Web版 有鄰

483平成20年2月10日発行

[座談会]思い出の横浜市電 – 1面

鉄道友の会会員・長谷川弘和
横浜市電保存館館長・大保光興
横浜都市発展記念館調査研究員・岡田 直
有隣堂社長・松信 裕

右から、岡田 直氏・長谷川弘和氏・大保光興氏と松信 裕

右から、岡田 直氏・長谷川弘和氏・大保光興氏と松信 裕

はじめに

横浜市開港記念会館前を走る市電
(昭和45年7月5日) 長谷川弘和氏撮影

横浜市開港記念会館前を走る市電
(昭和45年7月5日)長谷川弘和氏撮影

松信近年、都市交通として路面電車が見直されておりますが、横浜の市街地には、昭和40年代中ごろまで路面電車が走っていました。当時を知る人には懐かしい思い出かもしれません。

横浜の路面電車は、明治の後半に営業が始まり、大正時代に入って横浜市電となりました。その後、街の発展とともに本牧[ほんもく]をはじめ各方面へ延伸し、横浜の都市交通の主役として最盛期を迎えますが、高度成長期の交通事情の変化によって次第に路線が廃止され、現在ではその姿を見ることはできません。

本日は、横浜市民の足として親しまれていた市電の歴史や、市電にまつわる思い出をお聞かせいただきながら、長谷川弘和様のコレクションや、横浜市電保存館の見どころなどもご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました長谷川弘和様は、歯科医院を開業するかたわら、市電に関するものを収集され、膨大な写真や記録をお持ちです。また、横浜の市電を紹介したご著書も多数出版しておられます。

大保光興様は、磯子区滝頭[たきがしら]にある横浜市電保存館館長でいらっしゃいます。横浜市交通局にお勤めのときに、市電の軌跡をたどった『ちんちん電車―ハマッ子の足70年』や『横浜市営交通八十年史』の編集にも携われておられます。

岡田直様は、横浜都市発展記念館の調査研究員で、歴史地理がご専門で、鉄道の歴史についても詳しくていらっしゃいます。

明治37年に民間会社が営業を開始

松信横浜に路面電車ができたのはいつでしょうか。

長谷川明治37年(1904年)です。最初は横浜電気鉄道株式会社という民間の会社が営業を始めました。

大保日本に路面電車が紹介されたのは、明治23年(1890年)に上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会のときで、東京電灯株式会社がプロモーションをやった。2銭の運賃を取って、500メートルほど走らせて宣伝をしたんです。いち早く採用したのが、京都電気鉄道株式会社でした。

横浜では、路面電車の建設に、人力車夫が猛烈に反対したようです。

岡田京都が明治28年(1895年)、31年に名古屋、20世紀に入ると、明治35年には大阪、36年に東京、そして37年に横浜、やがて神戸と、6大都市に一気に路面電車ができていくわけです。

大保そのとき、道路も橋も、トンネルも鉄道会社がつくったんです。

松信道路も鉄道会社がつくったんですか。

大保そうです。明治44年(1911年)に元町近くの麦田に約200メートルくらいの山手遂道を自分の会社でつくったり、橋も、荷馬車とか人力車しか通れない、重い電車が通れるようなものではなかったから、許可条件として道路の拡幅や橋の整備が義務づけられていたようです。電車が走るために、道路が広くなったんだと思います。後にそれが国道や県道などの道路にかわっていくんです。

伊勢佐木町通りは路面電車の敷設に反対したので、道路が狭いままなんです。市電の路線は羽衣町のほうに曲がって曙町へ行っています。

国鉄と私鉄、市電の結節点だった神奈川駅

大江橋脇の電車専用橋を渡る路面電車 右奥の建物は横浜駅(初代)。明治末ごろ 有隣堂蔵

大江橋脇の電車専用橋を渡る路面電車
右奥の建物は横浜駅(初代)。明治末ごろ有隣堂蔵

松信一番最初の路線はどこだったんですか。

大保神奈川と大江橋の間です。

長谷川青木橋と今の横浜駅の間に、当時、国鉄の神奈川という駅があったんです。明治37年に、その神奈川駅前から路面電車が桜木町の大江橋まで走ったんです。これが最初です。

