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有鄰


平成15年1月1日  第422号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ベストセラーは世相の鏡 (1) (2) (3)
P4 ○丹沢のシカ  山口喜盛
P5 ○人と作品  岳真也と『吉良上野介』        藤田昌司

 座談会

ベストセラーは世相の鏡 (2)


  強まる戦時色——軍部による買い占めや発禁処分も  昭和10年代

    混迷の時代に出てくる『宮本武蔵』
 
藤田 日中戦争が昭和12年に始まりますが、11年に吉川英治が『宮本武蔵』を書いています。これは出たときもベストセラーになりましたし、戦後も、それから今年またブームになるという、非常に息の長いベストセラーですね。日本の混迷の時代に出てくる小説という感じがします。日中戦争が始まり、武蔵もそういう流れに乗ったということがありますね。

これが書かれた経緯は、直木三十五との論争で、直木は、宮本武蔵はそれほど強くない、弱い人間ばかりを相手にして勝っていた、と言ったら、吉川英治は、そんなことはない、じゃ書いてみるというので調べて書いたんです。

塩澤 朝日新聞の連載でしたが、朝日の部数がどんどん伸びていったそうです。とにかく植字工がワクワクしながら待っていたといいます。しばらく後に徳川夢声がラジオで、「そのときー武蔵は」とやって評判になった(笑)。間のとり方が見事なんです。また吉川英治は、耳から入ってくるのにものすごく響きのいい言葉を使う。それで文章で読むと、きざなんですが、彼はそれを照れないで、えらい教訓をたれたり。

 
  火野葦平の『麦と兵隊』三部作はいずれも百万部
 
塩澤
出征兵士を送る
出征兵士を送る

昭和13、14年ごろになると、石川達三の『生きてゐる兵隊』、火野葦平の『麦と兵隊』が出た。その後に、『土と兵隊』『花と兵隊』という三部作が出て全部100万部売れた。全部改造社からです。100万部も売れたというのは、一つは軍部で買い占めてあちこちに送ったんです。

その中に書かれていることは、勇ましく戦っているばかりじゃなくて、ノミやシラミに苦しめられたり、今夜どういうふうに泊まるかとか、ロバの鳴き声で起こされたとか軍隊での日常生活の話が出てくるんです。『生きてゐる兵隊』のように発禁になってはまずいので、負け戦とかは出てこないで、自分たちが頑張っているのは祖国の家族を守るためとか、そういうことが切々と書いてあるわけです。

藤田 『生きてゐる兵隊』はすぐ発禁になりましたね。『生きてゐる兵隊』の削られた所を読めるようにしたものを中央公論社が新しくして出しましたが、何でこんなことまで削らなきゃならないのかなと思いました。昭和10年代に入るとプロレタリア文学は完全にだめになりましたね。弾圧もあったし、時代の雰囲気にもマッチしなくなってきた。

塩澤 昭和15年は紀元二千六百年が盛大に喧伝され、ヒットラーの『我が闘争(マイン・カンプ)』(第一書房)がすさまじい売れ行きで、36万9千部にもなった。同じ第一書房からの大川周明の『日本二千六百年史』もベストセラーになった。

清田 第一書房の戦時体制版のシリーズですね。

藤田 私が夢中になって読んだのは「のらくろ」や『敵中横断三百里』とかの戦記文学。

塩澤 あれは講談社で出しましたね。日露戦争の戦記ですが、日中戦争になる前に既に大陸に目を向ける工作をしている。つまり日本の生命線の満州(現在の中国東北部)をとられてたまるかという気持ちを山中峯太郎が書いているのです。樺島勝一の挿絵もすごかった。一木一草まで克明に描く。月夜に馬に乗って密偵が敵中を横断する挿絵など見事だった。

 
  作家も徴用され丹羽文雄は旗艦に乗り『海戦』を書く
 
藤田 昭和16年12月8日の日米開戦で急速に戦時色が強くなってきます。作家もみんな軍に徴用されて、たとえば獅子文六(岩田豊雄)が『海軍』を書いた。

塩澤 あれは真珠湾攻撃の横山正治中尉をモデルにして朝日新聞に連載し、すごく部数を伸ばした作品です。

丹羽文雄も旗艦鳥海に乗って『海戦』を書き、これもすごく売れた。彼はそれまで情痴作家としてものすごく軍部ににらまれていた。その丹羽が百八十度転回して『海戦』を書いたと。しかし同じ丹羽の『報道班員の手記』は発禁処分になっている。

