Web版 有鄰

499平成21年6月10日発行

[座談会]原始・古代から現代まで
『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』

(財)横浜市ふるさと歴史財団理事長・高村直助
横浜市歴史博物館学芸員・斉藤 司
横浜開港資料館調査研究員・西川武臣
横浜市歴史博物館学芸員・平野卓治
有隣堂社長・松信 裕

左から斉藤 司、平野卓治、高村直助、西川武臣の各氏と松信 裕

左から斉藤 司、平野卓治、高村直助、西川武臣の各氏と松信 裕

はじめに

『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』・表紙

『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』
有隣堂:刊

松信横浜では今、開港150周年の博覧会が、みなとみらい地区などの会場で華々しく開催されています。これは横浜がペリー来航から6年後の安政6年(1859年)6月に開港し、日本と西欧諸国との交易が始まったことを祝って開かれているものです。

この開港150周年にちなんで、横浜市歴史博物館や横浜開港資料館などを管理・運営する財団法人横浜市ふるさと歴史財団が、原始・古代から現代に至る横浜の歴史を、新しい資料を用いて紹介する『横浜 歴史と文化』の出版を企画され、有隣堂から刊行いたしました。

本日は、横浜の歴史の流れをたどりながら、この本に盛り込まれた新発見の資料や日頃の研究の成果を反映した内容などをご披露いただきたいと思います。

ご出席の高村直助先生は、横浜市ふるさと歴史財団理事長で、横浜市歴史博物館、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館の館長でいらっしゃいます。日本近代経済史をご専攻で、今回の出版の監修を務めていただきました。

横浜市歴史博物館からは、原始・古代を担当された平野卓治さんと近世担当の斉藤司さん、横浜開港資料館からは開国・開港期担当の西川武臣さんにご出席いただきました。

なお今年は、有隣堂が明治42年(1909年)に横浜・伊勢佐木町に創業してから100周年に当たり、今回の出版は、その記念も兼ねております。

安政6年の横浜の写真や翌年の開港場の肉筆画など

開港直後の横浜 安政6年 P・J・ロシエ撮影

開港直後の横浜
安政6年 P・J・ロシエ撮影
横浜開港資料館蔵

松信今回の企画は、どういうお考えで始まったのでしょうか。

高村横浜開港150周年ということで、私ども歴史にかかわる施設を運営する横浜市ふるさと歴史財団としては大いにはりきりまして、この際、ぜひ皆さんに横浜の歴史を振り返っていただけるような本をつくろうということになりました。幸いに原始・古代から現代に至るまでの研究者がそろっておりますので、そのメンバーが全力を出せばまとまったものができるだろうと。

横浜は、開港後急速に発展しましたので、今回の本では開港期に大きな比重を置きましたが、それ以前の歴史も含めて、原始から現代までを網羅しています。図版を多く、文章は短く、わかりやすく読みやすいスタイルで横浜の歴史をトピックをつづる形で紹介しました。

松信この『横浜 歴史と文化』にも収録されている新しい資料が、今、横浜開港資料館の展示「港都横浜の誕生」で公開されていますね。

西川一つは、開港直後の安政6年の横浜を撮影した写真です。P・J・ロシエという、開港後、最初に来浜したスイス人のプロカメラマンが撮ったものです。今の元町百段公園あたりから横浜村を見おろしています。

横浜開港場の図

横浜開港場の図
横浜開港資料館蔵

もう一つは、肉筆画の「横浜開港場の図」です。この絵には桜が描かれていて、関内と元町の間の堀川がまだないので、描かれている光景は、開港の翌年の万延元年(1860年)の春だと推定できる。非常に写実的で、開港直後の横浜の市街地の様子がよくわかる。文献的な資料と照らし合わせても、描かれている事実は、まず間違いないと思います。

斉藤地名も読めますね。

西川落款もなく、私は美術史の専門家ではないので断定はできないんですが、五雲亭貞秀の作品だといいなと思っています。(笑)