当時は、普通の道路の橋は市電が走らないで、そのわきへ市電だけが走る電車専用橋があったんです。

岡田その絵はがきが残っています。

大保青木橋のところは、国鉄と当時の京浜電鉄(現京浜急行)の乗り換え駅でもあったんです。結節点ですね。

岡田東海道線が神奈川、平沼、保土ヶ谷と通っていた時期ですね。それで神奈川と横浜の市街地を結ぶルートが重要だったんでしょう。

長谷川大正15年には東京横浜電鉄(現東横線)が神奈川駅まで開通します。

大保それが市電の乗り換え駅にもなったんですね。

長谷川国鉄の横浜駅が、昭和3年に移転して、現在の場所に三代目の駅ができたときに、横浜駅と神奈川駅は近過ぎた。100メートルぐらいしかないんです。それで神奈川駅は廃止されたんです。

今でも国鉄の神奈川駅の名残は残っているんですよ。青木橋と横浜駅の間をよくご覧になってください。鉄道敷地がわきの道路のほうへ膨らんでいます。あそこが神奈川駅のあった場所なんです。国鉄の平沼駅があった場所も同じような名残があります。

岡田桜木町と神奈川の間だけですと、当時の横浜では町外れで郊外電車のようですが、翌年から関内方面、西ノ橋まで行ったり、税関線ができたり、市街電車として充実していくんです。

大保麦田のトンネルが開通して、本牧へ通ったのが大きかったんじゃないですか。

長谷川あれが画期的だったようですね。

横浜市域の広がりとともに路線網が伸びる

原合名会社地所部による本牧住宅地の案内広告「横浜貿易新報」明治45年2月6日 横浜開港資料館蔵

原合名会社地所部による本牧住宅地の案内広告
「横浜貿易新報」明治45年2月6日 横浜開港資料館蔵

岡田明治22年(1889年)の市制町村制で横浜市が誕生しますが、そのときの市域は、まだ関内地区の近辺だけでした。

路面電車ができる以前の、明治34年(1901年)の第一次市域拡張で最初の市町村合併を実施し、神奈川や戸部、本牧、根岸、磯子のあたりまでを横浜市にした。

横浜電気鉄道は、横浜市域が広がったのにちょうど合わせるかのように、中心部から本牧方面、滝頭方面の新しい市域へ路線網を伸ばしていくんです。それが20世紀初めのことです。

大保この横浜電気鉄道は不動産もやっていまして、本牧線開業のときに周りをセールスしています。

岡田本牧線の開通に合わせて、沿線の住宅地の販売広告が「横浜貿易新報」に出ています。

大保生糸貿易の原合名会社の地所部の広告ですね。

岡田都市から郊外に新しい住宅を求めていくのは、阪神間が先進的なんですが、横浜でも本牧線の沿線で、「工場等の爲に衛生を害せらるヽ憂なし」という新しい住宅地がつくられつつあったのが、この広告でわかります。

大正10年に横浜市が買収し公営化

松信大正に入って横浜市の経営になりますね。

大保横浜電気鉄道株式会社は、サービスが悪い、値上げが続いて運賃が高いということで市民の評判がよくなかった。ほとんどの都市は民営でスタートしたんですが、大阪だけは最初から市営で、行政の意見が反映されているから街が発展しているじゃないか、横浜も公営化しようという動きが、大正10年以前に起こっていたようです。

岡田そのちょっと前に、京都も東京も、神戸も市営になっています。

大保そういう流れだったんですね。大正10年前後にみんな買収されます。

松信そのときに電気局ができたんですか。

大保ええ。大正10年4月1日の公営化のときの名前が横浜市電気局です。戦後に交通局となります。

6大都市の路面電車は、どこも同じような流れなんですね。民間でスタートして公営化して、財政再建という苦難の道を通って全廃。それで地下鉄にかわっていく。

震災の被害で復旧まで1か月以上かかる

松信市電となってすぐに関東大震災が起こります。

長谷川大正12年(1923年)ですね。車両は相当焼けたようです。

大保75両が焼け、52両しか残らなかった。

岡田被害は相当ひどかったようで、9月1日に地震が起きて、10月2日に神奈川~馬車道間がやっと復旧した。

大保1か月後ですね。

岡田昭和20年(1945年)5月29日の大空襲のときは1週間で復旧したそうですが、それに比べ被害はかなりひどかったということでしょうか。

大保復興のもとは、乗り物がまず動くことによって、市民が勇気づけられるというんですか、戦災のときにも電車が走り出したことで元気が出たと、電車を語る方々はよくおっしゃいますね。

