Web版 有鄰

476平成19年7月10日発行

日本のビール産業と横浜 – 2面

丹治雄一

今年もビールの美味しい季節が近づいてきた。横浜で初めてビール醸造が行われてからわずか140年あまりで、ビールは日本で最もポピュラーなアルコール飲料へと成長した。日本ビール産業発祥の地である横浜で、明治時代に製造されていた3つのビールを紹介しつつ、日本のビール産業の歩みをたどってみたい。

コープランドのビール

山手の外国人居留地で醸造

ウィリアム・コープランドの墓

ウィリアム・コープランドの墓

1870(明治3)年ごろ、横浜・山手の外国人居留地123番にウィリアム・コープランドが興した、スプリング・バレー・ブルワリーの名前をご存知の方は多いのではないか。隣接する天沼[あまぬま]の豊富な湧水を使用して醸造されたビールは「天沼ビヤザケ」とも称されたと言われる。コープランドはこれまで日本で最初にビール醸造を行った人物とされてきた。

しかし近年、このコープランドに先んじて、1869年8月に、ローゼンフェルトが山手46番に開業した日本で最初のビール醸造所、ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーの存在が徐々に明らかになってきた。

コープランドは「初めて」の人ではなくなったわけだが、ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーは、わずか5年ほどで消滅してしまったのに対して、コープランドの事業は比較的長期に存続し、また後述するように、コープランドの醸造所の敷地では、コープランドの廃業後もビール醸造が継続され、麒麟麦酒株式会社へとつながっていったこと、さらに、コープランドは自身の持つビール醸造の知識と技術を、ビール事業への参入を目指す多くの日本人へ積極的に伝授したことなどから、日本のビール産業の発展に大きな役割を果たしたという評価が変わることはあるまい。

ドイツ風・イギリス風 両方のビールを醸造

スプリング・バレー・ブルワリーのラベルが貼られた陶製のビール瓶

スプリング・バレー・ブルワリーのラベルが貼られた陶製のビール瓶
明治時代前期
サッポロビール蔵

コープランドが醸造したビールとはどういうものだったのだろうか。当時用いられていた陶製のビール瓶に貼られたスプリング・バレーのラベル(ビール瓶に貼られた状態のままで現存するスプリング・バレーのラベルは、おそらくこれが唯一のものであろう)には「WINTER BREWED LAGER BEER」とある。これは、清酒で言うところの「寒造り」の製法によって造られた下面発酵のビールであることを示しているのである。

ビールには大きく分けて上面発酵ビールと下面発酵ビールの2種類がある。前者は発酵を終えたビール酵母が表面に浮かび上がってくるもので、比較的高温で発酵し、短期間で熟成されるものを指し、イギリス風のエール・スタウトなどのビールがこれに当たる。

一方後者は、発酵を終えた酵母が底に沈降する特徴を持ち、低温下で発酵が進行し、熟成までに長期間の貯蔵を要するビールで、ドイツ風のラガー・ボックなどがこれに当たる。

低温下で発酵が行われる下面発酵のビールの場合は、1870年代に入って発明された冷凍機を使用しない限り通年醸造は難しく、したがって、冷凍機を持たないコープランドもラガービールの醸造は、冬季に限定せざるを得なかったということであろう。下面発酵のビールを造ることができない夏季には、ペールエールなどのイギリス風の上面発酵ビールを造っていたようで、スプリング・バレーではドイツ風・イギリス風両方のビールを醸造していたのである。

明治初期の日本ビール産業の草創期は、輸入ビールと中小規模の国産ビール、そしてイギリス風やドイツ風のビールが、まだまだ狭い市場でひしめき合っている時代であった。

「麒麟ビール」

ジャパン・ブルワリーが明治屋から発売

コープランドのスプリング・バレー・ブルワリーは共同経営者との裁判沙汰やそれに伴う販売不振などにより1884(明治17)年に経営破綻し、工場の敷地と設備は競売にかけられることとなった。この競売で落札したスプリング・バレーの敷地を引き継いで、日本在留の外国人により85年に資本金5万香港ドルで設立された香港法人が、ジャパン・ブルワリー・コンパニーである。同社は、磯野計[はかる]が経営する明治屋を日本国内販売の総代理店とすると、その明治屋は88年5月に「麒麟ビール」を発売した。

