Web版 有鄰

497平成21年4月10日発行

[座談会]動物園は面白い

日本博物館協会顧問 元上野動物園園長・中川志郎
成城大学学長 三井記念美術館館長・清水眞澄
有隣堂社長・松信 裕

左から清水眞澄・中川志郎の各氏と松信 裕

左から清水眞澄・中川志郎の各氏と松信 裕

はじめに

多摩動物公園のライオンバス

多摩動物公園のライオンバス
中川志郎氏提供

松信動物園を訪れると、ゾウ、キリン、サイ、シマウマなど、鼻や首が長かったり、角が生えていたり、縞模様があったりと、人間とは違う多彩な生物に出会うことができます。

動物園は古くから子どもから大人まで楽しめる博物館施設として親しまれてきました。また近年は、北海道旭川の旭山動物園に見られるように、動物本来の動きを引き出す展示や、生息地の自然環境を取り入れた展示をする動物園も増えています。

本日は、「見せる側」と「見る側」の双方の視点から、動物園の魅力と楽しみ方についてお話をいただきながら、国内や世界各地の特色ある動物園をご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました中川志郎様は、獣医として、上野動物園、多摩動物公園に長年勤務された後、多摩動物公園園長、上野動物園園長を歴任されました。現在は、財団法人日本博物館協会顧問、茨城県自然博物館名誉館長、財団法人日本動物愛護協会理事長を務めていらっしゃいます。また、名古屋の東山動植物園再生検討委員会の座長もお務めでいらっしゃいます。

清水眞澄様は、東洋美術史がご専門で、中世彫刻を研究していらっしゃいます。長年、神奈川県立博物館(現歴史博物館)の学芸員をお務めになり、現在は成城大学学長、三井記念美術館館長でいらっしゃいます。仏像の調査や、学会などで国内外へ行かれる際、仕事の合間に各地の動物園を巡られていると伺っております。また、動物園に関するご著書も執筆されています。

小学生のときに動物園の飼育係を目指す

松信動物に興味を持たれたきっかけは何ですか。

中川僕は、動物園の飼育係になろうと思ったのは小学校4年のときです。

郷里は茨城県の筑波山のふもとで、畜産農家で動物がたくさんいたんです。当時はヤギの乳を搾るとか、ニワトリの卵を集めるのは子どもの仕事でしたから、改まって「自然」に目を向けるということではなく、「自然」と接する機会が多かった。

小学校4年の夏休みに、何か一つのものを観察して絵日記にするという宿題が出て、裏の小川から捕ってきたドジョウを観察したんです。

ドジョウは水の中で底におりていって、それから身をくねらせながらずうっと水面に上がってきて、またおりる。そのときにお尻からプカプカ小さな泡を出すんで、「ドジョウのオナラ日記」という作文をつくったんです。それを学校で発表したら「ドジョウのおなら」という題名を聞いただけで、みんな大笑いになっちゃって、授業にならなかったんです。

僕が泣き顔をしていたら、担任の斎藤武左衛門先生が、「そんなに笑うことではないよ。これはすごいことだ。みんなで調べてみよう」とおっしゃった。そうしたら、それは腸呼吸といって、ドジョウやナマズ、ウナギにはあるということがわかり、三重花丸をもらったんです。

そのことが直接のきっかけでいろいろな動物が好きになりました。その翌年に初めて上野動物園に行くんですが、それがまた強烈なインプレッションで、頭から離れなくなった。特にライオンとかトラとか、世界中の動物のいる上野動物園が好きになって、いつか飼育係の夢をかなえようと、獣医になったんです。

最初は臨時職員として上野動物園に入る

松信そして念願の上野動物園に勤務されたんですね。

中川はい。しかし最初は正規の採用ではなく、「動物祭り」のイベント要員で、臨時職員でした。

昭和27年のことで、当時の園長は古賀忠道さんでした。それ以前に、私の父が古賀さんとひょんなことで知り合いになっていまして、うかがう前に電話をしたら、「人は採らない。飼育係は要らない」という話でした。

しかし、うちの父もかなり頑固で、それで引き下がったのでは何のために今までやってきたのかと、僕を連れて上京したわけです。「とにかくすべての責任は持つから、置いてやってくれ」と、強引に頼んだんです。古賀さんは、「祭りの期間中だけ置いてあげる」とおっしゃって、園内の独身寮に入れてくれた。

