Web版 有鄰

497平成21年4月10日発行

有鄰らいぶらりい

ポトスライムの舟』 津村記久子:著/講談社:刊/1,300円+税

第140回芥川賞受賞作。新卒で入った会社を上司のモラルハラスメントでやめ、工場で働いている29歳の独身女性ナガセの日常が坦々と語られている。

時給800円のパートから月給手取り13万8千円の契約社員になったナガセは、職場の掲示板に張られたポスター、NGO主催の世界一周クルージング163万円に惹かれるが、単純作業の途中、その金額が自分の年収とほぼ同額なのだと、唐突に気づく。

大阪からナガセのいる奈良に来てカフェを開いているやはり独身のヨシカと2人の既婚者。4人の元大学同級生を中心に話は進む。

りつ子の離婚話以外、ドラマらしいドラマは何もなく、ひたすらナガセの目を通したその内面や、友人たちの動向がつづられているだけなのに最後まで一種、緊張感のある興味を持って読ませる。4人を始め、周囲の人物像に存在感があり、社会環境などを的確に捉えている隙のない文章のせいだろう。いま流行の間違い言葉で言えば「なにげに面白い」小説である。

選者たちも「目新しい風俗など何も描写されていないのに、今の時代を感じさせる」(山田詠美) 「至近距離しか見えない女たちだが、それゆえ奇妙な味のおかしみと明るさ、さらにはやるせない希望の匂いが伝わってくる」(高樹のぶ子)などと評している。

幕末下級武士のリストラ戦記』 安藤優一郎:著/文春新書:刊/730円+税

東京に御徒町という地名を残した御徒組の一員として幕末まで将軍を警護し、維新後も76歳まで生きた山本正恒が、自らの生涯をスケッチと文でつづった「正恒一代記」という自分史を、時代背景とともに紹介した本である。

著者は「当時の武士の仕事ぶりや暮らし向きを知ることのできる貴重な記録」であるとともに、幕末維新という時代を、敗者側の正恒が「幕臣の誇りを持ちながら必死に生き続けた」日々がリアルに伝わってくると言う。

同じ御徒の三男として生まれた正恒は、5歳で父を亡くし、11歳から上野寛永寺内の寺に奉公、16歳で本家の婿養子と、出仕前の人生も波乱に富むが、運命が激変するのはやはり戊辰戦争以後。

明治維新で徳川家が静岡藩主となり、幕臣の大リストラを行ったときは、無禄覚悟で静岡に移住、廃藩置県後は浜松、熊谷、群馬各県の役人を歴任。その後小間物屋を始めたり、晩年は帝国博物館(現東京国立博物館)で資料の謄写業務を行うなど転々。この間、何度も生死の境をさまよったり、突然職を失って妻子を抱えて内職をしながら就職活動をしたりと、文字通り波乱万丈の人生を送っている。

もうひとつの日露戦争
K・サルキソフ:著/朝日新聞出版:刊/1,500円+税

『もうひとつの日露戦争』・表紙

『もうひとつの日露戦争』
朝日新聞出版:刊

1905年(明治38年)、対馬沖で戦われた日本海海戦は、日本側の大勝に終わった。この本は、その100年後、新たに発見された、当時のロシア・バルチック艦隊司令長官、ロジェストヴェンスキーの書簡をもとに、ロシア側が戦う前からすでに負けていたともいえる状況を詳しく伝えている。著者は、ソ連科学アカデミーの「日本研究センター」初代所長などを務めたあと、現在は山梨学院大学などで教鞭を取っている知日家。

2004年3月、日露戦争終結百周年を記念してロシアで開かれた国際会議では、連合艦隊司令長官、東郷平八郎の曾孫、保坂宗子さんとロジェストヴェンスキー提督の曾孫、スペチンスキー氏が顔を合わせたという。このとき、スペンチスキー氏と親しくなった著者は、翌年、甲府市で再び開かれた会議に出席した氏から、提督の妻宛の書簡が現存すると言う「衝撃的な事実」を知らされる。

30通の手紙はほとんどが半年を越す大航海中、最後の手紙は彼が捕虜収容所にいた日本から出されている。輸送船を含めるとほぼ50隻、乗員1万2千人の大艦隊を率いる提督が、寄せ集めで故障の絶えない劣悪な船、英国をはじめ西欧各国から敵視され港への寄航、食料調達などに難渋。「私は生きて帰れるとは思えない」など、すでに敗戦を予想していたことが分かる。

編集者魂』 高橋一清:著/青志社:刊/1,600円+税

編集者と作家の関係が希薄になったといわれる現在、この本は、作家と編集者が一体となって作品を仕上げた時代の貴重な記録といえる。

中でも表題を象徴するのは中上健次との関係だろう。昭和42年(1967年)、文藝春秋に入社した著者は、注目していた無名の新人、中上に「文学界」の巻頭詩を依頼する。以後、他の部署に移ってからも関係を絶やさず6年ぶりに「文学界」編集部に戻るとすぐ書下ろしを依頼。1年後、のち芥川賞を受け、代表作となる『岬』を受け取る。

すさまじいのは、そこからで、翌日、作品を読み上げた著者は、次の日、大幅な書き直しを求める。その後も「知る限りの小説の方法」を中上に示し、都合9回もの手直しを求め、校了後、自分の執拗さに反省までする経過を仔細に書いている。

入社後初の仕事が、新橋駅止めの「列車便」で大阪から来る司馬遼太郎の原稿受けで、このとき先輩から言われた「お前は死んでもいいけど原稿だけは絶対に持って来い」という言葉が、最初に聞かされた「心得」だった、という話。松本清張宅に原稿受けに行ってドテラを着た小柄な老人を、これが大作家であるわけがないと、「先生をお願いします」と繰り返した失敗談など、著者が担当した物故作家14人との関わりを描いている。

(K・K)

※「有鄰」497号本紙では5ページに掲載されています。

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