Web版 有鄰

476平成19年7月10日発行

[座談会]箱根に命を吹き込んだ人びと

神奈川県知事・松沢成文
中央大学名誉教授・金原左門
有隣堂社長・松信 裕

左から、金原左門・松沢成文の両氏と松信 裕

左から、金原左門・松沢成文の両氏と松信 裕

はじめに

湯本温泉と小田原馬車鉄道湯本駅(明治中期)

湯本温泉と小田原馬車鉄道湯本駅(明治中期)
箱根町立郷土資料館蔵

松信神奈川県の西部に位置する箱根は、日本を代表する国際観光リゾートであり、古くから信仰の山として、あるいは東海道の要衝、さらには美しい自然に囲まれた湯治場として、多くの人びとに親しまれてきました。

このたび神奈川県知事の松沢成文さんが、明治初期から大正時代に箱根の近代化に尽くした福住正兄[ふくずみまさえ]、山口仙之助、山口正造と、彼らの精神的支柱となった二宮尊徳と福沢諭吉の5人を紹介しながら、そこに混迷する現代に地方から国を変えていくためのヒントが隠されているという視点から、『破天荒力-箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち』(講談社)を出版されました。

本日は、松沢知事のご著書を中心に、執筆された動機や箱根を舞台に活躍した5人の人物の魅力について、お話を伺いたいと思います。

お相手として、日本近代史をご専攻で、中央大学名誉教授の金原左門先生にご出席いただきました。金原先生は、かつて『神奈川県史』執筆委員を務められ、小田原市史や平塚市史の編さんにも参画していらっしゃいます。ご著書の『福沢諭吉と福住正兄』では、西洋思想を取り入れながら地域の近代化を推進した人びとの姿を紹介していらっしゃいます。

松沢知事が、『破天荒力』を出版されるに至った動機や、知事と箱根とのかかわりなどからお聞かせいただければと思います。

すばらしい自然と歴史、多彩な人物が

松沢私は川崎の生田の生まれです。代々農家で、父は牛も2、30頭飼って酪農もやっていました。そんな忙しい中でしたが、毎年1回か2回は家族旅行に連れて行ってくれた思い出があります。手っ取り早い近場で温泉があって、一泊旅行向きの、今で言うリゾートが箱根でした。ですから箱根には、幼いころから年に1回は行っていました。

当時はまだ東名高速道路もなかったので、246号線で行くんですが、酒匂川を渡るころ、父は文部省唱歌『二宮金次郎』を必ず歌ってくれて、「ここには昔立派な人がいたんだぞ。一生懸命親孝行して働いて、頑張って家の立て直しをやったんだ。おまえたちもよく覚えておきなさい」と教わりました。

箱根では、どういう経緯かはわからないんですが、塔之沢の福住楼が定宿でした。大きなトラディショナルな門構えには子供心ながらいつも感心していました。

塔之沢は箱根湯本のちょっと上ですから、一泊でも2日目は、芦ノ湖のほうまでドライブ旅行を楽しみました。そのときに、宮ノ下を通るたびに、富士屋ホテルの異様ないでたちというか、私は竜宮城だと言っていたんですが、唐破風の付いた建物は、見方によれば、日本の神社仏閣の東照宮のような雰囲気があるし、西洋のお城みたいでもある。すごいところだな、こういうところに泊まるのはさぞかし高いんだろうなと思いながら感激していました。そのころからの箱根とのつき合いなんです。

地域を回るうちに尊徳や福住、福沢と箱根の関係を知る

『破天荒力』・表紙

『破天荒力』講談社

松沢県知事になりましてからは、現場訪問を徹底しようということで、週に1回は必ずどこか、県政の課題のあるところを回るんですが、県西部では箱根や小田原、足柄の地域によく行きます。そこでいろいろと地域にまつわる偉人の話を聞き、また、自分でも興味を持って調べるようになりました。

二宮尊徳のことも、勤労少年で、日本の道徳教育のモデルということは知っていましたが、その後、彼が日本全国の600の村や町、藩を立て直して、最後は幕臣にまでなった。こういう後半生は知りませんでした。また二宮尊徳の高弟で、湯本の福住旅館を再興した福住正兄という人物も知事になるまで知らなかったんです。こんな人がいたのかと驚いて、調べるうちに、今度は福沢諭吉と足柄地域、あるいは箱根との関係を、私も慶應の出身なので非常に興味深く感じました。