松信貞秀は横浜浮世絵の一番の名手ですね。

西川肉筆画は極めて少ないんですが、構図が貞秀の横浜浮世絵に似ている。

松信神奈川の成仏寺の本堂前の、宣教師とその家族の写真も新しい資料ですね。

西川横浜でのヘボンが写っている写真としては一番古いはずで、文久元年(1861年)頃のものですね。

ペリーの出した条件が国際都市の原点に

松信横浜は戸数わずか101戸の半農半漁の村から、今や、人口360万人を超える日本第二の都市になった。そのきっかけはペリー来航と、それに続く横浜開港ですね。しかしなぜこの場所だったのでしょうか。

西川安政元年(1854年)にペリー艦隊が東京湾に入ってきたとき、幕府は艦隊をなるべく江戸に近づけたくなかった。条約の交渉も、鎌倉とか、ペリーの最初の来航のときにアメリカ大統領の国書を受け取った久里浜でやりたいと言うんですが、ペリーは納得しない。さらに東京湾の奥深く入ろうとする中で、幕府が提案した場所が横浜だったんです。

ペリーは江戸により近いということのほかに2つの条件を出します。1つは、水深の深い海があること。軍艦で圧力をかけながら交渉を有利に進めたいという考えでしょうけれど、陸に向かって艦隊が横一列に停泊できる場所を要求します。

2番目は、ある程度広い土地です。汽車の模型を走らせたり、電信の実験をやるためです。幕府の浦賀奉行所の役人が、現在の中区の中心部にペリー側近のアダムズを案内するのですが、彼は、ここならいいということで、横浜村が日米和親条約締結の場所に選ばれます。

この2つの条件は、横浜という町の発展にとっても意味があった。まず、水深の深い海は良港の条件ですね。広い土地は、都市が発展するための重要な要素です。

それから江戸との適度な距離ですね。神奈川湊という東京湾の中でも有数の商品の集散地がある。当時の一級国道である東海道が通っていて、大きな宿場町もある。この立地とペリー来航、その後の幕府による町づくりが、国際都市横浜の原点かと思います。

わずか半年で開港場の市街地をつくる

広重「東海道五十三次之内神奈川」

広重「東海道五十三次之内神奈川」
横浜市歴史博物館蔵

松信日米修好通商条約では開港場は「神奈川」ということになっていますね。神奈川は今のどのあたりですか。

西川現在の横浜市神奈川区の海岸部が神奈川宿です。京浜急行の神奈川駅、JRの東神奈川駅の一帯です。

松信そして、開港場を神奈川にするか、横浜にするかというのが大問題になりますね。

西川そうですね。日米修好通商条約の第三条に「神奈川」を開港すると書いてあるんです。当時、神奈川宿はすでに発展していましたから、アメリカ総領事のハリスは、開港場として神奈川宿を強く要求します。それは当たり前で、ハリスの目から見ると横浜にはほとんど何もない。

ハリスやイギリスの総領事オールコックたちは、横浜には東海道からの道がない。道をつくるにも、川が何本もあって橋をかけなければいけない。波止場もないではないかと言うので、幕府は威信をかけて、安政6年の正月頃からわずか半年ほどの間に、波止場をつくり、また、現在の西区の浅間下[せんげんした]から東海道と開港場を結ぶ横浜道をつくり、そして、神奈川奉行所の建物や遊廓、外国人のための住居などをつくり、日本人の商人を誘致して建物をつくらせる。こうして、たちまちのうちに市街地ができ上がります。

斉藤横浜に開港場を建設するにあたっては、横浜町の総年寄の一人に保土ヶ谷宿本陣の苅部清兵衛が任命されているように、近隣の宿場であった神奈川宿と保土ヶ谷宿の人々が大きく寄与していると思われます。

西川開港した安政6年6月2日の段階で、幕府は開港場は横浜村だと言いますが、諸外国はそれを認めず、神奈川宿が開港場だと言う。当時は2つの開港場があったと考えていいと思います。ただ、外国商人たちは、土地が広く建物も建てやすい横浜のほうに発展性を見ている。日本の商人たちも、続々と横浜に移住してきて、なし崩し的に横浜が開港場として選ばれていきます。

