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有鄰


平成11年11月10日  第384号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 100年前の横浜・神奈川 (1) (2) (3)
P4 ○俳句は悲しみを唄えるか  西村我尼吾
P5 ○人と作品  入江杏子と『檜一雄の光と影』        藤田昌司



俳句は悲しみを唄えるか  西村我尼吾
──松山宣言と子規・虚子
西村我尼吾





   詩の運動が俳句の枠組みのもとで展開されることを期待

 「俳句は悲しみを唄えるか」というテーマは、俳句とは何かという問いに深く関係している。

 平成十一年九月十二日、愛媛県松山市で開かれた「国際HAIKUコンベンション」のシンポジウムで、 世界の六人の硯学が、真正面からこの問いに向かいあい、熱い議論がなされた。有馬朗人文部大臣兼科学技術庁長官(当時)、 芳賀徹京都造形芸術大学学長、上田真米国スタンフォード大学名誉教授、ジャン・ジャック・オリガス仏東洋言語 文化総合研究所教授、金子兜太現代俳句協会会長、詩人宗左近の六氏である。シンポジウムに先立ち、 ほかに齊藤慎爾、坪内稔典、仁平勝、正木ゆう子、対馬康子、野村喜和夫、篠原俊博、筆者らの俳人・詩人 がこの議論に加わっている。

 議論の中身は、日本で初めてインターネットで全世界に中継された(ウェブサイトはhttp://www.shiki.org/) 。

 このウェブサイトは、松山大学の墨岡学教授の主宰する子規インターネット俳句サロンで、現在のところ、 我が国で最大の世界に開かれた俳句のネットワークである。そこで六人は「松山宣言」を全世界の詩人に 向けて発信したのである。

 松山宣言は、約一万字に及ぶ長大なものである。英語の仮訳だけでもA4判十ページに及ぶ。その中心的 思想について私の見解を示しておきたい。

 松山宣言は七つのパートで構成されている。1.松山という土壌、2.世界への広がり、3.なぜ世界に 広がりえたのか(俳句の本質論)、4.定型・季語の問題、5.世界の一流の詩人への「かげとひびき」、 6.俳句の国際化 普遍志向・独立志向、7.詩を万人の手の中に取り戻そう(二十一世紀における世界の 詩の革命)などの七項である。

 二十一世紀は、これまで席巻してきた「説得の世界」に代わり、「沈黙の世界」が重要視されてくるの ではないか。ジョン・ケージや武満徹の音楽、サムフランシスやマーク・ロスコの絵画は沈黙(もしくは 余白)に近づいている。これらの先駆とも呼ぶべき人びとの活動は、二十一世紀の大きな芸術思潮の魁と 思えてならない。

 宣言には、「俳句においては、完成された詩の表現形態として十七音まで言葉を切り詰め、切れ字等の 日本語特有の文法を用いることで、一切の事象(喜びも悲しみも−筆者註)をこの短い詩の中に表現している。 同様に全ての言語においても、詩的表現として切り詰め凝縮しうる部分があると考えられ、また沈黙の価値を 理解する態度が各言語の詩的空間の拡張に大いに貢献するものと、信じている。我々は、全世界の詩人が詩の 運動として、自国の言葉をどこまで短縮し、凝縮することができるか、追求することを期待する」と記され、 「我々は各国における新しい詩の運動が〈中略〉haikuというフレームワークのもとで世界詩の最前衛 を目指すべく展開されることを期待する」と全世界の詩人に発信している。

 この宣言の中には、他にも極めて重要な記述が多く見られ、その全貌を限られたスペースで紹介するのは 不可能なので、主要な論点だけを以下に列記する。

 1.正岡子規の革新−俳諧から俳句へ。その出発点より有する本質的な世界性 2.俳句の過小評価−俳句 の欧米の詩的状況に与えた巨大な影響 3.定型・季語の問題−各言語における「言葉の内なる秩序」の発見、 文芸共同体における「共有語」の問題、民族特有の象徴的意味合いを有するキーワード 4.俳句性の本質論・ 自然と人間、民衆性、個の自意識の超克と自然 5.二十一世紀の基本潮流−普遍化と固有化の同時進行、 インターナショナリズム、グローバリズムの超克。

 ざっと列記したが、それぞれの論点が複雑にからみあっており、宣言の核となる俳句という「場」が あらゆる芸術との関係の中にあることを思い知らされる。逆に、この宣言の精神は、俳句を共振のデバイス とすることにより、あらゆる芸術にむけて発せられているとも考えられる。

   子規の俳句はあらゆるものを対象とする世界の短詩

 子規の人生は、短く病苦との闘いに明けくれた。しかし不思議に明るく、失敗を経験しつつも、いろいろ な試みに満ちていた。松山の子規記念博物館に彼の生涯の軌跡が展示されている。ほほえましい文学少年が 俳句革新をなしていく過程を追っていくうちに自然と涙がこみあげてくる。

 子規には、長い人文・社会科学方法論の体得が背景にあった。十七歳で東京大学予備門に入学、二十一歳 で第一高等中学校予科を卒業するまで哲学を一生の目的としている。二十三歳で帝国大学文科大学哲学科に 入学、二十四歳で国文科に転科し、二十六歳で退学するまで、計九年間にわたり、語学、哲学、文学を 学んだ当代随一のインテリであった。

 彼は東京で悩みながらも学問することにより「この小さな定型詩に当時のエリート層が誰も見向きも しなかったことを乗り越えて、過去を総括する形で俳句を科学的に考察し、近代化する」ことができたので ある。さらに彼はジャーナリストとして世界の政治文化の動向に関心を有してもいた。

