Web版 有鄰

497平成21年4月10日発行

初体験尽くしの横浜 – 特集1

楊 逸

ハルビンから日本に来たのは鮮やかな春

横浜中華街善隣門

横浜中華街善隣門

横浜。中学時代の地理科の教科書に一度見たことがあるかもしれないが、決して記憶に残るほどインパクトのある名前ではなかった。きっとその名は世界の数知れない有名都市と同じように、当時の私にとって、蒼白たる活字であるほか何も感じなかったのだろう。

そんな他愛ない学生生活の中、気づかぬも春めく時代はすぐ傍に訪れていた。ある日夕食後、片付けが終わって、いつものように、勉強に部屋へ戻ろうとしたその時、両親は神妙な面持ちで、私達兄妹を引きとめた。こっそりかつ丁重に、一通の手紙を綺麗に拭かれたテーブルにそっと置いた。B5サイズの茶色封筒に、秀逸な筆ペンの字で「日本国横浜港……」と綴ってあった。

その瞬間「横浜港」の横浜ではなく、語尾の港がスッと私の頭にしのびこみ、海に囲まれた都市風景が風船のように大きく膨らんだ。そう言っても、内陸地育ちで海を見たこともないような私には限りある想像しか出来なかったのだが、海を知らない分だけ憧れも人一倍強いものがあった。

わざともったいぶっていたのか、母は丁寧の上に丁寧を重ね、封筒から徐に写真を取り出して私達に見せた。眩かった。今となっては、思い起こそうにも眩い記憶は逆光で撮った写真のようにボンヤリとしている。

伯父一家――カラフルなファッションを身に纏った美男美女の従兄弟たち。驚嘆の声は尻尾のところで溜息に変わっていった。言葉など失うしかなかった。同じ人間であるという意識も失った。

それから、私の他愛ない生活はまた数年続き、あと半年で大学を卒業するという微妙な時期に日本留学のビザが突然下りた。私は少しも躊躇うことなく親から日本円の3万円という「大金」をもらい、さっさと故郷—海のない内陸の酷寒の地—ハルビンを離れた。

日本に来たのはちょうど3月――鮮やかな春だった。乗り換えの新宿駅では、私と大して歳の変わらぬ卒業式帰りの和服美人が、三々五々、優雅で上品に目の前を通り過ぎていく。人民服に近い格好の私は大きな荷物を引っ張りながら、この鮮やかな世界にキョロキョロと、懸命に瞳を廻した。今思い起こせば私のあの滑稽な出で立ちは、その穏やかな風景を唐突に壊したに違いない。

2週間後、伯父への挨拶のために初めて横浜へ向かった。関内駅を下りスタジアムに沿って、中華街方面に行くと遠くから突如、赤い門が現れた。古代中国にでもタイムスリップしてしまったのか、と一瞬勘違いしそうになったが、立ち止まって往来する車や人々を確認するや、日本の横浜だったのかと気を取り戻し、ホッとした。

中華街の歴史は、横浜が開港した150年前に遡る。ペリーの来航ののち、欧米人との商いが日に日に身近になっていくが、言葉が通じないと商売が成り立たないため、通訳が必要になったという。それが横浜華僑の始まりである。欧米人との貿易経験を持つ中国沿海出身の人たちは、日本にやってきて、欧米人とは英語で話し、一方で日本人とは漢字で筆談し、通訳の役割を果たしたのだった。

そういう経緯もあって、労働者として東南アジアやアメリカに住みついた華僑とは違い、横浜の中華街の華僑は、最初から商人だったというのが特徴であるという。

中華街に住む華僑のもう一つの特徴は、職種に関することである。代表的なものはどれも「刀」(刃物)と関連しているので、「三把刀」と集約された。

「刀」と聞けば、私は真っ先に中華包丁をイメージした。なぜならば、伯父はまさにその中華包丁を道具とする商売――レストランを経営しているからだ。

中華包丁を表す飲食業以外に、洋裁業と理髪業がある。欧米人の通訳から一般の日本人社会に進出するには、日常生活に欠かせない職業を選んだ訳だ。

明治32年の「外国人居留地の撤廃」に加え、大正12年の関東大震災を経て、元々6千近くいた華僑は一時期4百余りまでに減ることもあった。戦後の復興期に横浜を通じて外国との貿易も盛んになり、中華街も目新しい発展を遂げた。

「中華街」と書かれた牌楼を建てたのもこの時期だった。赤をメインとした色鮮やかな中国風の楼閣のレストランが軒を並べる町並みは、いつしか横浜の名物観光スポットになっていた。