さらに、福沢諭吉の慶應義塾に入った山口仙之助という人が、富士屋ホテルを開き、日本に来る外国人の受け皿となるような、リゾートホテルをつくろうとしたことも知った。単なる国際的な温泉地というだけではなくて、箱根には、すばらしい自然と歴史があり、人物がいたんだということがわかってきました。そうやって勉強したことを、1冊の本にまとめてみたいということで、この本の出版につながったんです。

福住正兄――尊徳の教えを活かし、旅館を再興

福住正兄

福住正兄
箱根町立郷土資料館蔵

松信湯本の福住旅館は寛永2年(1625年)に始まる老舗旅館です。そこへ福住正兄が養子に入る。正兄は大住郡片岡村、今の平塚市の生まれですね。

金原正兄は片岡村の大沢家が在所です。

大沢家は、一説によると甲斐の武田氏の流れをくむという片岡村の名主で、当時、片岡村では約70町歩ぐらいの田畑があったんです。そのうちの45%ほどを大沢家が所有していて、天保の飢饉のときには60軒近くあった。そのうち、飢饉でつぶれた家は8軒で、あとは小作まで全部救済できたんです。正兄の父の大沢市左衛門がいろいろ仕切って飢饉を乗り越えた。そういうなかで正兄は育っているわけで、そのとき彼は10代の前半ですから肌で知っていた。

松沢今で言えば、豪農ですね。

金原豪農です。正兄がまだ政吉といっていたころ、二宮尊徳のところに世話になっていた。尊徳が桜町から東郷陣屋に移住する5年ほどですね。そこに大沢家の長男が、養子先があるということで迎えに行きます。実は養子先は2つあって、1つは小田原の辻村家、もう1つが福住なんです。辻村は辻村甚八のうちだろうと思いますが、明治維新のときに20万両、今では換算できないぐらいの財産があった。そこへ行くか、それとも没落してさんざんな福住か、どちらかを選べと言われて、正兄は福住を選んだ。

これが実は大変重要なんです。家も再興、村も再興、知事が本に書いておられる「修身斉家治国平天下[しゅうしんせいかちこくへいてんか]」ですよ。それから箱根の14か村の立て直しに成功したといういきさつがあるわけです。

松沢正兄は、わざと荒れたところに入って、報徳仕法を実験したかったんでしょうね。野心でしょうね。

金原知事は目のつけどころがいい。私の場合は、『神奈川県史』から入って行きましたから、頭でっかちなんですよ。知事は、幼いころの歴史経験を持っていらっしゃるから体験的なんですね。

福住家の調査で福沢関係の資料がぞろぞろ

金原私は『神奈川県史』の仕事で、昭和44年2月に、経済関係を担当された丹羽邦男さんと2人で福住家に調査に行ったんです。

福住正兄が二宮尊徳の四高弟の1人なので福住へ調査に行ったのですが、目指すものはなかった。ところが、福沢諭吉関係のものがぞろぞろ出てくるじゃないですか。例えば「団団珍聞[まるまるちんぶん]」のような自由民権関係の雑誌が出てくる。報徳仕法と福沢は一体どういう関係なのかと疑問を持ったまま帰ってきて、それから20年間ぐらい疑問に思いながらそのままにしていた。知事は、慶應義塾を出られたということもあるんでしょうが、正兄に目をつけたのはすごいですね。

松沢福住正兄を調べているうちに、すごい人だなとびっくりしました。二宮尊徳の高弟で仕法も学んで、下野[しもつけ]国(栃木県)烏山藩の改革に尊徳が出かけていったときには鞄持ちでくっついていき、尊徳から聞いた話をまとめたのが『二宮翁夜話』です。

福沢は湯治に来て福住正兄と知り合う

福住旅館 金泉楼(左)と萬翠楼(明治10年代)

福住旅館 金泉楼(左)と萬翠楼(明治10年代)
横浜開港資料館蔵

金原知事は福住正兄と福沢諭吉を結びつけたわけでしょう。私は、2人の交点はどこにあったのかをお聞きしたいんですよ。

松沢福沢は一度すごい病気をしたらしいですね。その養生のためもあって、箱根に好んで行くようになって、その中で福住正兄と知り合ったんでしょうね。また、意気投合したんだと思います。