居留地の治安のため堀川が開削され関門ができる

高村開港場は日本人の町人が住む部分と、外国人の居留地の2つからなるわけですが、貿易が順調に発展したために、予想以上に急速に外国商人たちが増え、たちまち手狭になって次々に居留地が拡大していく。元の住民は少し外れのところに移らされていましたが、それが元町です。居留地拡大が山手にまで及んで、山手居留地と山下居留地の間ですから、外国人目当ての仕事で町が発展していくんです。

松信先ほどお話に出た堀川も幕府の政策でつくられたんですか。

西川開港直後から、外国人をつけねらう攘夷派の浪士たちが横浜に入り、市街地で外国人の殺傷事件が相次ぎます。それで外国側が幕府に対して警備の強化を要求するんです。

五雲亭貞秀「横浜休日異人遊行之図」

五雲亭貞秀「横浜休日異人遊行之図」
横浜開港資料館蔵

当時の横浜市街地は治安上、現在の元町から山手にかけてのところが弱点で、もともと川はなかった。犯人は山手側に逃走してしまう。それで堀川をつくって橋をかけ、橋のたもとに関門を置いたんです。

外国側は最初は日本人と外国人を遮断するなと言っていたんですが、事件が余りにも多発するので、外国人の安全を守るために、川と関門ができる。関門には番人がいて、市街地で犯罪が起こると関門を閉めるという警備態勢をとります。関門では、一般の町人たちよりも、侍たちが止められる。二本差しの長い刀は関門で預けないと中に入れない。堀川ができて、現在の中区地域の骨格ができ上がることになります。

人が住んでいた痕跡は約3万年前

松信今、開港当初のお話をうかがったんですが、現在の横浜市域には、非常に古い時代から人が住んでいた痕跡がありますね。

平野横浜市歴史博物館は「2万年の歴史」とうたっていたんですが、今回、3万年前の横浜における最古の生活の痕跡がローム層から検証されています。

縄文時代草創期の土器

縄文時代草創期の土器
花見山遺跡
横浜市歴史博物館蔵

原始時代に関しては、港北ニュータウン地域の遺跡の発掘調査が長い間行われてきました。その調査・分析をとおして、考古学的な成果が埋蔵文化財センターによって明らかになってきました。縄文の始まりの、日本でも古手の土器が、花見山遺跡など横浜市域で発見されています。

縄文時代中期には非常に大きな集落が構成されますが、縄文から弥生時代に移る時、横浜市域では遺跡数が非常に減ります。港北ニュータウン地域の中にある華蔵台[けしょうだい]遺跡では、そういう遺跡が少なくなる時期の様子がわかります。成立・最盛期からだんだんと衰退していく状況を、特に横浜という一つの地域の中で描くことができるのは、大きな成果だと思います。

弥生時代では、大塚・歳勝土[さいかちど]遺跡という環濠集落とお墓がセットになっている遺跡が一つだけポツンと知られていたのですが、それだけではなく、たとえば鶴見川流域における環濠集落の分布や展開の様子なども、この間の研究で明らかになってきています。

武蔵国の範囲は古代の南北のつながりが背景に

三角板鋲留短甲と眉庇付冑

三角板鋲留短甲と眉庇付冑
朝光寺原1号墳
横浜市歴史博物館蔵

松信横浜の大部分は武蔵国ですが、武蔵国の中心からはかなり離れていますね。

平野8世紀になりますと律令制によって全国一律的に国や郡という形で区分されていきます。

国という領域は、今の都道府県と似たイメージがあるのか、神奈川県は相模国と思われがちですが、県内では横浜と川崎市域が武蔵国に含まれています。多摩川が国の境界になっていなくて、武蔵国が南側に伸びたような形になっている。

それは、古代に規定されたのではないか。『日本書紀』に安閑[あんかん]天皇の時代、6世紀の初めに、南武蔵と北武蔵のリーダー同士の争いがあり、結果的には南武蔵が敗北した。そのときに倭王権が介入して、負けたほうの南武蔵の中に王権の支配の拠点である屯倉[みやけ]を置きます。それが随分後まで影響するのかなと思います。

