藤谷 治
僕は小説に自分の知っているところの話を書くことが多い。というか、知っている場所の話しか書いたことがないかもしれないくらいだ。自分の店がある下北沢を筆頭に、自宅と妻の実家がある多摩川界隈、渋谷、そして少年時代を過ごした鎌倉。『いなかのせんきょ』や『誰にも見えない』といった、ある意味で架空の場所を舞台にしている場合でも、僕はとりあえず田舎らしいところ、主人公の少女が一人旅できるところへ、実際に行ってみる。まったく見たこともない場所の話は書いたことがなく、常にどこかに知っている場所がある。
ところが僕は藤沢の話を書いたことがない。藤沢には1980年代から両親の買った一軒家があって、当然僕ら子供たちも鎌倉から引越してきて、高校も大学もそこから通ったのだし、30代まで自分の部屋はあった。一番長く住んでいるのである。両親は今でも住んでいるのである。それなのに藤沢は、一度も僕の小説に出てきたことはない。そして今のところ、今後も出てくる気配がない。今シャカリキになって書いている『船に乗れ!』という小説は僕の高校時代を思い出しつつ書いているのだが、主人公の家は藤沢ではなく、横浜の本牧に設定した。
なんでだろう。僕は藤沢を避けているのか?
実をいうと、小説を書くときに藤沢のことなんて、念頭にも浮かんだことはなかった。またそうであることを、しっかりと考えたこともなかった。今回、お題を「藤沢」といただいたので、今これを書きながら考えているのである。
あのー、藤沢っていうと普通、普通というのも曖昧な言い草だが、普通みんな「海が近い」というイメージを持っている。これがまず僕にはシャクだ。というのも僕の両親の家は、藤沢といっても遊行寺の坂を上りきったところにあるからだ。箱根駅伝有数の難所として知られる、横浜市戸塚区と隣接した住宅地である。険しい坂の頂上、といって山の上というわけでもないが、東海道の宿場としての藤沢にはまだ入っていない街道の途中で、要するに今も昔も何にもないところだ。ちょっとの期間ここには、広いばっかりで何が置いてあるというわけでもない書店がひとつあったが、いつの間にかなくなった。数年前にそこから200メートルばかり離れたところにコンビニができて、僕の弟を始めとする近隣住民が大喜びしたという、まあ神奈川県藤沢市とは思えぬ田舎ぶりである。
藤沢といえば海、サーフィン、湘南、江ノ島。そういう藤沢には僕は住んだことがないのだ。しかしはっきりいって、そんなカッコイイ藤沢に住んでいる人なんて、藤沢市民の選ばれた一部の人だと思うよ。住んでみればどこでもそうかもしれないが、広いよ藤沢。
僕にとっての藤沢は、だから駅前から南仲通り商店街、そして藤沢小学校から藤沢橋へ抜けて遊行寺へ、といった狭くて偏った範囲でしかない。つまり北口だ。江ノ電もでっかいデパートもある南口のことは、駅前の繁華街しか知らない。その向こうに江ノ島はあるというのに。
藤沢から江ノ島や海や「湘南」を取ったら、ただ人が住んでいる街だけが残る。僕にとって藤沢は、ただ人の住んでいるだけの街であるか。そうかもしれない。
そう思うには、家のある場所のほかに、もうひとつ理由があった。今発見したのだ。藤沢には僕の学校がない。母校がないのである。小学校も中学校も鎌倉にあって、高校は川崎、大学は東京。藤沢小学校にも藤嶺[とうれい]学園にも通っていない。だから「地元の友だち」というのがいないのである。ちなみには弟は藤沢で義務教育を受けている。だから藤沢がよく馴染んでいる。友だちがいるかいないかは大きいだろう。地元の友だちがいなければ、地元で遊ぶこともなく、従って藤沢には、行きつけの喫茶店も呑み屋もない、ということになる。んー、考えてみると、僕にはそもそもあんまり友だちというのはいないようだ。むしろ大きくなって、40過ぎて、物書き商売を始めてから、友だちはできた。こんなのはまったく余談だけれど、とにかく藤沢に友だちはいなかったし、今もいない。
じゃ、何があったんだというと、まず家があったということは、つまり寝床があった。よそで遊んで活動をして、藤沢には寝に帰ってきたようなものである。そういう面が僕にとっての藤沢にあったことは、悪いけれども否めない。まして物心ついてから自我の形成期までを、鎌倉で過ごした僕から見ると、藤沢というのはいかにもオモムキのない、通俗な場所に思えてしかたがなかった。なんかすみませんね、こんな話ばっかりで。
だけどやっぱり、「住めば都」じゃないけれど、藤沢には住んで良かったと思わせるものがたくさんある。江ノ島やサーフィンも決して悪くはないが、しかし定住して自慢できる藤沢といえば、何といってもその文化的な側面だ。江ノ島の水族館は日本有数だし、近頃ますます良くなった。市民会館大ホールで僕は、生まれて初めてチェロのコンサートというものを見たのである。市民会館なんて日本国中にあるけれど、中学生になったかならずの僕は、こういうところは鎌倉にはないなあ、と子供心に思ったものだ。当時鎌倉にコンサートホールらしいものといえば、公民館しかなかった。
そうそう、鎌倉には映画館もテアトル鎌倉1軒しかなかったね。大船まで行けばいくつかあったみたいだけど、稲村ガ崎に住んでいる子供に大船は遠かった。藤沢に越してきてまず食いついたのが映画館である。オデヲン座ありみゆき座あり藤沢中央あり、お小遣いが足りなくなるくらい、藤沢の映画は絢爛としていた。