金原その大病は発疹チフスなんですよ。明治3年で、病後、熱海へ療養に行く。その帰りに箱根山地の旧道を歩いてきて、湯本に寄って行ったという話があるんです。塔之沢の福住楼に2週間ぐらいいたようで、そのときが最初の出会いじゃないか。

松沢塔之沢のほうが温泉のお湯が熱かったので、福沢は好んでいたんですね。

金原そうです。そのときに周りには福住正兄の令名は届いている。福住旅館の萬翠楼[ばんすいろう]は木戸孝允が名前をつけたと言われており、多くの政治家や文人が泊まっています。

松沢大久保利通なども来ていた。

金原そうです。ですから福沢諭吉が正兄を訪ねるのも当たり前なんですね。

松沢それだけの名旅館だったんですね。

金原そういう魅力がすでにあったんでしょう。村おこしまでやって、実績がありますしね。それから付き合いが深まり、知事は福住正兄と諭吉の信頼度は、刎頸の仲だと言われてますが、それほどお互いに信頼し合っていた。

福沢と柏木県令は長崎留学時代からの親友

金原もう1人忘れてはならない人物が、足柄県令の柏木忠俊です。小田原、箱根あたりが足柄県だった時期があります。明治4年11月から明治9年4月までの4年5か月です。その前に、わずか3か月ですが小田原県もありました。

私はこの柏木県令を開明知事と言っているんです。進取な気性の福住正兄、福沢諭吉は経済指南役と銘打って、それは間違ってはいないと思っているんですが、やはり柏木の存在なくしては福沢と正兄の関係もないと思う。福沢と柏木は親友なんですよ。

松沢柏木県令はもともとは武士ですか。

金原柏木家は代々、伊豆韮山で江川代官邸の元締手代(役人総代)を勤めていました。彼が14歳のとき、あまり聡明なので、江川太郎左衛門(英龍)が抜擢して手代にしたんです。それで、江川が幕府の海防掛になったときには、彼を連れて三浦半島から江戸湾の一帯を調査しています。伊豆七島付近まで行ったこともあります。嘉永6年にペリーが来航しますが、その翌年、江川は彼ともうふたりを長崎に短期留学させる。そのとき福沢諭吉も長崎に留学していて、そこで彼らは知り合ったんじゃないかと推定しています。

松沢福沢は箱根の山の道があまりにもひどいので腹を立てて、柏木県令に、こんなんじゃだめだと手紙を出していますね。そういう親交があったんでしょうか。箱根の道路の開削はもちろん民の力でやっていったわけだけど、柏木県令は多分さまざまなサポートをしているんでしょうね。

金原していますね。柏木も福沢諭吉のアドバイスをよく聞いているみたいです。それから福住正兄をものすごく重用している。これが非常に大きいと思います。

松沢箱根の開発が官に頼らず民だけで進んだというのは、ちょっと違うところがあるんですね。

金原そうですね。ただ、当時の足柄県に、今の神奈川県のようにお金があったかどうか。

松沢今の神奈川県も同じようにないんですが、できたばかりですからね。

福沢の実学と福住の実利実行論が交点に

福沢諭吉

福沢諭吉
慶応義塾福澤研究センター蔵

松沢私は、福住正兄の持っている二宮尊徳譲りの報徳仕法の実学の近代的な考え方と、福沢が西洋で学んだ啓蒙思想や、日本の近代政府をつくるための民の重要性といった問題意識が2人の中で一致したんだと思うんです。だから福沢は福住の思想的なバックボーンである報徳仕法について、当然知っていたと思うんですが、それについてどう考えていたのか、いろいろ調べたんですが見つからなかった。西洋の啓蒙思想と相容れない部分があったので福沢は避けたのかな。そこがわからないんですよ。

金原福沢と福住の交点を探ってみると、福沢の実学と福住正兄の実利実行論じゃないかと思うんです。

『学問のすゝめ』の初編の中で福沢諭吉は、実学は和歌を詠んだり難しい漢字を習うことではなくて、生活の中の学問だと言っています。そこが生活人としての福住の報徳との交点ではないか。至誠、勤勉、分度、推譲、全部そうですね。特に分度、推譲は、福沢諭吉が非常に好きなところなんです。知事も好きだと思いますが。(笑)

