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475平成19年6月10日発行

[座談会]横浜港ものがたり−開港から現在まで−

国土交通省中央建設工事紛争審査会委員・田中祥夫
横浜市港湾局港湾整備部技術担当部長・宮浦修司
横浜都市発展記念館調査研究員・青木祐介

左から、宮浦修司・田中祥夫・青木祐介の各氏

左から、宮浦修司・田中祥夫・青木祐介の各氏

はじめに

横浜港大桟橋国際客船ターミナル

横浜港大桟橋国際客船ターミナル
横浜市港湾局提供

編集部江戸末期の安政6年(1859年)、東海道筋から離れた辺鄙な横浜に、開港場が設けられました。そして現在の大桟橋があるあたりに小さな波止場がつくられ、諸外国との交易が始まりました。横浜港はこの波止場を中心に、貿易量が増加するに伴い、次第に港湾施設を広げていき、日本を代表する貿易港に成長し、現在に至っています。

横浜市では、2年後の平成21年(2009年)に、開港150周年を迎えるに当たって、横浜港の発祥地でもある「象の鼻地区」の再整備をはじめ、さまざまな記念事業が進められております。

本日は、大桟橋、新港埠頭の建設など、港湾施設が形成されていく過程をたどりながら、横浜港の変遷をご紹介いただき、横浜港の将来像や記念事業のことについてもお話しいただければと思っております。

ご出席いただきました田中祥夫様は、長年、横浜市役所で街づくりや住宅計画に携わられ、その後、東海大学大学院、関東学院大学で講師を務められました。近々、当社から『横浜港の七不思議』を出版させていただく予定でございます。

宮浦修司様は、横浜市港湾局港湾整備部技術担当部長でいらっしゃいます。現在、歴史遺産としても貴重な「象の鼻地区」の再整備事業に携わっておられます。

青木祐介様は横浜都市発展記念館の調査研究員でいらっしゃいます。横浜の近代建築や土木遺構についての研究をされています。

最初の波止場は2本の平行な突堤

最初の波止場(五雲亭貞秀「再改横浜風景」部分)

最初の波止場
(五雲亭貞秀「再改横浜風景」部分)
神奈川県立歴史博物館蔵

編集部まず、横浜開港のいきさつからお願いします。

宮浦ペリーの2度にわたる来航の結果、嘉永7年(1854年)の日米和親条約で下田と箱館(函館)の開港が一応決められます。ただ、それは通商のためではなくて、あくまでも避難とか欠乏品の供与のためで、その次に、日米通商条約に向けたハリスの草案がありますが、その中では、実は開港場として神奈川や横浜の名前はどこにも出てこないんです。

それに対して、幕府の開国派の岩瀬忠震が、横浜(神奈川)は天然の良港であると主張した。東京湾のさらに内湾だから波が静かで、かつ水深も深いし、土地も広くて港町の建設に適すると。それに、ハリスの草案には開港場の案に大坂があったのですが、それでは利権が上方に行ってしまうので江戸に持ってこなければいけない。ただし、江戸から適当な距離のある所に設ける。それが幕府の権力の強化にもつながるということだったと思います。その結果、修好通商条約に開港五港の一つとして神奈川が明記されたといういきさつがあります。

編集部横浜は港の条件がそろっていたのでしょうか。

宮浦嘉永7年にペリーが再来航して、応接所の選定にあたってはいろいろあったわけですが、横浜が選ばれたのは、水深が深く、アメリカ側の本船が奥まで入ってこられる。そこから海岸は大砲が届く距離で、日本側を牽制できるということもありました。水深があるということは横浜が港の素地としては適切であった。港としての潜在価値があったと言えるのだろうと思います。

東波止場は海外、西波止場は国内の貨物を取り扱う

青木安政6年(1859年)の開港に合わせてつくられた最初の波止場は、2本の平行な突堤が、海に突き出しているものでした。この波止場を境に、西側に日本人市街地、東側に外国人居留地が整備されます。2本の突堤は、東波止場が海外の貨物を、西波止場が国内の貨物を取り扱う所としてつくられたわけです。