全資産を麒麟麦酒株式会社に譲渡

なお、ジャパン・ブルワリーは、1907(明治40)年2月に明治屋や三菱の岩崎家などが出資して、資本金250万円で設立された麒麟麦酒株式会社に全資産を譲渡する。以後、同社は関東大震災後の1926(大正15)年に神奈川県橘樹郡生麦町(現横浜市鶴見区)へ移転するまで山手のスプリング・バレーの跡地で「麒麟ビール」の生産を行うこととなる。余談であるが、今年は、麒麟麦酒(現キリンビール株式会社)が設立されてからちょうど100年目に当たる。

麒麟麦酒設立当時の横浜山手工場

麒麟麦酒設立当時の横浜山手工場
キリンビール蔵

麒麟ビールを生産するジャパン・ブルワリーは、株式会社形態を採用して資金を幅広く募集し、その充実した資本力を背景として、前述した冷凍機のような最新鋭の機械設備の導入に積極的であり、ドイツ風の本格的下面発酵ビールの大量生産を目指していた。

ジャパン・ブルワリーが設立された当時は、日本における産業革命の開始期にあたり、ビール業界でも同社に続いて、札幌麦酒会社(1887年設立、「札幌ビール」、76年設立の開拓使麦酒醸造所の後身)・日本麦酒醸造会社(87年設立、「恵比寿ビール」)・大阪麦酒会社(89年設立、「旭ビール」)というように、ジャパン・ブルワリーと同様の志向性を持つ会社の設立が相次いでいたのである。

明治中期は日本ビール産業の成立期であり、ドイツ風ビールの大量生産を目指す企業が設立されたことから、輸入ビールから国産ビールへの代替化とドイツ風ビール優勢の状況が現出した時代と位置づけることができよう。

「東京ビール」

国産ビールの老舗が保土ヶ谷で製造

コープランドや麒麟ビールに比べて知名度で劣るが、日本ビール産業史を語る上で欠くことができないのが東京ビールである。

東京ビールを造っていた東京麦酒株式会社の前身は1879(明治12)年に金沢三右衛門によって設立された醗酵社である。醸造所は、創業当初、東京の芝区桜田本郷町(現港区西新橋)に置かれ、翌80年に麹町区(現千代田区)紀尾井町に移転している。81年から発売された「桜田ビール」は、「浅田ビール」(85年発売、浅田甚右衛門醸造)と並んで、品質と規模の両面で明治10年代後半から20年代前半の国産ビールを代表する銘柄であった。

「桜田ビール」がドイツ風へと転換

醗酵社は、90年には社名を桜田麦酒会社とし、さらに96年に東京麦酒株式会社へと改称し、翌97年神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町(現横浜市保土ヶ谷区)へと移転し、ブランドも「桜田」から98年には鶏マークの「東京」へと改めるのである。

ちなみに、東京麦酒は1900(明治33)年からビール瓶の打栓方法として、従来のコルク栓に替えて日本で初めて王冠栓を使用している。

大日本麦酒買収後の旧東京麦酒工場

大日本麦酒買収後の旧東京麦酒工場
サッポロビール蔵

保土ヶ谷移転後は資金繰りに苦しみ、06年に東京麦酒新株式会社と社名を改めるが、翌年には大日本麦酒株式会社(前述の札幌・日本・大阪の3社が合併して設立)に買収される。保土ヶ谷の工場は、清涼飲料水工場からビール瓶などを製造する製瓶工場へと転換された。現在はかつての工場付近に「ビール坂」の名を留めるのみである。

「桜田ビール」は、上面発酵のイギリス風のビールであった。保土ヶ谷への移転前にもドイツ風ビール隆盛への対応策として、味をドイツ風に近づける改良を加えたようであるが、ドイツから機械設備を輸入して本格的な下面発酵ビールの生産へと転換したのは、保土ヶ谷へ移転して、「東京ビール」を発売した時である。

明治中期に始まったドイツ風ビールへのシフトは、国産ビールの老舗であった「桜田ビール」がドイツ風へと転換した明治後期には決定的となり、また、東京麦酒が大日本麦酒に買収されたことにも象徴されるように業界の寡占化が一層進展して、日本ビール産業はドイツ風ビールを生産する少数の大企業により産業としての体制を確立させるのである。

その他……

「カスケードビール」など

横浜ゆかりのビールとしては、この3つの他に、大正期にアメリカの禁酒法施行により撤去されたビール醸造設備を輸入して設立された日英醸造株式会社(1919年設立、工場建物が横浜市鶴見区内に現存)の「カスケードビール」などもあり、ここで紹介したものがすべてではない。今後も「ビールと横浜」というテーマをじっくりと味わっていくつもりである。

丹治雄一氏
丹治雄一 (たんじ ゆういち)

1973年新潟県生れ。
神奈川県立歴史博物館学芸員。

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