松沢報徳仕法は、封建社会をものすごい勢いで改革する実学だった。ただ、福沢は明治政府に近代化の必要性を説かなければいけなかった。欧米で見てきた『西洋事情』の思想で日本を西洋近代化させなくてはならなかったわけです。報徳仕法を評価したくても、立場上できなかったんじゃないかと思うんですね。

近代国家の建設に役立った報徳仕法の普及

二宮尊徳

二宮尊徳
報徳博物館蔵

松沢封建社会を近代国家に変えていくとき、ヨーロッパではプロテスタンティズムみたいな宗教革命があり、労働は神に背いた罰、苦役という古い思想から、新しい価値を生み出して利益を上げることは、正当な行いであると考え方ががらっと変わって、近代化が進みます。尊徳の報徳仕法もまさにそうだったと思うんです。士農工商の階級社会では、奴隷のように働いて年貢を納めるのが農民だったけれども、逆にそのやり方で余った分を、自分にも、他人にも回せる。自譲と他譲ですね。推譲の精神で富をこしらえて、みんなが幸せになれると説いている。

西洋でも、東洋でも、封建社会から近代政府をつくり、経済成長をさせていくうえでは大きな思想的なブレークスルーがあった。明治維新が成功したのは、教育レベルが高く、寺子屋があちこちにあって、農民でも、裕福な人たちは読み書きそろばんぐらいはできたからだという仮定がありますが、私は逆に、江戸末期に報徳仕法が関東地方から東海にかけて広まっていたことがものすごく役立ったのではないかと思うんです。

金原私も『福沢諭吉と福住正兄』のなかでプロテスタンティズムという言葉を使いました。福住正兄の主著『富国捷径』などは、むしろアダム・スミスの『富国論』と符牒があうような気がします。知事は特にカルヴァン派を評価していますね。

松沢宗教改革が近代民主国家の基礎だというのは、ヨーロッパでは定説です。報徳仕法もある意味では江戸末期においての宗教革命みたいなものだったんじゃないでしょうか。

尊徳の高弟の中で福住は時代を先取りしていた

金原元神奈川県副知事の佐々井典比古さんが報徳博物館の理事長をなさって、今は90歳になられる。佐々井先生の尊徳の四高弟の順序立ては、トップは富田高慶、次が斎藤高行です。3番目が福住正兄で、4番目が岡田良一郎なんです。

松沢富田は尊徳の伝記の『報徳記』を書いて非常に評価されている。正兄は尊徳のところを離れて福住に行きましたが、その後の業績を見たら、正兄のほうが全然上ですよ。そう思いませんか。

金原私はそう思います。

松沢箱根の開発は正兄がいなければ、全くあり得なかったですものね。

金原福住正兄は福沢と会って『世界国尽』なんかも読んでいるんじゃないか。もちろん『西洋事情』も読んでいると思う。正兄はやっぱり時代を先取りしていますね。

松沢福住正兄は箱根の道路の開削だけじゃなく、その後に、国府津から湯本までの馬車鉄道や電気鉄道もつくっています。道路では、通行人から料金を回収するという有料道路制度を発案している。1つの事業をおこすための金の動かし方、資本の投資の仕方も新しいものをこしらえていますからね。

「七湯方角略図」 安藤広重

「七湯方角略図」 安藤広重
箱根町立郷土資料館蔵

これは福沢諭吉の影響もあるのかもしれませんね。私も福住正兄は『学問のすゝめ』どころではなくて、福沢の著書は『西洋事情』も絶対読んでいて、恐らく海外の情報も晩年にはかなり持っていたと思うんです。

松信養子に入った福住にたまたま浮世絵師の広重が来ると、正兄は、すぐに宣伝のための浮世絵をつくらせたりしている。発想が商業的というか、実利的なんでしょうかね。

松沢ビジネスセンスを持っていますね。

山口仙之助――アメリカから帰国後、富士屋ホテルを開業

山口仙之助

山口仙之助
富士屋ホテル提供

金原知事はこの本で、山口仙之助も前面に押し出していますね。

松信山口仙之助は橘樹郡の生まれで、横浜の高島町にあった遊廓の神風楼の養子になります。20歳でアメリカに行き、3年ほど後の明治7年に帰ってくる。そのとき牛を7頭買ってくるんです。