幕末の実測図を見ますと、突堤の長さは大体140メートルですね。

編集部突堤の石はどこから持ってきたんですか。

宮浦真鶴の小松石と言われています。

田中石材では房総半島の房州石も有名ですね。

青木江戸時代から石の流通は盛んでしたから、調達は容易だったでしょう。初期の居留地建築も、レンガが登場する前は木造と石造が中心です。

編集部工事の記録はあるんですか。

青木入札の記録があります。

宮浦工事期間は3か月ぐらいですか、かなり突貫工事だったと思います。武州榛沢[はんざわ]郡高島村の名主の笹井万太郎が請け負ったと『横浜港史』にあります。

青木慶応2年(1866年)10月に開港場が火災に遭い、運上所の施設なども焼けてしまう。その後の再建工事で、慶応3年につくられたのが、今残っている一番古い遺構の「象の鼻」です。

なぜ象の鼻の突堤は曲がっているのか

明治中期の「象の鼻」

明治中期の「象の鼻」
横浜開港資料館蔵

編集部「慶応の大火」の翌年につくられた象の鼻の突堤が曲がっているのはなぜですか。

田中慶応の大火の少し前にフランス艦隊が入港しています。その中にスエンソンという海軍士官がいた。彼の『江戸幕末滞在記』を読みますと、まっすぐな突堤は、海の向こうから来る北向きの風には無防備で、まるっきり防げないということを長々と書いています。せっかく横浜に入っても陸に上がれないで、ハシケ待ちで何日も過ごしてしまうことがある。そういうことを端的に指摘していて、それが外国人社会ではかなり知られていたんでしょうね。

大火の後、イギリス公使パークスが幕府に何とかしろといろいろ運動して、ついてはウィットフィールドという技術者が非常に熟練しているので、彼に設計を頼んだほうがいいと推薦するわけです。

青木波止場の延長工事はイギリス人技師のウィットフィールドとドーソンの事務所が請け負っています。2人の足跡を明らかにした堀勇良氏の研究によりますと、2人とも上海から横浜にやってきています。開港以降、横浜には上海からたくさん技術者が入ってるんですね。開港場から開港場へ、技術者たちが渡り歩くわけです。

彼らは、ちょうど慶応の大火の後に事務所を立ち上げたばかりで、大火の後の建設ラッシュといいますか、そういう需要を見込んでいたのだと思います。

東側の突堤を湾曲させてのばし、波よけに

青木ウィットフィールドとドーソンの事務所は、建築設計だけでなく、土木工事など幅広く手がけていました。

ウィットフィールドは、ドーソンと別れた後も、機械類の製造販売をやっていたりしますが、最終的には明治23年(1890年)にバンクーバーへ行ってしまいます。次なる港町へと旅立ったわけですね。

編集部明治19年発行の『日本絵入商人録』にウィットフィールドの「ヨコハマ・アイアン・ワークス」が堀川沿いにある図がありますが、明治21年には経営者がキルドイルに替わってますね。

青木この工事によって、最初の2本の突堤の東側を湾曲させて、ちょうど波止場を囲い込むようにして、波よけとしています。これが後に象の鼻という名前になった。

田中ウィットフィールドは、ヨットの建造もやっていましたから、風向きについては専門家です。それであのような曲げたデザインを採用して突堤を設計したんです。

大型船は着岸できず象の鼻からハシケで運ぶ

編集部象の鼻は、港の機能としてはどのような役割を担っていたんでしょうか。

田中横浜にはそれしかないわけで、明治の初めに岩倉具視らが海外に行くときも、ここから出発しています。岩倉使節団では岩倉具視、木戸孝允、大久保利通の3人だけが蒸気船を使っていますが、その他大勢はみんな櫓でこぐハシケに乗っています。

象の鼻ができた慶応3年から、大桟橋の前身の鉄桟橋ができる明治27年(1894年)までの約30年間、「日本の玄関」だったわけです。

宮浦物と人が集まる場所はそこしかなくて、外国の文化も入ってきた。象の鼻が世界との窓口になったといえます。

開港2年目の万延元年(1860年)の貿易取り扱い量をみますと、生糸や茶が主な輸出品で、欧米からは綿織物や毛織物などの工業製品が入ってくる。明治になるまでは横浜港が全国の約8割を占めていて、まさに日本を代表する港だったと思います。