長谷川京王電車が車両を分けてくれた。大阪市電からも中古車をもらった。ありがたかったと思いますよ。

吊り革のついたバラック電車『横浜震災記念写真帳』から 横浜開港資料館蔵

吊り革のついたバラック電車
『横浜震災記念写真帳』から 横浜開港資料館蔵

あのころ有名なのは、バラック電車という屋根のない電車が走ったんです。

松信それはどんなものですか。

長谷川車両の土台を台車と言いまして、台車は焼けていませんから車輪と床板をそのまま使ったんですが、屋根がない。

松信屋根をつける暇がなかったんですね。

長谷川吊り革もついているのといないのとあります。

松信曲がった軌道も1か月ほどでよく直せましたね。

岡田全路線が完全に復帰するまでにはもう少し時間がかかるんですが、それでも10月中には復旧したようです。

大横浜構想とともに路線がどんどん延び大きく発展

松信震災後に路線がどんどん延びていきますね。

大保昭和2年(1927年)に生麦線が開通します。杉田線の延長開通も同じ頃です。当時は杉田は市外で、市外運賃が設定されていましたが、昭和2年に横浜市に編入されて市外運賃が撤廃され、市内均一運賃になったんです。

つまり震災から数年後に、ほとんど最後の路線に近い路線を建設しているんです。

岡田震災復興から大横浜構想ということで、大規模な市域拡張をやって、道路をつくったり、公園や港を整備したりしていきますが、その一環として、市電も新しい路線の建設が進められます。この時期が一番大きく発展した時期ではないでしょうか。

大保昭和2、3年が礎[いしずえ]ですね。

岡田日の出町線や本町線もできて、昭和5年で戦前の最盛期の状態ができ上がる。

大保昭和9年には女性の車掌さんも登場します。

長谷川車両の前後に車輪があって車体が長いものをボギー車と言いますが、ボギー車は出入口が3つあり、真ん中の出入口は必ず女性の車掌でしたね。

大保当時は一番ハイカラな職業といいますか、女性のあこがれとして結構人気があったようです。

岡田戦後で言うと、スチュワーデスぐらいの感じなんでしょうね。

長谷川戦時中、男性は兵隊に行ってしまうと、女性の運転手も登場しました。ハンドブレーキと言って、手でグルグル回して止めるのがあるんです。女性がそれで運転しているのは、本当に痛々しかったですよ。私は中学生でしたけれど、「俺がやってやろうか」と思うほどでした。

大空襲のあとの市内を回り車両の被害を記録

市電に乗る米兵(昭和20年9月21日) 米国防総省蔵

市電に乗る米兵
(昭和20年9月21日) 米国防総省蔵

松信戦時中も市電は走りますが、戦災の記録は少ないようですね。

大保でも、長谷川先生は戦災のときはずうっと見て回られたんでしょう。

松信5月29日の横浜大空襲のときですか。

長谷川そうです。私は用があって、自転車で戸塚に行っていたら空襲があって、急いで戻ってきたら、伊勢町の自宅は焼けなかった。それから自転車で横浜市内をグルッと回りました。どこで何号車が焼けたか、それが知りたくてね。全部で40両ぐらい焼けたうちの、約半分の20両ぐらいは記録しました。

鋼鉄車は、焼けても大きく書いてある番号がどうにか読めるんです。前後と両わきの4か所にありますから、どれか残っていた。木造車はだめですよ。鉄の骨組みだけ残って、何号車だかわからない。

松信電車だけを調べられたんですか。

長谷川ええ、電車をね。手帳へどこで何号車が焼けたと書いた。

松信写真は撮れなくて、記録だけなんですね。

長谷川戦争中ですから憲兵がうるさくて、やたらに写真を撮っているとスパイじゃないかと疑われたんです。それに物が不足していてフィルムがない。だから、戦災の写真は少ないですね。