その争いのとき、南武蔵の笠原小杵[おき]は群馬のリーダー上毛野君小熊[かみつけぬのきみおぐま]に助けを求めるんです。つまり、群馬と南武蔵地域には何らかのつながりがあった。南北のつながりが古墳時代からあったと考えると、武蔵国をつくるときに、それを分断できなかった。それで屯倉が置かれた横浜市域が必然的に武蔵国の中に区画されたと考えられます。

武蔵国自体も南北のつながりで規定されているところがあります。近世に東海道が通り、相模から武蔵へ入るというイメージですが、古代においては都からは、北の方、つまり毛野[けぬ](群馬県)から入って南下して武蔵に入るのが正式なルートになっています。

武蔵の国府、中心地は今の府中市で、まさに多摩川と南北軸の交点に位置している。ちょっと強引な説明の仕方かもしれませんが、そういう歴史的な背景があるのかなと考えています。

松信京都からは、本州の内陸を通る東山道がメインルートでしたからね。

平野横浜市域は北の方の都筑郡、東南の久良[くら](岐)郡の2つの郡が中心です。その時代、横浜市域として飛び抜けた特色は余りみられません。

松信大規模な古墳もないようですね。

平野群馬県や埼玉県のような大きな前方後円墳はありません。ただ、何らかの形での王権との結びつきを示すような遺物はみられます。5世紀中頃の甲冑が神奈川県で唯一、出ています。小さいながらも王権との関わりを持てるようなリーダーがいたことは確かです。都から見て、関東地方が東国という特別な領域として認識されていくとき、横浜市域は確実に東国としての特殊性を持って展開している地域だろうと考えます。

榛名氏・師岡氏など中小武士団が登場

平野東国の一地域として次に出てくる特色は、平安末からの騒乱期の中で兵[つわもの]から武士団へと展開し、次の権力を担っていくような階層が登場してくることだと思います。

横浜市域では、たとえば武蔵七党みたいな武士団はなかなか出てこない。小規模な、郡やその下の郷レベルの名前を持つような小さな武士団が登場します。最終的には鎌倉に幕府が置かれ、東国支配の拠点になりますけれども、そういう政権の中枢にはならず、外縁としての位置づけを持ち始めていく。

そういう中で全国でも唯一と考えられるのが、港北ニュータウンの西ノ谷[にしのやと]遺跡です。そこでは、源平合戦の少し前、平安時代の末頃に、『平家物語』などに赤糸縅[あかいとおどし]の鎧を着て出てくるような、きらびやかな大鎧の材料をつくっていた工房の跡が見つかっています。鎧は小さな鉄の板と革の板を組み合わせてつくりますが、その鉄の板を製作している。何でわかるかというと、未製品、つくる途中の材料が出土しているんです。

こういうものを基盤に、武士政権をバックアップする地域になるのが平安時代の末頃ではないか。そこから榛谷[はんがや]氏や師岡[もろおか]氏などの中小武士団が登場する。彼らは頼朝に最初は反発しながらも、最終的にはつき従って、鎌倉幕府の成立を支えていく。ところが、そういう武士団は鎌倉時代には次第につぶされていく。その中に、今まで余り注目されなかったのですが、南区を本拠地として室町まで生き残る、横浜を代表する御家人の平子[たいらこ]氏の存在があります。

鎌倉の後背地として六浦を金沢氏が押さえる

称名寺境内

称名寺境内

松信鎌倉に幕府が置かれると、横浜市域はその後背地となる。そこで代表されるのが金沢北条氏ですね。

平野鎌倉に権力が置かれて、いろいろなものがそこに集積されてくる。それは鎌倉だけではなくて、後背地にも影響を与えていくのは当然のことで、物資の受入れ口として六浦が成立して、そこを金沢氏が押さえます。

鎌倉幕府や金沢北条氏が滅んだ後に、南北朝から室町初期にかけての戦乱の時期になると、横浜市域でも幾つかの合戦が行われる。鶴見でも、鎌倉幕府の滅亡のときと、中先代の乱と2回大きな合戦がありました。合戦は交通の要所で行われますから、後背地とは言っても重要な場所だったと思います。