青木古写真を見ると、象の鼻の内側にハシケがたくさんいて、当時の荷役の様子がわかります。

編集部大きな船が接岸できなかったわけですね。

なぜ35年間も船が接岸できなかったのか

田中鉄桟橋の完成は明治27年(1894年)ですから、開港から35年間も、船が横づけできなかった。

青木明治の初期から桟橋の計画は出ているんです。幕末から横浜の都市計画にかかわっていたイギリス人技師のブラントンや、ガス灯の設置にかかわったフランス人技師のプレグランが計画を出してます。どちらものちの大桟橋と同じように、象の鼻から桟橋を延ばすという計画です。

編集部ブラントンの計画はどのようなものだったのでしょうか。

青木今申し上げた桟橋のほかに、明治7年(1874年)に埠頭の計画図が2種類出ています。現在の山下公園に当たる位置を埋め立てて、その両脇から2本の防波堤で海面を取り囲むものです。これは外国人居留地を中心にした計画ですね。もう一方は、2本の突堤の西側、象の鼻でないほうから、神奈川までの海面を取り囲む。こちらは日本人商人を対象としたものでしょう。この2種類の計画図が今知られているものです。

これがベースになって、最終的にパーマーの築港計画につながっていくわけです。結局、実現までには20年ぐらいかかります。

明治天皇も感心したブラントンの計画

編集部ブラントンの計画はなぜ実現しなかったのでしょうか。

田中ブラントンは何案かつくっていて、明治3年から7年ごろまでに、簡単な図面でわかるのが4案ぐらいあります。当時の大隈重信大蔵卿らが政府に建議するんですが、政府の財政がものすごく不安定で、すべてシャットアウトされてしまう。

ブラントンは恐らくがっかりしたんでしょう。明治8年に中止の返事をもらって、翌年イギリスへ帰ってしまいます。彼が明治7年3月につくった案は明治天皇も見ているんです。横浜の試験灯台でそれを見て、「これはいいじゃないか」と感心してお帰りになるんだけれども、そこまでで終わってしまったんです。

宮浦第1次築港工事の計画については、今、話がありましたように、いろいろな人が関わってますが、当初、明治新政府がイギリス人のブラントンとオランダ人のドールンの両方に検討させて、明治6年にブラントン、7年にドールンの計画ができたけれども、中断していたわけです。

田中その後、生糸商や貿易商などの有力者たちが、港は国に頼んでいてもらちが明かないと、いわば民営案で、埠頭会社をつくって経営したらどうかという案を、知事を通して国へぶつけます。

宮浦明治14年(1881年)、商法会議所(今の商工会議所)がブラントンの計画をもとに接岸埠頭の早期新設を要望しています。

田中ところが国は、当時の局長あたりが、民間で港をつくらせていいものだろうかと、首をかしげるんです。そういう文書が残っています。

アメリカから返還された賠償金が原資に

宮浦パーマーによる第1次築港工事が可能になったのは、下関事件の賠償金の返還がきっかけですね。

田中明治16年にアメリカから下関事件の賠償金が戻ってきた。それを原資にしてこの工事がスタートしたんですが、事件から戻ってくるまでに、20年ぐらい経っているんです。

下関事件は、攘夷問題で、海峡を通過中の外国船に長州藩が砲火を浴びせたことによって、元治元年(1864年)に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国艦隊が、長州藩の下関の町を攻撃した。その事件の賠償金を4か国に払ったのが、後でアメリカから戻ってきた。返ってきたのはアメリカだけです。

編集部賠償金返還の中心人物のグラントはどういう人ですか。

田中グラントは南北戦争のときの北軍の司令官として有名です。下関事件が起きたときは南北戦争中で、大統領はリンカーンです。グラントはのちに18代大統領になって、8年2期務めますが、その間ずっと、弱い者いじめをして獲た賠償金は日本に返すべきだと主張する。最後には賠償金は強奪したものだとまで言う。結局、任期中に全うできないんですが、やめてからも、議員や一般の市民にもはたらきかける。

