Web版 有鄰

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有鄰


平成15年7月10日  第428号  P4

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 ファンタジーと現代 (1) (2) (3)
P4 ○湘南の20世紀  高木規矩郎
P5 ○人と作品  塩澤実信と『平成の大横綱「貴乃花」伝説』        




湘南の20世紀


高木規矩郎

  湘南20世紀物語・表紙画像
湘南20世紀物語
有隣堂刊
 
読売新聞神奈川版で、2001年5月から2002年12月まで1年半にわたり「湘南20世紀物語」を連載した。この間、湘南地方の20世紀の人物像に焦点をあて、たくさんの人々に会って聞き取りを行った。

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  釈宗演・鈴木大拙ら東慶寺を支えた人脈


高木規矩郎氏
高木規矩郎氏
中でも強烈な個性と魅力的な人間性でもっとも強い印象を残したのは、江戸時代まで尼寺として知られた臨済宗の東慶寺閑栖(かんせい)井上禅定(ぜんじょう)「老僧」である。はじめてお会いしたとき、「老師というのは禅宗の偉いお坊さんのことで、私はそう呼ばれるに値するような人間ではないよ。ただの老僧だよ」と高笑いされた。

九十歳を越す高齢にもかかわらず、背筋をピンと伸ばし声にも若々しさがあった。意気軒昂で、古鎌倉での20世紀をフルに生き抜き、その人生体験にはさまざまな人間との一期一会があった。

現代の東慶寺由来を考えるとき、忘れることができないのは、世界に禅を伝えるパイオニアとなった明治の高僧・釈宗演(しゃくそうえん)と鈴木大拙(だいせつ)、そして井上老僧の出会い。東慶寺は北条時宗の妻、覚山尼が開いた尼寺だったが、明治末期に最後の尼僧が亡くなると、釈宗演の弟子で後に円覚寺の管長となる古川堯道(ぎょうどう)老師が、東慶寺住職となり、男僧の寺となった。

釈宗演は福井県の高浜の生まれ。円覚寺にきて、今北洪川の下で参禅して修行する。若いときから外国に目を向けなくてはいけないと考え、洋学を志した。

「釈宗演は洪川のところで修行が終わった。同じころ剣道の山岡鉄舟も洪川のところに来ていた。鉄舟は釈宗演を見て『そんな面構えではだめだ。あまりにも鋭い。インドにでも行って案山子みたいになって馬鹿になって来い』といった。当時、インドには仏教がないから、仏教が残っているセイロンに行く。慶応に3年いて、洋学を勉強した明治20年ごろである。鉄舟は『これは宗演和尚の天竺行きなり』と書き残し、案山子の図を描いて宗演に贈った」

井上禅定師
井上禅定師
井上老僧の話は、円覚寺—東慶寺につながる高僧伝である。濃密な記憶力で東慶寺を支えた人脈を生き生きと描いた。そして20世紀を代表する禅学者・鈴木大拙の話となった。私はかつてアメリカ時代の大拙の取材をしたことがある。今回は鎌倉と大拙のかかわりを知りたいと思って、井上老僧とのインタビューを楽しみにしていたのだ。

東京帝大選科で、同郷の西田幾多郎とともに学んでいるころ大拙は、鎌倉で参禅を始める。

「そのころの大拙の手紙100通ほどを私が預かっている。親友の山本良吉に残した手紙で、持っていても散逸するというので、私に預けたものである。それを読むと、大拙が円覚寺に来て修行、さらにアメリカへ行って送ってきた手紙などを読むと面白い。大拙が人間的に成長していく様子がよく分かる。その中に『鎌倉へ行って円覚寺の洪川坊主の説教でも聞いてやろうと思う』というところがあった。洪川を小馬鹿にしたような文章が面白い」

当時、円覚寺は夏目漱石の親友・天然居士米山保三郎や後の一高のドイツ語教師菅虎雄らエリートの参禅でにぎわい、大拙は西田幾多郎にも円覚寺での坐禅を勧めた。西田は哲学に熱中しており、その時にはあまり禅はやらなかったが、大拙の方は禅に打ち込んだ。漱石もその後、円覚寺に参禅する。

そして洪川の没後は、釈宗演へと大拙の参禅は続いた。「大拙」という居士号は釈宗演から与えられたものである。大拙には「東洋のよさをこのおれが示してやる」という気持ちがあったようで、釈宗演に勧められて渡米する。明治38年、日露戦争に僧侶として従軍した釈宗演は帰国後、東慶寺の住職となってアメリカに伝道に行く。大統領に会った時、先にアメリカにわたっていた大拙が通訳。釈宗演が一ついえば大拙が10倍ぐらいにして、内容をかみくだいてしゃべったという。

そのころ一人のアメリカ人女性が釈宗演の話を聞きに来ていた。いろいろなことを細かく聞きそうになったので、釈宗演は大拙に、「お前、この娘に細かいことを話ししてやれ」と押し付けた。大拙の妻となるベアトリスとのそもそもの出会いであった。帰国後、大拙は円覚寺の正伝庵に居を定めた。井上老僧も時々大拙に会いに行っていた。

井上老僧は南足柄市にある円覚寺の末寺・極楽寺の三男。父親も釈宗演の弟子だった。釈宗演が南足柄に来て300人ほどの檀家の人を授戒した。老僧はこのとき、小学校2年生であった。偉い僧侶の話といっても何がなんだかわからなかった。

大正8年の4月のことだった。釈宗演はその年の11月に亡くなった。極楽寺で一週間会っただけだった。老僧は大正10年、東慶寺の徒弟となった。いまとなると、井上老僧以外に円覚寺で釈宗演を知っている人は一人も居なくなった。