政治・軍事の拠点は小机城、経済は神奈川湊

小机城址

小机城址
埋蔵文化財センター提供

松信戦国時代、関東は戦乱に巻き込まれ、拠点になるのが小机城ですね。

斉藤横浜を構成する久良岐・都筑・橘樹の武蔵三郡と相模の鎌倉郡の海岸部には、広い平坦地はありません。これに対して、小机城の周りは内陸の平坦地で、峻険な崖の上に城があるので、見通しがききます。

この地点は、鶴見川が大きく屈曲しており、洪水になりやすいのですが、逆に言えば水がたまるので安定した水量が確保できる。鶴見川の治水ができれば有効な水田地帯になる。政治・軍事の拠点が小机で、経済の拠点が神奈川湊ですから川船が入ってきて、両者をつないでいることも考えられます。

松信小机城を扇谷上杉家の太田道灌が攻め落としたり、戦国時代は小田原北条氏の支城になりますね。

斉藤天正18年(1590年)に小田原の北条氏が滅んで、徳川家康の関東入府のとき廃城になるのですが、いったんは、小机に代官が入ります。おそらく、慶長の早い段階まで、代官はいたと思われます。すでにあった北条氏段階のシステムを一挙には変えず、少しずつ変えていったんでしょう。

平野今回、中世は茅ヶ崎城や寺尾城などの城郭の発掘成果、横浜市域の中で発掘された中世の道路遺構などの成果も盛り込んでいます。

城がなく大名もいなかったのは江戸に近いから

「東海道図屏風」保土ヶ谷・戸塚宿

「東海道図屏風」保土ヶ谷・戸塚宿
横浜市歴史博物館蔵

松信近世になって江戸が拠点になると、横浜市域はどういう位置づけになるのでしょう。

斉藤かつては、開港前の横浜には歴史がないと言われていました。なぜ、そう言われるのかというと、横浜には大名がおらず、城もなかったということが大きな理由だと思います。この点が、今まで明確に説明できてないのです。横浜の地域に城がないのは、重要でないからではなくて、江戸に近いからだと考えるべきだと思います。

江戸という町の城と城下町の規模を、大名徳川氏という観点から言えば、400万石の直轄地・天領と、400万石の旗本の領地を持つ800万石の大大名になります。それだけに、「城付地」と呼ばれる、城に直接付属する範囲も大きいことになります。だから、横浜市とか神奈川県の範囲ではなく、江戸を含んだ視点で見ることが必要だろうと思います。神奈川宿、神奈川湊は江戸から大体7里ぐらいで、この、近からず遠からずの距離感が絶妙なのでしょう。

横浜には神奈川、保土ヶ谷、戸塚という3つの東海道の宿場がありますが、五十三次の宿場は全部が同じレベルではなくて、メインになるところと、それをつなぐような宿場があった。横浜で一番のメインが神奈川で、東海道と、海の道の神奈川湊の交差点、結節点になる。海から入ってきた物資は恐らくここを通って内陸へ入っていくわけです。

その神奈川と保土ヶ谷はセットで、神奈川湊は天王町まで入り込んでいた入海にあたり、台町の下、ちょうど横浜駅あたりに船が停泊します。そこから小舟で荷を揚げますので、神奈川宿と同じように保土ヶ谷宿へも揚げているだろうと思います。神奈川宿と保土ヶ谷宿が神奈川湊でつながっていたということになります。

横浜の基盤となる吉田新田は350年かけてできた

吉田新田概念図

吉田新田概念図
横浜市歴史博物館提供

斉藤もう一つのポイントは吉田新田だと思います。開港は150年前ですが、この地域のことは、350年のスパンで考えないとわからない。それまでは、今の日枝神社、お三の宮のところまでは海でした。都市として発展するために必要な平坦地は、350年間かけてでき上がったんです。関外[かんがい]と呼ばれているこの地域の新田開発は明暦2年(1656年)に始まります。

埋立には幾つか理由はあるんですが、多分、大岡川が土砂を排出するので浅くなり、それが干潟状になってきた。そこが埋め立てられると、今度は大岡川と中村川が延びて、その部分へどんどん土砂が入っていく。大岡川は今の野毛のほうで、割と深いので、土砂はたまらないんですが、中村川は、堀川がまだできていませんから、流れた土砂がちょうど横浜の浜の裾にぶつかってたまりやすい。