グラント「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」から

グラント
「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」から
横浜開港資料館蔵

グラントは明治12年に日本へ来ていますが、その頃から、この賠償金返還問題について本腰を入れており、連邦議会の記録を調べてみると、裏でかなり尽力してます。

グラントの活躍がなかったら、日本に賠償金は戻ってこなかっただろうと思います。

パーマーの築港計画をもとに桟橋をつくる

大日本横浜築港舩架略図 井出巽 明治24年(1891)

大日本横浜築港舩架略図 井出巽 明治24年(1891)
国立公文書館内閣文庫蔵

編集部明治22年(1889年)に、パーマーの築港計画をもとに工事が着工されますね。

宮浦基本的にはブラントンの案をベースに、パーマーが実現させたかたちですね。

田中ブラントン案の中の象の鼻から延長して桟橋をつくるという構想は同じですね。

宮浦オランダとイギリスの間で相当確執があったようですが、大隈重信の後押しなどがあり、イギリスの案が採択されたわけですが、その間に、東京港の築港計画の話も出てますよね。

青木築港計画の実現に大きな推進力となったのは東京の存在ですね。明治10年代、当時の東京市区改正計画の中で東京の築港問題が出てくる。東京に国際貿易港をつくり、横浜にとって替わろうというもので、横浜の貿易商たちは非常に焦燥感を持ったわけです。

実際に、東京にはオランダ勢が築港計画案を出してますので、オランダ対イギリス、あるいは内務省対外務省、東京対横浜というふうに、幾つか対立する軸が重なって、パーマーの築港計画が実現に向かっていった。

オランダとイギリスはずっと対立を続けていました。明治初期はオランダ勢が土木事業にずっとかかわっていた。雑木でベースをつくって海に沈める彼らの方法は、今でも河川工事で見直されてきている粗朶沈床[そだちんしょう]工法と言うものですが、それに対してパーマーは防波堤をつくるのに、コンクリートのブロックをつくって沈めるという案を出してきた。

そういった技術的な対立に加えて、日本政府の中にオランダ勢を抱える内務省とパーマーをバックアップする外務省との対立という構造があって、最終的には外務省が勝った形です。

当時、土木工事を管掌していたのは内務省なんですが、そういういきさつがあったせいか、工事そのものは神奈川県の直轄ということでスタートします。

明治29年に大桟橋を含め内防波堤が完成

横浜桟橋全景(鉄桟橋)

横浜桟橋全景(鉄桟橋)

青木パーマーの計画にはこの鉄桟橋だけではなく、防波堤と、帷子[かたびら]川の水を港外に出すための馴導堤と、ドックの建造の工事がありました。

鉄桟橋は、スクリューのついた鋳鉄製のくいを海中に打ち込むもので、当時のスクリューパイルの先端部分は、今の大桟橋ふ頭ビルの前で見られます。

一方で、オランダ勢に対抗した防波堤のコンクリートブロックは、工事中に多数の亀裂が見つかるという残念な事件が起こります。

当然、原材料であるセメントの品質に関心が集まる。当時の新聞などを見ますと、横浜の某所でにせものが製造されたとか、パーマーのほうで外したはずの業者が受注をしているとか、いろいろな噂が飛び交って工事がストップする。

原因究明の調査が始まりますが、公式記録とも言える『横浜築港誌』の調査委員会の記録には、国産セメントは残りがなかったので調査できなかったということが書いてある。肝心なことは永遠にわからないわけです。いろいろ勘ぐりたくなりますね。

残念ながら結論が出る前にパーマーは失意のうちに亡くなるんですが、最終的に施工技術の問題だということになり、工事は再開して、明治29年(1896年)、大桟橋を含め防波堤も完成します。

なぜ新港埠頭の工事を大蔵省が行ったのか

編集部明治32年から第2次築港計画として、新港埠頭の建設が始まりますね。

宮浦横浜港の係留施設は、第1次築港工事でできた鉄桟橋だけで、荷役形態はまだハシケが主体でした。貿易商の間には大桟橋だけでは足りないという強い不満があって、横浜商業会議所から、明治30年から31年ぐらいにかけて、横浜港拡張の要望が強く打ち出されていました。

