Web版 有鄰

『有鄰』最新号 『有鄰』バックナンバーインデックス  


有鄰


平成11年11月10日  第384号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 100年前の横浜・神奈川 (1) (2) (3)
P4 ○俳句は悲しみを唄えるか  西村我尼吾
P5 ○人と作品  入江杏子と『檜一雄の光と影』        藤田昌司

 座談会

100年前の横浜・神奈川 (2)



軍の施設が際立つ横須賀

編集部 横須賀方面は久保木さんのコレクションの中から未発表のものもたくさん収録させていただきました。

久保木 横須賀の場合は、横須賀製鉄所がほぼ完成した段階で横須賀一覧図が出版される。これが横須賀の全体を俯瞰したような図で明治十二年に出てくる。明治十年代から横須賀製鉄所(造船所)の見学者が非常に大勢来て、彼らはお土産に買うわけです。横浜の浮世絵と同じような形で横須賀一覧図なり、銅版・石版で横須賀の軍の施設等を描いたものが、明治三十年代ぐらいまでたくさん出る。

  
横須賀鎮守府
横須賀鎮守府 久保木実氏蔵
それが前身で、明治四十年代になると、それにかわって絵葉書が出てくる。一覧図等にあった軍の施設などが絵葉書に置きかえられている。

日露戦争以後、軍施設を見学して、愛国心を高めるような運動が盛んになってくると中学生や師範学校の生徒たちによる団体での軍港見学が非常に盛んにおこなわれる。そういう中で一覧図などにかわって、今度は絵葉書をお土産に持って帰るようになる。

それから水兵を養成する海兵団がある。彼らも田舎に帰るとき、それらを持ち帰り、横須賀でこういう所にいたんだと。だから横須賀のものが地方にある可能性は高い。横須賀は軍施設が一番多いから袋入りのセットになっても、五枚は軍施設で、残りの三枚が名勝や町並みです。

ただ、軍施設はそんなにいろいろないので、横須賀はバラエティーに富んだ面白みには欠けるんです。

あと、明治二十年から三十年代にかけて、三崎が避暑地として京浜地区で有名になってくる。いろんな文人が避暑便りみたいな形で三崎を紹介すると、当然、避暑にかかわったものとして海水浴場の絵葉書が多く出版される。それに関連して、源頼朝にかかわりのある桃御所などの施設等が紹介されていく。

また、明治二十二年に横須賀線が開通して、逗子、葉山に別荘がつくられ、例えば徳富蘇峰の『日日だより』などが紹介されてくると、それに合わせて、海水浴場や周辺の名勝の絵葉書が出てくる。

 

   三浦半島周辺地域は「東京湾要塞司令部許可」を明記

編集部 「東京湾要塞司令部許可」と印刷された絵葉書ができてきます。あれは何年ごろから始まるんですか。

久保木 明治三十二年七月に要塞地帯法、軍機保護法という法律ができるんです。つまり許可を得なければ、地形などがわかる写真を撮ってはいけないという法律です。違反すれば逮捕される。スパイと見られるわけです。ですから要塞司令部の許可が、全部絵葉書の下に入っている。

だから、絵葉書でも地形のわかるようなものは、景色を消してしまったり、あるいは人物を描き加えたりとか修整されている部分がほかの地域に比べて非常に多い。

編集部 要塞地帯法というのは、どの辺の地域までですか。例えば、大正二年の横浜の地図でも磯子などの部分が白地図になっているものがありますね。また昭和十五年には横浜・川崎市内は高さ二〇メートル以上からの俯瞰写真の撮影も禁止されるようですね。

久保木 あれは何回か改正されるんです。初めは三浦半島の周辺までと、わりと限定されていたんですが、後にだんだんと広がって、鎌倉・藤沢のほとんど、それから横浜の部分も、かなり奥へ広がっていく時代がある。

編集部 鎌倉の若宮大路の絵葉書で、下に要塞司令部認可と書いてあるものがある。それを見ると、ある程度の年代の特定はできそうですね。

久保木 それはできます。鎌倉の一部が入るのは明治三十二年に法律が制定された当初からです。一気に地域が広がるのは、いわゆる日中戦争が始まってから、昭和になってからです。やはり戦局が反映していますね。

斉藤 僕が子供のころまで磯子に高射砲陣地と呼んでいた場所がありましたね。確かに、要塞地帯といわれてもおかしくないような感じがあった。高射砲はなかったけど、陣地といわれた地形は残っていましたから。