東慶寺・松ヶ岡文庫
東慶寺・松ヶ岡文庫

東慶寺裏に禅文化のセンターとして松ヶ岡文庫を建設しようという計画は、井上老僧と大拙の話の中で出てきたものである。

「当時の東慶寺は貧乏だった。私はその金を大学の学費として使ってしまった。責任も感じていたところだった。『鈴木先生、松ヶ岡文庫をまず作らねばいけませんね』というと、『それはいいことだ』とおっしゃる。釈宗演の遺言でもあり、建設資金も残されていた。東慶寺の裏山を提供するというので、そこに文庫をつくることになり、大拙は本を出してくれることになった。開戦の直前で、鎌倉は要塞地帯だったため横須賀鎮守府から『建築まかりならぬ』とのお達し。駄目だといっても他に地所がないのだから、何とかしてくれと食い下がると、『仕方がない。遮蔽すればこの限りにあらず』と折れた。結局大拙は遮断物も作らず、何とか終戦の年に文庫が完成した」

これは資料に残りにくい戦時下の湘南での体験を伝える証言でもあった。

井上老僧は新聞連載の別のテーマでも、いろいろな形で登場した。古都保存法制定のきっかけともなった宅地造成に反対する鎌倉の鶴岡八幡宮裏の御谷(おやつ)騒動のときも、大佛次郎や小林秀雄ら文士とともに老僧が積極的に奔走していた。また古都を米軍の爆撃から守ろうという米ハーバード大学講師ラングドン・ウォーナーの尽力をしのぶ記念碑建立(1987年)の際にも中心人物の一人であった。戦前から戦後にかけて鎌倉文士がカーニバルや文士野球など地域活動に溶け込んで積極的に活動していたのが印象に残るが、老僧の場合は現代に至るまで地域社会の精神的な中枢としての顔であった。


  「三笠」や学徒勤労動員など戦争の痕跡


新聞連載の取材、追加取材をとおして地域限定のテーマながら「湘南発」とでもいえそうな全国的広がりのある「20世紀」が多いことを改めて確認した。

湘南が首都東京の裏庭という地域的特殊性を裏付けているのであろうが、保養地として多くの作家やアーチストたちが集まり、また首都席捲をにらんだ米軍上陸作戦が構築され、住民を震撼させた。湘南の海の輝き、空の明るさは外国人をも魅了した。

そして、20世紀を考える上でのキーワード「戦争の痕跡」に連載は移る。

湘南というイメージを私なりに拡大解釈して、三浦や横須賀まで含めたのだが、戦争を語るときに、横須賀の存在は欠かせない。

記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園) 記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園)
記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園) 記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園)
記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園) 記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園)
記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園) 記念艦 「三笠」 (横須賀市・三笠公園)
記念艦 「三笠」
(横須賀市・三笠公園)

日露戦争の日本海海戦で活躍した戦艦「三笠」のドラマは、まさに20世紀そのものである。一時は行進曲「軍艦」作曲の対象ともなったが、太平洋戦争が終わると軍国の象徴として米軍に接収された。しかし、今は市民の憩いの場として記念公園となり、静かに余生を送っている。

また、横須賀で就航後、回航途中に機雷攻撃を受けて沈没した巨大空母「信濃」の運命は、無謀な戦争の道を選択した日本の運命そのものであった。

さらに小田原や平塚では歴史の証言をこつこつと集めている地域グループにも会うことができた。戦争という負の遺産を語り継いで、二度と繰り返さないという市民の決意の現れである。

学徒勤労動員として、風船爆弾づくりにかかわった女性の証言を聞くことができた。「崩れたしもやけで、手が切れるように痛くなった」(小田原・配島和子さん)という風船の素材づくりの思い出は、強いられた行動の是非は別にして、教育の現場の崩壊が囁かれる現代にあって、 若者の体験の差に、暗然たる思いにさせられた。

また、私たちが企画の実現に当たって考えなければならなかった基本的な問題は、学者や歴史家ではなく、ジャーナリズムが取り組む歴史とは何かという問いかけである。

私たちがよって立ったのは「歴史ジャーナリズム」ともいえる基本的なアプローチであった。革命や戦争など20世紀を象徴する激動のドラマは、もっぱら残された史料を発掘し、それを再構築することによって歴史として定着した。しかし、ここには落とし穴があるように思う。正確な歴史と思っていたものも、ひとつの視点にもとづく「かっこ付きの歴史」であることを認識しなくてはなるまい。最近歴史学者を中心として、歴史の当事者の証言を重視して既存の歴史を再評価しようというオラル・ヒストリーの必要性が、強く指摘されているのも、こうした背景があってのことである。

「湘南20世紀物語」の企画でインタビューした100人近い人々の体験は、戦争を生き抜き、20世紀を走り抜けてきたさまざまな人生を体言している。

東慶寺の井上老僧の人生はまさに20世紀を飄々と生き抜いてきた証言として重要な意味を持っていると思った。限られた行数のレポートではインタビューした「20世紀」を十分に証言できないもどかしさがある。こんな時、消えていく証言の重さに思いを馳せる。


 
 
 
高木規矩郎 (たかぎ きくろう)
1941年三浦市生れ。元読売新聞編集委員、早稲田大学客員教授。
著書『世紀末の中東を読む』講談社(品切)、『ニューヨーク事件簿』現代書館2,100円(5%税込)、『湘南20世紀物語』有隣堂1,680円(5%税込)。(2003年7月22日発売)


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