Web版 有鄰

494平成21年1月1日発行

横浜百歳王「笑顔のクスリ」 – 特集2

小野庄一

全国の百歳王を尋ねて

亀山ツルさん(102歳)

亀山ツルさん(102歳)
岐阜県中津川市
今も風呂掃除など家事の一部を分担。

僕は今までに、全国の満100歳以上のお年寄りを150人以上撮影していて、人生の大先輩たちに敬意を込めて「百歳王」と呼んでいる。

100歳行脚のきっかけは、樹齢数千年といわれる屋久島の縄文杉との出会いだった。

366日雨が降るといわれる屋久島。土砂降りの中、20キロを超えるカメラ機材を背負って5時間近い山道を登って縄文杉を目指した。カメラをセットし終えた頃、雲の切れ目から30分だけ日が差した。他に登山者もなく僕と杉だけの時間が流れた。縄文杉の前に立ったときに、何かとても懐かしく暖かい大きなものに包み込まれるような安らぎを覚えた。

植物は光合成によって光を肉体にかえている。写真も光のエネルギーをフィルムが受け止めて化学変化を起こし、映像を定着させている。僕は、縄文杉と同じように、最も沢山の光を浴びた人間に出会ってみたいと思った。

僕が百歳王を撮り始めた1991年、全国の百歳王は、約3,600人。その中の100人に会えば、一人くらいは縄文杉と同じような心地になる人がいるのではないかと思い、全国の百歳王を尋ね歩いた。2年間で104人の百歳王と会い、写真展を開催し、写真集も出版して多くの人たちに見ていただくことが出来た。

「港町ヨコハマ」らしい100歳

開港150周年という節目の年を迎えるにあたり、横浜の生き字引ともいえる百歳以上の人たちの笑顔の写真展『横浜と全国の百歳王「笑顔のクスリ」』を2009年1月と9月に伊勢佐木町の有隣堂本店ギャラリーで開催する。1月の写真展では全国の百歳王も登場するが、その中の横浜百歳王たちの人生には、「港町ヨコハマ」らしいエピソードが随所に散りばめられている。

本牧の海岸で泳いだから風邪を引かないという101歳のお婆ちゃん。17歳から3年間、外交官のお手伝いさんとしてイギリス・ロンドン赴任に同行。英語は「日本人の発音ではのろくて通じないから勉強にならない」と、一か月に及ぶ航海中に、西洋人の子供から習った。帰国する頃には、電話でタクシーが呼べるほど上達した。その時のパスポートを今でも大切に持っている。91歳の時に現地を尋ねたら、当時と変わらぬ町並みが広がっていたそうだ。

「大丈夫!なるようにしかならないよ!」が口癖のお婆ちゃんは、103歳とはとても思えない程お肌ツヤツヤ。幼い時に水車の歯車に巻き込まれたり、関東大震災では、前日に仕事を辞めていたのでレンガ造りの工場崩壊に巻き込まれず九死に一生を得た。101歳の時にも、全身麻酔の乳ガン手術から無事生還したそうだ。最近まで、娘の朝ご飯の準備はお婆ちゃんが担当していて、今でも昼と夜の食事の一部をこなしている。フライドチキンが好物。

竹田幸吉さん(100歳)

竹田幸吉さん(100歳)
横浜市南区
外国航路のお国柄豊かな思い出話に花が咲く。

まだ木炭車も走っていた頃に、タクシー運転手を始めた100歳のお爺ちゃんは、コンピューターを使った孫とのメールのやり取りが楽しみ。当時、外国航路が接岸する四号岸壁(今の赤レンガ倉庫あたり)に外国人を乗せていくと、イギリス人は厳格に1割のチップを残し、フランス人は渋くてチップを払わなかった。アメリカ人は、お金があるときは、釣り銭の多少に関わらず残して行ったが、お金がないときは、「ノー、マネー」と叫んで料金を踏み倒し、タラップを上がって治外法権の領域である船内に逃げて行ってしまったそうだ。そんなお国柄を感じる出来事も今では懐かしい思い出だ。健康管理のために自らあみ出した「竹田健康体操」は、43種類もあって、朝5時30分に起きて30年間毎日続けている。