大保アメリカの国立公文書館などに、市電が写っている占領直後の横浜の写真があります。進駐軍が撮影した写真で、進駐軍の兵隊たちも大勢乗っている。

戦後、さらに根岸・井土ヶ谷方面へ延伸

松信戦後も路線が延びていきますね。

岡田戦後もまだ路線を延ばしていたのは意外な感じがします。昭和30年代後半には路面電車は邪魔になってくる。最後につくった路線は昭和30年代前半ですか。

大保八幡橋~間門[まかど]の根岸線が昭和30年、通町~保土ヶ谷橋の井土ケ谷線が31年で、最後の開通ですね。

根岸線、いわゆる八幡橋線の部分には、昔から横浜大環状構想というのがあったらしいんです。それまでは桜木町を中心にして、本牧を通って間門までの路線と、もう一方は八幡橋から杉田へ延びていた。この門間と八幡橋の間がなかったわけです。それで、そこを何としてでも通したいという意欲があったようですね。

松信根岸の海岸は、市電が通った後も、まだ接収されていましたね。不動下から間門までの間は私の記憶ですと道路に沿ってずっと鉄条網が張ってあって、海岸には飛行場があったんです。私は当時、三溪園の近くに住んでいましたので飛行機がそこから飛んで来るのがよく見えました。飛行場の横を市電が走っている写真が『ちんちん電車』にも載っていますね。

長谷川間門から先はバスしかなかったのが、ようやく八幡橋まで市電が通るようになった。

国鉄根岸線の開通が大きく影響

「電車運転系統図」(昭和35年) 路線の総延長距離が最大になったころ。 横浜市電保存館蔵

「電車運転系統図」(昭和35年) 路線の総延長距離が最大になったころ。
横浜市電保存館蔵

松信最盛期は、路線は全部で何キロぐらいあったんですか。

大保路線長で51.793キロです。停留所は135か所ありました。今の市営地下鉄は湘南台~あざみ野が40.4キロですから、総延長はそれより長かった。

松信しかし間もなく、廃止への道をたどっていくわけですね。

岡田バスの開業は、横浜市電には影響したんですか。東京はバスが出てきて路面電車は衰退したと聞きますが……。

大保横浜では、昭和3年から市営バスが走りました。最初から市営で、横浜市が電車もバスも両方ともやったわけです。市営バスは、例えば弘明寺[ぐみょうじ]から先のように、電車が走っていないところに、補完的役割として走らせたんです。

鶴見方面は、市電は生麦までで、鶴見線が戦争のときにちょっと走りましたけれど、戦後もずっと鶴見のあたりは路面電車はありませんから、市営バスが一番シェアを占めていたんです。昭和30年前後は特にそうでしたね。

岡田もう1つ、ライバルとして、私鉄の郊外電車が出てきますね。東横線や京浜電鉄、湘南電鉄、それも大きな影響だったんでしょうね。

大保一番大きかったのは昭和39年の、桜木町から磯子まで延びた国鉄の根岸線の開通ですね。あれで最後の首根っこを絞められた感じになったんです。

岡田国鉄の根岸線は、戦前から建設が決まっていて、戦後、昭和30年代に工事が始まるんです。それなのに、市電は市電で路線を延ばしていくというのも、ちぐはぐですね。

大保高度経済成長の真っ只中で、自動車がどんどん増えてきますし、団地もあちこちにできたり、横浜駅の西口も発展して路面電車では輸送能力がなくなってくる。道路の真ん中をゆっくり、ゆっくり走っている時代じゃないという流れだったんじゃないでしょうか。だから、一時は路面電車も専用軌道で一般の車は走らせなかったんだけれども、だんだんそんなことは言っていられなくなった。

松信紅葉坂と高島町の間は、軌道敷内は自動車を通さなかったでしょう。

大保我々とすれば、電車が走るために、県警に規制を強くお願いしていたんです。

短命だった横浜のトロリーバス

常盤園前を走るトロリーバス(昭和47年1月30日) 長谷川弘和氏撮影

常盤園前を走るトロリーバス
(昭和47年1月30日) 長谷川弘和氏撮影

松信横浜ではトロリーバスも走っていましたね。

大保浅間町車庫発で横浜駅西口を通る三ツ沢循環線、内回り、外回りの2路線でした。今の市営バスの201、202系統、市民病院行きの路線ですね。

その昔、地下鉄より建設費が安いので、横浜市内を全部トロリーで走らせようという、トロリーバス大構想も検討されたようですが、実際に走ったのは昭和34年から47年まで、13年間ほどです。

