以来、折々に寺有となし、伝えてきた伝世の文化財。その2は、鶴見に移転後、新たに参じた檀信徒、後援者から寄進された、いわば近代蒐集の文化財である。この内、近代蒐集の品は内容多彩と言って良い。内容は必ずしも禅寺用途の什物にこだわることなく、各種の仏像、仏具類、東アジア各地の品々、さらには現代美術まで多岐に及んで、異彩を放つ美術工芸品コレクションの様相を呈している。伝世の文化財とともに、質を違えた文化財が同時併行的に所蔵されているあたりに妙味があり、他に無い独自の特色を与えているのである。

ただし、このことも裏を返せば禅宗的なものと、非禅宗的なものが混在する弊があるということであり、実用に供する仏具であるのか、観賞用の美術品であるのか見定めの難しい品も少なくない。異質の要素の調和を余程慎重に計算しておかねば雑然とするばかりで無秩序な宝物羅列になりかねない。見識ある取り扱いが求められるところである。

伝世の文化財の代表格として、總持寺開山である瑩山禅師の画像を紹介しておくこととする。禅僧の肖像画を頂相と称する。元応元年(1319)の自賛があり、生前に描かれた寿像である。鎌倉時代制作にかかる曹洞宗系頂相の代表的作例として、重要文化財に指定されている。

瑩山禅師について率直に申せば、曹洞宗両祖の一人と言いながら、道元禅師ほどには知名度が高くないというのが実情である。その風貌をうかがうために、面部の図版を掲げておいた。写実性を身上とする頂相としては、やや描写が緩いので、個性の表出が薄手になっている印象が無くもない。

肖像画としては、このほか前田利家夫人(まつ)像も付記しておきたい。利家歿後、落飾した姿を描く。像を描く筆線は流麗で抑揚に富み、ふっくらとした穏やかな表情がよくとらえられている。桃山絵画風の気分をとどめた江戸時代最初期の武将夫人像として高く評価される。

村井吉兵衛氏寄贈の多彩なコレクション

近代蒐集の文化財の主体をなし、特筆すべきは、村井吉兵衛氏(1864〜1926)からの寄進品である。村井氏は明治時代に煙草の製造販売で名をあげ、煙草が政府専売に移行した後は銀行業、貿易業などを展開して経済界の重鎮として活躍した。また、移転直後の總持寺に多大の援助をおこなった。氏が寄進した品は仏教関係にとどまらない広範な宗教美術であり、神道美術などにも見るべきものがある。さらに、朝鮮、中国、チベット出自の各種遺品が含まれていることも注目される。内容いささか雑然として、系統だてられているとは言い難いところもあるが、質量豊かであり、村井コレクションと仮に名付けている。

不動明王種子懸仏

不動明王種子懸仏

数多の中から、不動明王種子懸仏と蔵王権現立像の2つをあげておきたい。懸仏は不動明王を種子で表現しており、墨書銘により弘長2年(1262)滋賀県大津にある天台宗の名刹、葛川明王院に奉納されたものと知られる。氏素性の正しい優秀な懸仏である。蔵王権現は怒髪天を衝き、片足を蹴り上げた忿怒相が力強く表現された大形の像で、蔵王権現の遺例中、屈指の作といって良い。共に修験道関係の文化財で、總持寺、あるいは禅宗にはかかわりの無い品ながら、国指定文化財の候補とみなして差し支えない優品である。

以上、總持寺の歴史と文化財に関して概要を瞥見した。なお、總持寺の寺号の文字は「總」で、「総」は用いない。

岩橋春樹  (いわはし はるき)

1946年名古屋生まれ。
鶴見大学教授。總持寺宝物殿館長。著書『中世鎌倉美術館』有隣堂 1,000円+税、ほか。

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