50歳くらいからは家にいる方が少なかったと、少し前まで海外にいる子供や親戚を訪ね歩いていた華僑の100歳長老女性。六男二女の子宝に恵まれ、お婆ちゃんの作る大根餅は、一族のお袋の味で、イエライシャン(夜来香)などを30人以上も集まる町内の敬老会で歌うのが楽しみだ。撮影の合間にもアメリカにいる娘から国際電話がかかり、懐かしそうに話していた。使節団として台湾を訪れ、蒋介石に会ったときのネームプレートが宝物。

ほんの少し前まで、横浜には海の恵みを直接受ける豊かな海岸線が連なり、エキゾチックな香りが街に溢れていた。横浜百歳王の記憶の中には、若い世代には想像もつかないような古き良き港町の光景が今もなお鮮明に広がっているのだ。

全国で3万6千人強が満100歳以上

2008年9月1日現在の全国の満100歳以上の人口は、3万6千人強(2009年3月31日までに百歳を迎える人を含む)。老人福祉法が制定された1963年の153人から、5年で2倍のペースで増え続けている。

横浜市においても同様な傾向にあり、今年2009年の敬老の日の発表では市内在住の百歳王が1千人を超えるのも確実だろう。

「100歳まで生きるなんて私には関係ない」とお思いの方も多いだろうが、全国で2008年に100歳を迎えた人々が生まれた1908年の出生数から計算すると、女性が約50人に1人、男性が約280人に1人の割合で100歳まで生きている。

戦争や震災、乳幼児期の死亡率など、現在とは違う要因を考慮すると、100歳を迎えられる確率は想像以上に高い。女性の平均寿命に近い85歳の平均余命は約8歳。95歳の平均余命は4歳。かなり乱暴な計算だが、女性の場合、平均寿命まで生きたら、5、6人に1人が100歳を迎えるということだ。

笑顔は万病のクスリ

多くの百歳王に会ってきて気付くのは、「笑顔の効能」だ。

100年も生きていれば、苦しいことや悲しいことが山ほどあったことだろう。ところが百歳王は、こぼれんばかりの笑顔でレンズの前にたたずんでくれた。

ほとんど全ての百歳王は、「自分は幸せ」「私は自由」といったことを口にする。物事を積極的にとらえて、細かいことを気にせずマイペース。好奇心も旺盛で、女らしさ、男らしさを忘れていない。今も人との交流があって、人間関係の中にその人なりの役割がある。そして、重要な要素が笑顔を絶やさぬ事。これが僕が感じる百歳王まで生きるコツだ。

岡村ミチ子さん(105歳)

岡村ミチ子さん(105歳)
横浜市旭区
少しお化粧をして微笑む。女らしさを忘れない。

1月の写真展に登場していただく百歳王の最高齢、105歳のお婆ちゃんは、撮影のために少しお化粧をしてもらうと、途端に目が輝きはじめ、鏡に映る自分の姿を入念に確認していた。趣味の書をお願いしたところ、「もう1枚、もう1枚」とリクエストした漢字を繰り返し繰り返し書いていただけた。

笑顔は、身体の病にも精神の病にも、万病に効く。

本人は勿論のこと、その効能は伝染してまわりの人も元気にしていく。使えば使うほど、効能は増えていく。そしてなにより、副作用がない。

笑顔は、本人の気持ちの持ちよう次第だからお金がかからないし、「日本」という国全体のレベルでは、医療費や年金といった経済の病にも絶大な効能が期待できる。

自分の笑顔で自分自身を勇気づけることが出来たなら、こんな素晴らしいことはないと思うのだ。

笑顔の写真を撮りましょう!

日本ほどカメラが生活に入り込んでいる国はない。その反面、日常的に写真を沢山撮っているにもかかわらず、ほとんどの人が、自分自身の「カッコイイ写真」を持っていない。

以前なら、人生の節目に写真館に行って家族写真を撮る習慣があったが、今はそれすらも少なくなってきている。近年のデジタルカメラの普及、特に、携帯電話がカメラ付きになってからというもの、「シャッターを山ほど押せども紙焼きにはしない」という傾向が顕著になっている。

明治、大正、昭和、平成と、幾多の苦難を横浜の発展と共に堂々と生きてきた人々との出会いを通じて、「人生の最晩年を笑顔で過ごせることほど幸せなことはない」と痛感している僕から見れば、これはとても「もったいない事」。