1年もすれば職員になれるだろうと思っていたら、なかなか採用されなくて、4年間そのままで足踏みしました。今でも覚えているんですが、日給230円だった。当時は失業対策で職業安定所が日雇いの労働者に支払う一番低い賃金が240円で、ニコヨンといいましたが、僕はニコサンだったんです(笑)。

そのかわり動物園の中に住んでいたからこそ、何にもかえられない経験をしました。動物のお産は夜なんです。僕は獣医だから、4年の間にお産をたくさん診ました。キリンやカバ、オオカミなど。家に帰っちゃったら診られませんね。あたりまえのことですが、動物は24時間生きている。世話をするには24時間そばにいなければわからないということが、4年間でしみじみわかりました。大学の勉強よりもよかったかなと思います。

清水今はみなさん定時に帰り、ご自宅から通われているんですね。

中川ええ。独身寮もなくなりました。当時は園長も園内に住むことになっていまして、公舎があって、古賀さんの家族は動物園の中に住んでいたんです。

動物の形や色、線に興味を持つ

東山動植物園のインドゾウ舎

東山動植物園のインドゾウ舎
清水眞澄氏画

松信清水先生は東洋美術史がご専門でいらっしゃいますが、動物園にはかなり行かれていらっしゃいますね。

清水私は、特に生物が好きとか、イヌが好きとか、金魚が好きとかいうことではなくて、いささか違う興味があってのことなんです。

うちの父は芸術家で、姉も芸大の漆工科に行き、父と兄弟もみんな美術学校(現在の芸大)を出ています。それで割と早くから形や色、線などに興味があったんだと思います。

小学校に入るころに横浜に野毛山動物園ができて、父に連れられて行きました。それまで絵でしか見たことのなかった、ゾウやキリンなど変わった形のものが実際に動くところが、とてもおもしろかったんです。だからといってたくさん動物園に行ったわけではありませんでした。

中学校は芝中学に入ったんですが、そこは増上寺が経営する仏教の学校で、お坊さんの先生が、仏教というのは基本的に動物も人間も平等だという話をされました。

ですから、一つは形や色、線などへの興味、もう一つは仏教を通して動物も人間も一緒だと、そんなところがもとにあって、動物園に行って動物を見るのが楽しくなってきたということです。

そして神奈川県立博物館に入りましたら、展示とか、収集とかの仕事がある。最初は博物館は動物園や植物園とは別のものと思っていたのですが、結局は一緒だということに気がついたのです。

それで、地方に仏像の調査に行って、空いた時間があると、それじゃまずは動物園に行こうとか、あるいは外国に行ったら寄っているうちに、のめりこんでいきました。

中川動物園の本も出されている。あれだけの数の動物園を見て周るというのは、すごいことだと思いますよ。

トキの人工繁殖がきっかけで海外研修へ

新潟県の佐渡島で保護され、上野動物園で飼育されたトキ

新潟県の佐渡島で保護され、上野動物園で飼育されたトキ
昭和28年(1953年)4月
中川志郎氏提供

松信中川先生は上野動物園にお勤めの時代に欧米の動物園へ研修に行かれていますね。

中川昭和44年(1969年)の1月から年末までで、最初はロンドン、それからスイスのバーゼルに行きました。東京都の海外派遣研修生制度に応募したのですが、直接のきっかけは、実はトキなんです。

僕が上野動物園に入った翌年の昭和28年(1953年)に動物園始まって以来、トキが佐渡から保護されてきたんです。そのころ佐渡ではトラバサミをかけてイタチとかテンを捕っていたんですが、それにトキがかかって大けがをして、現地で治療をしていたんだけれども、危ういということになって、古賀先生がお引き受けになった。

そのときに初めてトキという鳥が国際的に極めて貴重な鳥で、絶滅の危機にある。一度は絶滅したと言われていたので、これは大変なことだということで頭にすごくこびりついていたんです。そうこうしているうちに古賀先生や、鳥の専門家が、トキはこのままでは必ず絶滅する、そうさせないための対策としては、人工増殖が一番必要だとなって、その先進国がバーゼル動物園だったんです。

松信バーゼルの動物園にトキがいたんですか。

中川そうです。そこではアフリカクロトキとか、ホオアカトキとか、日本のトキとは同じではないんですが、いろんなトキを飼育舎で自由に繁殖させていて、世界的に著名でした。その中では、ホオアカトキというほっぺたの赤いトキは、日本のトキに近い種類ですね。