戦争に迎合して、日本は必勝の信念でやるということを言わないと紙の配給がないんです。だから朝日新聞などは一番太鼓をたたいた。朝日新聞の出版局史を見ると、屈折したことが書いてあります。

新潮社なんかも一生懸命迎合したようなことを書くし、富田常雄の『姿三四郎』などが売れていく。そういうものしか出せない時代でした。

 
  『改造』も『中央公論』も廃刊に追い込まれる
 
塩澤 『改造』も『中央公論』も昭和19年に廃刊に追い込まれる。総合雑誌は一番にらまれ、そこでつぶされてしまった。

そんな時代にもかかわらず谷崎潤一郎は悠々と『細雪』を書いている。これは中央公論の嶋中雄作さんが生活の面倒をを見ているんです。パトロンだった。そして敗戦になる。

清田 その背景を少し申しますと、とにかくすべてが戦時体制に入っていくと、出版物も国の方針に従ったものが多く刊行されて、流通するものもでてきた。当然検閲もあるし、出版社と取締当局との対決もある。いわゆる言論抑圧時代でもあるわけです。

また、戦時体制ですから経済的にも効率化しなくてはならない。その一つでもある会社として昭和16年に、明治から続いていた東京堂、大東館、北隆館などの取次会社が一本化されて日本出版配給株式会社(日配)という国策会社ができ、一手に流通を引き受けて全国に配本することになる。これは、流通の合理化と言えば合理化ですが、国策での合理化ですから賛否がありました。現在の取次は、この日配時代に得たノウハウを使っていると言われてます。

紙が配給制になっていくなかで、出版界も、ちゃんとできる所とそうじゃない所と、内部でのいろいろな動きがあります。たとえば、三木清の『人生論ノート』が昭和16年に創元社から出る。18年には山本有三の『米百俵』(新潮社)が出る。小泉首相が言った本です。『米百俵』の精神は、厳しくなっていく状況を見据えたときの発想なんです。

 
  出版社も雑誌も統合されて生き残る
 
塩澤 昭和18年に、3,743社あった出版社を203社に絞ることになる。それで紙やなんかを買って統合しながら、旺文社とどこかが一緒になるとか、平凡社が幾つか買い集めるとか、7つも8つも一緒になってやっと生き残るわけです。

雑誌も統合されて、『キング』が『富士』という名前になったり、『サンデー毎日』が『週刊毎日』に、旺文社は「欧」だったのが、「旺」の旺文社に変わるのはそのときなんです。

清田 私の出版ニュース社は、昭和16年の日配時代の機関誌、『新刊弘報』がルーツなんです。24年9月に東販(現トーハン)、日販、大阪屋が新しくできたときと同じ10月の創立で、出版ニュース社は独立しました。株主に朝日新聞、読売新聞、博報堂、出版社も数社入っています。今、朝日新聞や読売新聞が株主という出版社は他にないと思いますよ。

創立直後、業界の共通の業界誌がなくて、『出版ニュース』が共通の業界誌だった。新刊の案内の記事があるんです。それで昭和24年というと、活字がよく読まれる時代ですから、図書館や一般読書人からの要望があって、『出版ニュース』を市販することになります。また、戦前は東京堂が出していた『出版年鑑』は業界共通の資料だからということで、出版ニュース社が出すことになったという経緯があるんです。


  敗戦から立ち直る——性の解放、時代小説・探偵小説も復活 昭和20年代

    玉音放送を聞いてひらめいたという『日米會話手帳』
 
藤田 そして昭和20年8月15日の敗戦。

塩澤 もう伝説になりました誠文堂新光社の小川菊松さんが、千葉の出張先で天皇の玉音放送を聞いて『日米會話手帳』を企画した。それが360万部も売れたんです。9月15日に出て暮(くれ)まで、つまり3か月でです。これが、昭和56年に『窓ぎわのトットちゃん』が出るまでの超ベストセラーだった。これは本当にひらめきなんです。

清田
ホテル・ニューグランドを出るマッカーサー
ホテル・ニューグランドを出るマッカーサー(米国防総省蔵)

もう一つの説は、誠文堂新光社の編集長が、敗戦に朝日新聞、読売新聞、博報堂、出版社も数社入っています。今、朝日新聞や読売新聞が株主という出版社は他にないと思いますよ。