写真を撮り、紙焼きにして、身の回りに飾る。以前は高価だった大きなプリントも、デジタル写真のプラスの面を活用すればとても安価に手に入れることが出来るのだから、活用しない手はない。

元気な横浜の100歳を募集

9月の写真展では、今回よりさらに多くの横浜百歳王の笑顔で、人々を元気づけ勇気づけられるよう、写真展に登場していただく市内在住の元気な百歳王を捜している。

横浜に暮らし、撮影の段階で、満100歳以上であること。庭先などに出ていただいても負担なく撮影出来、写真展や印刷物、新聞、テレビ、インターネットなども含めたメディアで発表することを承諾していただけることが条件だ。

笑顔はもちろんのこと、家族アルバムに残る昔の写真、人生のエピソード、最近の暮らしぶりなどの「個人の歴史」を通じて「街の歴史」を紡いでいこうとする企画だ。自薦他薦は問いませんので、100歳情報をお待ちしております。

◆写真展『横浜と全国の百歳王「笑顔のクスリ」』
会場/有隣堂本店ギャラリー
期間/2009年1月3日~1月18日

※発行当時の情報です。
※百歳情報のご提供は現在承っておりません。

小野庄一氏
小野庄一(おの しょういち)

1963年岐阜県生れ。写真家。
著書『笑顔のクスリ』 木楽舎 1,000円+税、『百歳回想法』 木楽舎 3,700円+税、『七日で一県楽しく歩く四国遍路』 朝日新聞出版 1,800円+税、ほか。

※「有鄰」494号本紙では4ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(7)

山田七五郎(1871-1945)
――大正・昭和初期に活躍した初代横浜市建築課長

吉田鋼市

横浜商工奨励館

横浜商工奨励館

山田七五郎は大正3年から昭和4年までの15年間、横浜市の建築営繕組織を率いた人である。帝国大学を出て、長崎県技師などを経て来浜。それまでは土木の一部にあった市の建築組織が大正9年に臨時建築課となり、大正11年に建築課となる際のそれぞれ最初の課長である。当時は市の公共施設をほぼすべて市自体で設計していたから、市の営繕組織は大きな建築事務所であり、統率者はその所長だった。震災を挟む大正・昭和初期の横浜の建築の大きな部分が彼の双肩に担われていたといえる。

彼の横浜における最初の仕事は、横浜近代の生き証人である開港記念横浜会館(大正6年創建、昭和2年震災復旧、現・横浜市開港記念会館)の建設だったが、その基本案は当時の東京都技師であった福田重義が勝った設計競技で決まっていた。設計競技というのは実施設計の際に変えられることがよくあるが、彼は当初案をよく踏襲している。少し変更もしているが、より実践的・合理的にしたといえるもので、誠実に対応している。実施設計には、数枚の設計競技案とは比較にならない知恵と力と密度が必要であり、それに震災後の復旧工事を考え合わせれば、開港記念会館も実質的には山田の作品と呼べるであろう。

震災復興時には多くの建築スタッフを擁して大奮闘、学校・市営住宅・公民館・図書館・区役所・病院・市場などたくさんの施設をつくった。いまはなき横浜市図書館や老松会館(当初は震災記念館)など、われわれに独特の記憶を残している建物もこのときのものであるが、たとえば、この2つの作風がかなり異なるように、この時期の施設は担当者がのびのびと自在に設計しているようにみえる。人徳であろうか、大きな使命感によるものであろうか。ある意味で、彼は1つの理想的な建築組織者の姿を示している。建築と景観は単に一個人のしわざでできるものではなく、時代と人が自ずとつくっていくものだと考えていたかもしれない。

山田時代の横浜市の公共施設も、横浜商工奨励館(昭和4年、現・横浜情報文化センター)、市長公舎(昭和2年)、それに最近修復された山手89-8番館(大正15年)など少なくなってきた。あるいは、彼の夢は震災で倒壊した市庁舎の建設だったかもしれないが、それが長い仮庁舎的時代を経て実現するのは、ずっと後の昭和34年のことである。

吉田鋼市(よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」494号本紙では4ページに掲載されています。

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