バーゼルでトキの飼育法を学ぶ

中川ロンドンでももちろん勉強したんですけれども、バーゼルが第一の目的で行ったんです。バーゼルでトキの人工飼料を初めて見てびっくりしたんです。トキはドジョウを食うものだと思っていたら、一切そういうのはやらない。肉なんです。それは魚には寄生虫がいるということがあって、日本のトキもそれで何羽か死んでいるんですが、それを防ぐためにトキには栄養分として何が必要かということを徹底的に分析して、いろんな肉だとかを混ぜて、言うならばトキフードをつくったんです。それで成功した。バーゼルには3か月ほど滞在しました。

そこで学んだことを持ち帰って、早速トキグループに教えて、佐渡のトキにも応用した。1969年のことでしたから、あれから40年が経って、今やっと花が開いているんです。

松信トキは、昔は日本中にいたそうですね。

中川日本のトキは、かつては中国大陸と日本列島を行き来していて、日本全国、東京近辺にもいたんです。コウノトリもそうですけれども、増上寺の山門に巣をかけたり、浅草寺の池にもトキはいたんです。ところが、乱獲などで減ってしまって、石川県の能登半島に2羽ぐらい、佐渡には12羽、それが我々の知ったときの最大の数です。あとはずっと減っていっていなくなっちゃうんです。

帰国後、飼育係の動物観察チームをつくる

中川バーゼルのトキ舎では、2、30羽いたホオアカトキのうちの数羽が巣についていて、飼育舎で卵を温めていました。そこでびっくりしたのは、それをやっている飼育係が18、9歳のお嬢さんなんです。彼女はトキで名をなして、日本にも何回か来ています。

今は日本でも女性の飼育係は3分の1ぐらいになって、圧倒的に多くなったんですけれども、そのころバーゼルでは半分以上が女性で、動物の飼育は女性のほうが適しているというのが、大体ヨーロッパの通例でしたね。

ロンドンとバーゼルを中心にヨーロッパの動物園を回って、ついでにアメリカの動物園を見て帰ってきました。そのときに、日本の動物園も飼育係が中心にならないとだめになるなという衝撃を受けたんです。園長中心ではだめです。それで、帰ってきてすぐに飼育係の動物観察チーム、ABSC(Animal Behavior Study Club)というのをつくったんです。

すべての飼育係が入るような6つのチームを発足させたんです。それが、飼育係が観察したことを表に発表する最初のきっかけで、今は旭山動物園が有名ですけれども、僕は早くやり過ぎたのであまり有名にならなかった(笑)。その人たちが今、上野動物園の飼育係の中心です。海外研修はわずか1年足らずでしたけれど、そういう意味では僕の動物園人生にとっては、すごく大きな影響があったんじゃないかなと思っています。

「パンダって何だ?」と、飼育係たちは大騒ぎ

上野動物園飼育課長時代の中川氏とパンダ「カンカン」

上野動物園飼育課長時代の中川氏とパンダ「カンカン」
昭和50年(1975年)1月
中川志郎氏提供

松信1972年に日本に初めて中国からパンダが来たときは社会現象になりましたね。

中川そのとき私は、パンダ受け入れのプロジェクトリーダーでした。その前に、1969年の海外研修で最初に行ったロンドン動物園にパンダがいました。

当時の中国は国際社会に復帰していない孤立した国でした。中国以外にいるパンダは、同じ共産圏のモスクワ動物園のオスのアンアンと、自由世界といわれる国、ロンドン動物園のメスのチチだけだったんです。

僕がロンドンに行ったときは、できれば自由世界で繁殖させたいということで、たまたまその2頭のパンダがお見合いをしていたんです。いずれも19歳、20歳の年寄りでしたから、成功はしませんでした。人間でいえば70、80歳ですから。

清水それでも貴重な体験をなさった。

中川そうですね。そういう状態ですから特別扱いで、飼育係も4人いましたし破格の待遇ですね。モニターテレビが2台もついていて、飼育事務所で逐一記録して見ている。今は当たり前ですが、当時はそういうことをやっているのには驚きました。

これはチャンスだと、10日ほど飼育実習をさせてもらったんです。その時はパンダが日本に来るなんて夢にも思わないで、8ミリカメラに記録したりしていました。

そうしたら3年後に、急にパンダが来ることになって大騒ぎになった。飼育係は62人いましたが、パンダを見たことがあるのは僕だけなんです。それで「パンダって何だ」って、飼育係たちは大騒ぎで、あらゆる資料を引っ張り出して、飼育係にパンダとはこういう動物だと、ロンドンの飼育方法を伝授してできるかぎりの態勢を整えた。