久保木 昭和十五年十二月までは、三浦半島から鎌倉が少しひっかかるぐらいだったんです。


箱根は外国人相手の名勝絵葉書

編集部 小笠原さん、小田原一帯も絵葉書が随分たくさんでていますね。

小笠原
元箱根
元箱根 横浜開港資料館蔵
基本的には小田原というよりも、箱根が一つのポイントです。いわば東の横浜に対して、西の箱根。つまり開港以来、箱根は外国人の遊覧地として筆頭に挙げられる場所で、絵葉書以前に、すでにお土産写真のタイプのものが箱根から出ている。だから、絵葉書ブームになると、絵葉書化が進みやすい、そういう下地は持っていた。

そういう流れにつられ、小田原でも絵葉書が比較的早くから刊行され始めたと思う。今、年代で特定できる一番古いのが明治四十年前後ぐらいです。小田原は県下で唯一の城下町だから、お城と城下町の変貌が絵葉書の主要なテーマになる。

城郭が名勝として売り出されるようになるのは、あそこに御用邸ができてからです。あくまでも御用邸という名勝が先行するから、絵葉書の標題も、大体が「御用邸」。それがみんな小田原城です。もちろん御用邸の絵葉書といっても、中に入って撮れるわけではないので外側を撮る。ということは、小田原城の二の丸の堀と石垣を撮る。

そうしたブームがあって、それと逆に、明治三年十一月に小田原城は民間に払い下げられて解体されていますから解体寸前に撮られた小田原城の建造物、これが復活して絵葉書になるという現象も出ている。今ある天守閣は復興されたものですが、解体途中に撮影された天守閣の写真も含まれている。

編集部 オリジナルな写真は残っているのですか。

小笠原 幾つかは残っています。その中で重要なのは、『ファー・イースト』で撮った写真が絵葉書になっているのが何点かあります。ですから、城郭建築があった時代の写真は、外国人が撮影した写真によって残されている。そういう点では、横浜における写真記録の意欲は、小田原にも大きな影響を与えていると思います。

 

   小田原市内の熱海線開通時のパノラマ写真

編集部 開港資料館に六枚続きの小田原市内のパノラマ写真がありますね。

小笠原
小田原市内のパノラマ(部分) 小田原市内のパノラマ(部分)
小田原市内のパノラマ(部分) 横浜開港資料館蔵
あのパノラマ写真は歴史的にも非常に重要な写真です。それは、国鉄熱海線の国府津・小田原間の開通によって、小田原が新たな展開を見せはじめた時代の記録写真だからです。大正九年と確定できるんです。

大正九年には、北原白秋が小田原に三階建ての白い瀟洒な家を建てる。木菟の家の後です。木菟の家は草ぶきの素朴な家です。そこに隣接して居宅を建てたんですが、どんなうちだったか、よくわからなかった。

それがパノラマ写真の中にあった。小田原城の総構(そうがまえ)の近くで、今は高級住宅地ですが、その開発初期段階の、整地されたばかりの丘の中腹にぽつんと一つ建っている。大正九年と特定されているから、その年代の小田原の状況が特定できる貴重な資料です。これに代表されるように、小田原城下は、近代化の過程が比較的克明に残されている。

それまでは国府津駅が小田原の入口で、当時の東海道線は御殿場経由で山北を回るから、小田原は若干僻地というような状況にあった。つまり国府津からどのように交通のアクセスをとって、小田原、箱根、熱海につないで発展していくかは地元にとっては死活問題だった。熱海へは国府津から汽船で行くという状況で、地元の力で交通のアクセスをとることに非常な努力をし、その発展過程は絵葉書にもよく残されています。


相模川と鮎漁が圧倒的に多い厚木

編集部 飯田さんには厚木方面のご執筆をお願いしていますが、厚木はどんな特徴がありますか。

飯田 絵葉書で、量的に圧倒的に多いのが相模川と鮎漁です。相模川は、平塚からずっと上流まで相模川なんですが、その中で集中的に絵葉書になっているのは津久井と厚木だけで、ほかに相模川の風景を撮った絵葉書は少ない。

まず第一点は、相模湖ができる以前の観光案内地図のようなものを見ると、中央線が開通して明治三十四年に与瀬駅(現・相模湖駅)ができると、鉄道で東京方面のお客さんを呼んで相模川下りですね。与瀬あたりから船に乗って急流を下り、厚木が終点。それで出発点の津久井と終点の厚木、これが当然多い。

