Web版 有鄰

483平成20年2月10日発行

戦後史のなかのゾウ – 2面

木下直之

ゾウの姫君たち

私の故郷浜松でも、動物園はお城の中にあったから、小田原城の城門をくぐって本丸に足を踏み入れたとたんにゾウに迎えられることは、それほど変だとは思わなかった。

ゾウは梅子といい、あたかも城門を増築したような場所に建てられた飼育舎に住んでいる。天気のよい日に運動場を行ったり来たりする姿は、お屋敷からお庭に出て遊ぶお姫さまに見えないこともない。

この連想には無理がある、と考える読者には、その名もずばり姫子という名のゾウを紹介しよう。彼女もまた、お城の中の動物園に暮らしてきた。仰ぎ見るお城は小田原城よりもさらに壮麗な姫路城で、だから姫子と名付けられたのだが、はじめて日本にやってきた時には、「お姫さま」と呼びたくなるほど小さくて可愛かったらしい。

浜松の動物園でも、園内のどこからも白い天守閣を仰ぎ見ることができた。子どものころのアルバムには、動物園で撮った写真が何枚も入っているが、しばしばお城を背景にして私や弟が立っている。ゾウの名は浜子だった。いうまでもなく、浜松の一字をもらっている。いや、浜松城の一字をもらったのだ、といいたくなる。

こんなふうに、お互いに知り合うこともなく、お城の中に暮らした3人の姫ならぬ3頭のゾウ、梅子と姫子と浜子とをいっしょに連れ出してみると、ある共通点が見えてこないだろうか。それはまさしく、彼女たちが暮らすことになった土地にちなんだ一文字プラス子という命名法にある。むろん、梅子は小田原名産の梅にちなむ。

現代のゾウたちには、こんな古くさい名前はつかない。坂本小百合『あなたのとなりに暮らしているアジアゾウ全66頭調査』(飛鳥新社・2006年)によれば、日本には124頭のゾウ(アフリカゾウ58頭、アジアゾウ66頭)が飼育されているが、「子」がつくゾウはアフリカゾウが4頭、アジアゾウが21頭というぐあいに全体の5分の1に過ぎず、地名との組み合わせとなると、先の3頭のほかには、宇都宮動物園の宮子、神戸市立王子動物園の諏訪子(諏訪山にちなむ)しかいない。

現代のゾウたちは、大半が片仮名で表記される名前を持つ。上野動物園の5頭が、それぞれにアーシャー、ダヤー、スーリア、アティ、ウタイと呼ばれるように、来日前からの名前を使っており、梅子や姫子や浜子のように、いわば日本人ならぬ日本ゾウであることを求められない。ここには、ゾウに対する期待の違いがあるはずで、それはまた時代の違いでもあった。

そろそろ読者はお気づきだろうが、「姫君たち」の名前が古くさいのではなく、彼女たちの来日が戦後間もないころと古いのである。当時、「子」のつく名前は、むしろ新しくて若さを感じさせるものであった。その証拠に、私の母は人間だが、戦後になると「久[ひさ]」から「久子」にその名を変えていた。年老いたこのごろでは、「やっぱり久にしようかな」と言って、また「子」を外している。名前の流行廃りは、人間の世界ばかりでなく、ゾウの世界にまで及んでいるのである。

梅子の来日は昭和25年(1950年)、推定年齢4歳、姫子の来日は昭和26年、浜子の来日は梅子と同じ昭和25年だった。梅子ひとりが還暦を迎えた現在も元気で、姫子は2代目、浜子は3代目がそれぞれの名を継いでいる。

ゾウの寿命はおよそ60歳といわれる。戦後間もないころに、このように相次いで日本にやってきた幼いゾウたちが、その生涯を終えようとしているのが今なのである。

ほかにも、諏訪子、はな子(井の頭自然文化園)、花子(札幌市円山動物園)、春子(大阪市立天王寺動物園)、アキ子(勝浦ぞうの楽園、それまでは阪神パークで長く暮らした)、おふく(福岡市動物園)が還暦を越えたか、間もなく迎えようとしている。

小田原こども文化博覧会

小田原城と梅子(2006年・著者撮影)

小田原城と梅子(2006年・著者撮影)

では、なぜ、戦後の日本にゾウが相次いでやってきて、そのうちの何頭かはお城を住処としたのだろうか。

ひとつのきっかけは、こども博覧会だった。小田原では小田原こども文化博覧会が、浜松では浜松こども博覧会が、同じ昭和25年秋に開催された。敗戦から5年になる。日本はまだ占領下にあった。「文化国家」、あるいは「平和国家」の建設が新たな目標だった。そして、その未来は、いうまでもなくこどもたちに託された。

小田原の博覧会の開催趣意書にいわく「将来の平和日本の建設を双肩に担う少年児童の福祉を増進し、その文化的素養を涵養する」(『小田原市史、資料編、現代』小田原市、1997年)。

会場内には、文化館、産業館、観光館、アメリカ学童館、野外劇場、子供世界探検場、子供の国が建ち並んだ。

しかし、こどもが喜ぶものは何をおいても動物だから、博覧会場には一時的な動物園が設けられた。当時の小田原市長が「ゾウがなけりゃゾオオロジカル・ガーデンじゃないよ」と口にしたという話が伝わっている(渡辺紳一郎「日本拝見」『週刊朝日』1955年10月30日号)。