岡田トロリーバスは、普通のバスよりコストは安いんですか。

大保地下鉄よりは安いですが、普通のバスのほうがずっと安いですね。トロリーは中量軌道、中量輸送機関という言い方をするんですが、バスよりもちょっと大型で、普通の電車よりちょっと小さいんです。

松信トロリーバスは、横浜でも坂の多いところを走っていましたね。

大保いま横浜国立大学がある常盤台から三ツ沢公園まで。

松信そのトロリーバスも市電と同じ時期に廃止になるんですね。

昭和40年代、路線が次々と廃止へ

桜木町駅前から出発する最後の市電(昭和47年3月31日) 長谷川弘和氏撮影

桜木町駅前から出発する最後の市電
(昭和47年3月31日) 長谷川弘和氏撮影

松信昭和40年代になって、市電の路線は次々に廃止になりますね。

大保昭和41年の生麦線の廃止が最初で、徐々に廃止の道をたどっていきます。

長谷川どの路線もなくなるときは、おらが村の電車がなくなるというので、みんな出てきましたね。最終電車はあっちこっち町内会単位で花束を贈呈したりしました。

大保最終的には昭和47年3月31日に全廃となります。

松信市電の一番最後の電車は、長谷川さんはご覧になったんですか。

長谷川桜木町駅前は、人がいっぱいですごかったですよ。車にひかれるような事故がなくてよかったなと思います。写真は2、3枚、やっと撮れたという感じです。

岡田廃止に反対する声とかはなかったんですか。

長谷川廃止反対の声というか、運動は全然ないです。

大保そうですね。そんなに大きな反対はなかった。

長谷川鉄道ファンじゃない一般市民は、市電がなくなった翌日から地下鉄が走ると思っている。

大保最後の電車が走るその後ろから、トレーラーでレールの上にアスファルトを敷いていくんです。それほど逼迫というか、撤去して整備する余裕がなかったんです。翌日はきれいさっぱりで、車が走る。だから、あっちこっちでレールが埋め殺しされているんです。

松信最後の電車は、車庫に向かっていくんですね。

大保そうです。もうリターンなしの片道切符です。

市電廃止の年に市営地下鉄が開通

長谷川市電がなくなって地下鉄が開通するまで、交通局は電車を持たない時期があったわけですね。

大保市電廃止の同じ年の12月16日に地下鉄が走りましたから、その間です。

松信地下鉄の計画は、早くからあったんですか。

大保昭和30年代後半。

岡田昭和20年代にも、横浜の都市計画に地下鉄、高速鉄道が既にありましたね。

大保20年代ももちろんありました。最終的には似たような路線を走らせているんです。

横浜市の都市交通は市電ではもうだめだ。新しいものをということで、路面電車の廃止が現実的になって、地上は無理だから、地下を通そうということですね。

岡田大都市の路面電車は昭和40年代から50年代前半にほとんど消えてしまい、地下鉄に生まれ変わる。横浜で最初の地下鉄の路線は、上大岡と伊勢佐木長者町の間ですね。

大保はい。その5.3キロが最初です。当時は、人口がどんどん増えて、飛鳥田市政の6大事業で、都心部の再開発や自動車専用道路網の整備など、多くの公共事業があった。その中に地下鉄も当然入っていたんです。でも、何とかやってきていますね。今も40キロ走らせていますから。

横浜の地下鉄は、一本路線としては都営大江戸線に次いで2番目の長さです。規模的には他の都市が圧倒的に路線は長いです。

松信横浜の街を栄えさせたいという感覚から言うと、やっぱり東京みたいに網の目で組まれたほうが便利だなと思いますね。

大保最初の計画には、横浜市高速鉄道網建設と「網」がついていたんです。2号線という計画があったんです。屏風ケ浦から神奈川新町まで行く路線で、当初の計画は、京浜急行のバイパス的要素だったんですけれども、京浜急行自体が輸送力を増強しましたので、その線は幻になりました。それから、関内から本牧のほうに行く計画の4号線は、みなとみらい線にすりかわった。