ロンドン動物園では紅茶に砂糖を入れてパンダに飲ませる

中川パンダのブームはものすごいものでしたが、情報が少ない。私たちは、高碕達之助事務所から情報を得ていました。

松信高碕さんは、訪中経済使節団団長として北京へ渡って「日中総合貿易に関する覚書」を交わし、国交正常化までの日中貿易に貢献した方ですね。東京動物園協会の会長もされていました。

中川その方が、国交回復前の中国に事務所を持っておられた。それでその事務所を通して僕たちは中国の情報を得ていたんですが、非常に途切れ途切れの情報でした。

私はロンドンで年をとったアンアンとチチしか見ていなかったのに、2歳と4歳が来ることになったんです。オスのカンカン(康康)が2歳、メスのランラン(蘭蘭)が4歳でした。そのとき、2歳のパンダの大きさが想像できなかったんですね。パンダは、生まれたときが150グラムで、約18センチくらいですから2年たって大きくなるとしても30センチくらいかなと思って、動物病院のわきに小さなパンダの小屋を作って待っていたんですよ。そうしたら80センチくらいあって、40キロもある(笑)。それでぶったまげてね。

清水それまでは全然わからなかったんですか。

中川今はそんなことはないんですが、当時の中国はいくら問い合わせても情報がなかなか来ないんです。やっと情報が届いたのが到着する1日前でした。

それで、ロンドン仕込みの餌の調合というのが、紅茶を2リットルに砂糖を100グラム入れて、パンダに毎朝飲ませていたんですよ。パンダは紅茶が好きなのかと思って(大笑)、一生懸命それを用意して待っていた。そうしたら、中国の担当の人が「これ何ですか」と言うんです。「パンダの好きな紅茶です」と言ったら、「中国のパンダは紅茶は飲まない」って(笑)。

そういう意味で、初めての動物を飼うというのは、危険を伴うけれどもおもしろいことですね。

日本に初めて来たゴリラとコアラの担当獣医に

多摩動物公園時代の中川氏とコアラ「トムトム」

多摩動物公園時代の中川氏とコアラ「トムトム」
昭和60年(1985年)4月
中川志郎氏提供

松信中川先生が多摩動物公園に勤務されていたときにちょうどコアラが初めて日本にやってきて、その前の上野でもゴリラが。

中川私は初物によく当たりましたね。1957年に、ゴリラが日本に初めて来るんです。当時、ゴリラは動物園では5年以上は生きないと言われていた。このとき上野動物園に来た、ブルブルという名のオスの担当獣医が私でした。彼は推定4歳で来て、上野で40年生きました。日本のゴリラの初代ですね。

松信テレビを見るというので話題になりましたね。

中川コアラは1982年ごろ、ロサンゼルス動物園では飼育されていたことがあって、日本に来るかもしれないという噂はありました。コアラはオーストラリアで一時期すごく減ったんです。あんなかわいい動物を撲殺して、毎年10万枚もの毛皮にして輸出していたわけですから、またたく間に減ってしまった。それで、もう国外に出さないことになった。

しかし、手厚い保護などで急速に回復して、ひょっとしたら海外に出すかもしれないというニュースがあって、上野動物園の創立百周年にあたる1982年にコアラを迎えようという遠大な計画を立てて、オーストラリアからユーカリの種を輸入して育てていたんですが、そのときは許可にならなかった。

その後、1984年に日本に来ることになり、このときは多摩動物公園と鹿児島の平川動物公園、名古屋の東山動植物園の3園のどこが一番早く迎えるかということがありましたが、結果的にはオーストラリアが裁定して、3園に計6頭がやってきました。

失敗を繰り返した末にコアラを迎える

中川ユーカリは630種類ぐらいあって、コアラが食べるのは30種類ぐらいなんです。だけど、コアラが住んでいる地域を考えると5、6種類ぐらいしかない。

それで、日本にユーカリはたくさんありますと話をしたら、オーストラリアから担当官が検分に来ました。僕らが持っていたユーカリは、コアラのために用意したものじゃなくて、夢の島公園に1,000本ぐらい、防風林として植えてあったものでした。1,000本あれば1頭や2頭飼えるだろうと思っていたんですが、それを見て、「これは半分使えない」と言うんです。

それで促成栽培でつくることにしたんですけれども、テストフィーディング(試食)と言って、種類が合っていても、日本に送るコアラが食べるかどうかを実際にテストして決める。これにはびっくりしました。我々が送ったユーカリに昆虫がついていて、全部焼却処分になったこともありました。そういう失敗を繰り返して、おかげさまでオーストラリアからコアラが来ることになりました。