創立直後、業界の共通の業界誌がなくて、『出版ニュース』が共通の業界誌だった。新刊の案内の記事があるんです。それで昭和24年というと、活字がよく読まれる時代ですから、図書館や一般読書人からの要望があって、『出版ニュース』を市販することになります。また、戦前は東京堂が出していた『出版年鑑』は業界共通の資料だからということで、出版ニュース社が出すことになったという経緯があるんです。直後に吉川英治に執筆を依頼しに行ったら、まだ書く気はないと言われた。その帰り道に米軍と日本人がペラペラやっているのを聞き、これからは日米会話の時代だというので企画したという説。

塩澤 同じように、敗戦直後に出た森正蔵の『旋風二十年』。これも、鱒書房の増永善吉さんが、終戦になって、今まで日本は無謬神話を教えられ、一般国民は真実を全く知らされていなかった、その裏をひっくり返せと、毎日新聞の森正蔵に昭和の裏面史の原稿を依頼した。それで森正蔵が毎日新聞社の旧東亜部のメンバーに手分けして書かせたんです。

インフレがすごい時代で、暮(くれ)に出した上巻が4円80銭だったのが、翌年の春の下巻は9円80銭と、倍以上の値段になっている。両方で100万部ぐらい売れたそうです。

 
  尾崎秀実の評価が一変した書簡集『愛情はふる星のごとく』
 
塩澤 尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』もよく売れた。彼はゾルゲ・スパイ事件に連座して死刑になり、敗戦まで売国奴と言われていたのが、獄中から妻子に送った書簡集のこの本で、1年後には日本を戦争から守ろうとした民族の英雄という評価に変わる。読んでみると、本当にしっかりしたことを書いています。タイトルもよかった。

昭和26、7年は『アンネの日記』もそうですが、戦争中にふたをされていたものが出てきてますね。

光文社は、30年代になるとベストセラーづくりに狂奔しますが、20年代はそうじゃなく、読みたいなという感じのものを出している。それと目のつけどころが早い。永井隆の『この子を残して』は長崎の原爆のことでしょう。

藤田 戦後、作家がくびきを解かれて一斉に書き始め、石川達三とか、注目される小説が出てきましたね。

塩澤 セックス物がバンと出るんです。たとえばヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』。

藤田 あれはベストセラーにはなってない。

塩澤 『チャタレイ夫人の恋人』が25年。今読むと何で発禁になったのか、と思うくらい大したことない。

 
  紙不足のなかのカストリ雑誌ブームと占領軍の検閲
 
清田 戦前は、国あるいは軍部による言論統制が厳しいなかで、いろんな形で表現をしてきた。それが、敗戦によって自由に書けるような雰囲気になったけど、紙が入らない。それで仙花紙を使ったカストリ雑誌が出てくる。昭和21、2年までカストリ雑誌ブームで、仙花紙を使った粗末な紙の出版物がたくさん出るわけです。

一方で、占領軍の検閲が始まり、大体、24年ころまで規制されます。昭和初期の戦争に入る前のエロ・グロと戦後のエロ・グロは、同じエロ・グロでも戦後は解放的なものであった。そういう背景があって、終戦直後はいろんなものが出てきた。

昭和25年に朝鮮戦争が始まって、日本の経済が急速に復興していく過程でマス・プロ、マス・セールの時代に入っていく。24、5年のベストセラーも、それこそ何十万部という数が出ますが、次第に印刷技術や製本技術が保証されてくる中で、戦後のベストセラーを生んでいった背景がある。

 
  時代小説を復活させた村上元三の『佐々木小次郎』
 
藤田 占領軍の規制も大きかったですね。GHQが一番嫌ったのは日本の武士道なんです。武士道が復活されては困るということで、チャンバラならまだしも、時代小説を全部禁止した。最初に時代小説を復活させたのが村上元三の『佐々木小次郎』です。昭和24年12月1日に朝日新聞夕刊が復活して、それの連載小説です。

塩澤 みんな待っていた。

藤田 佐々木小次郎は物干しざおの剣ですが、抜かなきゃしようがないわけです。それで何日目かに佐々木小次郎は剣を抜く。そしたら、朝日の編集局が「やあ、抜いた、抜いた」と言ってどよめいたと言う。侍が剣を抜くことがずっと禁止されていましたからね。そういうことで時代小説が復活してくる。

もう一つ、戦時中は探偵小説が禁止されていたので、横溝正史などは、郷里に帰って『八つ墓村』のような怪奇小説を書いていた。それで、戦後になって、また探偵小説も書くようになった。でもまだ市民権を得ていなかった。



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