吉田新田をつくることによって、土砂がたまるところが海側に延びていった。それで中華街のところが浅くなって埋め立てられて横浜新田になり、次に浅くなった場所が太田屋新田になるわけです。ここが順番に埋め立てられてきているという状況が都市として発展していく前提になったんだろうと思います。

保土ヶ谷宿の成立に関する文書を紹介

松信今回、近世で新しく見つかったり、紹介された資料はございますか。

斉藤近世では、新しく発見されたというよりも、これまであまり出なかったものを幾つか紹介することができました。

一つは、東海道保土ヶ谷宿の軽部家文書で、慶長6年(1601年)に保土ヶ谷宿が成立しますが、それに関する文書があり、今回、伝馬朱印状・御伝馬之定・定路次中駄賃之覚の3点を掲載しています。

武州金沢藩についてはここ10年ぐらいの新しい研究成果です。亨保7年(1722年)に、陣屋が栃木から移ってきますが、これまでは、なぜ金沢に陣屋が移ってきたのか説明できていなかった。その2年前に船改番所が下田から浦賀に移転しているので、その関連で陣屋を配置したということは、恐らく間違いないと思います。

東京湾の入り口である浦賀に対して、浦賀から見て江戸寄りの場所に軍事的な施設を配置する。保土ヶ谷から浦賀へ行くとき、金沢のあたりがほぼ中間地点ですから、そういう意図的な配置が行われたんだろうと思います。ですから、横浜市内で唯一本拠地を構えている武州金沢藩の存在も、陸上交通、海上交通の江戸の入り口に当たるという横浜市域の地域性の一つのあらわれ方だと思います。

松信ペリー来航以前に、だんだん外国船が日本近海に出没するようになると、海防の関係で、武州金沢藩もそういう役割を担っていくわけですね。

斉藤海防が日常的にある程度行われていて、そのシステムに組み込まれている。そういう意識は当時の海岸部の村々に相当程度あったと思います。ペリーが来てもあまりびっくりしなかったのではないでしょうか。

松信「泰平の眠りをさます上喜撰[じょうきせん]」と言うけれど、準備はほとんどできていた。

異国情緒ただよう町並みが展開

横浜税関から大さん橋方面を望む

横浜税関から大さん橋方面を望む
横浜開港資料館蔵

松信開港によって国際貿易都市になった横浜は、明治にはどう発展していったのですか。

高村よく言われることですが、西欧文化を受け入れ、取り込んで、さまざまな「もののはじめ」を生み出しますね。身近なところでは石鹸とか、パンや牛乳といった食材、テニスも横浜が発祥です。そして、中国人を含めた外国人が数多く住むようになって、異国情緒がただよう町並みが展開された。

西川しかしその反面、居留地の撤廃と市域の拡張が後に大きな問題になってきます。

横浜は、国内でも数少ない貿易都市として認定されていて、外国人と交流できるという特権を持っているわけですが、居留地が撤廃されるとその特権がなくなってしまうので、どうやって生きのびていくのかを考えなければならない。これが明治20年代から40年代の横浜の大きな課題でした。

また、静岡県の清水や九州の門司のようなところが国際港になっていき、相対的に横浜の貿易港としての地位が下がってくる。さらに明治30年代ぐらいから工業化計画が出て、沿岸地帯の工業地化は、市も国も一緒になってやっていくけれど、大きな企業がなかなか進出してこない。原や茂木といった大きな貿易商たちが総合商社に転換を図ろうとするけれど、それもうまくいかない。中央の東京資本の三井、住友などの財閥とも形が違う。その中でどう模索するかという問題があった。

今回の本では、耕地整理の碑に注目した部分があります。農業地域を区画整理して、工業地化を図る動きがあった。事実、保土ヶ谷や戸塚の柏尾川周辺、鶴見川沿岸でも工業地帯が形成されます。

横浜を支えていたのは貿易ですから、開港以来、生糸や茶の生産地との経済関係が強かった。周辺の農村部はもうちょっと地味で、日用消費物資を供給するような役割を果していました。ところが、近代になり、居留地が撤廃されるころに、そういう地域を工業地化することで、横浜の中心部も生き残ろうとする動きがでてくるんです。