松信元町から先はもう延びないんですか。

大保今の、みなとみらい/横浜高速鉄道株式会社が、この先どこへ延ばすか。本当は根岸から金沢八景方面へ延びる計画ですね。

岡田国の諮問機関の答申には、整備すべき路線となっていますね。

大保今の横浜高速鉄道そのものも経営的には横浜市のお金が相当入っていますけれども、現時点では考えにくいですね。

小学生の頃から市電に関するものを収集

回数券表紙 左・昭和23年/右・昭和8年 長谷川弘和氏蔵

回数券表紙
左・昭和23年/右・昭和8年
長谷川弘和氏蔵

松信長谷川先生はいつごろからコレクションを始められたのですか。

長谷川最初は小学生の頃ですね。

戦争中に、市電が生麦から鶴見まで延長になったんです。鶴見駅までの切符が欲しかったんですが、ふつうの鉄道と違って路面電車は切符に駅名がないんです。それなら定期券を買おうと。定期券なら鶴見駅というスタンプが押されます。ただ、鶴見あたりの学校に通っていれば通学証明書をもらって安い通学定期券が買えますが、私の学校は山手のほうでしたから、少しずつお金を貯めて一般定期券を買いました。

戸部町-鶴見駅の定期券 昭和19年10月 長谷川弘和氏蔵

戸部町-鶴見駅の定期券
昭和19年10月
長谷川弘和氏蔵

あのときはうれしかったですね。定期券には名前も入りますから、戸部一丁目から鶴見駅前までの定期券を宝にしていましたよ。

大保鶴見線は陸軍が作った路線で、昭和19年開通ですが、戦後、米軍がアスファルトで埋めてしまいました。

長谷川戦争が激しくなると、派手に何かを集めることはできなくなりました。そうすると頼りになるのは自分の見聞です。あれを見た、ああだった、こうだったと、調べて手帳へ書くのがくせになっちゃいました。

市電の1台1台を生き物だと思って調べあげる

長谷川本牧に中山沖右衛門という方がおられまして、この人は有名な鉄道ファン、切符ファンで、当時の鉄道省も何か困ると相談するほど信頼されていた方です。そのお宅によく遊びに行って、感化を受けて、私も切符マニアになっちゃったわけです。

松信乗車券のほかにはどんなものをお持ちですか。

長谷川どこからどこの停留所は何人乗ったかを調べる交通調査票というのがあります。申し出るとそれにパンチを入れてくれた。あとはポスター、市電の運転系統図というのがあるでしょう。あれをかわるたびにもらってきました。交通局の人はなかなか親切で、戦後はそんなふうにわけを言うとくれましたよ。

交通局の、車両を扱う車両課とか電車課に、車両台帳というのがある。何号車はいつどこのメーカーでつくってどこの営業所へ配属した、転属したとか改造したとか、コピーというものがまだないころで、よく通って手書きで写しました。

私は、市電1台1台を生き物と思っているんです。だから、例えば330号車は空襲でどこで焼けたか知りたい。あるいはいつまで生きた、いつ廃車になったとか、そういうことが知りたくて交通局の車両課に行くと、親切に教えてくれましたよ。

それから、切符でも写真でも、欲しい人には分けてあげたいんです。だから切符も同じものをたくさん集める。

写真では、杵屋栄二という人が撮った昭和初期のものがあって、これが珍しいのは、停留所に安全地帯、英語でセーフティーゾーンとかいてある。横浜はこうやって英語を重んじていたんですね。

線路の敷石や停留場の標識などのコレクションも

『伊勢町一丁目』の停留所標識 長谷川弘和氏蔵

『伊勢町一丁目』の停留所標識
長谷川弘和氏蔵

長谷川私の家は西区の戸部一丁目と伊勢町一丁目の中間あたりで、真ん前を市電が通っていたんです。廃止になったとき、土木屋が線路や敷石を外していた。敷石を1枚もらってもいいかと聞いたら「ああ、何枚でも持っていきな」と言ってくれたので、小と大があるんですが、欲張って大をもらった。ところが花崗岩は重いですね、持ち上がらない。1枚をころがして、やっと帰ってきましたよ。