松沢その牛が駒場勧業寮という、今の東京大学農学部の前身に相当な金額で売った。それで借金返しか、事業を始めるのかと思ったら、慶應義塾に入って自分に投資したという展開で書いたんです。

金原知事は、牛を連れてくることに何の悩みもなかったと書かれているような印象があるんですが、あの牛を探すのが大変だったんです。それから、連れてきた牛がどこへいったのかというところが推論で割合よく書かれているようですが……。

松沢その後、渋沢栄一と益田孝が、仙石原に牧場を開く。その牧場に仙之助が連れてきた牛がいたらおもしろかったねと。仮説の仮説で冗談っぽく書いたんですが、牛を連れてくるという発想がユニークですね。外国人が入ってくれば、牛乳を飲む文化なども予想したんでしょうね。

山口仙之助も調べればまだいろいろなことが出てくるとは思います。慶應義塾で福沢は「こいつはおもしろい。俺と同じように海外まで見てきていて、何かやれそうだ」と見初めたんでしょう。

欧米には余暇をリゾートで過ごす文化がある。居留地に外国人がたくさん入ってきたら、そういうところもつくっておく必要がある。自分でも投宿していて、恐らく福沢は箱根が好きだったと思うんです。それで山口仙之助に「おまえ、箱根でホテルをやってみないか」と言ったんじゃないか。仮説ですけどね。(笑)そうだったらおもしろいじゃないですか。

金原そのころになると、福沢にもゆとりが出てきて、この人物は実業界に向けたらおもしろい人間になるんじゃないかなという発想も出てきたと思うんです。それまでは多分、教育問題ばかりに頭が行っていて、よその領域の仕事の割り振りはできなかったんじゃないか。余裕が出てきたなという感じは、明治10年前後なんですね。

松沢国を富ませていくのは、やっぱり実業家が事業をおこさなければだめですね。

金原富国なんですよ。

松沢民の力が重要だということですね。

明治11年に外国人専用のホテルを開業

金原しかし、山口仙之助が、当時、有名だけど、宮ノ下の不便なところにあった藤屋という旅館を買ったのはなぜですかね。

松沢外国人は、日本に来たら富士山を見たいというのが、一番の観光的な欲望なんですね。本当は、箱根のもう少し高台にある浅間山に、富士山が見える場所があったらしいんです。そのあたりにホテルをつくれば、富士山も見られて、箱根湯本の栄えている温泉地にも近いし、小田原にも近い。

富士屋ホテル本館(明治中期)

富士屋ホテル本館(明治中期)
箱根町立郷土資料館蔵

ところが山の上ですから、建築資材を運び上げるだけでも大変だということであきらめて、次善の策として藤屋という旅館を買った。藤屋の場所からは富士山は見えないんです。ちょっと登って、仙石原から乙女峠のほうまで行けば、富士山が絶景で見える。日帰りがようやくできるところですね。それで買ったんじゃないでしょうか。名前も「藤」を「富士」に改め、明治11年に開業する。

彼は、あくまでも外国人専門のホテルということにこだわるんですね。道路をはさんで奈良屋と競争になっても、最後は、うちは外国人専用でやらせてくれ。おたくは日本人でやってほしい。そのかわり1人につき幾らお金を払うからという契約まで結んで、外国人客を専門にすることを貫く。

その裏には、日本がこれから近代国家として成長していくには、外貨を獲得しなければだめだという考え方があったようなんです。それは国策である。それに私は協力したいんだ。だから、外国人専用のホテルを経営して外貨を稼ぐ。それが必ず日本の国富につながるんだと考えていたようです。

外国人は日本のバーデンバーデンと箱根を形容

松信当時の箱根ですが、編集部が調べたところ、幕末から明治初めには、箱根は日本のバーデン・バーデンといわれて、外国人にはかなり有名だったそうですね。

金原それは旅行した外国人が書いているんですか。

松信ベアトの写真アルバムの解説などにもあります。富士山はもちろん箱根とか熱海へ外国人は行きたい。ところが条約で、開港場、つまり横浜から十里四方という遊歩区域規定が決められていて、旅券なしでは、出かけられない。けれども、温泉に行くと言うと温泉行の免状を県が交付するようになるんです。

