Web版 有鄰

484平成20年3月10日発行

石がつくってきた西さがみの歴史 – 1面

斎藤靖二

石はいろいろなものを私たちに与えてきている。金属や非金属ばかりかエネルギー資源も、石からとられたものである。生物にとって不可欠な空気や水も、石でできている固体地球からの脱ガスによる贈物である。生物をつくっている元素も、地球からたまたま借りているといってよいもので、人間の身体も例外ではない。しかし、電気や水道や石油をはじめ、私たちの衣食住のほとんどが石に関わり合いがあるとは、普段はあまり意識されることはない。石はいろいろなことを記録しているのだが、そのことも広く理解されているとは思えない。

石がつくる地層は、地球上のあらゆる場所で下から上へと積み重なって形成される。だから、厚い地層の順序は時間の流れをあらわしており、地層に含まれている化石・古生物は生物の変遷すなわち進化をあらわしている。また、地球内部で生れたマグマからできた石には地球の性質が記録されており、地球中心核の運動による地球磁場の変化なども石には記録されている。これらは同時に地球環境がどのように変動してきたかの記録ともなっている。地球環境や自然災害が大きな話題になっているのに、理科離れが続くなかでとくに地球や石を理解する地学教育が衰退の一途をたどっているのは悲しい。

西さがみは地球の大きな営みを反映しているところで、とても面白い地域である。そこは私たちに生活の場を提供し、自然の恵みをもたらすだけでなく、そこの石は歴史や文化をつくるのに貢献してきたといってよい。動植物と違って、石には形や大きさや色の特徴がないので、石の分類や名前はわかりにくいが、西さがみで石がどんなことを記録してきたか、いくつかの例を紹介してみよう。

石から読む土地の生い立ち

西さがみには、この地域の魅力ある自然・風土・歴史をあらわすかのように、たくさんの美術館・博物館・郷土資料館・記念館・植物園がある。それらは、温泉を訪れるのが目的できた多くの人達に、心をなごませる別の世界の楽しみを与えてくれる。広く眺めると富士箱根伊豆国立公園であるが、古くから親しまれてきた火山の景観と温泉は、日本列島の地学的特性を見事にあらわしている。

日本列島は、地震が頻発し、ときに火山が噴火するため、現在の変動帯あるいは造山帯といわれる。日本列島周辺が太平洋・フィリピン海・ユーラシア・オホーツクの4つものプレートがぶつかり合っている収束境界にあたっているからである。なかでも、神奈川県西部から静岡県にかけての南部フォッサマグナとよばれる地帯は、プレート境界が陸上にあらわれていることから、世界から注目されている地帯である。そこでは、本州に伊豆・小笠原弧が南方から移動してきて衝突し、本州側を大きく八の字型に屈曲させているユニークな多重衝突地帯として有名である。

島弧の衝突と地質の変形 平朝彦著『[地質学 2] 地層の解読』(岩波書店,2004)から

島弧の衝突と地質の変形
平 朝彦著『[地質学 2] 地層の解読』(岩波書店,2004)から

地質学的な眼でみると、どこの土地でも、そこには遠い昔からの時間と対応した生い立ちが記録されている。南部フォッサマグナの火山岩や堆積岩などの石には、およそ1500万年前に御坂[みさか]山地が、約800万年前には丹沢山地が、さらに150万年前頃には伊豆地塊が本州に衝突して付加し、本州をつくる地質体を大きく屈曲変形させたことが記録されている。いつかわからないが、伊豆諸島がのっている銭州海嶺[ぜにすかいれい]は遠い将来に伊豆に衝突してくるのであろう。このようにしてできた土台の上に、65万年前頃から箱根火山が噴火を繰り返して形成され、約10万年前には富士山が誕生した。富士山はその後何度も噴火して現在は宝永噴火300周年を迎えている。土地の生い立ち、日本列島の生い立ち、地球の歴史は、石だけが知っているのである。

石は地球環境の移り変わりも記録している。とくにプランクトンやサンゴなどの化石の酸素同位体比から寒暖の変化が詳しく解読されている。数万年前から1万年前の最終氷期には、海水面が120メートルも低下して、日本列島は大陸と陸続きになった。中部山岳地帯のような高山地帯では氷河が発達し、圏谷[けんこく]といった地形や堆石堤[たいせきてい]が形成された。その後の温暖化した間氷地期に氷河が消失し、海水面が上昇すると、海岸に面している平野部には海が入り込んで温暖な海に棲む貝化石を含む層が広く形成された。6000年前頃の地層から神奈川でも亜熱帯の海の貝化石が発見されていて、その頃の平野部へ海の浸入は縄文海進[かいしん]とよばれている。