松信停留場の標識もお持ちですね。

長谷川停留場の縦長の札ですね。廃止の後、交通局に聞いたら、浅間町のバスの車庫に置いてあると言う。行ってみたら山積みになっていて、どうせ捨てるものだからって、ただでくれました。家のそばの停留場のものをやっと探して、横浜駅前と、伊勢町一丁目、戸部一丁目、伊勢佐木町と高島町の5枚をもらった。

このときも持って帰るのに困っちゃって(笑)、ちょうどタクシーが来たので運転手と相談して、斜めにしてやっと入れました。

松信かなり大きいんですね。

長谷川伊勢佐木町の野沢屋で市電さよならの部品販売をやったときにはポールを買いました。

側板もあります。車両の側面に下げていた。昔のは真鍮です。色で方角をあらわしている。西は白、北は赤、青は南です。瀬戸引きだから重いですよ。

最後の車庫が市電保存館に

横浜市電保存館 横浜市磯子区 横浜市電保存館提供

横浜市電保存館 横浜市磯子区
横浜市電保存館提供

松信横浜市電保存館は磯子区の滝頭にございますね。

大保昭和47年に市電が廃止になって、何とか残しておきたいということで、市電の最後の車庫だった滝頭はゆかりの地でもありますから、そこに実際の路面電車を6両、貨車を1両、計7両保存したんです。

最初はバラックの工場みたいなところに置いただけで、毎週土曜日の午後、無料でご覧になってくださいという感じで始まりました。

その後、昭和58年に、中をリニューアルしたり、Oゲージ、HOゲージという大きな模型電車を走らせるのを見てもらうイベントをやるようになっています。

入館料も昨年の夏休みから値下げしまして、大人100円、子供50円と、非常に安くなりました。65歳以上の方と、学校に行く前のお子さんも無料ですから、おじいちゃん、おばあちゃんとお孫さんが来れば、ただで遊べます。楽しい雰囲気をつくっていますから、ぜひ大勢の方に見に来ていただきたいです。

空襲の焼夷弾で穴があいた生麦線の鉄柱

長谷川保存館の前に、市電時代の鉄柱がありますね。

大保生麦線は昭和2年に開通しますが、そのときの電車に電気を送るための架線用の電柱です。神奈川新町の国道沿い、路面電車の昔どおりの沿線のところに、たまたま1本だけ、ポツンと残っていたんです。

この鉄柱の下のほうに穴があいているんですが、地元の方のお話では、これは、昭和20年5月29日の横浜大空襲のときに、焼夷弾が当たってあいた穴だということでした。郷土史研究家の方がお持ちの、焼夷弾の残骸とも一致しました。

ぜひにということで市電保存館に移したんですけれども、横浜大空襲の、神奈川新町あたりの貴重な資料といいますか、そういう意味でも非常におもしろいかなと思います。

次世代の乗り物として注目されるLRT

岡田最近、路面電車復活という話、新しい路面電車、LRTという言葉をよく聞きます。ライト・レール・トランジット、軽快電車ということで、正式な定義があるわけではないようですが、駅での階段の上り下りもなく、床が低いバリアフリーの車両で、地下鉄や普通の私鉄より気軽に乗れる。

都市の中心部では路面を走り、乗り換えなしで郊外へも1本で行ける。路面電車になったり、専用の鉄道線路を走ったりもするという次世代の乗り物です。今、その計画が宇都宮や金沢とか、いくつかの都市であります。

ただ、どこでも路面電車がいいというわけではない。横浜や東京、大阪のような巨大都市は地下鉄が不可欠です。LRTが適しているのはもうちょっと規模の小さい都市、人口が50万人から100万人ぐらいの地方都市でしょうね。

松信今、中心市街地が衰退する傾向がありますね。横浜も今、港の周辺ばかりが優遇されて内陸地帯は商業的にも厳しい状況です。さらに、もし、市役所が「みなとみらい」地区に移ることにでもなれば、関内から伊勢佐木町方面にかけては多分衰退する。それで、私どもの本店がある伊勢佐木町でも、LRTを導入しようという動きがあるんです。

岡田路面電車が活躍している都市は、古くからの中心商店街が今でも、たいてい元気です。広島の八丁堀と紙屋町、熊本の下通、鹿児島の天文館など。路面電車があるからかどうかという実証はできないんですけれども、今後、LRTができていくときに、街づくりのヒントにもなるのかなと思っております。