松信珍獣の世話をずいぶんなさったわけですね。

中川パンダやコアラ、コビトカバなど、珍獣といわれるもの、日本で初めてのものをいくつも世話をしたという奇妙な経験を私は持っています。コビトカバはカバのちっちゃいもので、その前に日本に来ていました。

美術館・博物館との違いは生命の有無

松信動物園には博物館としての性質もありますね。

清水博物館施設の中で動物園・植物園・水族館が、いわゆる博物館・美術館と違うところは、「生命」が大きい要素になっている点です。一方、美術館・博物館には人類が造った美や文化の歴史の遺産を扱います。「生命」があるかないかが決定的に違うんです。人間が生きていくうえでは、豊かな心とか生命も大切ですし、先人の遺産も大事にしなければならない。したがって、このふたつの観点をもつ、動物園・植物園と、博物館・美術館は、大げさに言えば人類にとってとても重要な施設ということだと思うんです。

中川動物園のかたちは、時代によってかなり変わってきたと思うんですね。

僕らが動物園に入ったころや、その前はもっとそうでしたが、動物園を生きた博物館と呼んでいました。要するに剥製があるのは博物館、それが生きて動いているのが動物園ということです。その背景などは一切考えない。単にティピカルな動物をそこに置くという発想だったんです。

剥製は近寄って見られるので、動物園の動物もそうでなければならないと、極力近くで見せるようにして、そのかわりおりは危険がないように鉄棒の上に網をかぶせて、見にくいこと限りないものだった。そのうちにお客さんはだんだん離れていく。

エンターテインメントから、教育の場、珍獣主義へ

雪の日のチーター

雪の日のチーター
多摩動物公園

中川1847年に、それまで研究施設だったロンドン動物園が一般公開されることになったとき、動物園は楽しくなければならないというテーゼが出された。「ZOO」という言葉ができたのもこのときで、日曜日に動物園に行くことがエンターテインメントになる。

単に動物を見せるだけではなくて、ゾウに乗せる、ラクダに乗せるみたいな、お客さんサービスのようなことが始まるんです。それでお客さんは増えるんですが、世の中が平和になってくると、動物園は楽しいばかりでいいのかという話になるんですね。教育というものが博物館の使命であり、動物園も博物館も一緒ならば、教育をしなさいということになり、生涯学習時代に入ると、なおさらその圧力が強くなって、動物園にも、エデュケーション・デパートメント、教育部という部が置かれるようになる。

そうすると、そこで子どもたちに物事を教えたりするのと同時に、ボランティアガイド、ズーガイドという人たちがあらわれて、教育的な指導をする。「ゾウの鼻はなぜ長いのか。ゾウの鼻は4万個の筋肉からなります」とか、そういうことを教える。教育が動物園の一つの役割として台頭してくるんです。

でも、教育になるとやっぱりおもしろくないんですね。それでまたお客さんは減っていく。すると動物園が財政難になって、その結果、「珍獣主義」と呼ばれる時代になるんです。珍しい動物を入れてお客さんを呼ぶ。

そのトップにいるのがコアラであり、パンダであって、僕もその片棒を担いだわけですが、珍獣というのはネタが切れちゃうんですね。珍獣をいくつか集めたらあとはもうないんですよ。

清水博物館・美術館にもそういうところがあって、超目玉の特別展をやると人がたくさん入る。まさに珍獣なんです。しかし、そういうものはそんなに続かない。次の3年後、5年後はどうかと考えると、私はいいことだとは思わないんですね。

中川おっしゃるとおり。

絶滅の危機にある動物を救うズーストック計画

中川そうすると、動物園の存在価値は何なんだと問われるわけです。それで試行錯誤の末にたどり着くのが、地球上の動物がどんどん減っていくという現象に合わせて、動物園は動物の味方でなければならない。トキのように絶滅に瀕している動物を救うために手を差し伸べるのが動物園の本旨だ。動物の繁殖のために動物園はある。

僕らもそれに乗って、東京の動物園は上野、多摩、井の頭を合わせて、僕が園長のときに「ズーストック計画」をつくったんです。当時の鈴木都知事のところに説明に行って、都が1年10億、10か年で100億というお金を予算として計上するんです。動物園の予算に10年で100億というのは後にも先にも初めてでした。