 子規の導入した「写生」という方法も詩を普遍化するための手法であり、それゆえにその後、エズラ・パウンド、 ポール・エリュアールらの当時を代表する詩人に大きな影響を与え、第一次大戦後の一九二〇年には、 フランス文壇に一世を風靡した『新フランス評論』も、復刊草々「俳句特集」を組み、フランス詩壇に大きな 刺激を与えた。

 オリガス教授によれば、第一次大戦の最中、フランスの兵士は塹壕の中で、自分の生死を託する詩を俳句 として書ていたという。子規の革新した俳句は、あらゆるものを対象とする世界の短詩だったのである。

 それが一九三〇年代になると急速に、今では骨董になってしまった「根付け」のような伝統芸能的文芸に 痩せていく。何故そのようになってしまったのかは、多角的な研究が必要であるが、私には、子規の早すぎ る死が大きな原因と思えてならないのである。

   俳句の目的が違った子規と虚子

 高浜虚子の小説『子規居士と余』を読むと、その出発点における差が巨大な次元の差となっていることを 感じざるをえない。

 虚子は十八歳で京都の第三高等中学校に入学するも、入退学を繰り返し、二十歳で仙台第二高等学校も 退学し、以後実業界に入っていく。したがって虚子は、人文・社会科学の方法も、語学も、世界的視野も 体系的に学ぶことはなかった。子規の志を虚子が継ぐことは、基本的に不可能なことであった。

 子規は虚子に対して文学に対する基本を本格的に学ぶよう厳しく叱責しており、虚子にとっては大変頼り になるが煙たいコワい先輩であった。

 虚子は子規に、「私は学問をする気は無い」と断言し、後年「余の弱みも強みも〈中略〉何れも此の 非読書主義の所に在る」と述べ、学問することによる方法論の修得の必要性と世界的視野の拡大を頑なに 拒んだのである。

 子規は「それではお前と私(あし)とは目的が違ふ。今迄私(あし)のやうにおなりとお前を責めたのが私(あし)の誤りであった。 私(あし)はお前を自分の後継者として強ふることは今日限り止める」といいながらも、虚子に後事を託すより他は なかった。

 中村草田男氏が昭和四十八年の『俳句とエッセイ』十一月号「虚子生誕百年記念号」で、「もしあれで 子規が短命しなかったら(虚子が)何になったかというと、あるいは政治家〈中略〉いろんなバランスが とれてね、豊かでね、やっぱり実業家的ですね」と評している。

 坪内稔典氏によると、「虚子は俳人になる以前にまず出版業者として世間に現れ、次いで小説家になった。 専門の俳人になったのは大正二年以降である」ということになる。

   俳句を、悲しみを唄う詩ではなく極楽の文学にした虚子

 世界の詩壇から波が引くように俳句の影が薄くなる一九三〇年代は、虚子が一九二四年頃から 「客観写生」を、一九二七年頃から「花鳥諷詠」を説き、昭和の「ホトトギス」が企業としての隆盛を迎える 時期と軌を一にしている。もしかしたら、虚子は子規の遺産を蕩尽してしまったのかもしれない。 それで俳句は普遍的詩歌の道を迂回することになった。それが、図らずも子規の跡を継ぐことを余儀なく された虚子にできる進むべき俳句の道なのであった。

 虚子が「写生」に「客観」の二文字を付すことで俳句の普遍性は限定され、やがて子規と全く逆の方向へ 詩として後退してゆく過程で、皮肉にも二十一世紀への飛躍の準備がなされた。それは俳句産業を発展させた ということであった。虚子によって俳句は民衆の悲しみを唄う詩ではなく、極楽の文学となった。 虚子は子規没後三年目には、「俳諧スボタ経」を発表していた。そして、現在の俳句大衆化の礎を築いた のであった。

 二十世紀の世界の文学は数十年俳句を忘れていたが、オリガス教授によれば、ここ二十年ほど、再び一流の 詩人たちによって芭蕉や子規の俳句の精神を自作に生かす試みがなされているという。フランスの イヴ・ボンヌフォア、フィリップ・ジャコテ、アメリカのアレン・ギンズバーグ、メキシコのオクタピオ・パス、 イタリアのジュゼッペ・ウンガレッティなどである。少し古いがドイツのリルケやフランスのポール・クローデルは その先駆といえようか。このことは、饒舌たることに疑問を感じた詩人たちの沈黙に対する評価の開始と 軌を一にする。

 虚子は子規とは逆の方向に進んだかもしれない。しかし俳句型式が自分とともに滅びると恐れた子規に対し、 とにかく踏んばって二十一世紀にまでこの型式をつなぎとめることに大きな功績をあげたといえよう。 日本の俳句が特殊化し、固有化する中で、虚子への反発も含めて内向的に深まっていくことで、とにかく 世紀末まで日本の俳句の存続を可能にしたのである。

   俳句による東西文化の融合を世界の詩人に訴える

 しかしながら、二十一世紀には、虚子によって過小評価されてきた俳句のもつ普遍性が解き放たれる時が 到来することは疑いない。事実、日本を含めた世界の詩人たちが喜びも悲しみも俳句型式で自在に唄うまでに なっている。有馬朗人前文部大臣が指摘したような俳句による東西文化の融合が起ころうとしている。 松山宣言は、そのことを全世界の詩人に訴えかけたのである。





 にしむら がにあ
 一九五二年大阪生れ。
 俳人(本名・英俊)、愛媛県理事。
 著書『句集 官僚』深夜叢書社 2,940円(5%税込)。





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