通じない中国語と中国にはない中華の味

ここまで述べた中華街の歴史を知ったのは、つい最近のことで、もちろん初めて中華街に来た20年ほど前には、知るわけもなかった。遠くからまず赤い門を見てびっくりし、赤い門に入るなり、あたりに立ち上る蒸し物の湯気にまたびっくりし、更に店先や街角でぽつりと営んでいる「天津甘栗」のスタンドもあり、目を見張るばかりだった。

雪で町を真っ白に染まった故郷ハルビンの街角にも、ファミレスの四角いテーブル程の大きい竈に鉄鍋を置き、沙を敷いた中に栗を入れ、スコップで豪快に仰ぎながら、「こら、栗栗、甘いぞ」との呼び売りに、よく引っかかったものだ。栗は何処産とは、一度たりも考えたことはなかった。まさかそれが天津栗だと、この横浜の中華街に来て知るのも変だと思った。

中華街の住民は中国人かと思いこんでいた。会えば故郷を離れた苦労話を語り合えるかと思っていたら、見当違いだった。ここの住民は中国人というより華僑だ。明らかに私と違う中国人、いわゆる中国系の日本人なのだ。

東洋訛りの中国語で色々と聞かれたりするが、いつも私が吐いた大陸人しか通じない政治色のある日常用語で途切れる。迷い込んだこの別世界では、言葉が通じても別の人類としか思えなかった。むしろ言葉の通じない日本人の方がずっと当たり前で納得のいく自然さを感じた。とても表現しようのない新鮮さと孤独感とが混じった複雑な感覚だった。

帰りに、街角に溢れる肉まんの蒸気と当時の私でもわかるような中華訛りの日本語の売り声に誘惑され、肉まんを買って中華街を迷いまくった。ハルビンの肉まんでは考えられないほどの甘さのある生地と原型のわからないような具材。横浜中華街にぴったり合う味だが、中国にはない中華の味でもあるのだった。

日の出を迎える朝陽門、厄除けて福招く朱雀門、平安を願う延平門、子孫繁栄をもたらす玄武門。どの門がどこにあるのかも知らず、とにかく沢山の門を潜った覚えがあり、鮮やかな中華料理の看板は紛らわしいとさえ思った。

道端に小売りに出している土産物を見ても目が眩むばかりで、諸悪の根源である地主の象徴ファッションは、この町では何の悪気もなく平然と売られている。あまりにも滑稽な風景に、思わず地主の「瓜皮帽」(おわん帽)を手に取って頭に被ってみたり、鏡の前で青々しいチャイナドレスを自分の体に合わせたりして、生まれてからずっと仕込まれてきた階級への憎しみは、跡形もなくどこかへ消えてしまった。

異国で得た穏やかさなのだろうか、階級があることが自然で、逆にそれまでの貧乏になろうとするばかりの中国人的な価値観にいささか疑問を抱くようにもなった。

異国の地で守られている四千年の伝統と文化

夕方早く、空の青も海の青もともに眩しさを増し輝く頃、横浜の名所(のちに恋人達に好まれる名所でもあると知った)山下公園に立ち寄った。春のそよ風の中、満開の桜が一つまた一つ、無言で舞い落ちてくる。海に面した長いベンチに腰掛け、足元で喉を鳴らしながら悠然と餌を食べる鳩たちにうろちょろされながら、海の波に聞き入った。私の脈ないし心臓の鼓動と同じリズムだと、初めて海を見て海の呼吸を感じた時だった。

海の向こうには果てしない海が永遠と広がっていた。私はやはり別世界に迷い込んだのだ。その世界が恋しくて、何時までもベンチを離れることが名残惜しかった。

以来海が好きになり、海の呼吸を心地良く感じ、どんなに辛いことがあろうと、海の躍る波を見れば、何もかもちっぽけになってやがて身体から抜け、すっきりさっぱりときれいになるようにも感じた。

数年後、中国の春節の挨拶のため、また中華街の伯父の所を訪ねた際、火事の被害に遭った関帝廟がちょうど再建され、伯母に連れられて拝みに行った。廟寺に踏み込んだのは初めてだった。

関帝の赤い顔を直視することも出来ず、こっそりと一目だけ見たが、お香を上げ、拝みながらお願いするという一連の作法がわかるわけもなく、ただただ伯母の後ろで戸惑いながらマネするだけだった。

