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有鄰


平成15年1月1日  第422号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ベストセラーは世相の鏡 (1) (2) (3)
P4 ○丹沢のシカ  山口喜盛
P5 ○人と作品  岳真也と『吉良上野介』        藤田昌司



丹沢のシカ——

他の野生動物との共生の道を求めて

山口喜盛
 


  本来、平野部で生活していたシカ

山口喜盛氏
山口喜盛氏

丹沢をよく歩く人たちにとって、シカは馴染み深い動物です。登山道や林道にもよく出てくるし、糞や足跡はどこにでもあります。山頂で休んでいると近寄ってきて食い物をねだる馴れ馴れしいシカまでいます。しかし、このように山の中や山頂で見られるのはシカ本来の姿ではなく、本来は平野部で生活していた動物であるということを、ほとんどの人は知らないのではないでしょうか。

シカは日本国内では北海道から九州まで広く分布していますが、雪に弱いため多雪地帯には棲んでいません。正式な名前はニホンジカといいますが、中国やベトナムにも生息しています。草原で生活するのに適応した動物で、集団で行動し、草類の他、木の葉や樹皮、冬は落ち葉なども食べます。

古文書によると、江戸時代には関東平野に生息していました。江戸図屏風(国立歴史民族博物館所蔵)には民家や畑と一緒にシカの群が描かれています。神奈川県では横浜や三浦半島にも生息していたことがわかっています。

このようにシカと人の生活圏は重なっていたので、古くから狩りの対象となったり、農作物の被害が恒常的に起こるなど、人との間で軋轢が生じていました。それでも江戸時代まではそれなりの均衡が保たれていました。

ところが、明治時代以降、経済の急速な発展や人口の急増、農耕地の拡大などによって、シカは本来の生息地を捨てて山に逃げ込まざるを得なくなりました。それが現在の姿です。つまり、シカは好き好んで高いところで生活しているわけではないのです。


  拡大造林と禁猟によってシカの数が増加

丹沢山山頂のシカ
丹沢山山頂のシカ

山に追い込まれたシカは、はじめは少数が林の縁などで細々と暮らしていたと思われますが、1950年代中頃から拡大造林が盛んに行われたことと、その頃から15年間シカが禁猟になったことによって、数が増え始めました。拡大造林とは、自然林を一斉に伐採して、スギやヒノキの苗木を植えることです。そのため、一時的に草原になることからシカの食料が増え、数が増加するのです。

また、普通は植林から10年もすれば苗木は背丈を越える高さになり、地面に光が差さなくなって、草類は貧相になってくるのですが、標高700メートル以上の高所や急傾斜地など造林不適地における無理な植林、あるいはシカの食害による苗木の生育不良がいつまでもシカに草原環境を提供し、数を増加させる一因になったものと思います。


  植林地を防鹿柵で囲い食害を防ぐ

シカに樹皮をかじられたウラジロモミ(堂平)
シカに樹皮をかじられたウラジロモミ(堂平)

そしてシカが増えたことによっていろいろな問題が起きるようになりました。

まず、スギやヒノキの苗木を食べ出したことから、林業被害が起きました。平野部を追われたシカは、今度は山で林業の敵になってしまったのです。山にシカの餌を植えているようなものなので、食べてしまうのは無理もないことですが、植えた人からすればたまりません。その対策として、植林地を防鹿柵で囲いました。これは食害を防ぐことと、シカを増加させない目的があったと思われますが、ほとんどの場所で柵が倒れたり、網に穴が開いたりして、すぐにシカが中に入ってしまいました。したがって、林業被害は少しは減らせたかもしれませんが、数の増加を抑えることはできませんでした。


  森林生態系の破壊が起きている丹沢

草を食べるシカ(札掛)
草を食べるシカ(札掛)

そして、さらに新たな問題が起きました。シカが自然の森林に被害をもたらし始めたのです。丹沢の周辺部や部分的な猟区で狩猟が行われたため、シカは、自然の豊かな奥地や高標高地の鳥獣保護区に集中し、下草、ササ類、低木など下層植生を食べ始めたのです。

周りの木々は青々とした葉を付けているのに、林床の地面には下草が何もなく、生えていてもシカが食べない植物ばかりになっているのです。こうした下層植生の衰退は、降雨時に表土の流失を起こします。また、丹沢は大正12年の関東大震災で大きな被害を受け、山腹に大小の多くの崩壊地ができていますが、そこがシカの餌場になるため、いつまでたっても植生の回復がみられないのです。これは大きな土砂災害につながる危険性があります。また、後継の稚樹を食べ、樹木の皮を囓って枯らすことによって森林の維持や更新も脅かされています。