石を利用する

人間の石の利用は古く、始まりは、石器時代にさかのぼる。当時でも、目的に応じて石質が確かめられて利用されていた。金属が使われるようになって、石は砥石[といし]に利用され、文字や絵を書くのに石の硯や顔料が使われた。また、禅宗でいう温石[おんじゃく]のように、寒いときには焚き火で暖めた小石や軽石が布でくるまれて、懐に入れた携帯用暖房として使われた。懐石[かいせき]は、茶会で客をもてなす和食であるが、食べ物がないため空腹しのぎに温石を客の懐に入れてもらったことによるともいわれる。しかし、石を盛大に利用したのは、建造物であろう。

日本の旧い建築物は基本的に木造であるため、石を利用した建造物についてはあまり強調されることはなかった。とはいえ、6世紀から7世紀にかけて巨石を用いて造られた大きな横穴式石室(真弓鑵子塚古墳[まゆみかんすづか]や石舞台古墳など)が、奈良県明日香村に残されており、当時すでに高度な石組技術をもつ職人集団がいたことは明らかである。

時代が下って城郭が造られるようになると、周囲が石垣で取り巻かれるようになる。1569年(永禄12年)に織田信長が京都二条に足利義昭のために築いた石垣が最も古いとされる。1576年(天正4年)に織田信長が近江に安土城を築いたとき周りの城郭はすべて石垣でつくられ、1583年(天正11年)羽柴秀吉も大阪城を巨大な石材を用いた石垣で築いた。これらの工事を請け負った石工技術者は、滋賀県比叡山麓穴太の里の穴太衆[あのうしゅう]とされる。彼らは古墳をつくっていた石工の末裔であったらしく、石の大材の採取、運搬、加工、石の積み方の技術が蓄積・継承されてきたことを示唆している。

石は小田原から江戸へ

小田原城の形を整えたのは1416年(応永25年)小田原に入った大森頼顕とその子大森頼春である。約80年後の藤頼のとき、1495年(明応4年)北条早雲によって城は奪われる。その後、北条氏は5代にわたって小田原城を拡大して堅固なものとして、その支配は95年の長きにおよんだ。この間、1561年(永禄4年)に上杉謙信が、1569年(永禄12年)には武田信玄が攻め込んできたが、小田原城は町全部を土塁と堀で取り囲んだ総構えの堅城で、籠城戦で守り抜いて破られることはなかった。西日本をすでに支配して天下統一をねらっていた豊臣秀吉は、1590年(天正18年)四国九州勢を含む西日本の20万の大軍で、難攻不落とされる小田原城を取り囲んだ。北条氏に対抗していた関東勢も一緒になり、3か月におよぶ兵糧攻めの結果、ついに城は開け渡された。

小田原討伐にあたって、秀吉は湯本の早雲寺に本陣をおいたが、長期戦となることを予想して、小田原を見下ろす石垣山(笠懸山)に居城を築いた。80日程の突貫工事でつくられた陣城であったが、総石垣による関東ではじめての本格的な城郭であったらしい。中央に天守を備えた城が完成するや周囲の木々を一斉に伐採してみせたため、一夜で城ができたという「太閤の一夜城」の噂となった。

一夜城の南西、早川沿いの関白沢に、石組の石材を採った早川石丁場群関白沢支群が発掘されている。そこでは箱根火山の石が2〜3メートルの大きな角材として採取されており、それらは石垣の角に主に使われたものである。箱根には「太閤の湯」があるが、当時、全国から集まった兵たちも箱根の温泉を楽しんだにちがいない。城をつくった箱根の石と、おそらく野戦病院もかねた箱根の温泉は、こうして全国的に有名になったのであろう。

小田原城の開城に功のあった徳川家康に、秀吉は北条氏の旧領と関八州を与えた。太田道灌が築城し、1524年(大永4年)から小田原北条氏の持城であった江戸城は、徳川氏の本城となり、修築や新築がなされていった。1603年(慶長8年)に家康は征夷大将軍となり、江戸に全国から大名が集まり、市街地や運河や港など大規模な都市づくりがはじまった。翌年(慶長9年)には江戸城を石垣に改築するために膨大な量の石材の保が西日本の大名に命じられた。