義の象徴となった関帝様に願い事はおろか、何のためにここに入ったのかも考えなかった。頭は真っ白で夢か現かの朦朧とした状態だった。かつて「破四旧」(旧思想旧文化旧風俗旧習慣を打破する)の渦に巻き込まれた子どもは、異国に渡った関帝様に拝んでご加護を願った。私達の革命行為によって失われた中国の四千年の伝統と文化は、この異国の地でしっかりと守られ伝承されている。長い溜息をつき、私も顔を赤めて関帝の足元でたじろいだ。

今年で来日してからもう22年になる。横浜は中華街である、或いは中華街は横浜である、という当初の思い込みもすっかり氷解した。中華街は港町横浜の一角に過ぎず、道に隔てた向こうには伊勢佐木町があり、欧米人の居留地という欧米文化の色が濃く滲んだところや、昔から日本人が集中して住んだ一角など様々の表情が見えてくる。

150年前に小さな漁村から港大都市へと変貌し、今や中国文化をはじめ欧米文化に至るまで様々な外国文化を日本各地へと発信するフロンティアの国際都市にまで成長した。見つめていない私でも目まぐるしく感じずにいられないほどである。

港という文字に憧れ、来日してから横浜の風景に目覚め、その潮味たっぷりの空気がたまらなく好きになった。そして今、横浜の多様な文化の味わいにやみつきになっている。150歳の横浜港、この若さにして歴史と文化に紡がれた不思議な魅力と共に、これからも異彩を放つ存在だろう。

楊 逸 (ヤン イー)氏
楊 逸 (ヤン イー)

1964年中国・ハルビン市生まれ。作家。
著書『時が滲む朝』(芥川賞受賞) 文藝春秋 1,238円+税ほか。

写真・文藝春秋提供

※「有鄰」497号本紙では1ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(10)

アントニン・レーモンド
Antonin Raymond(1888−1976)
――日本のモダニズム建築の先駆者

吉田鋼市

山下町にあったシェル石油ビル

山下町にあったシェル石油ビル
1980年8月撮影

アントニン・レーモンドは、戦前・前後を通じて日本の建築に大きな影響を与えた人である。チェコの出身で、名門プラハ工科大学(1920年からチェコ工科大学となる)を出た翌年にアメリカに渡り、大正8年にF・L・ライトと共に帝国ホテルの仕事で来日。まもなく独立して昭和12年まで日本で活躍。戦争中はアメリカに戻っているが、昭和23年に再来日、昭和48年に帰米するまで活発な活動をした。特に、戦前と日本の建設活動がままならなかった戦後直後において、東京・霊南坂の自邸やリーダーズ・ダイジェスト東京支社など、国際的なレベルのモダニズム建築(無装飾の白い箱形の建築)を実現させ、日本の建築家たちに強い影響を与えた。先にあげた2つの建物はいまはないが、群馬音楽センター、南山大学など現存作品もかなりある。

日本で活躍した期間は、88年の生涯のほぼ半分の43年間。その長さは近江兄弟社のW・M・ヴォーリズには及ばないが、日本の近代建築の父J・コンドルを少し上回る。やや曖昧な言い方になるが、ヴォーリズが新しさよりも現実の生活の中に入り込んだのに対し、レーモンドは斬新なアートに切り込んだ。コンドルが日本に沈潜したとすれば、レーモンドは日本から跳躍した。

彼は横浜に住んだわけでも事務所を構えたわけでもないが、30を越える数の仕事を横浜でもしている。多くは外国資本の企業関連の施設や外国人の住宅である。しかし、現存のものはフェリス女学院大学10号館(昭和4年、旧ライジングサン石油社宅)、伊勢佐木町の不二家(昭和11年)、エリスマン邸(大正15年、平成2年に元町公園内に移築)だけになってしまった。ほかに、山下町にあったシェル石油ビル(昭和4年)の回転ドアが、跡地に建てられたマンションに保存されており、昭和4年のスタンダード石油社宅が昭和60年にパークシティ本牧クラブハウスとして再現されている。また、戦後の比較的最近のものもいくつかある。神奈川県内では藤沢の県立体育センター合宿所(昭和7年、旧藤沢ゴルフクラブハウス)が健在。

「日本の」モダニズム建築のパイオニア、「日本で」活躍した「チェコ出身」の「米国籍」の建築家といった限定詞つきのものが、これまでレーモンドの評価であったようだが、単純に近代モダニズムの先駆的な建築家となる可能性も十分ある。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」497号本紙では4ページに掲載されています。

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