我々は世界に冠たる「ズーストック計画」と思って、地球上の生物の絶滅を防ごうと一生懸命やっていたんですが、一方でお客さん不在になった。ライオンの繁殖は多摩でと決めたので、上野はライオンのいない動物園になった。ライオンを見たい人は多摩に行ってくださいと言っても、東京に修学旅行で来た人は多摩には行けない。結局インドライオンを置くということで落ちついたりしたんです。

大人も振り向かせた旭山動物園の功績

中川日本全国の動物園が上野動物園をみならって希少動物の保護に動きました。そうすると、エンターテインメント性がどんどん下がってくるんです。それで多くの動物園が行政から廃園にすると言われる。これは何とかしなきゃいけないというあがきの中で誕生したのが北海道・旭川の旭山動物園なんです。

今、動物園に来る人たちを見ていると、「あっクマ知ってる」「あっゾウ知ってる」といって、実物を見ないんですね。それはなぜか。テレビの映像や図鑑や絵本からの情報を持っているからなんです。動物園の飼育係よりもよく知っている子だっています。そういう子は本物を見ないんです。

それが動物園の質を非常に下げたりしたんですけれども旭山では、「あっシロクマ知ってる」と言った途端に、ザブンと水に飛び込んでこちら側に来る。「あっアザラシ知ってる」と思ったら目の前の筒の中にワアッと出てくる。それは知らないんですよ。寝ているクマやラクダは見ないけれど、動物が行動を起こしたときに「えっ!」と振り返る。旭山の功績は、テレビ時代の子どもたちを、そして大人も、もう一度振り向かせてその瞬間に今までなかった発見をもたらした。そこだと思うんです。

松信その中から、清水先生がおっしゃったような観察眼が出てくるんでしょうね。

中川そのとおりです。

清水やっぱり観察するということですね。博物館にもそのような小学生が来て、仏像のことを聞くわけですよ。興福寺の四天王の台座に何と書いてあると、そこまで知っていて、学芸員を試す。そういう子どもは仏像自体は本当には見ていないんですね。

動物園も博物館も「もの」をよく見る、観察することが大切だと思います。

飼育係の発想から生まれた独自の行動展示

中川旭山は、あの行動展示を始めてから、毎年来園者数が増え続け、2006年度には300万人を突破しています。普通の珍獣ブームは大体もって2年なんですよ。パンダが5年もったのは子どもが生まれたからです。生まれなければ、訪れる人は減ってゆく。行動展示はそうじゃないですね。別に珍獣じゃなくてもいい。どこにでもいるシロクマやアザラシだけれど、アザラシが筒の中を真っすぐくぐり抜ける姿を見せる動物園はなかったんです。しかもお客さんに見せるように訓練されたものではない。

魚がおなかを見せて水のトンネルの上を通り過ぎるというのは、多くの水族館でやっていたけれど、それをペンギンに利用するという考えは誰も持たなかった。まさにペンギンが飛んでいるように見えるんですね。あれは飼育係の発想なんです。

人が入り過ぎると動物や動物園のためにならない

清水たしかに旭山動物園は見せ方を工夫して、たくさんの人を呼んで、それ自体は結構だと思うんです。美術館も博物館も工夫すればあれだけになるんだよということはいいんだけれど、来園者の数だけが表に出て、その数だけをみんなが評価するところが問題だと思うのです。

中川旭山の亜流がほうぼうにできているのは悪いことではないと思うんですが、人が入り過ぎると、動物のほうが傷んでしまって、結果として動物園のためにならないことが起きてしまうんです。

僕らは現場にいますから、お客さんが入り過ぎたときに飼育係がどういう状況に追い込まれ、動物がどういう状態に追い込まれるかよく知っています。飼育係は本当に苦しんでいると思います。

自分たちのやったことの結果、大勢来てくれたことはうれしいけれど、来園者の数とか、地域に与えた経済効果が何十億とか、数字ばかり注目される。その中でどうすれば動物たちに影響を及ぼさずにすむか。これが今旭山の人たちが一番悩んでいるところじゃないでしょうか。

清水人をたくさん入れることが第一になってしまっている。もっと質で人が呼べるというのか、親しめる美術館・博物館、あるいは動物園ができることが大事なのではないか。それには行政も企業・財界も考えなきゃいけない。一般市民も、もっと理解する必要があると思うんです。