明治31年に、横浜税関が税関地先の海面埋め立てと税関拡張計画を大蔵省に提案します。それが現在の新港埠頭につながるんですが、大蔵省は、その提案をもとに古市公威[ふるいちきみたけ]に委嘱します。古市は内務省の土木技監を退任したばかりのころです。それで明治32年に横浜港の海面埋立工事が始まりました。

青木これまで内務省が土木事業をやっていたのが、この新港埠頭の埋め立てに関しては大蔵省が工事を直轄しました。

田中商業会議所が、鉄桟橋1本では、どうにもならない、もっとふやしてくれと、陳情書を次々と10本ぐらい出す。でも内務省は動かないんです。

それに対して大蔵省は、明治32年に、居留地撤廃とからんで関税法が成立する見込みになって、収入が入ってくる。財源持ちだから非常に積極的なんですね。内務省は技術はあってもお金はないですから、対応できないんです。

横浜税関新桟橋(新港埠頭)

横浜税関新桟橋(新港埠頭)

新港埠頭は埋め立てから始めて、上屋[うわや]も倉庫もつくり、鉄道も敷くという、日本初といえる本格的な工事です。それを技術的には素人集団のような大蔵省がやるというのは不思議な話なんですが、私は、大蔵省が古市公威の引っ張り出しに成功したことがキーだと思います。

古市は外国で学んで、内務省では土木局の局長から技監もやり、技術者としては、最高のところまで行っていた。土木界のドンなんです。また古市も、所管争いをしてガタガタするべきじゃないと日本に立派な港湾をつくることにかけた。これはやはり技術屋魂ですね。

横浜市が工費の3分の1を負担して大正3年に完成

編集部新港埠頭は、構造的にも画期的だったそうですね。

青木大型船が接岸できる国内初の岸壁埠頭でした。万トンクラスの船が同時に13隻接岸できる規模で、総延長は2,000メートルに達します。

それと、構内に鉄道を通すことで、桜木町駅の海側にあった貨物駅の東横浜駅と直接結ばれるようになった。今、「汽車道」として整備されている遊歩道が、その線路跡です。

宮浦第1期は明治38年(1905年)に竣工していますが、財政上の理由からか東半分約16ヘクタールしかできなかった。そこで38年、横浜市長の市原盛宏が工事を完成させるために工費の3分の1を市が負担することを大蔵省に提案したんです。

これは画期的なことなんですね。政府はそれを受けて2期工事の予算を確保して工事が進み、大正3年に、陸上施設も含めて新港埠頭が完成しました。

田中日露戦争が始まって新港埠頭の工事が途中で止まってしまうんです。そのとき活躍したのが、当時の横浜税関長の水上浩躬[ひろみ]です。商業会議所へ行って、商人たちに、この非常時のときに国が港にお金を十分出せるわけがないのだから横浜側が応分の負担をしろと、説得する。それが功を奏して、市原市長がかなり頑張ったこともあって横浜市が3分の1を負担することが決まってゴーサインがでる。

水上税関長は、この後、神戸に行って市長になり、同じように3分の1負担で港を整備する仕事をしています。

内務省から大蔵省へ土木・建築のメインが移行

青木今、新港埠頭に残っている赤レンガ倉庫をはじめ陸上設備の設計を統括していたのは、横浜正金銀行(現・神奈川県立歴史博物館)を手がけた、明治期の建築家として著名な妻木頼黄[つまきよりなか]ですが、彼が大蔵省の臨時建築部に来たというのが大きかったわけです。

彼は明治20年代には内務省の技師として、東京の官庁の計画をやっていたんです。土木のほうの古市公威と同じように、妻木が大蔵省に来て建築家の流れも内務省から大蔵省に移っていって、今の国会議事堂の建設など、国家の大プロジェクトは最終的に大蔵省の建築家たちが担っていく。その辺の転換点が新港埠頭ができ上がっていく明治30年代なんです。