松沢当時、外国人はどのくらい箱根に行っているんでしょうね。

松信実際に行ったかどうかはわかりませんが、外務省へ報告されている免状の発行枚数が、明治10年の6月から8月で200人、富士屋ホテルが開業した明治11年も同じくらいあった。ひと夏でそのぐらいですから、富士屋ホテルも今ほど大きくはないでしょうから、経営的には成り立っていたと思います。

松沢驚くのは、富士屋ホテルは、山口仙之助が建ててから5年後の明治16年に大火で全焼している。そして莫大な借金が残されたわけですが、仙之助は横浜に戻って養父からお金を借り、翌年には復興させた。この根性はすごいですね。普通だったら、この場所はやめてほかでやってみるかという発想もあるでしょう。宮ノ下に対する、何か独特の思い入れがあったんだと思うんです。

小田原から箱根への道路を開削

道路開削工事

道路開削工事
『破天荒力』から

松沢東海道線が明治20年に国府津駅まで敷設され、そこから先は、御殿場経由になったでしょう。あれは本当は、江戸時代の歩く東海道のように小田原、箱根を通したかったんです。国道一号線のところですが、明治政府は、あんな急勾配の山に鉄道なんか引けないし、トンネルを掘る技術もないので、結局、御殿場回りにしてしまった。それは小田原や箱根の人にとってはすごく辛かったわけです。

そこで、福住正兄も、この後に出てくる山口正造もそうですが、東京や横浜から外国人が来たとき、国府津から箱根にどうアプローチするか、近代的な交通手段を考えないと、箱根は生きていけないわけです。

この逆境が新しいアイデアを生み出した。それは先ほど言いました馬車鉄道であり、電気鉄道であり、最後は山口正造の時代のタクシーでありバスなんですね。

金原そのとおりだと思いますね。福住正兄のやっている『函東会報告誌』という雑誌がありまして、小田原の実業界を後楯にしていますが、それによると、正兄の影響を受けた商人たちも切歯扼腕[せっしゃくわん]しているんです。

東海道線が国府津駅から松田を通って御殿場に向かうと、小田原は火が消えたようになってしまう。実際、芸者たちも山北に移動します。『横浜貿易新報』では山北が足柄上郡のロンドンと言われているんです。料理屋が20軒もあって、山北の駅には、800人から900人駅員がいた。

山口仙之助と福住は共通点はあるが接点は不明

塔ノ沢—宮ノ下間の新道

塔ノ沢—宮ノ下間の新道
嶋写真店蔵

松沢もう一つ接点を見出せなかったのは、山口仙之助と福住正兄なんです。箱根の道路開削は、明治8年から小田原から湯本、塔之沢あたりまでは正兄が絡んでやっています。その先の宮ノ下までは明治19年から山口仙之助がリーダーシップをとった。宮ノ下から芦ノ湖へは芦之湯の松坂万右衛門がやりますが、福住と山口の2人は、道路開削という同じ事業を手がけたわけですし、育ちは違っても同じ目的意識で箱根を開発しようとする同志だったと思うんです。ただ親交の記録はあまり残っていないんですね。

金原箱根駅伝の5区、6区の道ですね。正兄と仙之助は共通点はあるんですが、接点はわからない。例えば、明治10年に正兄が今の萬翠楼福住を擬洋風建築に直しているし、仙之助がその翌年に富士屋ホテルを開設している。

松沢擬洋風は、今残っている金泉楼・萬翠楼ですね。山口仙之助は、本館の建て直しをやっているんですね。

金原それがやっぱり擬洋風建築なんです。

松信福住正兄は明治9年に大工の棟梁を連れて横浜、東京に行く。ブリジェンスの設計した横浜駅や築地ホテルを見て、木骨で外壁に石を使って建物をつくりますが、福住旅館は初代の横浜駅に非常に似ている。現存する擬洋風建築として、国指定の重要文化財になっていますね。

山口正造――自動車輸送や観光開発に尽力

松信タクシーを国府津から箱根に引っ張ってきたり、バスを走らせたのは、富士屋ホテルの2代目の山口正造です。

松沢山口正造がまたおもしろいんです。仙之助には長男もいたんですが、彼は文化人で、ホテル経営を野心的にやってくれそうもない。そこで、娘に経営センスのすぐれた婿を取ることを考える。昔の会社はそういうのが多かったですよね。