人間と動物は「宇宙船地球号」に乗る同じ船団

松信これからの動物園の課題はどんなことでしょうか。

中川動物園に限った問題ではないのですけれど、「人間」と「自然」が分かれてしまっているんですね。今、世界人口は67億で、あと30年たてば85億に達するだろう。そのうちの7割は都市に住むだろうという予測があります。これはつまり、本当の意味の自然とはほとんど隔絶された人が極めて多くなるということです。特に僕らのように本当の自然の中、あるいは里山の中で育った人口がどんどん減っていって、そういうものとは無縁のデジタルワールドの子どもたちが育つわけです。知識は豊富で地球のこともよく知っているのに、本当の自然を知らない。そういう子が圧倒的に増えたとき、この地球は守れるのか。

サスティナブル・フューチャーという言葉がありますけれども、今の自然を、僕たちの次の次、もっと先の世代にまでどうやったら届けられるかというのが今一番大きな問題なんです。

知識や理屈ではなく、自然と一体化していないと不安になる、生き物としての心理みたいなものを復活しないといけない。それをどうやったら届けられるか。その最先端にいるのが動物園と植物園だと思うんです。だから、そのためだけに今は動物園や植物園は機能しなきゃいけない。

清水中川先生のいろいろなご著書にある「宇宙船地球号」という言葉、人間と動物は同じ船に乗っている船団だというのは非常にわかりやすくて、一般の人に何が大事かを教えてくれる象徴的な言葉だと思いますね。

動物園と植物園が融合すれば本当の自然がわかる

多摩動物公園・昆虫生態園 清水氏(左)

多摩動物公園・昆虫生態園 清水氏(左)

中川今、名古屋の東山動植物園で取り組んでいることは、動物園と植物園の融合なんです。動物園と植物園が分かれているということ自体、自然から見れば相反しているんですね。大温室があって、きれいな花がたくさん咲いている。何であの花があれほど赤くてきれいなのかといったら、昆虫をいざなうためですね。昆虫媒介によって、種を守り、ふやす。そういう自然の流れの中で花は咲くんですが、植物園では昆虫は害になるので、ほとんど退治されちゃうわけです。そんな世界で美しい花を見せて、本当の自然がわかるだろうか。

例えば、バオバブの種は、ゾウが食べてゾウの腸管を経過しないと発芽できないんです。そういう種類はたくさんあって、動物と植物はものすごく関連性が強いのに、隣り合っている植物園と動物園が一緒にならない。

飼育係とガーデナーはほとんど交流がない。ガーデナーにとって動物は敵なんです。その垣根を取り払いたい。アニマルキーパーとガーデナーが一緒になって、動物と植物の共生はできないだろうか。

これは「言うは易く行うは難し」で、現場は「そんな寝言みたいなことは言うな。それは、100年やってきてもできなかった」と。

だけど、100年やってできなかったからこそ、今やるべきだ。でなければ私たちの未来はないんじゃないかということで、今、それを実現しようとしているんです。

植物園の中にハチドリやカエルを

清水たしかに、動植物園とあっても、行ってみると全く別々に分かれているところが多いですね。

中川本来、植物と動物は一緒に進化してきていますから、二つを分けることは不可能なんです。植物、有機物を食べない動物はいない。一緒でなければ自然をわかったことにならないんですね。ですから、動物園と植物園が分かれていると、本当の自然というものを理解させるのは不可能になってしまう。そういう危機感があって、これが名古屋でできれば画期的だと言っているんです。

清水多摩動物公園にある昆虫生態園では、温室の中で蝶が植物と一緒にいますね。ああいうのを見ると、「いいなあ」と思います。

中川おっしゃるとおりですね。あれは相手が昆虫なのである程度できるんです。

清水ハチドリも飛んでいましたね。

中川繁殖をしたんです。それでこれはかなりいけるかなと思ったんですけど、やはりだめなんですね。

僕はあそこにハチドリを100羽ぐらい飛ばしたらすごいだろうと思うんですが、自然界ではあれほど密集して花があるということはないので、縄張りがものすごく強くなる。あの空間では、二つがい以上は無理なんです。我々にとっては広くても、空を飛ぶハチドリにとっては全く狭い空間なんですよ。でも、それはやり方だと思っているんです。あれだけの空間を占有空間とするか。上野動物園で今展示しているハチドリは、1メートル四方の部屋なんです。それでもワンペアは飼える。ホバリングするので、運動量は十分なんですね。