開港場の労働者で賑わった伊勢佐木町

西川横浜市ふるさと歴史財団では伊勢佐木町にこだわった研究もずっとやってきていまして、その成果も本の中に載せています。

松信大阪の千日前、東京の浅草と肩を並べるほどの賑わいで、デパートは野沢屋も越前屋もあるという時代があった。そういう盛り場はどう形成されたんでしょうか。

高村当初の開港場はたちまち手狭になり、日本人にしても、裕福な貿易商人はとどまれますが、それを支える庶民といいますか、働く人たちはそこからはみ出していく。彼らが元吉田新田に住み着きます。人口構成を見ると、圧倒的にひとり者の青・壮年の男子が多い。すると当然盛り場が栄えてくる。明治の初めから、政府があの一帯を盛り場にしようという誘導政策をとり、芝居小屋がどんどんできる。次の時代には映画館が建つ。伊勢佐木町を追いかけたところは、この本の一つの特徴になったと思います。

関東大震災を経て貿易の港都から工業都市へ

高村近代の横浜は大きな挫折がありまして、関東大震災で横浜はだめになってしまうのではないかと言われたことがあった。関東大震災の様子は、当時の記録映画を写真として紹介しています。

震災後の復興という部分に大きなウエートを置いているのも、今度の特徴だと思うんですが、「大横浜」ということが言われまして、旧来の横浜の復興だけではなく、もっと大きくするんだということで、市域の合併が第3次から6次まで次々行われます。

それと関連して、極端に言うと、本当の工業化はこの時期に進むと思うんですが、市が率先して海岸部を埋め立て、大企業の誘致を進めていきます。その辺にスポットを当てたのも、この本の特徴かと思います。

松信横浜は、開港期は貿易の港都であったのが、工業都市になっていく。

高村特に重化学工業が急速に発達します。

大きな挫折――関東大震災と大空襲

松信もう一つ忘れてならないのは、空襲と占領ですね。

高村横浜には、大きな挫折がもう一つありました。大震災からようやく回復したと思ったら、今度は空襲です。昭和20年5月29日の大空襲で、またも中心部が壊滅状態になる。

しかも、その壊滅したところに占領軍が入ってきて、横浜は占領軍の拠点になるわけです。沖縄を別にすると、一番大きな拠点が横浜でした。したがって、復興は非常に難しく、ある意味で非常に悲惨な状況があったわけですが、そこからまた、立ち直った。そればかりか巨大都市にまでなっていくという大変貌を遂げていきます。この本では、その過程を大づかみに、戦争、占領と接収、そして復興から高度成長、巨大都市へということで取り上げております。

松信有隣堂も空襲で焼失した店舗の敷地が接収され、約10年間、野毛で仮営業を続けて、昭和31年にようやく伊勢佐木町に戻りました。横浜の商人の方々の多くが震災に遭い、空襲で焼かれ、占領にも遭った。ひどい目に遭ったけれども、ようやく立ち直ってきたんですね。

高村接収解除が本格的に始まるのは、講和条約が昭和27年4月に発効してからですね。

戦後の横浜を特徴づけるのは住宅地化です。横浜市の人口は戦災で一時、100万人を割りますが、昭和26年には再び100万人を超え、43年には200万人を突破し、53年にはついに大阪市の人口を抜いて、東京に次いで第二の都市になります。

しかし、そこには急激な人口増加にともなうさまざまな歪みが生み出されることにもなって、都心臨港部の再開発や金沢地先の埋立、港北ニュータウンの造成などを盛り込んだ「6大事業」というプロジェクトが計画され、それに基づいて、みなとみらい地区が完成し、港湾施設の跡地を再開発して、赤レンガパークなどが誕生し、そこを会場の一つとして、150周年の催しが行われているわけです。