田中大正7、8年ごろは築港工事予算は、大蔵省系で出すものと内務省系で出すものと2本立てだったんです。それが閣議で問題になる。本来築港工事は内務省の管轄である、大蔵省が口を出すべきものではないという内務省側の巻き返しで、結局、内務省に戻る。それが大正8年からずっと続いて、今は国土交通省ですが、その系列は変わらないで来ているということなんです。

青木新港埠頭ができて、その次の第3期築港計画が始まる大正10年(1921年)に内務省の横浜土木出張所が置かれます。震災後の復旧工事のときは、おもしろいことに建築関係と土木関係がきれいに分かれていて、岸壁や防波堤などの土木工事は内務省ですが、陸上設備の復旧は大蔵省がやっている。

関東大震災で第3次拡張工事が中断

被災した大桟橋 大正12年(1923)左の建物は税関監視部。

被災した大桟橋 大正12年(1923)左の建物は税関監視部。
横浜開港資料館蔵

編集部大正12年(1923年)の関東大震災では、港もかなり大きな被害を受け、その後、復興していきますね。

青木大桟橋は、新港埠頭の埋め立てのときに合わせて拡幅をしています。最初の大桟橋は鉄製のパイルを打ち込んだものでしたが、今度は、コンクリート柱を使った。そうしたら、震災のときには初代の桟橋の部分だけが見事に陥没してしまった。復旧工事では、強度を大きくして、もう1回スクリューパイルを打ち込んでいます。

宮浦震災後、象の鼻防波堤は、旧来よりもやや直線的な形で復旧されています。戦後、先端部分が30メートルほど短くなり、現在は、象の鼻とはちょっといえないような形になっています。

青木新港埠頭も岸壁部分は総崩れを起こした。上屋もほとんどが倒壊しましたが、赤レンガ倉庫だけはもともとの1号部分を半分にして修復しただけで、2棟はそのまま残って現在に至っています。

また、赤レンガ倉庫の北側にあったレンガ造の税関の事務所の基礎が赤レンガパークの整備のときに発見され、現在、遺跡として整備されています。

宮浦震災前は大桟橋と新港埠頭しかなくて、やはり港の整備が求められていました。

当時、計画または着工されていたのは瑞穂埠頭と高島埠頭、山内埠頭で、それが第3次拡張工事だったのですが、震災のために、中断してしまった。それで横浜の港の機能が神戸に移ってしまったと言われています。震災の被害は物理的な面だけではなく、経済の面でのダメージも大きかったと思います。

昭和26年に港湾管理者が国から横浜市に

編集部昭和に入ると、子安・生麦地先をはじめとする臨海工業地帯の埋め立ても行なわれて、港湾施設が拡大していきますね。

宮浦震災からの復興が契機になって、横浜は、港湾都市から、工業都市の性格をあわせ持つような、大都市への脱皮が図られました。特に、本格的に工業地帯が整備されて、鉄鋼とか造船といった重工業が立地され、京浜工業地帯としての整備がなされてきた時期です。

青木いわゆる「大横浜」の建設ですね。第4期の築港計画として、今も残っている外防波堤の建設と市営の埋立工事が進められます。

昭和2年(1927年)につくられた、10年後の横浜港という絵はがきがありまして、それを見ると、すでに外防波堤もでき上がっていて、絵ですから、外洋の波が外防波堤を境に、ピタッとおさまっているんです(笑)。そこには、すでに根岸湾の埋め立ても描かれていますが、これは戦後になって実現しましたね。

編集部当初の、生糸やお茶などを輸出していた貿易港から、昭和に入って工業港に変わっていったということですね。

宮浦そうですね。実際に横浜市が港湾管理者になったのは戦後の昭和26年で、それまでは国が管理していたんです。

終戦直後の大桟橋と新港埠頭

終戦直後の大桟橋と新港埠頭
米国防総省蔵

横浜市が港湾管理者となった後には、戦後の接収との絡みなど、いろいろないきさつがあります。

瑞穂埠頭は今も米軍に接収されていますが、昭和20年に瑞穂埠頭ができたと同時に接収され、しかも無期限使用ということになったので、その代替の施設整備が必要になってきた。高島埠頭3号桟橋や出田町[でたまち]埠頭、山下埠頭は、まさに接収との代替でつくったんです。