金谷正造という、日光金谷ホテルの次男が、負けん気の強い男で、東京に出てきて立教中学に入ります。病気で1年落第した人ですが1年下の人間と机を並べるのはいやだと言ってアメリカに行っちゃうんです。アメリカでも苦労したんですが、おもしろいのが、サンフランシスコにいると日本の船も入ってきて、日本が恋しくなる。それで、日本人が少ないところに行こうと、今度はロンドンでいろんなことをやる。自分は柔道家でもないのに柔道教室をつくり、それで大当たりして、召使を何人も使うような豪邸に住めるほどの大成功をしたわけです。いい度胸ですね。

一方、生家の金谷ホテルでは、外国人客が忘れていった雑誌に、自分の息子が柔道着を着て出ている。ロンドンにいるのがわかって呼び戻される。彼は一時帰国のつもりだったんですが、帰ってきたら山口仙之助の娘との結婚話が仕組まれていたんです。

メニューの裏を利用し、日本文化を外国人に紹介

国府津駅前の富士屋自動車

国府津駅前の富士屋自動車
横浜開港資料館蔵

松沢正造は富士屋ホテルに入りますが、彼は仙之助とちょっと似たようなところがあったようで、かなりぶつかり合ったと思うんですが、2人とも実際に海外に行って、西洋の事情をよく勉強してきている。外国人ビジネスで今何が必要か、感覚的にわかるんですね。ビジネスセンスは正造のほうが、先代の仙之助よりも上だったかもしれないですよ。

彼はまず自動車をやるんですね。富士屋ホテルたるものが、外国人客を輸送する交通手段もない。馬車では馬が具合が悪くなったりして、お客さんが電車に遅れそうになる。これではだめだといって、国府津と宮ノ下のホテルを結ぶハイヤー会社「富士屋自働車」をつくります。さらに、観光開発をするには、もっと大量の乗客を輸送しなければいけないといって、国府津駅から宮ノ下、さらに箱根町の間にバスを運行させるんです。

それから私が驚いたのは、外国人専用ホテルだからといってむやみに欧米化するのではなくて、むしろ日本のよさを海外に宣伝することが必要であると、『We Japanese』という、日本の文化を詳しく説明した文章を、富士屋ホテルのメニューの裏に印刷したんです。

毎月のように話題が変わって、バックナンバーをまとめて本にしたものが3巻も出ました。私も読みましたが、すばらしい本です。日本の礼儀作法や歴史、文化、風習を外国人にわかりやすく書いている。富士屋ホテルの事業を利用して、さまざまな文化的な発信もしているんです。

富士屋ホテルは3代まで続きます。戦後は外国人用に進駐軍に接収されまして、昭和29年に接収が解除されて戻され、その後、国際興業に買収されます。

富士屋ホテルの歴史を見ていますと、日本のホテル業界をつくってきたのは、やっぱり山口家だという感じがしますね。そういう立派なホテルがあったということも箱根のすばらしい魅力ですね。

私を薄くし、公を厚くする「サムライ・スピリッツ」

金原この本で、松沢知事は「破天荒力」は「神奈川力」とおっしゃっていますね。これはもちろん知事の提案なんでしょう?

松沢「力」という言葉を使ってみたかったんです。破天荒に「力」をつけようと。

金原破天荒という言葉は、今はあまり使われないけれど、魅力ある言葉ですね。研究者とか学者の発想では出てこない言葉ですね。残念ながら。(笑)

松沢破天荒って、破壊者みたいにちょっとネガティブに使われてしまうこともあるのでね。

金原ポジティブに言うなら、誰にもできないことを成し遂げるという積極的な意味がある。しかも「力」をつけて、そのまた解釈が「神奈川力」。これがミソだと思うんです。「サムライ・スピリッツ」という表現や、サブタイトルの「奇妙人」も、おもしろいですね。

松沢「武士道」はわざと使わなかったんです。新渡戸稲造のイメージが強過ぎるので。「サムライ・スピリッツ」は”私”を薄く”公”を厚くする、日本の武士が規範としていた心がけです。「サムライ・スピリッツ」を箱根の地域で見事に発揮してきたすばらしい人たちがいるということを表現したかったんです。「奇妙人」は司馬遼太郎さんが使っていた言葉です。本に登場した5人とも、普通では考えられないことを平気でやってしまう「奇妙人」ではありますね。