このように、丹沢ではシカによる森林生態系の破壊が起きているのです。

安定した生態系は、その環境に古くから生存していた、さまざまな生き物が関わり合うことによって築かれています。そこに、これまで生息していなかった生き物が侵入するとバランスが狂いはじめます。しかもそれが毎日5〜6キロの植物を食べる大食漢のシカだったら、その影響は大きなものとなります。


  オオモミジガサは絶滅 シカが食べないマルバダケブキは増加

植物ではオオモミジガサなどが絶滅したかほとんど姿を消しており、逆に毒性のあるマルバダケブキやバイケイソウはシカが食べないため、増加傾向にあります。

動物への影響は目に見えにくいのですが、ササや低木が減少したことでウグイスやコルリなどヤブにすむ鳥類が減少しており、草地で生活するネズミ類も減っているものと思われます。最近、キツネの糞を見かけることが少なくなっているのは、餌であるネズミの減少が原因ではないかと心配されています。またカモシカは先住者でありながら、食性がシカとほぼ同じであることから、集団で餌を求めて移動してくるシカに駆逐されているおそれがあります。

このように、シカが生態系に与えている影響には計り知れないものがあると思われます。


  オオカミの絶滅や積雪量の減少もシカ増加の原因に

最近行われた神奈川県の調査によると、丹沢には現在、2400〜4200頭ものシカが生息していると推定されています。県は農林業に与える被害や生態系に与える影響を抑えるために個体数管理、つまり捕殺してシカの数をコントロールしようと動き始めています。狩猟区域内だけで駆除を行っても、シカは奥地や標高の高いところにある鳥獣保護区に逃げ込んでさらに過密化してしまうので、保護区でシカの駆除を実施しなくては意味がありません。

シカが増えたのは、食条件が好転したことや保護施策によるものだけではなく、捕食者であるオオカミが絶滅したことや温暖化によって積雪量が減少したことなど、自然の個体数調整機能が失われたことにもよります。

オオカミには、天敵がいなければ際限なく増え続けるシカの個体数を調整する役割があります。また深雪はシカの採食活動を妨げて、餓死(自然淘汰)させるのです。

シカが増えたアメリカのイエローストン国立公園では、絶滅したオオカミを他から再導入し、捕食者を復活させることで健全な生態系を取り戻そうとしています。

日本でも日光や尾瀬を中心に、シカによって衰退した森林を復活させ、農林業の被害を抑制するためにオオカミを再導入しようという運動があります。食物連鎖の頂点に位置するオオカミがいれば、人間が駆除などという余計なことをしなくてもすみます。しかし、外国産のオオカミが日本にいたものと同種なのか遺伝子レベルの検証が必要で、現在の日本の土地でオオカミを養えるのか、人畜に対する被害は大丈夫なのかなど、慎重に検討しなくてはならない問題があります。


  駆除によって適正の数にし他の野生動物と共生を

最近、南足柄や大磯丘陵にも、シカが出没するようになり、少数個体が定住していると思われます。周りに餌の植物がなくなって移動してきたものと思われますが、シカはやはり本来の生息地である丘陵や平らな土地の方がいいのでしょう。

しかし、そこがシカの安住の地になることは決してありません。農作物に被害を与えるために駆除されるか、交通事故死です。結局、シカには他に行き場がないのです。シカは、いまのところ山地で生きていくしかありません。

したがって、他の野生動物にとっては迷惑なことですがシカをそれらの仲間に入れ、共生させる方法をわたしたちが考えてやらなければなりません。そのためには、シカに生態系を攪乱させないよう環境の変化を監視しながら、シカの個体数を管理していく必要があります。

そこで考えなければならないのは、丹沢におけるシカの適正頭数です。シカを駆除によって減少させすぎてしまわずに、生態系に影響を与えない頭数を選定することは関係者の頭を悩ませている問題です。しかし、慎重になり過ぎていては、いつまでたっても解決しません。躊躇せず、思い切った駆除計画を実施しないと、丹沢の生態系の破壊は進み続け、取り返しのつかないことになってしまうでしょう。

以上のような丹沢を中心とする神奈川県のシカの現状や問題、今後の対策などについては、近く有隣堂から出版する『かながわの自然図鑑 (3)哺乳類』(神奈川県立生命の星・地球博物館編、共著)の中に、さらに詳しく紹介したので、参考にしていただければ幸いです。



 


 
やまぐち よしもり
1959年秦野市生れ。
神奈川県立丹沢湖ビジターセンター勤務。丹沢自然保護協会理事、神奈川県野生鳥獣保護観察指導員。
共著『かながわの自然図鑑 3 哺乳類』(神奈川県立生命の星・地球博物館編)有隣堂1,680円(5%税込) (2003年1月31日発売)
 


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