輸出入貨物への対応や、第2の黒船といわれたコンテナ船への対応など、時代の要請に合わせて埠頭の整備などが進められてきました。本牧埠頭とか大黒埠頭、根岸湾や金沢地先の埋め立てなど、間断なく整備を進めて、今に至っているわけです。

港の整備と合わせて工業地帯の整備も進められてきたということでしょうか。

なぜ日本人が横浜船渠のドックを設計したのか

旧横浜船渠株式会社 第1号ドック 1980年頃

旧横浜船渠株式会社 第1号ドック 1980年頃

編集部港にかかわる遺産としてドックがありますね。

青木ドックは、もともとパーマーの計画の中に入っていたものですね。そのパーマーの計画をもとに、明治24年に横浜船渠会社が設立されます。このときに、技術者として日本人の恒川[つねかわ]柳作が抜擢されました。彼は横須賀造船所でヴェルニーに学んだ人物で、彼が手がけたドライ(乾)ドックは、明治29年に2号、31年に1号が竣工し、それぞれ翌年に開渠します。明治40年代には、同じ恒川の設計でさらに2つ、全部で4つのドックができました。現在、最初の2つが残っていて、片方には日本丸が係留されていて、もう片方はドックヤードガーデンという形で商業施設として整備されています。

田中横浜船渠は最初は修理専門でしたが、大正6年から新造船事業をはじめて、昭和5年には、ここで秩父丸、氷川丸、日枝丸が建造されました。

ドック築造の先駆者はフランスのヴェルニーが率いる技術陣です。それまでの日本のドックはほとんどフランス系の技術者がつくっていて、普通なら外国人技術者に設計を頼むところですが、日本人の技術者が抜擢されたのはどういうわけか。

神奈川県史の資料編を読み返しましたら、横浜船渠会社をつくったころは、不況の真っ最中で、会社の出資金も集まらないんです。最初に予定していた資本金も4分の1ぐらいに減らす。ドックを計画したパーマーは、もう亡くなっている。技術者を決めなきゃいけないんだけれども、会社としてはもう高給な外国人は雇えない。

呉の第一船渠での実績が買われた恒川柳作

田中横浜船渠会社が操業をはじめたころ、主任以上は全部イギリス人なんです。印ばんてんを着て働いている職工は日本人ですが、ドック築造を頼める日本人技術者を探すのは容易じゃない。

恒川柳作は、横須賀で築造経験があるから設計を任されたと、三菱重工の社史をはじめ、いろいろな資料にありますが、恒川の名前が上がったのは、横須賀のドック工事に彼がかかわってから10年も後なんです。どうも横須賀の経験だけじゃない。その10年の間に何かがあって、その実績で選ばれたんじゃないか。

日本海軍の『各海軍建築部沿革概要』にありますが、日本人が外国の技術者の力を借りずに初めてつくったドックは、呉の第一船渠で、この最大の功労者が恒川なんです。恒川が横須賀鎮守府から呉に移って、第一船渠の地質調査から始まって、竣工まで全工程を見た。その実績がかわれたのではないか、今のところはそう考えています。

開港150年にあわせて「象の鼻地区」を再整備

「象の鼻地区」再整備基本計画図

「象の鼻地区」再整備基本計画図
横浜市港湾局提供

編集部横浜開港150周年に向けた「象の鼻地区」の再整備事業はどんなものですか。

宮浦そもそも象の鼻地区については、みなとみらい21の計画の中で、港湾緑地として再整備していこうという計画があったのですが、なかなか再整備には至りませんでした。

ワールドカップサッカーの決勝戦が横浜で開かれた平成14年には、大桟橋の国際客船ターミナル、そして赤レンガ倉庫も1号、2号倉庫を合わせてリニューアルオープンし、日本大通りも再整備されました。残るは象の鼻地区ということで、平成21年(2009年)の開港150周年記念事業として再整備していくことになったわけです。

象の鼻地区は、横浜港発祥の地であるとともに、みなとみらい21地区から山下公園へとつながる水際線と、関内地区の都市軸である横浜公園から日本大通りや、さらには、その先の大桟橋への結節点に当たる重要な場所です。