出発点の津久井には相模湖ができるくらいだから渓谷の絵葉書。終点の厚木は鮎漁。屋形船にお客を乗せて、川でとった鮎をその場で料理して食べ、お酌をする芸者さんと三味線のお姉さんが乗っている。これは昭和三十年代までの話です。

厚木に芸者さんが多かったというのは、明治三十年代の『横浜繁昌記』に、厚木は鮎漁が盛んで、芸妓営業株式会社という珍しいものがあると書かれている。つまり、芸者さんが株式会社組織みたいなものをつくるほど大勢いてお客さんもあったと。

 

   蔵づくりの家並み、写真に写る発行元の竹村・石村両書店

飯田 そこで非常に面白いのは、明治三十五年に神奈川県立第三中学(県立厚木高校の前身)が開校する。当時、県立中学は横浜、小田原、厚木の三つだけですから、当然県央部の生徒たちが集まる。すると、江戸時代から本屋はあったんですが、それにつれて新しいタイプの書籍商が明治四十年ごろ誕生する。竹村書店と石村書店です。それ以前は竹村書店は呉服屋、石村書店(今の石村集文堂)は三味線道具などを扱っていた。その二軒の本屋が絵葉書の出版を始める。

  
厚木町
厚木町 横浜開港資料館蔵
開港資料館所蔵の町並みの絵葉書に、その二軒の本屋が写っています。自分の店の宣伝を兼ねて町並みを撮影したということが非常に面白い。もちろんほかの風景も写っていますが、本屋さんが一番目立つように写っている。なおかつ、関東大震災前の厚木は蔵づくりの家並みで、二軒の本屋さんは中心部にあったので、それもよかった。

それともう一つ厚木で多いのは、相模橋という相模川にかかる橋を中心に撮った絵葉書。これは多分、相模川の平塚から津久井渓谷までの間、最初にできた、人が渡る本格的な橋だと思う。東海道には鉄道の鉄橋と馬入橋はありましたけれども。相模橋の開通は明治四十一年です。

横浜、東京のお客さんは、東海道で平塚まで来る。平塚からは人力車か馬車が普通でした。大正中期になると乗合自動車ができる。それ以前はもちろん歩きです。明治十六年、自由民権運動が盛んなころ、板垣退助一行を招いて鮎漁大遊船会を催したのですが、そのときに板垣退助は厚木市内に三泊し、帰りは神奈川駅まで人力車を連ねて行ったことが、当時の新聞記事でわかります。


横浜での製造・販売の大手は上田とトンボヤ

編集部 絵葉書の制作についてですが、トンボヤは横浜、東京、川崎、横須賀の絵葉書もつくっていますが、どの程度の広がりがあったんですか。

斉藤 トンボヤの経営者は吉村清です。同じ人が上方屋をつくっていて、上方屋は銀座にもある。だから何かつながりがあると思うんですが。トンボヤの絵葉書にYが入っていると横浜だというんですが。Kは神戸説や金沢説があります。確かにKと入っている金沢の絵葉書があるようです。

今、実際に残っているものの中では、上田写真版印刷所とトンボヤが非常に多い。星野屋も結構ありますが、量から言えば、断然トンボヤですね。

編集部 それは絵葉書専門店ということでしょうか。

斉藤 製造と販売と両方やっているみたいです。卸もやっているのかもしれない。

編集部 トンボヤのお店は伊勢佐木町の有隣堂本店の近くにもありましたね。

斉藤 元町のトンボヤが写っているのもある。裏面にトンボのマークが入っているのと、表面のほうの絵ハガキの「キ」の字がトンボの形になっているものとか、切手を張る所にトンボの絵がかいてあるものとか、いろいろある。細かく調べると、それで年代が変わったり、出している店が違うとか、本店と支店が違うとかあるのかもしれないけれど、そういう記録が何も残っていないんですね。

星野屋絵葉書店の絵葉書には星のマークが印刷されています。星野屋のご子孫は、今でも絵葉書をつくっておられますが、関東大震災で全部焼けてしまい、記録は何もないそうです。

 

   写真館、印刷所、書店、土産物店などが発行

斎藤 あまり記録がないので、横浜の例でいうと、例えば写真館が出すケースもあります。それから上田写真版印刷所のように、コロタイプ専門の印刷会社が出す場合がある。あるいは石村書店のように、書店が発行する場合がある。それから、美術工芸品などを扱うような土産物店が出すケースがある。



ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.