そして、そう、活字文化ですよ。僕にとって藤沢といえば有隣堂藤沢店といっても過言ではないくらい、この店にはよく通った。お世辞にならないように公平を期すが、僕は当時となりのビルにあった西武のリブロにも通っていた。1980年代のリブロといったら、そりゃもう飛ぶ鳥を落とす勢いであって、ニュー・アカデミズム大好き少年だった僕にとっては、宝の山のように見えたものだ。今の人が書店をどう見ているのかは知らないが、当時は書店によってカラーがはっきりしていたのである。本なんかどこで売っても同じなのに、考えてみると不思議なもんだね。1980年代はリブロの時代でもあった。
有隣堂は時代とは無関係である。それは神奈川県を中心とした書籍文化の牙城である。時代によって右往左往してもらっては困る存在だ。藤沢店がいい例である。当時から30年間、ほぼ何の変りもなく堂々と店を開いている。フジサワ名店ビルという、おそらく藤沢駅前最古のビルの、3階が文具で4階が一般ウケのする書籍と雑誌で、5階が歴史とか人文とか専門書になっていた。当時の鎌倉の小さな本屋さんに慣れていた僕には、殆んどぎょっとするような書物の伽藍だった。
あんなに長期間、毎日のように通った書店はほかにないし、これからもあるまい。地元の友だちがいない、学校へ通うのにかならず電車を使わなければならなかった僕にとって、通学(のちには通勤も)の途中で読む本というのは必須だった。出かける前に書店へ立ち寄って、小田急線や東海道線で読む本を見繕っているうちに、乗るべき電車を逃してしまうなんてことはしょっちゅうだった。で帰ってくると今度は、家で読む本を探しに行く。長時間の移動に耐える読み応えを求めて、本の趣味は自然と多岐にわたっていった。
そう考えていくと、僕が単なる本好きから、小説家になりたいと思うようになるにあたっては、越境通学と藤沢の書店が、大きく影響しているのが判る。とりわけ友だちのいなかった僕には、本は絶対に必要な「話し相手」でさえあった。読書がただ書かれている言葉を「聞く」だけの行為ではなく、こちらから積極的に「語りかけていく」ことでもあると知ったのも、藤沢時代のことだった。
だから今、有隣堂の藤沢店が僕の本を売ってくれているのは本当に有難いことだ。大げさにいうと、えにしを感じる。ただしこの数年に僕の本をどれだけ売っても、僕があの店に支払った本代には、まだ当分届かないだろう。
藤沢を小説の舞台にできないのも無理はない。こうして書いてみるとつくづく判る。それは藤沢がベッドタウンだからでもなければ通俗だからでもない(「通俗でない街」など存在しないだろう)。僕の考えの整理がついていないのだ。藤沢は僕の足元を今も支えている街である。そして人間、足元に何があるかをしっかり見定めるくらい難しいことはない。乱文失礼。これが僕の藤沢です。
※「有鄰」499号本紙では4ページに掲載されています。
横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(12)
吉田鋼市
川崎鉄三は、昭和初期の横浜に珠玉のようなモダニズムの建物を残して去った建築家である。横浜における活動はほんの数年間であり、その作品も7つしか知られていないが、そのうち3つが現存しており、いまも驚くべき斬新さを示している。彼の重要性については堀勇良氏が早くから指摘され、その経歴もかなり明らかにされたが、彼の確かな生没年はいまだに不明。明治45年に東京高等工業学校(現東京工業大学)建築科の選科を修了しているが、当時の東京高等工業学校一覧の卒業者名の彼の欄には「石平」(本籍の府県と族籍のこと)としてあるから、石川県の出身であろう。亡くなったのは、東京高工同期の卒業生の随筆内容からすると昭和7年と推察され、昭和6年以降は日本建築学会会員名簿からも消える。普通に20歳前半で学校を出ているとすれば、40半ばに達しない若さで亡くなったことになる。
東京高工修了後、台湾など海外での勤務の後、大正8年から13年まで福井県庁に勤めている。その後、短期間東京で仕事をし、大正14年の若尾幾太郎商店のビル新築の設計とともに横浜にやって来て、本町工務所主を名乗っている。これは若尾商店の建築部のような存在であったらしく、事務所も若尾ビル内にあった。若尾幾太郎(1884−1938)の父親幾造は甲斐出身の生糸王若尾逸平の弟である。この若尾ビルが川崎鉄三の横浜デビュー作であるが、現存しない。しかし、壁や柱頭部分のオリジナルの装飾が、本町三丁目交差点の跡地に建てられた新しいビルに用いられている。
先述の3つの現存作品というのは、ジャパンエキスプレスビル(昭和5年)、インペリアルビル(昭和5年)、昭和ビル(昭和6年、当初はカストム・ブローカー・ビルという双子のビルだったが、キッコーマンビルとして使われていた片割れは平成12年に解体)である。最初の2つは横浜におけるモダニズム建築の最先端。特に後者のガラス張りのファサードは1階部分に少し改造があるもののまことに清新。そして、昭和ビルから横浜海洋会館、横浜貿易協会ビル、ジャパンエキスプレスビルへと続く一連のすべてのビルの設計か施工監理に川崎が関与していると見られ(海洋会館は確実ではない)、この日本大通りの先端から大桟橋へと至る一画の建物群は川崎鉄三の輝けるモニュメントなのである。
※「有鄰」499号本紙では4ページに掲載されています。