再整備の考え方としては、日本大通りから港への通景空間の確保、憩いの場であるとともに賑わいや交流を創出する広場、緑地の整備を基本としています。また、船のある風景も大事にしていきたい、あるいは歴史的な建築物など街並みを継承していきたいということで、まず基本計画の試案をつくりまして、平成17年に、市民はもちろん港湾関係やいろいろな方々から意見をお伺いしました。

居ながらにして先人たちの業績や歴史を振り返る場に

宮浦基本理念として、時間の重なり、空間の広がり、人間の繋がり、この三つの要素を大切にし、「『時の港』〜横浜の歴史と未来をつなぐ象徴的な空間〜」としました。

「時間の重なり」で言えば、横浜港発祥の地としての歴史性を象徴していく、「空間の広がり」としては、港と街との結節点としての重要性を大切にする、「人間の繋がり」で言えば、港にはいろいろな人たちがかかわってきたということで、居ながらにして歴史を振り返る。

つまり、先人たちの業績の息吹も感じられるような場にしようと考えたわけです。

その基本計画をもとに、基本設計と実施設計を行なっていくため、設計者をプロポーサル方式で選びました。元気な横浜を創造する人材育成に向けた取り組みとして、開港100周年以降に生まれた若手設計者に託すこととし、その結果、横浜在住の小泉雅生さんにお願いすることになりました。現在、基本設計がまとまり、今後実施設計を進めていきます。

象の鼻の曲線をのばして大きな空間をつくる

宮浦基本設計における特徴を一言で申し上げますと、市民の意見も踏まえて、防波堤も復元することにしましたが、象の鼻の防波堤の円弧の曲線をのばして、地区の中にサークル状の大きな空間を創り出そうというプランニングです。

その大きな空間に、それを際立たせるスクリーンパネルを並べていってエッジをつくる。夜間はそれが照明になって、遠くからでもそこが開港の場所だとわかるようになるというものです。

また、再整備にあたって、時間がかなり限られていますので、護岸の部分などは先行して工事に入っています。特に護岸整備も歴史性を重視して、明治中期の面影が見られるような石積み形式の護岸に変えていきます。

編集部工事の際に、昔の遺構などは出てきているのですか。

宮浦第1次築港工事のときに西波止場の裏が埋められた後に、その先端部分に税関の2階建てのレンガ造の倉庫があったんです。その基礎が出てきまして、それをうまく工夫できないかと、今、検討しています。

横浜港はいろいろな試みが実現した場所

田中戦前の横浜は、町の中からも船が見えるような街だった。横浜へ行けば、港が見え、汽笛の音が聞こえた。日本大通りの突き当たりが開けると、ずいぶん違うでしょうね。今から胸をふくらませています。

青木東西上屋が移転するとのことですが、関東大震災前にあそこに建っていたレンガ造の税関庁舎の基礎が、ひょっとして護岸工事のときに見つかるかもしれません。

宮浦象の鼻地区は今の横浜の原点ですが、もし、岩瀬忠震がいなかったら横浜開港はなかったかもしれない。そうしたら恐らく今の横浜市もなく、単なる一地方都市にすぎなかったかもしれない。開港場を神奈川にするか横浜にするかという問題もあったなかで、既成事実化して横浜を開港場にしていった。当時の幕府もすごいことをやったと思いますね。

青木横浜は、半農半漁の村から、突如として港湾都市に変貌させられた。そういう場所だったからこそ、技術的にもいろいろな試みが実現したんですね。それが積み重なって、今の横浜港の姿ができ上がったと思います。

編集部ありがとうございました。

田中祥夫 (たなか よしお)

1931年東京生れ。
著書『ヨコハマ公園物語』中公新書(品切)ほか。

宮浦修司 (みやうら しゅうじ)

1950年横浜生れ。

青木祐介 (あおき ゆうすけ)

1972年大阪府生れ。
共著『地中に眠る都市の記憶 地下遺構が語る明治・大正の横浜』 横浜都市発展記念館 953円+税、『学芸員の仕事』岩田書院 1,900円+税、ほか。

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