松信ただ、例えば伊勢佐木町がLRTを入れるとしても、どことどういうふうにつなぐのかという問題が残りますね。海岸部と内陸をつなげるのか。あるいはグルグル循環させるのか。

長谷川横浜は路面電車も今走っているバスも、循環運転が実に多い。市電では1番と12番がそうでしたね。

大保市電の弘明寺とか、生麦とか、あれは終点じゃなかったんですよ。折り返し点なんです。グルグル回っていたんです。

地下鉄4号線が大きな環状線になる可能性も

松信今はガソリン代も上がっていますし、地球環境の問題も言われています。そうすると、エネルギー効率がいいのは、マイカーで走るよりも、LRTなのかなという気もしないではないんですけれどもね。

岡田もうちょっと横浜より小さな都市だったら、車を締め出して、都心部はLRTだけということができるでしょうね。横浜では、LRTは例えば、「みなとみらい」と伊勢佐木町の間の観光遊覧用には最適ですが、通勤用の新線をつくるとなると、地下鉄規模でないと対応できない。都市の規模や目的によって使い分けていく必要がありますね。

松信バリアフリーを考えると、LRTが優れている。でも、やはり横浜ぐらいの大都市では、LRTだけの輸送力では無理なんですね。

長谷川市営地下鉄の4号線(グリーンライン)が、最終的には日吉から鶴見へ行く計画ですね。中山からは二俣川、東戸塚、上大岡、根岸へとつなぐ。この4号線が、本牧を通って中華街、元町まで行くかどうか。

松信つながる可能性はありますよね。

岡田そうですね。

長谷川そうすると、大きな環状線ができるわけです。

人間の近くを走る温かみが路面電車の魅力

松信横浜市の、10年、20年後の交通体系はどうなっていくんでしょうか。

大保構想はあるんですけれども、資金面という問題がある。例えば、市営地下鉄のブルーラインが今、藤沢市の湘南台から青葉区のあざみ野までで止まっていますね。構想としては、小田急の新百合ケ丘(川崎市麻生区)まで、約7キロを伸ばすということですが、それすらまだ凍結された状態です。

今年3月には、市営地下鉄のグリーンラインが東横線の日吉駅からJR横浜線の中山駅まで開通します。あれはもともとは、横浜環状という計画ですが、将来、さきほどのお話のように、日吉から鶴見のほうへ行くかどうか。

岡田グリーンラインは4両編成のリニアモーター方式で、ちょっと小型の地下鉄でしょうけれど、輸送力は路面電車と全然違います。

大保今、地球に優しいとか、いろいろな面で路面電車のよさが改めて浮き彫りにされていますね。LRTとか、具体的な計画は別としても、私は今、市電保存館にいて、ああいう乗り物はいいなと、あらためて感じているところです。

小さな子供さん、お母さんたちが見て、さわって喜んでくれる。そういった姿を見ていると、電車と人間はこんなに近いものなんだなと思います。路面電車は、何かヒューマニックな感じ、温かみのある、そういう乗り物であったわけですね。

新幹線や地下鉄は、ホームへ行くのもエレベーターですね。今や市営地下鉄もワンマンカーになって、ホームドアになって、ますます人間とは違う生き物として走っています。機械的になっている。そういった意味では、路面電車というのは単車だからなのかもわかりませんけれども、近くで言えば江ノ電なんかそうでしょうけれども、近いところを人間と一緒になってグルグル走っている乗り物という感じが非常にいいんじゃないですかね。好きですね。

長谷川きょうは久しぶりに昔のことを思い出して、楽しい時間を過ごさせていただけました。

松信どうもありがとうございました。

長谷川弘和 (はせがわ ひろかず)

1925年横浜市生れ。
著書『横浜の鉄道物語』 JTBパブリッシング 1,800円+税、『横浜市電の時代』 大正出版 3,800円+税、ほか。

大保光興 (おおぼ みつおき)

1945年奉天生れ。

岡田 直 (おかだ なおし)

1967年生れ。 滋賀県出身。
共編著 『鉄道「歴史・地理」なるほど探検ガイド』 PHP研究所(品切)

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