だとすれば、垣根をつくってもいいから、その中にハチドリを20羽飛ばす。ヤドクガエルを100匹置く。そういうこともできるんじゃないかと思っているんです。

取り合わせのの妙や演劇的要素を楽しむ

松信清水先生の動物園の楽しみ方というのは。

清水一つは、縞があったり、首が長かったり、体が大きかったり、足が短かったりする姿のおもしろさですね。動物をかいた絵だとか、彫刻などの形にしたものは世界中どこにもあるので、恐らく人間にとって、動物は非常に身近な興味の対象だったんだろうと思うんです。

しかもそれが、目の前で動く。1頭や2頭でもいいんですが、集団だとまた違う。シマウマが群れでダーッと走っているところなんてとってもきれいなんですね。キリンが首を振って、何頭もいるのがいろんな形に見えたりする。

それからバックにいろんな花があったりする。黒ヒョウに桜吹雪なんて、ビロードの毛並みの上に桜がちらちら舞うというのはとてもきれいですね。

動物園によって違うんです。藤の花の下にリャマがいたり、昨年の暮れに台北の動物園に初めて行きましたらサイの後ろにススキがいっぱいあるんです。ススキにサイという取り合わせはなかなか美しいなと思いました。

動物園には、私は、たまたま行った先々で寄るだけですけれども、演劇的な要素ってすごくあるのかなと思います。舞台があって、大道具・小道具があって、俳優である動物がいる。ですから、私はメモをとったり、写真を撮ったり、絵をかいたりしてとても楽しんでいます。

おしゃれな演出やギョッとした記憶の動物園も

スペイン・マドリード動物園のゲート

スペイン・マドリード動物園のゲート
清水眞澄氏提供

松信外国と日本では違いはありますか。

清水お国柄のようなものはあると思います。スペインのマドリード動物園は、カサ・デ・カンポという緑地の一角にあるんですが、真っ赤な郵便ポスト風のゲートが印象的です。ヒツジの仲間ムフロンが、ひな壇のように台が積み重なった動物舎にいて、そのユニークでおしゃれな演出に感心しました。

ギョッとした印象が残っているところもあります。中国の西安に、茶髪のパンダがいると聞いて見に行きました。確かに黒いところが茶髪でした。別料金でトラの火の輪くぐりがあったり、炎天下で曲芸用のイヌがぐたっとしていたり、日本の動物園と全然雰囲気が違う。

洛陽の動物園だったか、パンダを見るためには、ヘビのいるところを通らなくちゃいけないんです。私はヘビが苦手で、もちろんガラスはあるんですが、そこを歩くのが本当に嫌で、美しいという意味ではなく覚えていますね。

チェコのプラハ動物園は、自然の地形を生かしていて、奥にある猛獣舎がよかったです。トラの広い放飼場と観客との間に大きなプールがあって、目の前でトラがゆうゆうと泳ぐところが見られる。2002年の異常気象で洪水の被害にあった時は残念でしたが、今はまた賑わっているようです。

隠れた名園が多い日本の動物園

愛媛県立とべ動物園のサイ

愛媛県立とべ動物園のサイ
清水眞澄氏提供

清水日本の動物園は整然としていて、やや遊び心に欠ける気もしますが、隠れた名園はたくさんあります。

愛媛県立とべ動物園は、ゾーン別の色分けや表示板など全体のデザインがいい。ライオンとキリン、シマウマなどがまるで同じ場所にいるかのように、溝や塀をうまく草木で隠している。アフリカゾウとインドゾウを段のあるゾウ舎で一度に見せるのも、面白い趣向で感激しましたね。

姫路市立動物園では姫路城をバックにインドゾウが見られるんですよ。不思議な取り合わせが楽しいですね。

私は、20年くらい前から「動物園を歩く会」という名前で、大学の同僚や学生、編集者、カメラマンなどの知人を誘って、不定期ですけれど、関東近郊の動物園に行っています。参加ルールはお弁当の持参で、おそろいのワッペンを胸に貼り、私の先導で園内を巡るんです。お昼はみんなでお弁当を食べ、夜には一緒にお酒を飲み、全員で象の絵を描く。楽しいですよ。

松信きょうはどうもありがとうございました。

中川志郎 (なかがわ しろう)

1930年茨城県生れ。
著書『ハッピー・パンダ』 時事通信出版局 950円+税、『動物と私のシンフォニー』 東京新聞出版局 1,602円+税、ほか多数。

清水眞澄 (しみず まずみ)

1939年横浜市生れ。
著書『仏像と人の歴史発見』 里文出版 2,300円+税、『世界と日本の動物園を歩く』 三修社 (品切)、ほか多数。

※「有鄰」497号本紙では2~4ページに掲載されています。

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