民の力での新しい地域おこし

明治中期の宮ノ下温泉

明治中期の宮ノ下温泉
横浜開港資料館蔵

松沢もう一つこの本で言いたかったのは、地域の重要な課題を自分たちで考えて、自分たちで取り組む。決してお上を頼らない。当時は、そのお上自体ができたばかりの明治政府で、今のように補助金や交付税で事業をサポートしてもらう仕組みがないから頼れない。柏木県令の話は、温かい理解のモラル・サポートだったと思いますが、彼らは箱根という地域の魅力を有効に使って、新しい地域おこしをするという大事業を、民の力、それも「サムライ・スピリッツ」で成し遂げていった。そこを表現したかったんです。

私は選挙のときのマニフェストにも、「神奈川力」を使っているんです。神奈川県には横浜のような大都会もあれば、鎌倉のような古都もあれば、小田原のような城下町、丹沢の山や湘南の海、三浦半島といった自然環境もある。小さな県ですが、このすべてが整ってそろっている。それを生かして、人材力も、産業力もありますから、神奈川の力をみんなでつくろうというのが「神奈川力」です。

私が考える「神奈川力」には二つの要素があって、「先進力」プラス「協働力」なんです。誰もやらないことに日本で一番先に挑戦して、日本自体を変えていく。神奈川はずうっとそれをやってきました。明治初期はもちろん、最近だって、新しい政治や社会の動きも、神奈川から出るものが多いんです。

そして、一度目標ができたら、それを達成するために行政と民間が協働して、新しい価値や公共サービスを生み出す。新しい街を創造する。

この二つの要素をさらにさらに伸ばしていけば、「神奈川力」はどんどん強くなっていくと思う。この本の5人がやってきた箱根の事業は、まさしくそれなんです。

金原箱根を舞台に5人衆を登場させ、太古からの自然を維持しながら地域開発を進めたローカリズムは、全国的にも今日のモデルとして位置づけることができますね。

松沢すばらしい偉人たちの歴史を知らない人がたくさんいます。実は私も、勉強して初めて知ることがたくさんありました。私の脚色も少しありますが、多くの人たちにこの本を読んでもらえれば、ますます神奈川県の魅力も増す。箱根に行ったときに、温泉や自然だけでなく文化や歴史にも興味を持ってもらえるんじゃないかという思いで書きました。

神奈川県には開明的な知事が多いという歴史が

金原明治初年の神奈川県知事を見ると、マリア・ルス号事件の大江卓や、キリスト教解禁の陸奥宗光、中島信行など、柏木忠俊だけでなく、開明的な知事が何人もいました。その後、現代にいたる歴代知事のなかにもおります。が、幕末・明治維新のころの小田原藩の大久保忠礼も偉かった。有能な青年を福沢塾へ送り込んでいるんです。

松沢箱根・小田原に諭吉は相当結びつきがあったんでしょうね。江戸時代は、農家でも指導的な役割をしていた中から上の農家では、『四書五経』などは、論語も含めて全部やっていたんですかね。

金原やっていました。福住正兄は15歳ぐらいで、素読ですが、全部マスターしていましたね。

松沢やはり教育レベルはかなり高かったんですね。

金原松沢知事も開明的知事として、ますます土台固めをやっていただければね。

松沢ありがとうございます。昔から歴史物を読むのが好きで、興味はすごくあるんです。歴史教育はたいへん大事だと思います。教育基本法も改正して、今の日本で愛国心や郷土愛を持つべきだというのなら、その前に歴史を教えなければだめです。歴史を軽んじていて、愛国心や郷土愛が生まれるはずもありません。まだあまり知られていない神奈川の歴史的な事柄、先輩たちの偉業について、もっと知ってもらうことが大事だと思います。神奈川県は歴史が本当におもしろいですね。

松信楽しいお話をありがとうございました。

松沢成文(まつざわ しげふみ)

1958年 川崎生れ。
著書 『インベスト神奈川』 日刊工業新聞社 1,400円+税、『現地現場主義』 ぎょうせい 1,524円+税ほか。

金原左門(きんばら さもん)

1931年 静岡県生れ。
著書 『日本近代のサブ・リーダー』 日本経済評論社 4,500円+税、『福沢諭吉と福住正兄』 吉川弘文館 1,700円+税ほか。

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