見て楽しい、歴史を旅するような本

開港50年祭に沸く賑町

開港50年祭に沸く賑町
有隣堂蔵

松信横浜では、開港50年に始まる記念の出版物をつくる伝統のようなものがありますね。

高村1909年はちょうど有隣堂さんの開業の年でもありますが、今の「みなとみらい」の新港地区、新港ふ頭が埋め立て中で、その埋立地で開港50年の祝賀祭をやっているんです。そしてそれに合わせて『横浜開港五十年史』、あるいは『横浜開港側面史』という本が出ている。その辺から、横浜の歴史を振り返ろうという流れが出始めたのかなと思います。そして昭和3年には『開港七十年記念横浜史料』が出されている。

特筆されるのは戦後で、昭和33年に「開港100年祭」があり、『横浜市史』の刊行が始まります。当時の資料を見ますと、昭和33年は一般的には高度成長に入っていますが、横浜の場合は、まだ復興期とダブっているところがあります。100年祭の国際仮装行列が行われたときは、開港記念横浜会館はまだ接収中で、その1ヶ月後ぐらいに解除になる。それが横浜の姿だった。それだけに歴史を振り返りたいという気持ちが強かったのではないか。

『横浜市史』はこのときの記念事業の目玉で、5年間で5冊出して完結する計画でした。実際は28年かかったわけですが、市政の関係者を含め、横浜市の歴史をまとめるということに関して、非常に熱が高かったように思います。結果、非常に立派な『横浜市史』ができます。これは特に貿易を中心にした経済史とはっきり重点を決めておりまして、学会においても高く評価されました。

その後、市政100周年、開港130年を前に、『横浜市史Ⅱ』の編集事業が始まり、実際に1冊目が出たのは市政100周年、ちょうど「横浜博覧会」があったときです。節目、節目に歴史を振り返るという流れがあったかと思います。

海外で集めた写真や20年間の研究成果を盛り込む

露天の土産品を見る米軍兵士

露天の土産品を見る米軍兵士
米国国立公文書館蔵 横浜市史資料室提供

高村横浜は関東大震災や空襲があった関係で、市内の資料が乏しいものですから、『横浜市史Ⅱ』の編集の過程で、アメリカなど海外から資料を集めまして、横浜市史資料室に歴史的に貴重な写真も相当蓄えられました。そういう中から、空襲ですとか、アメリカ軍が撮影した占領下の横浜の姿といったものを、この本では、図版で特集しております。

市史Ⅱに合わせて、横浜市は『図説・横浜の歴史』を、ちょうど今から20年前に発刊しました。私事で恐縮ですが、そのまとめ役を私がやりました。今回また、図版中心の横浜の歴史の本をつくることになって、どこに新しさを出せばいいかということは絶えず頭にあったわけです。

20年前は、歴史関連の施設は横浜開港資料館だけでした。その後、横浜市歴史博物館ができ、横浜都市発展記念館もできて、組織として整ってきました。そしてこの間に各施設の研究者たちが企画展示や図録などを通じて蓄積してきた成果をぜひ反映させ、今回の本に極力盛り込みたいということで進めてまいりました。

ただ、「歴史と文化」と名をつけたんですが、文化のところ、特に近代の部分では、ふるさと歴史財団の研究者ではどうしても力が及ばないところもあります。

そこで、明治期に横浜で製作されて輸出された陶磁器の真葛焼や、イギリスのコレクターが収集した銀細工とか芝山漆器、また三溪園を創設した原富太郎のもとに集まった近代日本画家たちの作品、あるいは大正・昭和の横浜の風景画などは、美術関係の専門の方々にご協力をいただきました。おかげで、見て楽しい、歴史を旅するような本になったと思っています。

松信横浜市民必読の書になるんじゃないでしょうか。

高村そうありたいと思っているんです。

松信きょうは本当にありがとうございました。

高村直助 (たかむら なおすけ)

1936年大阪市生れ。
著書『都市横浜の半世紀』 有隣堂 1,200円+税、ほか。

斉藤 司 (さいとう つかさ)

1960年横須賀市生れ。
共著『江戸時代神奈川の100人』 有隣堂 2,300円+税、ほか。

西川武臣 (にしかわ たけおみ)

1955年名古屋市生れ。
著書『亞墨理駕船渡来日記』 神奈川新聞社 1,400円+税、ほか。

平野卓治 (ひらの たくじ)

1959年東京都生れ。

※「有鄰」499号本紙では1~3ページに掲載されています。

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