石材の採取地は、西さがみ真鶴半島から伊豆半島であった。小田原攻めと一夜城の経験から、箱根火山と伊豆半島の石が工事に適し、多くの石切丁場があり、腕のよい石工職人のいることを知っていたからであろう。西さがみの石たちは、江戸へと石船で運ばれ、その後長く続く江戸時代を支えたのである。

西さがみ一帯をつくる石は日本列島や地球の秘密を教えてくれる。また、石の一部は歴史にも関係しており、この地帯はジオパークとして最適である。ジオパークとはユネスコ支援のプロジェクトで、重要な地質遺産がある地域を考古・生態・歴史文化的なものとともに、教育に役立てようとする活動である。世界ジオパークネットワークのもとで、ヨーロッパや中国などですでに53か所がユネスコの認証を受けている。日本でも全国規模の協議会がつくられ、今年2月7日に小田原・箱根ジオパーク協議会が発足した。将来に向けて、地域の面白さを伝えたいと願う。

斎藤靖二氏
斎藤靖二 (さいとう やすじ)

1939年秋田県生れ。 神奈川県立生命の星・地球博物館館長。 専門は地質学。
著書『日本列島の生い立ちを読む』 岩波書店 1,800円+税、ほか。

 

書店文化と地域振興に功績
-有隣堂名誉会長 松信泰輔氏を偲ぶ-

神奈川近代文学館館長
紀田順一郎

有隣堂名誉会長の松信泰輔氏が亡くなられた。まことに惜しまれることである。

生前の松信さんについての思い出は、単に私の執筆活動の上で、たとえば「日書連」主催の催しや本紙『有鄰』の座談会などで謦咳に接する機会があったというにとどまらず、もっと人生的な記憶に深くつながっているような気がする。

戦争の始まる直前、私は父に連れられて伊勢佐木町の白亜2階建ての有隣堂に出かけ、「ここは横浜で一番大きな本屋だから、おまえも上の学校に入ったら、ここで本を買いなさい」といわれた。父は松信さんと同様Y校(現横浜商業高校)卒だが、学問嫌いの祖父に反抗しながら、この店で1冊1冊円本を購入したという。父は間もなく他界したが、戦時中私は遺品の本箱を覗くことで読書に入門したのである。

終戦直後の書物払底時代、有隣堂が本牧三之谷の倉庫で営業を再開し、『コンサイス英和辞典』を販売していると聞き、私は2、3キロ離れた千代崎町の自宅から、テクテク歩いて行った記憶がある。それは店頭に見当たらなかったものの、全国のどこにもない、市中の古本屋では闇値がついている辞典を、ごく当然のように定価販売したという美挙の噂は、小学生の私の耳にも入ってきた。

進駐軍兵士で溢れかえった伊勢佐木町に見切りをつけるように、野毛三丁目の繁華街に営業所を新設したのは、社史によると1947年(昭和22年)10月というが、私は通学の帰途、毎日のようにこの店に通った。入口近くの平台には角川版『昭和文学全集』第1巻の横光利一『旅愁—全編』のうずたかい山。中央の棚には坂口安吾『白痴』、花田清輝『復興期の精神』、大岡昇平『俘虜記』、大佛次郎『帰郷』といった新刊がズラリと並び、奥には大きな文庫本コーナーに予約受付の窓口など、文運盛んな情景がいまでも眼前に彷彿とし、身震いするほど本が読みたかった中高生時代と正確に重なるのを覚える。

そのころ松信さんは伊勢佐木町の接収解除を目指して活動を続けておられたというが、念願かなって現在地に本店ビルの完成を見たのが1956年(昭和31年)2月。開店の日に頂戴した記念品は特製ケース入りの文庫解説目録で、有隣堂にふさわしいものだった。

松信さんの姿がより大きく見えるようになったのは、私が30歳前後から文筆生活に入ってからだ。沖縄につぐ長期接収により、経済も文化も枯渇した横浜の状況に異を唱えた人は少なくなかったが、その裏付けとして東京集中の全否定、地域社会の連帯回復を主張し、さらに書店業を文化の拠点として位置づけた人は寡聞にして知らない。

いま、戦後20年以上も鉄条網が残っていた横浜中心部の光景を記憶し、文化復興の基礎を築いた一人、松信さんを思い起こすのは私だけではあるまい。謹んでご冥福を祈りたい。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.