そして「公約」どおりに、ウシよりも小さなゾウが連れられてきて(『あなたのとなりに暮らしているアジアゾウ全66頭調査』)、梅子と名付けられたわけである。

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浜松こども博覧会のパンフレット

一方の浜松こども博覧会でも、ゾウが人気を集めた。私の手元にあるパンフレットには、「東京名古屋間で象のいる動物園がはじめて浜松に出来ました」と誇らし気に書いてある。戦時中には、「猛獣処分」の名の下に、上野動物園でゾウを餓死させたという忌まわしい出来事があるだけに、戦後、ゾウは平和の使者として迎えられたのだった。

ゾウを贈ったインドやタイからすれば、日本に対する復興支援という戦後史のひとこまでもある。

こうして小田原でも浜松でも、博覧会終了後も動物はそのまま残され、動物園へと発展した。姫路は博覧会というかたちを取らなかったが、翌昭和26年に移動動物園(いわゆる「ゾウ列車」)が巡ってきて、それを機に動物園をつくろうとする運動が盛り上がった。建設の名目は日米講和記念だった。すなわち、ここでも日本の独立回復、「平和日本の建設」がバネとなっている。

いずれの博覧会も移動動物園もお城が会場になったのは、そこが城下町の中心であり、広い土地が空いていたからだった。というよりも、そもそも城下町はお城を中心に町がデザインされており、明治維新を迎えて、お城がその役割を終えたあとも、大半の城下町が政治的にも経済的にも重要な拠点として発展を続けてきた。それゆえに、アメリカ軍の本土空襲では優先的に焼かれたという経緯がある。焼け野原からの復興に向けた催しは、なによりもまず、お城で開かねばならなかった。たった一発の爆弾で壊滅したあの広島でも、昭和26年の体育文化博覧会は、平和記念公園ではなく広島城で催されている。

一時的な博覧会が終ったあとで、つぎに城下町のひとびとをとらえたものは、天守閣の復興だった。小田原や浜松は戦争のはるか以前に天守閣を失っていたし、姫路城は奇跡的に焼け残ったものの、多くの城下町が空襲で天守閣を失っていた。名古屋城しかり、岡山城しかり、広島城しかりである。もう二度と焼かれるまいという思いは、鉄筋コンクリート造という方法を選んだ。かくして、昭和30年代の前半に、雨後の筍のように、全国各地に鉄筋コンクリート造の白い天守閣が続々と姿を現すことになる。

昭和33年(1958年)に建てられた浜松城の天守閣も、昭和35年に建てられた小田原城の天守閣も、この流れの中に出現した。しかし、小田原には、天守閣の復興に先んじて、石垣復興運動という前史があった。大正12年(1923年)に起った関東大震災は小田原城の石垣にも被害を及ぼしている。その復興の過程で、すでに昭和9年(1934年)に隅櫓が再建されている。小田原城の再建とは、必ずしも戦災復興事業ではなく、戦前からすでに始まっていた事業の、戦争による中断からの再開であった。

こうして見てくると、お城と動物園とは、敗戦から立ち上がる同じ時代のひとびとから乞われて出現したものであり、とても相性がよいのである。蜜月ともいってよい時代が、少なくとも昭和40年代までは続いただろう。

しかし、次第に、動物園がお城の中にあるそのことが問題になり始める。最初は、お城が町の中心であるがゆえに、動物園が狭いこと、動物が臭いこと、汚水の処理などが問題になった。浜松の動物園は、昭和58年(1983年)には、町を遠く離れて浜名湖畔へと移転している。

近年では、お城の景観復元や環境整備が優先課題となり、動物園それ自体がお城とは相容れない異物のように扱われつつある。

梅子の還暦を報じた新聞記事は、「同市では国史跡の小田原城を幕末の姿に復元する事業が進む。本丸の動物園は動物の補充をせず、園舎はつぎつぎ取り壊されており、ウメ子が亡くなれば動物園もなくなる見通しだ」(『朝日新聞』2007年9月17日)と結んでいる。

誰がなんと言おうとも、お城の中の動物園もまた「史跡」のはずなのだが。

野毛山の浜子

横浜の野毛山動物園も、小田原動物園に似たところがある。むろん横浜は港町であり、城下町ではないが、動物園が、昭和26年に、野毛山という横浜の中心に出現したことが似ているのである。

5年前に還暦を迎える寸前に亡くなったゾウの浜子は、梅子よりも年上だった。浜子では浜松の浜子と区別がつかないから、横浜の浜子は「浜っ子」だろうと、私は勝手に呼んできた。

浜子が亡くなった直後に訪れた時、主のいなくなった飼育舎の前には遺影が飾られ、花が供えられていたが、昨年再び訪れた時には、飼育舎そのものが姿を消し、芝生の広場に変わっていた。ここでも戦後の動物園の歴史が終ろうとしている。

しかし、昨年、浜子は骨格標本になって横浜市立金沢動物園で公開された。今は、小田原にある神奈川県立生命の星・地球博物館で大切に保管されている。まるで梅子が呼び寄せたかのようではないか。

木下直之氏
木下直之 (きのした なおゆき)

1954年浜松市生れ。東京大学大学院教授。
著書『わたしの城下町』 筑摩書房 2,800円+税、『美術という見世物』 (ちくま学芸文庫) 筑摩書房 1,300円+税、ほか。

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